第54話
大広間に戻ると、楽の音は止んでいた。
王女がいなくなったことは、もう広間じゅうに知れている。近衛が灰色の衣の男を引き立ててくると、人の輪が、音を立てて割れた。
ハーゲン侯は、広間の真ん中に、ひとりで立っている。
「これは、何の騒ぎでございましょう」
穏やかな声だった。
「その者は、私の従者ですが。何か、粗相を」
「王女を、水門から連れ出そうとした」
陛下が言う。
「姿隠しの留め金をつけて」
近衛の騎士が、床から拾った留め金を差し出した。ゼーレンの紋が刻んである。
ハーゲン侯は留め金を見て、ほんの少しだけ、眉を動かした。
「従者が勝手にしたこと、と申し上げても、お信じにはなりますまいね」
「勝手にしたにしては、手回しがよすぎる」
陛下は、広間を見渡した。
「夜半の鐘で、使節どのの誓いの灯が燃え尽きた。神殿から、知らせが来ている」
広間が、ざわめく。
人の輪の後ろから、神官長が進み出た。息を切らしている。
「誓いの中身は、申し上げられませぬ。……ただ、灯が燃え尽きたのは、まことでございます。わしが、この目で見てまいりました」
燃え尽きるのは、果たされた誓いだけ。20年の誓いが、立てて7日で果たされるはずがない。
わたくしは、一歩前に出た。
「ハーゲン侯。あなたは、ヘルム川を越えないと誓われました。嘘ではございません。ゼーレンの兵は、今夜の夜半まで、川を越えなかったのでしょう」
ハーゲン侯は、答えない。
「いつまで、を、仰らなかっただけ」
わたくしは、扇を閉じた。
「夜半を過ぎれば、ゼーレンの兵は川を越えられる。そのとき王女が使節の館にいれば、こちらは手が出せません。縁組のお返事は、川向こうで、剣を突きつけていただくおつもりでしたか」
軍務卿が、青い顔でハーゲン侯とわたくしを見比べている。この7日、和平を欲しがって、いちばん熱心にうなずいていた方である。
「わしは……20年と、聞いて……」
「20年とは、どなたも仰っておりません」
宰相が、低く言った。
「使節どのは、越えない、と仰っただけです」
軍務卿は、口を閉じた。
ハーゲン侯が、静かに息をつく。
「ゼーレンの者は、誓いを破りません。……破らずに済む誓いしか、立てませんので」
それが、この方の白状だった。
「では、川向こうの兵は、待ちぼうけでございますね」
わたくしが言うと、ハーゲン侯は、はじめて笑みを消した。
「王女がおらずとも、兵は動きます」
「北の砦には、ユリウスがいる」
陛下が言う。
「祝いの夜は川を見ていろと、伝えてある」
ハーゲン侯の顔から、血の気が引いていった。
◇
その夜、ロッテは眠ろうとしない。
眠らないと言い張って、露台の長椅子で、わたくしと陛下のあいだに挟まって座っている。毛布にくるまって、自分の頭の上をにらみながら。
東の空が、白みはじめる。
金の砂時計の底で、最後の砂が、細い糸になって落ちていく。
「おとうさま」
「ああ」
「もう、教えてくださいますか」
陛下は、娘の頭の上を見上げた。陛下には見えない、砂時計を。
「7年前、お前の誕生の儀で、私はこう誓った」
最後の一粒が、落ちる。
「この子が7つの祝いの夜を明かすまで、この子を、誰の手にも渡さない」
ロッテの頭の上で、金の砂時計がほどけた。
光が、昇っていく。夜明けの空へ、ゆっくりと。神殿の奥で7年ともりつづけた灯も、いま、燃え尽きたのだろう。
ロッテは、口を開けて光を見送っていた。
「どうして、7つまでなのですか」
「お前の母は、7つの秋に、見えるようになった」
陛下は、娘の頭に手を置く。
「お前が母と同じ目を持って生まれたかどうか、私にはわからなかった。わからないから、決めた。お前が自分の目で見られるようになるまでは、私が見ている、と」
ロッテは、しばらく黙っていた。
「では、これからは」
「これからは、自分の目で見て、自分で決めろ。どこへ嫁ぐかも、嫁がないかも」
陛下の耳が、朝日の中でも赤い。
わたくしは、陛下の肩に頭をのせた。
「2番目に、伺いました」
「……そうだな」
◇
ユリウス殿下からの早馬が着いたのは、4日後のことである。
祝いの夜、夜半の鐘が鳴りきると同時に、ゼーレンの兵が浅瀬に押し寄せた。対岸には篝火がずらりと焚かれ、北の兵が待ち構えていた。ゼーレンの兵は川の真ん中で足を止め、夜明け前に引き返していったという。
手紙の終わりには、いつもの角ばった字で、こう書いてあった。
姪の祝いに戻れず、すまない。冬には、顔を見に行く。
ひと月ののち、ゼーレンの若い王から詫び状が届いた。ハーゲン侯の独断であった、と。ハーゲン侯はゼーレンへ返されることなく、北の果ての塔に移された。縁組の申し入れも、取り下げられている。
軍務卿は、職を退いた。辞するとき、わたくしの前で、深く頭を下げていった。
「2度も、目を曇らせました」
「2度とも、皆さまが和平を欲しがっておられただけです」
わたくしは、首を振る。
「悪いことでは、ございません」
◇
翌朝、陛下は戸口で足を止めて、わたくしの頭の上を見上げた。
「何もないな」
「はい、何も」
それから、娘の頭の上を。
「こちらは」
ロッテが、自分で答えた。
「ございません。何も」
陛下は、少しだけ寂しそうな顔をする。
ロッテはそれを見て、にっこりと笑った。父親の頭の、少し上を指さす。
「おとうさまの上には、ございます」
撫でつけた髪の上の、整髪の術の砂時計。
陛下は、あわてて髪に手をやった。
朝の光の中で、わたくしと娘は、同じものを見て、同じように笑っている。
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