第53話
右の回廊の先は、古い水門へ続いている。王宮の下を流れる川に、小舟をつけるための水門だ。川を下れば、ゼーレンの使節の館はすぐそこにある。
後ろで、陛下が近衛に叫んでいた。左の階段にも人をやれ、と。
わたくしは、金の砂時計だけを見て走る。
「見えるか」
すぐ後ろで、陛下が言う。
「見えます。ずっと先に」
「離れるな」
「陛下こそ」
金の砂時計は、ふらふらと揺れながら進んでいく。娘が、抱えられたまま暴れているのだろう。
壁の燭台の砂時計が、ひとつ、またひとつと、後ろへ流れていく。
金の砂時計が、角を曲がる。石段を下りる。湿った風が、下から吹き上げてきた。水の匂い。
水門の前で、砂時計が止まった。
暗い。燭台はなく、水門の錠の上に、小さな砂時計がひとつ乗っているだけである。その前に、胸の高さの砂時計と、何かを包む砂時計と、ふたつの誓いの砂時計が、寄り集まって浮いている。
水の上から、櫂の音が近づいてきた。
小舟が来るのだ。
わたくしは、石段の途中で足を止めた。向こうからは、わたくしの姿が見えている。こちらからは、見えない。下手に近づけば、娘ごと水に落ちるかもしれない。
陛下が、追いついた。息が荒い。
「どこだ」
「水門の前に。……陛下には、見えません」
陛下は、剣を抜いた。けれど、どこへ向ければいいのか、わからない。
暗がりの中から、男の声がした。
「王妃陛下。そこから一歩でも下りれば、王女殿下は川の底でございます」
ゼーレンの訛りのある、低い声である。
「見えておられるのでしょう。では、私が水門の縁に立っていることも、おわかりのはず」
わたくしは、唇を噛む。胸の高さの砂時計は、たしかに、水門の縁のぎりぎりのところに浮いていた。
陛下の剣先が、わずかに震える。
金の砂時計の下で、娘は、声ひとつ立てていない。
そのとき、胸の高さの砂時計が、揺れた。
大きく、ぐらりと。
それから、砂時計だけが宙を落ちていく。石の床に当たって、かつん、と小さな音がした。
留め金だ。
床に転がった留め金の上で、砂時計は、まだ砂を落としつづけている。
その真上に、灰色の衣の男が、ふいに現れた。片手で胸もとを押さえている。もう片方の腕に、何かを抱えて。
男の腕の中で、何かを包んでいた砂時計が、ばさりと翻る。
外套が、床に落ちた。
白い衣のロッテが、男の腕に噛みついている。
「ロッテ!」
男が声を上げて、腕を振った。ロッテは石の床に転がり落ち、すぐに起き上がる。
陛下が、石段を飛び降りた。
男は、ロッテに手を伸ばしかけて、陛下の剣を見てやめる。水門の外へ身を投げようとしたところを、追いついた近衛に組み伏せられた。
櫂の音が、遠ざかっていく。
◇
わたくしは、娘を抱きしめた。
「怖かった?」
「怖かった」
ロッテは、わたくしの胸に顔を押しつけたまま言う。
「輪舞の途中で、後ろから口をふさがれて、何かをかぶせられたの。誰も、わたしを見なかった。……でも、砂時計を見ていたの。あのひとの、胸の上の砂時計」
「……それで」
「身につけているあいだだけ、なんでしょう。帯と同じ」
留め金を、引きちぎったのだ。7つの子の指で。
笑えばいいのか、泣けばいいのか、わからない。
陛下が膝をついて、娘の顔をのぞきこむ。
「怪我は」
「ありません」
「……そうか」
陛下は、それきり何も言えずに、娘とわたくしを、まとめて抱えこんだ。
遠くで、夜半の鐘が鳴りはじめる。
ロッテが、ふと顔を上げた。
「おかあさま。小さいほうが」
娘の頭の上で、指先ほどの砂時計が、最後の一粒を落とす。
砂時計は、ほどけるように光になって、水門の暗い天井へ、すうっと昇っていった。
誓いが、果たされたのである。
ゼーレンの兵は、ヘルム川を越えなかった。夜半の鐘が鳴りきるまでは。
「破られなかったのですね」
ロッテが、光の昇っていったほうを見上げて言う。
「ええ。……夜半までは」
ここから先は、川を越えても、誰の誓いにも背かない。
北の砦からは、まだ、何の知らせもなかった。
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