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「魔力なしの石ころが王妃など笑わせるな」と婚約破棄されましたが、もう少しで聖女さまの魔法が切れますので、どうぞそのままお続けくださいませ  作者: 桜野結
第9部

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第53話

右の回廊の先は、古い水門へ続いている。王宮の下を流れる川に、小舟をつけるための水門だ。川を下れば、ゼーレンの使節の館はすぐそこにある。


 後ろで、陛下が近衛に叫んでいた。左の階段にも人をやれ、と。


 わたくしは、金の砂時計だけを見て走る。


「見えるか」


 すぐ後ろで、陛下が言う。


「見えます。ずっと先に」


「離れるな」


「陛下こそ」


 金の砂時計は、ふらふらと揺れながら進んでいく。娘が、抱えられたまま暴れているのだろう。


 壁の燭台の砂時計が、ひとつ、またひとつと、後ろへ流れていく。


 金の砂時計が、角を曲がる。石段を下りる。湿った風が、下から吹き上げてきた。水の匂い。


 水門の前で、砂時計が止まった。


 暗い。燭台はなく、水門の錠の上に、小さな砂時計がひとつ乗っているだけである。その前に、胸の高さの砂時計と、何かを包む砂時計と、ふたつの誓いの砂時計が、寄り集まって浮いている。


 水の上から、櫂の音が近づいてきた。


 小舟が来るのだ。


 わたくしは、石段の途中で足を止めた。向こうからは、わたくしの姿が見えている。こちらからは、見えない。下手に近づけば、娘ごと水に落ちるかもしれない。


 陛下が、追いついた。息が荒い。


「どこだ」


「水門の前に。……陛下には、見えません」


 陛下は、剣を抜いた。けれど、どこへ向ければいいのか、わからない。


 暗がりの中から、男の声がした。


「王妃陛下。そこから一歩でも下りれば、王女殿下は川の底でございます」


 ゼーレンの訛りのある、低い声である。


「見えておられるのでしょう。では、私が水門の縁に立っていることも、おわかりのはず」


 わたくしは、唇を噛む。胸の高さの砂時計は、たしかに、水門の縁のぎりぎりのところに浮いていた。


 陛下の剣先が、わずかに震える。


 金の砂時計の下で、娘は、声ひとつ立てていない。


 そのとき、胸の高さの砂時計が、揺れた。


 大きく、ぐらりと。


 それから、砂時計だけが宙を落ちていく。石の床に当たって、かつん、と小さな音がした。


 留め金だ。


 床に転がった留め金の上で、砂時計は、まだ砂を落としつづけている。


 その真上に、灰色の衣の男が、ふいに現れた。片手で胸もとを押さえている。もう片方の腕に、何かを抱えて。


 男の腕の中で、何かを包んでいた砂時計が、ばさりと翻る。


 外套が、床に落ちた。


 白い衣のロッテが、男の腕に噛みついている。


「ロッテ!」


 男が声を上げて、腕を振った。ロッテは石の床に転がり落ち、すぐに起き上がる。


 陛下が、石段を飛び降りた。


 男は、ロッテに手を伸ばしかけて、陛下の剣を見てやめる。水門の外へ身を投げようとしたところを、追いついた近衛に組み伏せられた。


 櫂の音が、遠ざかっていく。


◇


 わたくしは、娘を抱きしめた。


「怖かった?」


「怖かった」


 ロッテは、わたくしの胸に顔を押しつけたまま言う。


「輪舞の途中で、後ろから口をふさがれて、何かをかぶせられたの。誰も、わたしを見なかった。……でも、砂時計を見ていたの。あのひとの、胸の上の砂時計」


「……それで」


「身につけているあいだだけ、なんでしょう。帯と同じ」


 留め金を、引きちぎったのだ。7つの子の指で。


 笑えばいいのか、泣けばいいのか、わからない。


 陛下が膝をついて、娘の顔をのぞきこむ。


「怪我は」


「ありません」


「……そうか」


 陛下は、それきり何も言えずに、娘とわたくしを、まとめて抱えこんだ。


 遠くで、夜半の鐘が鳴りはじめる。


 ロッテが、ふと顔を上げた。


「おかあさま。小さいほうが」


 娘の頭の上で、指先ほどの砂時計が、最後の一粒を落とす。


 砂時計は、ほどけるように光になって、水門の暗い天井へ、すうっと昇っていった。


 誓いが、果たされたのである。


 ゼーレンの兵は、ヘルム川を越えなかった。夜半の鐘が鳴りきるまでは。


「破られなかったのですね」


 ロッテが、光の昇っていったほうを見上げて言う。


「ええ。……夜半までは」


 ここから先は、川を越えても、誰の誓いにも背かない。


 北の砦からは、まだ、何の知らせもなかった。



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