第51話
アルノーは、この7年のあいだに、魔術院の長になっていた。ベルンハルト師は3年前に杖を置き、今は王都の外れで、庭の薔薇に術をかけて暮らしている。
「ゼーレンの術でございますか」
アルノーは、書棚から古い本を抜き出した。7年前、帳の術を調べたときに、師が取り寄せた本である。
「ゼーレンは、見える方を、昔から恐れてまいりました。帳の術も、そのひとつです。ほかには……」
頁を繰る指が、止まる。
「姿隠しの術。かけた者の姿を、人の目から隠します。術をかけた外套なり、留め金なりを、身につけているあいだだけ」
「身につけているあいだだけ」
「はい。7年前の帯と、同じでございます」
わたくしは、頁をのぞきこんだ。読めない文字が、びっしりと並んでいる。
「その術の砂時計は、どこに乗るの」
アルノーが、目を瞬く。
「……術をかけた品の上で、ございましょうね。姿は消えても、術は消えませんので」
「姿が見えなくても、砂時計は、見える」
「王妃陛下には、おそらく」
アルノーは本を閉じて、しばらく黙っていた。
「ゼーレンの者が、そこまで考えているかどうかは、存じません。……考えていたら、困りますが」
◇
その足で、わたくしは、王都の外れのベルンハルト師を訪ねた。
師は、薔薇の垣根の前で、杖に寄りかかっておられる。垣根には、季節外れの花が咲いている。花のひとつひとつに、小さな砂時計が乗っていた。
話を聞き終えると、師は、ふん、と鼻を鳴らす。
「ゼーレンの者は、見える者を恐れる」
「存じております」
「恐れる者は、念を入れる。念を入れた者は、たいてい、どこかで念を入れすぎる」
師は、薔薇の花を一輪、指でつついた。
「入れすぎたところには、穴が開くものだ。王妃は、それを見ておればよい」
◇
その夜のロッテは、寝る前の話をねだって離れない。
「帯のお話」
7つの子に聞かせる話ではないと思う。けれど、娘はこの話がいちばん好きなのだ。わたくしの目が見えなくなり、腹の中の自分が帯を蹴って、天井いっぱいに砂時計が咲く話。
「それで、わたくしは帯を解きました」
「わたしが、蹴ったのでしょう」
「ええ。あなたが蹴ったの」
ロッテは、満足そうに笑う。それから、ふと真顔になった。
「おかあさま。身につけているものに術をかけたら、それを外せば終わるのでしょう」
「そうよ」
「頭の上の誓いは、外せないの?」
「誓いは、ものにかけた術ではないから」
わたくしは、娘の髪を撫でる。
「ロッテ。もし怖いことがあったら、砂時計を見なさい」
「砂時計を?」
「どこにいても、おかあさまは、同じ砂時計を見ているから。……あなたの頭の上の、おとうさまの砂時計も」
娘はこくりとうなずいて、目を閉じた。
◇
寝室に戻ると、陛下は露台に出ていた。
秋の夜風が冷たい。眼下に、王都の灯が広がっている。窓という窓に、灯りの術の砂時計。7年前、見えなくなったあの夜に、ここで見下ろした景色だ。
「あと3日だな」
陛下が言った。
「はい」
「ロッテには、何と言った」
「怖いときは、砂時計を見なさい、と」
陛下は手すりに肘をついて、しばらく灯りを眺めていた。
「誓いの中身を、聞かないのか」
「この子が聞けばいいと、7年前に申し上げました」
「聞いてくれたほうが、楽なのだが」
わたくしは、陛下の横顔を見る。眉の形は、娘とそっくりである。
「では、ひとつだけお聞きします。……娘を、ゼーレンにやりますか」
「やらない」
即答だった。
「祝いのあとに返事をすると、仰いましたが」
「祝いのあとに、断ると返事をする」
陛下は、わたくしのほうを向いた。
「誓いが落ちきるまでは、断る理由を言えない。言えば、中身を明かすことになる。……あれは、あの子に最初に聞かせると決めている」
耳が、夜風の中でも赤い。
わたくしは、陛下の腕に手をかけた。
「では、わたくしは、2番目に伺います」
陛下は、わたくしの手の上に、ご自分の手を重ねる。
しばらく、ふたりで灯りを見ていた。わたくしには砂時計の灯りが、陛下にはただの灯りが見えている。
同じ景色だと、思うことにした。
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