第46話
試しの朝も、クラリッサ様は帯を締めに来た。
わたくしは、いつものように寝台の端に腰かけ、いつものように腹を差し出す。
結び目が、締め直される。
両手が、帯の上に当てられる。
長い。
今朝は、わたくしにもわかる。ひと撫でではない。何かを確かめるように、何かを置いていくように、細い指が、帯の上で動かずにいる。
わたくしは、天井を見上げた。何もない天井を。
「本日は、晴れのお日柄でございますね」
クラリッサ様が、顔を上げる。
「ええ。ようやく」
「お目の、晴れの日でございます」
クラリッサ様は、目を伏せて微笑んだ。
部屋の隅で、ミーナが、黙ってその手を見ていた。
◇
試しは、大広間で行われることになった。宮中の皆の前で、という申し立てのとおりに。
婚約破棄の夜、わたくしはこの広間で、天井いっぱいに咲いた砂時計を見上げていた。新年の夜には、陛下をこの腕につかまらせて、鐘の音の中を歩いた。
今日は、天井に何も咲いていない。数えきれない硝子の燭台が、ただ静かに灯っているだけ。
広間には、宮中の主だった者が、ほとんど顔をそろえていた。
真ん中に据えた長い卓の上に、銀の杯が7つ並んでいる。どれも同じ形、同じ大きさ。ゆうべベルンハルト師が選び、アルノーがそのうちいくつかに術をかけた。どれにかけたのかは、師とアルノーしか知らない。
上座に、陛下。脇に、宰相と軍務卿。卓の向こうに、グラッセ公爵。神官長は、神殿の名代として壁ぎわの席に着いている。わたくしの後ろには、王妃の帯に付き添う見習いとして、クラリッサ様が控えていた。
甘い匂いがする。
公爵が、一歩前に出た。
「お集まりの皆さま」
よく通る声である。
「王妃陛下は、長年、砂時計が見えると仰ってこられた。その目で、何人もの者が裁かれました。わが娘も、そのひとりでございます。……ですが、その目を確かめた者は、ひとりもおりません」
人の輪の中から、ひそひそと声が上がる。石ころ、という言葉が、どこかで聞こえた。久しぶりに聞く呼び名である。
「王妃陛下。術のかかった杯を、お示しください。見えるのでしたら、ひと目でございましょう」
広間のあちこちで、うなずく気配がした。
人の輪が、割れる。わたくしと卓のあいだに、磨かれた床がまっすぐに伸びていく。
わたくしは、その床を歩いて、卓の前に立った。
7つの杯。磨かれた銀の肌に、燭台の灯りが映っている。
それだけだ。
天井の燭台にも、扉の錠にも、杯にも、何も乗っていない。この10日、ずっとそうだったように。
後ろで、衣ずれの音がする。クラリッサ様が、わずかに身を乗り出したのだろう。
わたくしは、杯の列を、端から端までゆっくりと眺めた。
それから、上座を見る。
陛下が、うなずいた。
「始める前に、ひとつだけ、お許しを」
わたくしは、腹の帯の結び目に、指をかける。
「帯を、解かせていただきます」
◇
大広間が、どよめいた。
神官長が、席から腰を浮かせる。
「なりませぬ、王妃陛下! 生まれる前に解けば――」
「お子さまが!」
後ろで、クラリッサ様が叫んだ。この方の、こんなに高い声を、わたくしは聞いたことがない。
公爵も、顔色を変えて踏み出す。
「不吉な! 神殿の帯を、大広間で解くなど――」
「王妃の帯だ」
陛下の声が、どよめきを断ち切った。
「王妃が解く。咎めがあるなら、私が受ける」
広間が、静まる。
誰も、それ以上は口を開かない。神官長は腰を浮かせたまま、公爵は踏み出した足をそのままに。クラリッサ様は――後ろにいるので、わからない。わからないけれど、息を詰めているのが、背中でわかる。
結び目は、固い。
毎朝、神殿の手で締め直されてきた結び目である。一度ほどけば、わたくしの手では、二度と同じには結べない。
外れていたら、と、もう一度だけ考えた。
外れていたら、わたくしは、禁忌を破った見えない石ころになる。この子は、生まれる前から、不吉な王妃の子と呼ばれる。
指先に、力を込める。
腹の中で、子が、とん、と蹴った。
結び目が、ほどける。
白い帯が、腹から滑り落ちる。
天井いっぱいに、砂時計が咲いた。
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