第43話
「何もないな」
「はい、何も」
いつもの朝の、いつものやりとりである。春になって杖の取れた陛下が、戸口で足を止めて、わたくしの頭の上を見上げる。わたくしが答える。婚礼の朝から続く、ふたりの朝の始まり。
答えてから、気がついた。
何もない。
頭の上だけではなかった。天井の燭台に、砂時計がない。扉の錠にも、窓辺の鉢植えにかけた水保ちの術にも。寝台の脇の水差しには、毎朝ミーナが冷やしの術をかけさせているのに、その上にも何も乗っていない。
わたくしは、ゆっくりと自分の腹を見下ろした。
ふくらんできた腹に、神殿の白い帯が巻いてある。その帯の上にも、毎朝、安産の術の小さな砂時計が乗っていた。
今朝は、それもない。
「エリシア?」
陛下が、戸口から一歩、中へ入ってこられる。
わたくしは、陛下を見た。いつもなら、外套の留め金の皺よけの術や、撫でつけた髪の整髪の術や、腰の剣の錆止めの術をひとつずつ目でなぞって、それからようやくお顔に行き着く。今朝は、まっすぐお顔に行き着いた。
陛下は、こういう眉の形をしておられたのか。
「陛下」
声は、思ったより落ち着いている。
「見えません」
「……何が」
「何も、でございます」
◇
7歳の秋から、砂時計はいつもそこにあった。
燭台にも、門扉にも、料理番の肉の塊にも。婚約破棄の夜の大広間では、天井いっぱいに咲いていた。この目のせいで死ぬ日を読み違え、この目のおかげで生き延び、この目のおかげで王妃になった。
見えなくなる日が来るなどと、一度も考えたことがない。
安産の帯を賜ったのは、ひと月前。身ごもって5月目に入った朝のことである。
この国では、身ごもった女は5月目に神殿から白い帯を賜り、子が生まれるまで、それを解かない。帯には神殿の安産の術がかけてあって、毎朝、神殿の見習いが結び目を締め直し、術をかけ直す。帯に触れてよいのは、神殿の者だけ。生まれる前に解けば、子が出ていく。昔から、そう言われている。
王妃の帯を締めに通う見習いとして、神官長が連れてきたのは、修道女の灰色の衣をまとった、痩せた娘だった。
クラリッサ・グラッセ。
2年前、扇に魅了の香を封じて、陛下の妃の座を狙った公爵令嬢である。修道院で2年を過ごし、この春、王都の神殿へ移されてきたのだという。
「父の罪は、わたくしの罪でございます。せめて、お子さまのご無事を祈らせてくださいませ」
床に額がつくほど頭を下げる娘を、わたくしは見下ろした。扇の陰で「石ころが、王妃ですって」と笑った人と、同じ人には見えない。
神官長は、あの子は変わりました、と言う。
変わったかどうかは、見ればわかる。わたくしは、そう思っていた。
毎朝、クラリッサ様は帯を締め直し、両手を当てて、安産の術をかける。帯の上に、小さな砂時計がひとつ乗る。1日でちょうど落ちきる大きさの、ありふれた術。それ以外には、何も乗らない。
ひと月、わたくしは毎朝それを確かめてきた。
見張っているつもりだった。見えるのだから。
◇
侍医は、わたくしの目をのぞきこみ、脈を取り、首をかしげた。
「お目そのものには、何の障りもございません。……身ごもった女人は、鼻や舌の利き方が変わるものでございます。目の利き方が変わることも、ないとは申せません」
「子が生まれれば、戻りますか」
「おそらくは」
ベルンハルト師は、杖をついて部屋まで来てくださった。もう、ひとりでは階段を上れない。アルノーに支えられ、ひと息ごとに立ち止まりながら。
師は、わたくしの瞼に指を当てて、長いこと黙っておられた。
「目には、何の術もかかっておらん」
「では、なぜ」
「わからん。そなたの目は、もとより魔術院の誰にもわからんものだ。わしにわかるのは、術がかかっているか、いないか。それだけだ」
見えないことは、伏せておくと決めた。
知っているのは、陛下と、師と、アルノーと、侍医と、ミーナだけ。献上品の改めは、アルノーがひとつずつ手を当てて確かめてくれることになった。わたくしなら、ひと目で済むものを。
その夜、陛下はわたくしの手を離さなかった。
「見えなくても、エリシアはエリシアだ」
「存じております」
「なら、いい」
それで、少しだけ眠れた。
◇
3日目の朝のことである。グラッセ公爵が、2年ぶりに王都へ上ってきた。
評定の間に、申し立てをひとつ携えて。
「王妃陛下の目は、これまで一度も、試されたことがございません」
公爵は、よく通る声で言った。魔術院の広間で娘の手を引いて出ていったあの日より、ずいぶん痩せて、髪も白い。
「見つけたものが本物だったからといって、見えた証にはなりませぬ。知っていたのかもしれない。仕込んだのかもしれない。……現に、娘の扇をこしらえた職人が、口を開きました。扇の要に香を仕込めと、金を握らされた。握らせたのは、ヴァルデン家の者だったと」
評定の間が、ざわめく。
「娘の名誉のために、お願い申し上げる。7日の後、宮中の皆の前で、王妃陛下の目をお試しいただきたい」
奇妙なことに、そのざわめきは、公爵を咎める声ではなかった。
うなずく顔が、いくつもある。公爵家が名簿から外されたとき、胸をなで下ろしていたはずの方々の顔だ。
わたくしは、評定の間の高い天井を見上げる。
燭台が、ただの硝子の灯りとして、静かに吊られている。
2年、何も言ってこなかった方である。それが、わたくしの目から砂時計が消えて、3日目の朝に。
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