第40話
王妃が馬で王都を出るなど、前例がない。
宰相はそう言って止める。止めながら、いちばん足の速い馬を3頭、自分の厩から出してくれた。ミーナは、毛皮の裏打ちをした外套をわたくしの肩に着せかけ、料理番の夫が焼いた硬いパンを、鞍袋に詰められるだけ詰めた。
供は、ユリウス殿下と、近衛から選んだ騎士が8人。
それに、ベルンハルト師が、杖の先で地図を叩いて言い足した。
「アルノーの術を、ひとつ覚えておけ。あれは術の終わりに、必ず砂を少しだけ多く入れる。癖だ。満杯の砂時計が、硝子の首まで詰まって見えたら、あれの術だ」
34日目の夜明けに、北門を出る。
◇
北へ向かう街道は、2日目から雪になった。
ユリウス殿下は、宿駅に着くたびに、馬を替える段取りを駅の者と手早く済ませていく。どの駅に何頭いて、どの馬が雪道に強いか、殿下は帳面も見ずに知っておられた。
「砦の帳簿係を、もう何年もやっている」
3つ目の駅で、殿下はそう言う。
「砦の馬は、みんなこの街道の駅から借りる。借りた数と、返した数と、潰した数。毎晩、数えている」
「頼もしゅうございます」
「褒めるな。慣れていない」
殿下は、照れたように顔をそむけた。弟君と、同じ仕草で。
雪に1日余計に取られ、4日目の昼、街道を西へ折れる。雪の原の向こうに、灰色の石の館が見えてきた。
オルデン伯の館である。
◇
門の前で待ちかまえていたのは、白髪の家令だった。
「主は、王都へ上っております。お留守に、王妃陛下をお迎えする支度もございませず」
「支度は要りません。館を、見せていただきます」
「何を、お探しで」
「砂時計を」
家令は、わけがわからないという顔をした。わからなくてかまわない。わたくしは、門をくぐった。
館は、砂時計だらけである。
廊下の燭台に、ひとつずつ。台所の肉の塊に、鮮度保ちの術がひとつ。門扉に錠の術、厩の水桶に凍らずの術。古い貴族の館は、どこもこうだ。100を超える砂時計が、それぞれの速さで、それぞれの砂を落としている。
わたくしは、ひとつずつ見ていった。
燭台の砂は、ゆうべかけられたもの。錠の砂は、今朝。どれも、館の魔術師がいつもの順にかけて回る、いつもの術でしかない。
2階を見て、地下の酒蔵を見て、塔を見た。
何もない。
家令は、黙ってついてくる。顔色ひとつ変えない。その落ち着きが、かえって胸に引っかかる。
中庭に出たとき、日は、もう西に傾いていた。
館の裏手に、半ば雪に埋もれた石の小屋がある。厚い壁に、小さな扉。屋根に雪除けの板。
氷室だった。
冬のあいだに湖の氷を切り出して詰め、夏まで蓄えておく蔵。中は、真冬の外よりも冷たい。
その氷室の屋根の上に、手のひらほどの砂時計が乗っていた。
砂は、硝子の首まで、ぎっしりと詰まっている。
「家令」
わたくしは、氷室を指さした。
「氷を蓄える蔵に、防寒の術がかかっております。それも、今朝かけ直されたばかりの」
家令の顔から、はじめて血の気が引いていく。
◇
扉の錠には、術がふたつかかっていた。ひとつは、ただの錠。もうひとつは、音を外へ漏らさない術。
騎士がふたりがかりで扉を破る。
冷気が、白い霧になって吹き出してきた。
氷の壁に囲まれた奥に、藁を厚く敷いた一角がある。そこに、毛布にくるまった人影がふたつ。
ひとりは、ひどく痩せた若い魔術師。両手を床について、まだ、術をかけようとしている。
「アルノー」
わたくしが呼ぶと、アルノーは顔を上げ、何か言おうとして、そのまま前に崩れた。騎士が抱きとめる。
もうひとりは、藁に背を預けて座っていた。
髭が伸びている。頬がこけている。左の脚に、血のにじんだ添え木が巻かれている。
それでも、わたくしの顔を見るなり、その方は、まずわたくしの頭の上を見上げた。
「……あるな」
「はい。陛下の分が、まだ」
声が、うまく出ない。
陛下は、手を伸ばしかけて、やめた。指先が、凍えて曲がらないのだ。わたくしのほうから膝をついて、その手を両手で包んだ。
氷のように冷たい。
「遅れた」
「まだ、遅れておりません」
わたくしは言った。
「鐘まで、あと3日と少しございます」
陛下は、ゆっくりと目を閉じる。
「……迎えに来ると、言っていたな」
「申し上げました」
◇
ユリウス殿下が、陛下を背に負って氷室を出た。
館の広間で、暖炉に火が入れられる。陛下は、毛布にくるまったまま、途切れ途切れに話した。
峠道で襲ってきたのは、ゼーレンの装いをした、伯の手勢だったこと。馬が倒れて脚を折られ、気がつけば荷馬車の底にいたこと。アルノーも一緒に連れてこられ、この氷室に入れられたこと。
「伯は、私を殺す気はなかった」
陛下は、暖炉の火を見ていた。
「レオポルトが、そう望んだそうだ。鐘の音を、私に聞かせたいと。王冠が兄上の頭に移る音を、氷の中で、生きたまま聞かせたい、と」
2年前の夜会で、レオポルト殿下は耳飾りを床に落として帰っていった。あの方は、あの夜のことを、少しも忘れていなかったのだ。
「アルノーが、術を切らさずに、氷室ごと温めてくれた。外套は、伯に取り上げられた。証にするのだと言って」
「その外套が、陛下の居場所を教えてくれました」
陛下は、わたくしを見た。
「アルノーに、褒美をやらなければ」
「わたくしからも」
暖炉の向こうで、ユリウス殿下が窓の外を見ていた。
「雪が、強くなる」
殿下は、振り向かずに言う。
「今夜のうちに出ないと、明日は街道が埋まる」
陛下は、毛布をはねのけて立とうとした。添え木の脚が、言うことをきかない。ユリウス殿下が、黙って肩を貸した。
兄君の肩に腕を回した陛下と、目が合う。
「帰るぞ」
「はい。帰るのは、これからでございます」
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