第38話
謁見の間に通されたオルデン伯は、ひどい姿だった。
鎧は泥と雪にまみれ、髭は伸び放題。従ってきた騎士は、出立のときの半分にも足りない。伯は、宰相とわたくしの前に膝をつくと、しばらく顔を上げようとしなかった。
「峠からの、帰り道でございます」
かすれた声である。
「話し合いは、まとまりました。22日目の朝に峠の砦を発ち、昼すぎ、崖沿いの細い道で、ゼーレンの装いをした伏兵に襲われました。陛下の馬が矢を受けて棹立ちになり……お支えしようとしたアルノー殿もろとも、谷へ」
謁見の間の空気が、凍りつく。
「雪が深く、3日探しました。お姿も、アルノー殿も、見つかりませぬ」
伯が、背に負った包みを解いた。
中から出てきたのは、濃紺の羅紗に、銀の縁取りの外套。出立の朝、わたくしが中庭で見送ったものだ。肩口から裾にかけて裂け、乾いた血で黒ずんでいる。
「崖の途中の枝に、かかっておりました」
謁見の間のどこかで、誰かが、すすり泣く。
宰相が、よろめいて卓に手をついた。
わたくしは、外套を見ていた。正確には、外套の肩の上を。
手のひらほどの砂時計が、乗っている。
◇
その夜のうちに、王宮は喪の支度を始めた。
崩御を告げたわけではない。けれど、黒い布が蔵から出され、楽団には新年の夜会の稽古を止めるよう言い渡される。誰も口には出さないものの、誰もが同じことを考えていた。
神殿の灯は、まだともっている。
それが何の証にもならないことを、王宮の主だった者は、みな知っている。
ベルンハルト師が、杖をついて、わたくしの部屋まで来てくださった。もうすっかり腰が曲がって、階段ひとつに長い時間がかかる。それでも、人をよこさず、ご自分で来られた。
「灯は、誓いが破れたときに消える」
師は、椅子に腰を下ろすなり、言った。
「だが、死んだ者は誓いを破れん。果たすこともできんがな。死者の誓いは、期限まで灯りつづけ、期限が来て、黙って消える」
「存じております」
「そなたの砂も、同じであろう」
「はい」
頭の上の砂は、陛下の息があってもなくても、同じ速さで落ちる。鐘が鳴るまで、何も教えてはくれない。
師は、しばらく黙っておられた。弟子をひとり、谷に失ったかもしれない方である。わたくしは、それを口にしなかった。
「師。アルノーの防寒の術は、5日もつと聞いております」
「そうだ。あれに教えたのは、わしだ」
「かけた者のほかに、かけ直せる者は」
師は、眉を上げる。
「おらん。術は、かけた者のものだ。ほかの者がかけ直せば、それは別の、新しい術になる。そなたの目には、大きさも違う砂時計に見えるはずだ」
「ありがとう存じます」
わたくしは、立ち上がる。
◇
謁見の間の外套は、黒い布をかけた台の上に、広げて置かれていた。
燭台の灯りが、裂け目と血の跡を照らしている。オルデン伯は、まだ下がっていない。宰相と並んで、明日の評定の段取りを、低い声で話していた。
わたくしは、外套の前に立った。
肩の上の砂時計を、もう一度見る。
大きさは、出立の朝に中庭で見たものと、寸分違わない。新しくかけた別の術ではなく、アルノーがかけた、アルノーの術だ。
5日で落ちきる砂が、5分の2ほど残っている。
「オルデン伯」
「は」
伯が振り返り、わたくしに礼をとる。
「陛下が谷へ落ちられたのは、22日目の昼。今夜で9日になりますわね」
「……さようでございます」
「この外套は、その日のうちに、崖の枝で見つかった」
「はい。手前が、この手で」
「それから3日、谷を探し、6日かけて王都へ戻られた」
「峠道は雪で、それ以上は」
「責めているのではございません」
わたくしは、外套の肩を指さした。
「アルノーの防寒の術は、5日でございます。その術が、まだ、ここに乗っております。砂は5分の2ほど。かけ直されてから、3日あまり」
宰相が、ゆっくりと顔を上げる。
「9日前に崖の枝にかかった外套に、3日前、誰かが、アルノーの術をかけ直した。アルノーの術は、アルノーにしかかけ直せません。そしてアルノーは、この術を、陛下の外套にしかかけません」
燭台の火が、ひとつ揺れた。
オルデン伯は、動かない。
わたくしは、伯の顔を見た。
2年前の夜会で、レオポルト殿下の耳飾りを見たときと、同じ目で。
「3日前、この外套は、生きた方の肩にございました」
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