第37話
わたくしの頭の上には、砂時計がひとつ浮いている。
両手で抱えるほどの大きさで、金の枠に硝子の胴がはまっている。上の玉から下の玉へ、白い砂が糸のように細く落ちつづけている。鏡には映らない。見えるのは、わたくしひとりである。
あと9日で、その砂が落ちきる。
それまでに陛下が王都へお戻りにならなければ、この国の王冠は、陛下のものではなくなる。
陛下が今どこにいらっしゃるのか、誰も知らない。
◇
話は、40日前にさかのぼる。
婚礼から、じき1年になる秋の終わり。朝の支度を終えたわたくしの部屋に、陛下がいつものように顔を出された。
戸口で足を止め、わたくしの頭の上を見上げる。
「何もないな」
「はい、何も」
婚礼の朝から、1日も欠かさず続いているやりとりである。見えない方が見上げ、見える者が答える。それで、ふたりとも1日の予定を立てはじめるのだ。
その朝は、陛下の手に、封の切られた書状があった。
「ゼーレンの先王が、亡くなった」
跡を継いだのは、まだ8歳の王子だという。幼い王には摂政がつく。摂政に立ったのは、先王の弟。
レオポルト殿下である。
2年前の新年の夜会で、わたくしに跪き、耳飾りを床に落として帰っていった方だ。本国で謹慎していたはずの王弟殿下は、兄王の喪が明けるのも待たずに、国の舵を握っていた。
「摂政の最初の仕事が、これだ」
書状は短い。ヘルム川の通行税の免除は先王の結んだ約束であって、新しい王の約束ではない。改めて話し合いたい。場所はヘルム川の源の峠、期日はひと月のうち。
「話し合いの席に、兵を連れてくる気だな」
峠の向こうの砦に、ゼーレンの兵が集まりはじめている。北の砦のユリウス殿下からも、同じ知らせが届いていた。
◇
評定の間で、陛下は、自分で峠へ行くと仰った。
重臣たちの顔色が、そろって変わる。
「なりませぬ」
真っ先に声を上げたのは、宰相である。
「峠は、冬になれば雪で閉ざされます。陛下に万一のことがあれば――」
「兄上がいる」
「お亡くなりになれば、でございます」
宰相は、言葉を選ばない。
「雪の中で、陛下がお亡くなりになったのか、生きておられるのか、わからぬままひと冬を越すことになれば。王冠は誰の頭にも乗らず、国は割れます。お世継ぎも、まだおられませぬ」
最後のひとことで、評定の間の何人かが、ちらりとわたくしを見た。わたくしは、見られていることに気づかないふりをする。
陛下は、しばらく黙っておられた。
「ならば、期限を切ろう」
陛下は、卓に両手をついた。
「新年の夜半の鐘が鳴りきるまでに、私は王妃と並んで、祝いの席に立つ。立てなければ、王冠は兄上に返す。神殿で、そう誓う」
評定の間が、静まり返る。
王冠を賭けた誓いは、建国から数えて2度しか立てられていない。2度目を立てたのは、ほかならぬ陛下ご自身で、2年ほど前のことだ。
「3度目でございますか」
宰相が、額を押さえた。
「誓いなら、私が生きていようと死んでいようと、鐘が鳴れば王冠の行き先が決まる。ひと冬、王座が空くことはない」
そう言ってから、陛下はわたくしを見た。
「エリシア。かまわないか」
わたくしの名が入る誓いである。誓いの印は、わたくしの頭の上に、また乗ることになる。
かまわない、とは、すぐには言えなかった。
誓いの仕組みは、わかる。理にもかなっている。けれど、ひとつだけ、喉に引っかかるものがあった。
鐘が鳴るまで、陛下を帰さずにおく。それだけで、誰も刃を振るわずに、王冠が動くのだ。
「かまいません」
わたくしは言った。
「ただ、お帰りが遅れましたら、わたくしが迎えにまいります」
陛下は、一度だけ目を見開いて、それから笑う。
「遅れない」
◇
誓詞は3晩、神殿の奥の間で神官長に読み聞かされ、4日目の朝、灯がともった。
祭壇の前で陛下が誓いの言葉を告げ終えたとき、わたくしの頭の上に、重さのない重さが乗る。
見上げる。
両手で抱えるほどの砂時計。金の枠。白い砂。
7歳の秋から17歳の夜まで、毎日見上げていたものと、そっくり同じ形をしている。
新しい砂時計の速さは、はじめはわからない。わたくしは3日かけて、砂の減りを測った。朝と夜に、残りを紙に写す。3日分の減りから、落ちきる刻を割り出す。
答えは、新年の夜半。鐘の鳴る刻と、ぴたりと重なっていた。
◇
出立の朝は、霜が降りた。
中庭に、護衛の騎馬が並んでいる。先頭で馬を寄せてくるのは、護衛隊長のオルデン伯。近衛から叩き上げた古参で、先王陛下の代から王家の馬車の脇を守ってきた方である。
陛下の傍らには、若い宮廷魔術師がひとり控えていた。アルノー。ベルンハルト師の末の弟子で、峠の寒さから陛下をお守りする役目を、師から直々に預かっている。
アルノーが、陛下の外套の裾に手をかざす。
濃紺の羅紗に銀の縁取りをした外套の肩に、手のひらほどの砂時計が乗った。
「防寒の術でございます」
わたくしの視線に気づいて、アルノーが言う。わたくしの目のことは、魔術院で知らぬ者がいない。
「どのくらいもちますの」
「5日でございます。切れる前に、かけ直します。この術は、陛下の外套にだけ」
「お役目を、よろしく」
アルノーは、頬を赤くして深く頭を下げた。
陛下が、手綱を取る前に、わたくしの前に立たれる。
いつもの仕草で、わたくしの頭の上を見上げる。
「……あるな」
「はい。陛下の分が」
陛下は、少し困ったように笑った。それから、わたくしの手を取り、指先に唇を寄せる。人目のある中庭で、そういうことをなさる方ではないのに。
「帰る」
「存じております」
「祝いの席の予定は、ふたり分、立てておいてくれ」
騎馬の列が、門を出ていく。霜の上に、蹄の跡が北へ伸びていく。
◇
峠からの便りは、3日おきに届いた。
峠の砦に着いたこと。レオポルト殿下が、相変わらずよく喋ること。話し合いが、思ったより長引きそうなこと。どの手紙も短く、最後の1行だけは、いつも同じである。
――そちらの頭の上は、どうだ。
わたくしは、毎晩、同じ返事を書いた。砂は、変わらずに落ちております、と。
20日目の手紙には、話がまとまりかけている、とあった。
23日目にも、26日目にも、29日目にも、何も届かない。
雪のせいだと、宰相は言う。峠道が閉ざされれば、早馬も足止めを食う。
わたくしは、毎晩、頭の上を見上げた。砂は、何事もなく落ちている。
それが何の慰めにもならないことを、わたくしは知っていた。誓った方が息をしていてもいなくても、誓いの砂は、期限まで同じ速さで落ちる。破られないかぎりは。
31日目の夜、城門の鐘が、乱れた拍子で鳴った。
早馬だ。
――護衛隊長オルデン伯、ただいま帰還。
――陛下のお姿は、隊にない。




