第36話
大広間は、静まり返っていた。誰も、身じろぎひとつしない。
1年前の成人前夜、陛下ははじめてわたくしの名を呼び、それから尋ねた。これからは、そう呼んでもいいか、と。わたくしは、明日の予定を立ててからお答えする、と申し上げた。
1年かかった。
「予定が、立ちました」
広間の真ん中を、玉座に向かって歩く。1年前、人の輪が割れて伸びた、あの磨かれた床。今夜は、誰にも呼ばれていない。
玉座の前で、膝を折った。
「ルートヴィヒ様」
はじめて、名を呼ぶ。
陛下ではなく。
「わたくしと、結婚してくださいませ」
広間が、息を止めた。
陛下は、わたくしを見下ろしている。耳が、これ以上ないほど赤い。
長い沈黙のあとで、ひとことだけ、おっしゃった。
「……はい」
求婚ではない。返事である。
大扉が開いて、神官がひとり、転がるように駆けこんできた。
「灯は、ともっております! 消えておりません!」
一拍おいて、広間のどこかで、誰かが手を叩く。
父だった。
父が誰よりも大きな音で手を叩き、ミーナが料理番の袖で目元を拭い、宰相が天を仰いで、何やら神に礼のようなものを呟いている。拍手は、はじめはまばらに、やがて波のように広がっていった。
◇
夜会のあと、回廊で、陛下とふたりきりになる。
陛下は、しばらく黙っておられた。それから、一度だけ、わたくしの頭の上を見上げる。
「いつ、わかった」
「8日前でございます。一条目から読み直しました」
「……父上の言いつけか」
「はい」
陛下は、長く息を吐いた。
「1年、待つつもりだった」
「存じております」
「1年たったら、一度だけ聞くつもりだった。断られたら、二度と聞かない。王の求婚は、断れないから。せめて1年は、誰にも何も望まれずにいてほしかった」
「それで、王冠を」
「自分の口が、いちばん信用できなかった。王冠でも賭けなければ、毎朝、言ってしまいそうだった」
だから、朝に来なくなったのだ。
「待つのは、懲りております」
わたくしは言った。
「17歳まで、死ぬ日を待っておりました。23歳まで、誓いが果たされる日を。……今度は、待つほうではなく、決めるほうに回りとうございました」
陛下は、目尻を下げて笑った。19歳の、年相応の顔で。
「エリシア」
「はい」
「求婚は、まだできない。あと11か月と少し」
「存じております」
「だから、これは求婚ではない」
陛下は、わたくしの手を取った。
「好きだ。6歳のときから」
わたくしの頭の上で、砂が細く落ちている。
◇
レオポルト殿下は、翌朝、使節団ごと王都を発たされた。
ひと月後、ゼーレンから詫び状が届く。王弟殿下は本国で謹慎。ヘルム川の通行税は、向こう10年、こちらの舟からは取らない。宮中に献上したゼーレンの品は、すべて引き取る。……引き取る前に、わたくしがひとつ残らず改めた。聴き耳の術が、あと3つ。
宰相は、ひと月ほど機嫌がよかった。
婚礼は、砂が落ちきる日の夜明けと決まる。
宰相は、1年も待てませんと渋った。けれど陛下が「誓いを守り通してから娶る」と仰って、それで決まる。
当日の朝、神殿の祭壇の前で、わたくしは頭の上を見上げていた。
残りは、ひとつまみ。
隣で、陛下も見上げておられる。見えないのに。
東の空が白む。最後の一粒が、落ちる。
硝子の胴が、内側から淡く光った。光は金の枠を伝い、砂を伝い、ほどけて、神殿の高い天窓へ昇っていく。
神官長が、灯が燃え尽きたと告げた。
陛下が、わたくしのほうを向く。1年ぶりに、口を縛るものが何もない顔で。
「エリシア」
「はい」
「私と、結婚してくれるか」
「1年前に、こちらから申し上げました」
「知っている。でも、言いたかった」
わたくしは、笑ってうなずく。
誓いの言葉を交わしたあと、陛下は、いつもの仕草でわたくしの頭の上を見上げた。
「何もないな」
「はい、何も」
7歳の秋から、わたくしの頭の上には、いつも誰かの誓いが乗っていた。
今は、何もない。
隣を見れば、わたくしの頭の上ばかり見上げてきた方が、ようやく、わたくしの顔を見ている。
明日の予定は、ふたり分、立ててある。
(了)




