第35話
陛下は、立ち上がりかけたまま、止まった。
口が、開く。
わたくしは、陛下の顔を見ていた。頭の上ではなく。
耳が赤い。首筋まで赤い。唇が、何かの形をつくりかけて、ほどける。もう一度つくりかけて、また、ほどける。
陛下は、ゆっくりと、玉座に座り直された。
「……エリシアが、自分で答える」
それだけ、だった。
広間に、ため息のようなどよめきが広がる。跪いたレオポルト殿下の口元が、ほんのわずかに強張ったのを、わたくしは見逃さない。
7年前、12歳の殿下は、椅子を鳴らして立ち上がった。1年前には、父王の勅命に背いてまで立ち上がっている。
今夜は、座り直した。王冠のためではない。わたくしの答えを、わたくしのものにしておくために。
わたくしは、レオポルト殿下に向き直った。
「お申し入れ、ありがとう存じます」
膝を折る。
「謹んで、お断り申し上げます」
殿下は、笑みを崩さなかった。
「理由を伺っても」
「ふたつ、ございます」
わたくしは、袖から書状を取り出した。
「ひとつ目。この書状の封蝋でございます。ゼーレンの封の術は、ひと月もちます。残りの砂から数えますと、封をなさったのは、陛下が神殿で誓いを立てられる2日前。……殿下は、まだ乗ってもいない誓いのことを、書いておられます」
広間が、ざわめく。
「ふたつ目。神殿の奥の間に、ゼーレンから献上された香炉がございました。王冠を賭ける誓詞は、3晩、あの部屋で読み上げられます」
大扉が開いて、ベルンハルト師が入ってきた。後ろの神官が、布をかけた香炉を捧げ持っている。
レオポルト殿下は、香炉をちらりと見て、肩をすくめた。
「弔いの献上品です。1年も神殿に置かれていたものに、誰が何を細工したか。私の知るところではありませんね」
広間の何人かが、うなずきかける。もっともな言い分に聞こえたのだろう。
わたくしは、殿下の左の耳を見ていた。
「殿下。その耳飾りに、砂時計がひとつ乗っております」
殿下の手が、耳へ動きかけて、止まった。
「両手で抱えるほどの大きさ。耳飾りには、ずいぶん不釣り合いな大きさでございます。……そして、香炉の上の砂時計と、まったく同じ大きさ」
神官が、香炉の布を取る。
わたくしは、ふたつの砂時計を見比べた。8日前に目に焼きつけた量から、8日分減っている。香炉も、耳飾りも。
「砂の量が、一粒も違いません」
広間が、しんとした。
「同じ朝に、同じ術師がかけた術は、砂の量がそろいます。花祭りの夜、千の砂時計の中から、それで罠をひとつ見つけました。……香炉が聞いたものを、殿下の耳へ届ける術でございましょう」
ベルンハルト師が、殿下の前に進み出る。
「拝見してよろしいか、王弟殿下」
殿下は、答えなかった。師は、構わず耳飾りに手をかざす。それから、香炉に。
「対になっておる。聴き耳の術だ。……7年前、先王陛下の執務室で見た天秤と、同じ術師の手だな」
レオポルト殿下の笑みが、はじめて消えた。
「殿下は、陛下の誓いの中身を、この耳でお聞きになりました。そのうえで、宮中の皆の前で、わたくしに求婚なさった。陛下に、止めさせるために」
わたくしは、玉座を振り返らなかった。振り返れば、陛下に何かを求めることになる。
「お止めになるなら、言える言葉はひとつしかございません。言えば、誓いは破れます。止めなければ、わたくしはゼーレンへ参ります。どちらに転んでも、ゼーレンの得。……7年前の天秤と、同じ手でございますね」
宰相が、衛兵に目配せをする。衛兵が、殿下の左右に立った。
「殿下は、仰いました。ゼーレンは、耳だけは早い国だと」
わたくしは、深く膝を折る。
「目は、こちらの国のほうがよろしいようでございます」
広間のどこかで、誰かが吹き出した。それが、さざなみのように広がっていく。7年前、わたくしを笑ったのと同じ広間で。今夜笑われているのは、わたくしではない。
レオポルト殿下は、耳飾りを外して、床に落とした。銀の鳴る音が、やけに大きく響いた。
◇
衛兵に付き添われて、ゼーレンの使節団が大扉の向こうへ消える。
広間の目が、ひとつ残らず、わたくしに集まっていた。
わたくしは、玉座へ向き直った。
陛下は、まだ肘掛けを握っておられる。
「陛下」
陛下は、答えない。答えられないのだろう。
「陛下の誓いの中身を、わたくしは存じません」
嘘ではない。推しただけだ。
「ですから、ここからは、わたくしの話でございます」
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