第34話
翌日、父が北から出てきた。干し鱈を担いで。
「レオポルトとかいう男から、書状が来た」
父は、執務室の椅子にどっかりと腰を下ろした。
「おまえをゼーレンにくれ、と。礼儀正しい書きぶりだった。北の領地から馬で2日の場所に、温室つきの館を建てるそうだ」
「お受けになるおつもりですか」
「わしが受けるかどうかは、どうでもいい」
父は、干し鱈を一本、机に置く。
「7年前、わしは遺書を受け取った。おまえが自分の明日を決めずに、死ぬ日だけ決めておったからだ。……今度は、受けるなら自分で受けろ。断るなら、自分で断れ。誰の誓いのせいにもするな。陛下のせいにもだ」
わたくしは、頭の上の重さを感じていた。
「お父さま。陛下の誓いの中身を、わたくしは知りません」
「知らんでも、決められるだろう」
「知らなければ、決められません。わたくしが断れば、陛下の王冠が落ちる誓いかもしれないのです」
父は、眉を上げた。
「それは、陛下を断ると決めておるような口ぶりだな」
言葉に、詰まる。
断ると、決めてなどいない。決めていないから、困っているのだ。
父は、それ以上は何も言わなかった。干し鱈をもう一本、机に置いて、出ていく。
◇
重いと思ううちは、まだ大丈夫だ。軽く感じたら、誰かに一条目から読み直させよ。
先王陛下が、最後の夜にルートヴィヒ陛下へ遺した言葉である。
わたくしは、執務室の机に紙を広げた。誓いの中身は、どこにも書かれていない。それでも、読み直すことはできる。この17日のあいだに、陛下がなさったことと、なさらなかったことを。
一条目。陛下は、朝に来られなくなった。わたくしとふたりきりになるのを、避けておられる。
二条目。宰相によれば、陛下は誓いの翌日、重臣たちに申し渡したという。「ヴァルデン嬢に、誰も、私の妃になれと言うな」。宰相は、照れ隠しだと思っていたそうだ。
三条目。レオポルト殿下の求婚を、陛下は止めない。
四条目。陛下は、何か言いかけて、やめる。必ず、わたくしの名を呼んだあとで。
妃に迎えると誓った方なら、このどれもが、おかしい。
では、逆なら。
わたくしは、筆を置いた。
陛下が避けているのは、わたくしではない。わたくしの前で、口を開くこと。言いかけてやめる言葉。誰にも言わせない言葉。レオポルト殿下を止めるには、陛下が言うしかない言葉。
――求婚。
この誓いは、妃に迎える誓いではない。
求婚しない、誓いだ。
◇
なぜ、と考えるまでもなかった。
1年前の夜明け、わたくしは陛下に申し上げた。どなたに命じられたのでもなく、誰かの誓いに縛られたのでもなく、わたくしが決めた、と。
王の求婚は、問いではない。王が妃にと望めば、家も宮中も、首を横に振る道を塞ぐ。断れない問いは、命令と同じこと。
だから陛下は、ご自分の口を、王冠で縛った。
1年。わたくしが、誰にも何も望まれずに、自分で明日を決められるように。中身を明かさないのも、同じ理由。明かせば、それがもう求婚になる。
宮中が勝手に「妃に」と読んで、皆がわたくしに膝を折りはじめたのは、陛下にとっても誤算だったに違いない。
わたくしは、頭の上を見上げた。
砂が、細く落ちている。
王冠を賭けて、何も言わないための誓い。
……ばかな方。
声に出したら、少しだけ、泣きそうになった。
◇
問題は、もうひとつ残っていた。
レオポルト殿下の書状を、もう一度開く。
――あなたの頭の上の新しい誓いが、あなたを縛るのなら。
封蝋の上の砂時計を見る。ひと月もつ封の術。残りは、11日分。封をしたのは、19日前になる。
陛下が神殿で誓いを立てたのは、17日前。
封は、誓いの2日前に押されていた。
まだ乗ってもいない誓いのことを、この書状は書いている。
◇
神殿の奥の間は、薄暗かった。
神官長は、わたくしの話を聞くと顔色を変えて、自ら扉の錠を外してくださった。誓詞を納める石の箱。灯皿を整える台。王冠を賭ける誓詞は、ここで3晩、神官長が灯皿に読み聞かせる。
「わたくしひとりしか、おりませんでした。扉には錠を」
わたくしは、部屋を見回した。
錠の上に、砂時計がひとつ。灯皿の台に、ひとつ。どちらも神殿の術で、砂の量も見慣れたもの。
そして、部屋の隅の棚に、銀の香炉がひとつ。
その上に、両手で抱えるほどの砂時計が乗っていた。
この大きさを、わたくしは最近、もうひとつ見ている。
砂の量を、目に焼きつける。一粒も違えずに覚えておけるよう。
「あの香炉は」
「先王陛下の御葬儀に、ゼーレンから献上されたものでございます。弔いの香を、絶やさぬようにと」
神殿への献上品は、魔法改めの役目の外である。わたくしは1年、この部屋に入ったことがなかった。
7年前、先王陛下の執務室の金の天秤に、同じ大きさの砂時計が乗っていた。
聴き耳の術。
すべてが、一本の糸でつながる。
ゼーレンは、陛下の誓詞を聞いた。求婚しない、という中身を知ったのだ。だからレオポルト殿下は、誓いが立つ前に、急いで封をした。
宮中の皆の前で、わたくしに求婚する。臣下の娘の縁談を、王が差し止める定めはない。止めるなら、言える言葉はひとつだけ。その娘は、私が妃に望む。それは、求婚である。口に出せば、誓いは破れる。王冠は北のユリウス殿下へ戻り、この国はしばらく揺れるだろう。止めなければ、ゼーレンはわたくしの目を手に入れる。7年前、天秤を見破った目を。
どちらに転んでも、ゼーレンの得。
わたくしは香炉に布をかけて神官長に預け、ベルンハルト師へ使いを出した。
それから執務室に戻って、明日の予定を立てた。
◇
新年の夜会は、あの大広間で開かれる。
天井の燭台に、数えきれない砂時計。見慣れた景色の中に、ひとつだけ違うものがある。わたくしの頭の上の、金の枠。
上座の玉座に、陛下。
1年前より、また少し肩幅が広くなった。けれど今夜は、玉座の肘掛けを握る手の甲が、白い。
最初の曲で、陛下は誰とも踊らなかった。名簿の候補の席がひとつ、空いている。グラッセ公爵家の席である。公爵は領地へ下がり、クラリッサ嬢は修道院へ入ったと聞く。扇は、魔術院の棚に封じられたまま。
2曲目が終わったところで、レオポルト殿下が進み出た。
広間の真ん中で、わたくしの前に跪く。
「ヴァルデン侯爵家の、エリシア嬢」
よく通る声だった。
「私の妃として、ゼーレンへおいでいただきたい」
広間が、静まり返る。
誰もが、玉座を見た。
陛下が、肘掛けに手をついて、立ち上がりかけた。
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