第32話
中身は、その日のうちに決まった。
わたくしが決めたのではない。宮中が決めた。
「1年以内に、ヴァルデン嬢を妃に迎える。それ以外に何がある」
回廊でも、厨房でも、衛兵の詰所でも、同じ話でもちきりだという。ミーナが、夕方には仕入れてきた。
「料理番の夫まで、婚礼の献立を考えはじめております」
「気が早すぎるわ」
「芋は、コレットさんが剥くそうです」
翌朝から、宮中の目が変わった。
すれ違う貴婦人が、深々と膝を折る。10年わたくしを石ころと呼んだ方々が、今は「エリシアさま」と呼ぶ。名簿に名のあった公爵家の方々は、逆に目を合わせない。
なかでもグラッセ公爵家のクラリッサ嬢は、すれ違いざまに扇で口元を隠し、聞こえるように笑った。
「石ころが、王妃ですって」
7年前まで、宮中でいちばん楽しそうにその呼び名を使っていた方である。扇の要に、小さな砂時計がひとつ乗っていた。香りの保ちか何かだろう。そのときは、それ以上気に留めずにおいた。
宰相は、目に見えて機嫌がよかった。
「陛下も、回りくどいことをなさる。ひとこと仰ればよろしいのに」
わたくしは、何も申し上げずにおく。
◇
その朝、陛下は執務室に来られなかった。
次の朝も。その次の朝も。
書類は侍従が運んでくる。献上品の目録も、外つ国の使節の名簿も。王の印は押してあるのに、陛下の手の書きつけが、一枚もない。
4日目の夕方、回廊の角で、ようやく陛下と行き合った。
「陛下」
陛下は、足を止めた。わたくしの頭の上を、ちらりと見上げる。それから、すぐに目を逸らす。
「エリシア。私は――」
言いかけて、口を閉じた。
「……いや。何でもない」
侍従を連れて、足早に去っていかれる。
背中を見送りながら、わたくしは考えていた。
1年以内に妃に迎えると誓った方が、なぜ、わたくしを避けるのだろう。
◇
6日目、わたくしは陛下の執務室の前で待った。書類を返しに来たふりをして。
「中身を、伺ってもよろしいですか」
陛下は、扉に手をかけたまま、振り返らなかった。
「誓いの中身は、明かすかどうか本人が決める」
「存じております。7年前、陛下ご自身がそう仰って、明かしてくださいました」
「今度は、明かさない」
「わたくしの頭の上に、乗っているものでございます」
「……知っている」
陛下の声は、低い。
「すまない。今は、明かせない」
扉が閉まる。
◇
その夜、屋敷の窓辺で、わたくしは頭の上を見上げていた。
砂は、細く落ちている。6日分。速さが、少しずつ読めてきた。おそらく、1年。
腹が立っていた。
陛下に、ではない。いや、陛下にも。
宮中の読みが正しいなら、この誓いは「1年以内に、わたくしを妃に迎える」。わたくしが首を横に振れば、陛下は王冠を失う。
それは、問いではない。答えの決まった書類に、署名を求められているのと同じこと。
17歳まで、わたくしの頭の上には、ユリウス殿下の誓いが乗っていた。婚約という誓い。断る道など、どこにもなかった。23歳までは、ルートヴィヒ殿下の誓い。あれは、わたくしが自分で乗せておくと決めたもの。
そして1年前の夜明けに、何もなくなった。誰の誓いでもなく、自分で明日を決められる身になったのだ。
その頭の上に、また乗せられている。
「お嬢さま」
ミーナが、寝支度の湯を運んできた。
「ひとつ、申し上げてもよろしいですか」
「遠慮したことなんて、一度もないでしょう」
「では」
ミーナは、湯桶を床に置く。
「陛下がお見えにならなくなってから、お嬢さまは毎朝、執務室の扉ばかりご覧になっています」
わたくしは、返す言葉を探す。
「書類をお読みになっていても、廊下で足音がすると、お顔を上げられます。侍従の方だとわかると、また下げられます。今朝で、6日目です」
「……数えていたの」
「お嬢さまが数えていらっしゃらないので、わたくしが」
ミーナは、ぺこりと頭を下げて出ていった。
ひとりになった部屋で、わたくしは頭の上を見上げる。
砂が落ちている。
腹が立っているのは、誓いを乗せられたからだと思っていた。
それだけでは、ないのかもしれない。
◇
翌週、ゼーレン王国から、新年の使節団が王都に入った。
先頭の馬車から降りてきたのは、栗色の髪の、背の高い殿方である。7年前、わたくしを妃に望むという親書を寄越して、国境の川を丸ごと持っていこうとした、あの縁談の名義人。
ゼーレンの王弟、レオポルト殿下。
その日の夕刻、魔法改めの執務室に、使いが来た。
王弟殿下が、ヴァルデン嬢にお目にかかりたい、と。
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