第30話
宴が終わると、陛下は寝所へ運ばれた。
侍医と、ベルンハルト師と、ルートヴィヒ殿下。ユリウス殿下も、北から戻った旅装のまま、枕元に控えておられる。わたくしは扉の脇に立って、遠慮するつもりでいた。
「ヴァルデンの娘。近う」
陛下に呼ばれて、寝台のそばへ寄る。
陛下の頭の上には、砂時計がひとつ。上の玉の砂は、もう底が透けて見えるほどしかない。
「見えておるのだろう」
「はい」
「いつ切れる」
殿下がたが、息を詰めてわたくしを見た。
6年前、陛下はわたくしにお尋ねになった。知っておったのか、と。わたくしは、知らないとお答えした。砂時計のことは、言えなかったから。
今夜は、もう隠すことは何もない。
「夜明けに。東の空が白むころでございます」
陛下は、目を細められた。
「あと、二刻ほどか」
「はい」
「ちょうどよい。言い残すことは、そう多くない」
陛下は、ユリウス殿下のほうへ顔を向けられた。
「ユリウス。北は、寒いか」
「寒うございます。ですが、花は咲きました」
「そうか」
次に、ルートヴィヒ殿下のほうへ。
「ルートヴィヒ。王冠は、重いぞ」
「はい、父上」
「重いと思ううちは、まだ大丈夫だ。軽く感じたら、誰かに一条目から読み直させよ」
殿下が、唇を噛んでうなずいた。
最後に、陛下はわたくしをご覧になった。
「そなたには、16年分の借りがある。10年の償いに、望みを申せと言ったら、牢の食事をましにしろと言いおった。……今度こそ、何か申せ」
わたくしは、少し考えた。
困ったことに、今夜は思いついていた。
「恐れながら、陛下。望みは、ございません」
「ない、と」
「明日からの予定は、自分で立てましたので。誰かにいただくものは、もう何もございません」
陛下は、しばらくわたくしを見ておられる。
それから、6年前と同じように、口元を覆って肩を震わせられた。声は出なかった。もう、声を立てる力は残っていなかったのだろう。
「……そうか。そうであろうな」
陛下は、目を閉じられた。
しばらくして、陛下はもう一度だけ目を開けられた。
「ヴァルデンの娘」
「はい」
「わしの頭の上の砂時計は、どんな形をしておる」
思いがけない問いだった。
「金の枠に、硝子の胴でございます。……16年前、わたくしの頭の上に乗っていたものと、よく似ております」
「そうか」
陛下は、天井を見上げられた。見えるはずのないものを、見ようとするように。
「そなたは、16年、それを見上げて暮らしたのだな。わしは、ひと月で音を上げそうだ」
「陛下には、見えておられませんので」
「見えておったら、とうに音を上げておる」
陛下の口元が、かすかに緩む。それきり目を閉じて、二度と開けられることはなかった。
◇
夜明けが来た。
寝所の窓の外で、東の空が白んでいく。わたくしは、陛下の頭の上を見ていた。誰に頼まれたわけでもない。見えるのが、わたくしだけだったから。
最後の砂が、落ちた。
砂時計は、光にはならなかった。誓いではなく、命をつなぐための術だったのだろう。ただ静かに、薄れて消えた。
陛下の胸が、ひとつ大きく上下して、それきり動かなくなる。
眠っておられるような、穏やかなお顔。
ベルンハルト師が、陛下の手を取り、しばらくしてから、首を振った。ユリウス殿下が、寝台の脇に膝をつく。
ルートヴィヒ殿下は、立ったまま、父君の顔を見下ろしておられる。
長いこと、そうしておられた。
やがて、殿下は顔を上げ、窓の外の朝を見た。それから、わたくしのほうを向く。
王になったばかりの、18歳の顔で。
「エリシア」
「はい、陛下」
殿下は、その呼ばれ方に、まだ慣れない顔をなさった。
「明日の予定は、立ったのか」
「立ちました」
「聞いてもいいか」
わたくしは、扉の脇まで下がって、深く膝を折った。王妃教育の10年で、いちばん上手になった礼。今は、魔法改めとして、王に捧げる礼である。
「王宮に残ります。陛下の目として。……どなたに命じられたのでもなく、誰かの誓いに縛られたのでもなく。わたくしが、そう決めましたので」
陛下は、何も言わなかった。
ただ、わたくしの頭の上を見上げた。花祭りの翌朝から、毎朝欠かさずなさってきたように。
そこには、もう何もない。
◇
王宮の回廊に出ると、朝の風が冷たかった。
燭台の砂時計は、夜明けとともに、ひとつ、またひとつと砂を落としきって消えていく。門番の槍の穂先にも、ひとつ。窓の外を横切っていく伝令の鳩の足にも、ひとつ。この国は、相変わらず砂時計だらけだ。
わたくしは、首をそらして、自分の頭の上を見上げた。
何もない。
朝の空が、見える。
16年前、わたくしは石ころと呼ばれ、頭の上に砂時計が乗った。6年前、それが消えて、自分の明日を知らなくなった。
今は、知っている。
誰の砂時計でもなく、わたくしが自分で決めたから。
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