第29話
夜半の半刻前、楽団が弦を鳴らした。
成人の曲である。
6年前、ユリウス殿下のために奏でられかけた曲。あの夜は、曲の途中で前髪が額に落ち、わたくしは殿下が魔法で曲げられていなかったことを知った。
今夜、曲は最後まで奏でられる。
広間の者はみな口を閉じ、立って聴いている。祝われる本人も、例外ではない。ルートヴィヒ殿下は、わたくしの前に立ったまま、背筋を伸ばして曲を聴いておられた。
わたくしは、自分の頭の上を見上げていた。
残りは、本当にひとつまみ。
10年、見上げてきた砂時計は、最後のひとつまみを残したまま消えた。わたくしは、自分の砂時計が最後まで落ちきるところを、一度も見たことがない。
今夜、はじめて見る。
曲が終わる。最後の和音が、長く尾を引いて、消えた。
大時計が、夜半の鐘を打ちはじめる。
ひとつ。ふたつ。
砂が、細くなる。
みっつ。よっつ。
6年前、鐘を数えながら、わたくしは死ぬのを待っていた。
いつつ。むっつ。
今夜は、何を待っているのだろう、と思う。
ななつ。やっつ。
わかっている。待っているのではない。見届けているのだ。6歳の男の子が立てた誓いが、18歳の男に守り通されるところを。
ここのつ。とお。
砂が、糸よりも細くなる。
じゅういち。
最後の一粒が、落ちた。
じゅうに。
頭の上が、ふっと軽くなった。
見上げる。
砂時計は、そこにあった。上の玉は空で、下の玉に6年分の砂が積もっている。消えたのではない。落ちきったのだ。
ひと呼吸ののち、硝子の胴が、内側から淡く光った。
光は金の枠を伝い、砂を伝い、やがて砂時計そのものが、光の粒になってほどけていく。燭台の火の粉のように、きらきらと。わたくしの頭の上から、天井の燭台の砂時計たちのあいだへ、昇っていく。
6年前の夜、ほどけた誓いの砂時計は、音もなく消えた。
果たされた誓いの砂時計は、こんなふうに消えるのだ。
知らなかった。誰も、教えてくれなかった。わたくしにしか見えないのだから、当たり前のことだけれど。
広間に、どよめきが広がる。神殿の神官が駆けこんできて、陛下の前に膝をついた。灯が、静かに燃え尽きた、と。消されたのではなく、燃え尽きた、と。
陛下が、ゆっくりとうなずかれた。
広間のあちこちで、拍手が起きる。
はじめはまばらに、やがて波のように。父が誰よりも大きな音で手を叩き、隣のユリウス殿下が、つられたように手を合わせた。ミーナは、料理番の袖で目元を拭っている。
わたくしは、自分の頭の上をもう一度見上げた。
何もない。
6年前の夜にも、同じものを見た。何もない頭の上。あのときは、まだ死ぬのだと思っていて、何もないことの意味がわからなかった。今夜は、わかる。
何もないのは、終わったからではない。果たされたからだ。
◇
「姉上」
ルートヴィヒ殿下が、振り返った。
わたくしの頭の上を見上げて、それから、わたくしの顔を見る。
「消えたのか」
「はい。光になって、昇っていきました」
「……そうか」
殿下は、長く息を吐いた。18年分の息のように聞こえた。
「では、もう誓いはない。姉上は、自由だ。どこへ行ってもいい。北へ帰っても、ゼーレンへ行っても」
「ゼーレンは、ご免こうむります」
殿下が、少しだけ笑う。
それから、何か言いかけて、やめた。もう一度、言いかけて、またやめる。耳が、赤い。6年前の神殿で、わたくしを振り返ったときと同じ赤さだった。
「エリシア」
はじめて、名を呼ばれた。
姉上ではなく。
「……これからは、そう呼んでもいいか」
わたくしは、少し考えた。
考えるふりをした、というほうが正しい。
「明日の予定を立ててから、お答えいたします」
殿下は、なぜか、ひどく嬉しそうな顔をした。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆様にお願いです
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪




