第28話
ルートヴィヒ殿下が、立ち上がっておられた。
6年前の大広間で、12歳の殿下が椅子を鳴らして立ち上がった。あのときと同じ音がする。違うのは、立ち上がった方の背丈と、向き合う相手。
リーベルト公爵ではない。父君である。
「父上」
殿下の声は、低く、落ち着いていた。
「その勅命は、お受けできません」
広間の誰かが、息を呑む音がした。
王太子が、満座の前で、王の勅命を拒む。この国の歴史で、そんなことがあったかどうか、わたくしは知らない。王妃教育の10年でも、教わらなかった。
「ルートヴィヒ」
陛下の声は、細いまま、少しも揺らがなかった。
「そなたは、王命に背くのか」
「背きます」
「なぜだ」
「私の誓いが、破れるからです」
「誓いが破れれば、王冠を失う。それが惜しいか」
殿下は、首を振った。
「王冠は、惜しくありません。兄上は王冠を失っても、北でちゃんと生きておられます。私も、たぶん生きていけます」
壁際で、ユリウス殿下が小さく咳払いをした。
「では、なぜ背く」
殿下は、少しのあいだ黙った。
わたくしは、膝を折ったまま、何も言わずにいた。言えば、わたくしが王命に逆らったことになる。わたくしが「出ていきません」と言えば、それで誓いは守られるのかもしれない。けれど、それでは意味がない。
陛下が見たいのは、わたくしではない。殿下だ。
6年前、成人の曲のあいだ、わたくしは黙って立っていた。黙っていなければならない理由があった。今夜も、同じ。
「6歳のとき」
殿下が、口を開いた。
「宮中の大人たちが、姉上を石ころと呼んで笑っていました。私は、それを止められなかった。止める力がなかったから、せめて誓いました。姉上が自分で出ていくと言うまで、誰にも追い出させない、と」
殿下は、陛下をまっすぐに見ている。
「その誰にも、の中に、父上が入っていないと、私は一度も思ったことがありません」
広間が、しんとした。
「父上が王で、私が王太子でも。父上が姉上を追い出すと仰るなら、私は止めます。止める力があるなら、止めなければなりません。6歳の私は、そのために誓ったのですから」
殿下は、ゆっくりと広間を横切り、わたくしの前まで来た。
わたくしと、陛下のあいだに立つ。
「衛兵の皆さんも、姉上に指一本触れないでください。王太子として、お願いします」
広間の衛兵たちは、誰ひとり動かなかった。王と王太子のあいだで、動きようがなかったのだろう。
宰相が、進み出た。6年前の冬、回廊でわたくしに12の村の話をした方である。今は、髪がすっかり白い。
「殿下。恐れながら、王命に背けば、殿下ご自身の名に傷がつきます。成人の夜に父王に逆らった王と、後々まで言われましょう」
「言われればいい」
殿下は、振り返らずに答えた。
「誓いを守るために父に逆らった王と、父に従って誓いを破った王と。後の人に、どちらで呼ばれたいかと聞かれたら、私は前のほうを選ぶ」
宰相は、しばらく殿下の背中を見ていた。それから、深く頭を下げて、もとの場所へ下がる。
壁際で、ユリウス殿下が腕を組んでいた。何も言わない。けれど、口の端がほんの少しだけ上がっているのが、わたくしには見えた。
長い沈黙が、落ちる。
窓の外で、夜の鳥が鳴いた。
陛下が、ふっと、息を吐かれた。
手にしていた羊皮紙を、侍従のほうへ差し出す。
「……下げよ」
侍従が、震える手で受け取った。
「それでよい」
陛下は、そうおっしゃって、玉座に身を沈められた。
「わしの父は、わしの誓いを試さなんだ。わしは、ユリウスの誓いを試して、間に合わなんだ。……せめて最後に、ひとつくらいは、見届けたかった」
殿下が、振り返る。
陛下は、目を閉じておられた。口元に、6年前の夜と同じ、肩を震わせる前の笑みが浮かんでいる。
「ルートヴィヒ。夜半まで、あとわずかだ。その娘の前から、どくでないぞ」
殿下は、わたくしの前に立ったまま、もう一度、父君に深く礼をした。
わたくしは、陛下の頭の上を見ていた。
砂は、まだ落ちている。夜明けに向かって、細く、細く。
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