第14話
夜の書庫には、誰もいなかった。
燭台を机に置き、ふたつの羊皮紙を並べる。ひとつは、30年前に結ばれた今の条約の写し。もうひとつは、今日の協議でゼーレンが差し出した改定案の写しである。
改定案の三条目は、伯の言ったとおりだった。ヘルム川の漁業権を、両国で折半する。文面に、おかしなところはない。
おかしなところがないから、おかしい。
わたくしは、一条目から読み直すことにした。
燭台の砂時計が、静かに砂を落としている。けれど、羊皮紙の上には何も乗っていない。インクに魔法はかかっていない。ここから先は、見える目は役に立たない。
頼れるのは、10年の王妃教育だけ。
一条目。両国の国境を定める条。
今の条約には、こうある。国境は、ヘルム川の流れの中央とする。
改定案には、こうある。国境は、ヘルム川とする。
一語、抜けているだけだった。
わたくしは、二条目の語の定め書きを開いた。改定案の末尾に、細かな字で付け足された一文がある。本条約において「川」とは、ゼーレン側の岸から測るものとする。
背筋が冷えた。
国境は川。川はゼーレンの岸から測る。読み合わせれば、国境は川のこちら側の岸になる。ヘルム川は、まるごとゼーレンのものになるのだ。
漁業権の折半など、目くらましもいいところ。川そのものを渡せば、漁の権利も、舟の通り道も、水も、ゼーレンが好きに決められる。半分を返すふりをして、全部を持っていく。
燭台の火が、少しだけ揺れた。
わたくしは長いこと、その一文を見つめていた。
◇
「ここだ」
翌朝、ルートヴィヒ殿下は改定案の写しを見るなり、一条目を指さした。
「中央の二文字が、ない」
わたくしが何も言わないうちに、である。
「末尾の定め書きと合わせれば、川がまるごと向こうのものになる。……姉上、昨夜これを見つけたのか」
「殿下も、今お見つけになりました」
「私は三条目ばかり見ていた。姉上の講義で、一条目から読めと言われていなければ、気づかなかった」
殿下は、写しを丸めて握りしめた。
「次の協議で、私が言う」
「わたくしからではなく、でございますか」
「姉上は、縁談の当人だ。姉上が言えば、嫁ぎたくないから難癖をつけていると言われる」
殿下は、12歳の顔で、ひどく大人びたことを言った。
わたくしは、黙って礼をした。
その日の講義は、条約ではなく、話し方の稽古。
どこから切り出すか。誰の顔を見て言うか。言い返されたら、どこまで引くか。殿下は何度も言い直し、何度もつかえる。12歳の喉には、大人の部屋は重すぎるのだ。
「姉上。もし、私が途中で言葉に詰まったら」
「詰まったら、写しを読み上げてくださいませ。書いてあることは、誰が読んでも同じ重さでございます」
殿下は、写しを胸に抱えてうなずいた。
◇
第二回の協議で、殿下はそのとおりになさった。
一条目の欠けた二文字と、末尾の定め書き。声は少し上ずっていたが、言うべきことを、言うべき順に、最後まで言い切った。部屋が、ざわめく。宰相が写しを取り寄せ、重臣たちが額を寄せ合った。
グレーヴェ伯は、少しも慌てなかった。
「これは、とんだ不手際を。書記の写し誤りにございましょう。すぐに改めさせます」
穏やかに頭を下げる。引き際まで、鮮やかな方だった。
そして、顔を上げた伯は、殿下ではなく、末席のわたくしに目を向けた。
「さすがは、ヴァルデン嬢の教え子でいらっしゃる。……ですが、陛下。この席には、文字ばかりか、魔法まで透かして読めるお方がおいでです。お隠しになっておられたようですが」
部屋が、静まり返る。
「ヴァルデン嬢は、魔法の切れる刻が見えるのです。頭の上に、砂時計のようなものとして」
伯は、わたくしの頭の少し上を、まっすぐに見ていた。
「そのような目をお持ちの方を、ただの教育係に置いておかれるのは、いかにも惜しい。両国の架け橋としてこそ、生かされるべきかと」
陛下が、わたくしのほうへ顔を向けられた。
「ヴァルデンの娘」
静かな声だった。
「まことか」




