第13話
部屋の空気が、わたくしの上に傾いた。
重臣たちが、互いに目を見交わしている。誰も、言葉にはしない。けれど、顔に書いてある。
――悪くない話ではないか。
30年、こちらの岸の漁師はゼーレンに税を払ってきた。娘ひとりの縁組で、それが半分になる。しかも、王太子の誓いは傷つかない。損をする者がひとりもいない、ように見える。
「お返事は、急ぎませぬ」
グレーヴェ伯は、穏やかに言った。
「調印は、ひと月後の冬至の日。それまでにお決めくだされば結構。……それと、陛下。友好の証に、こちらをお納めください」
護衛が、布をかけた台を運び入れた。
布の下から現れたのは、金の天秤。両の皿に細かな彫りの入った、大ぶりの品である。重臣たちの間から、感嘆の声が漏れた。
わたくしは、天秤の上を見ていた。
砂時計が乗っている。
両手で抱えるほどの、大きなもの。砂はたっぷりと詰まって、ゆっくり落ちはじめたばかり。ひと月は持つ量だろう。
使節団の誰ひとり、何の魔法もまとっていなかった。その使節団が持ちこんだ、ただひとつの魔法。
これ見よがしに、目の前に。
何の魔法なのかは、わからない。天秤に乗っている以上、天秤にかけた魔法なのだろう。呪いかもしれないし、毒かもしれない。陛下の御前に置かれる品なのだから、放ってはおけない。
けれど、ここで「その天秤には魔法がかかっています」と申し上げたら、どうなるか。
グレーヴェ伯の穏やかな目が、天秤ではなく、わたくしを見ている。
――ああ、そういうこと。
これは、釣り針だ。
わたくしが声を上げれば、見えていると自分で認めることになる。黙っていれば、天秤は陛下のおそばに置かれたまま、何かの魔法がひと月働き続ける。どちらに転んでも、伯は困らない。
わたくしは、口を閉じた。
天秤は、陛下の執務室に飾られることになる。
協議のあと、回廊で宰相に呼び止められた。
「ヴァルデン嬢。無理強いをするつもりは、毛頭ございませんが」
無理強いをする人は、たいていそう前置きをする。
「ヘルム川のこちらの岸には、漁で暮らす村が12ございます。30年、獲った魚の3割をゼーレンに納めてきた村々です。……それだけは、お心に留めておいていただきたい」
宰相は、深く礼をして去っていった。
嫌な方ではない、と思う。嫌な方なら、もっと楽だった。12の村の顔も知らないわたくしに、12の村の暮らしを差し出してくる。断れば、わたくしは村を見捨てた娘になる。
王冠の次は、川。わたくしはいつも、何かの重しにされる。
◇
「姉上は、行かないだろう」
その夕方、ルートヴィヒ殿下が言った。教育の間の窓辺で、こちらに背を向けたまま。
「行くとは、申しておりません」
「行かないとも、言っていない」
わたくしは、答えられなかった。
父は、その夜のうちに王都の屋敷へ乗りこんできた。「娘は売り物ではない」と叫び、ミーナに水を一杯もらってから、また叫ぶ。叫び疲れて帰っていく背中は、北の領地から駆けつけたあの日より、少し小さく見えた。
わたくし自身は、怒っていない。考えている。
話がよすぎる、ということを。
ゼーレンは、30年握ってきた川の権利を、半分手放すという。娘ひとりと引き換えに。わたくしの目がどれほど役に立つとしても、国境の川ひとつ分の値打ちが、本当にあるだろうか。
ない、とわたくしは思う。
ならば、ゼーレンが本当に手に入れようとしているのは、わたくしではない。わたくしは、目くらましだ。
天秤の砂時計と、同じように。
見えるものに目を向けさせて、見えないところで何かをする。あの夜、コレット様が痣と光の輪でやったのと、同じ手口。違うのは、相手がわたくしの目を知っていることだけ。
わたくしは燭台を手に取り、書庫の鍵を借りに立ち上がった。
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