第12話
知っている者は、ひとりしかいない。
あの夜、大広間で、わたくしの目がご自分の頭の上を見ていることに気づいた方。唇だけで「見えてるの」と言った方。
コレット・ミルフォード。
神殿の地下牢への立ち入りは、ルートヴィヒ殿下に頼んで許しをいただいた。殿下は理由を聞かなかった。聞かずに、許状に署名だけしてくださる。そういうところは、兄君に似ていない。
石段を降りるにつれて、空気が冷えていく。壁の灯りの上の砂時計は、ここだけ長く大きい。見張りが灯りをかけ直す手間を省くためだろう。
いちばん奥の牢に、桃色の髪があった。
3ヶ月で伸び放題になり、色も少しくすんでいる。けれど、こちらを見上げた目は、あの夜と同じように素早い。
「あら。石ころさま」
「お久しぶりです、コレット様」
「様、だって」
コレット様は、鉄格子の向こうで膝を抱えて笑った。
「何しに来たの。ざまあみろって言いに?」
「ゼーレンの方に、何をお話しになりました」
笑い声が、止まった。
しばらく、わたくしの顔を眺めている。それから、肩をすくめた。
「……ひと月くらい前かしら。神官の格好をした男が来たの。ここから出してやるから、あの夜のことを全部話せって」
「それで」
「全部話したわよ。あなたが、あたしの頭の上ばかり見てたこと。砂時計の砂が落ちるみたいに、魔法の切れる刻がわかってるみたいだったこと。……出してくれるって言ったのに、それきり来やしない」
コレット様は、格子を指で弾いた。
「騙されたのよ、あたし。騙す側だったのに」
わたくしは、黙って立っていた。
怒る気には、なれない。この人は、売れるものを売っただけ。崖っぷちで足を止めない人が、崖の底で手持ちの札を切った。それだけのことだ。
「ひとつ、教えてあげる」
帰りかけたわたくしの背に、声が飛んできた。
「あの男、あなたのことを『ほしい』って言ってたわ。邪魔だ、じゃなくて。ほしい、って」
振り返る。
コレット様は膝を抱えたまま、つまらなそうに天井を見ていた。
「お礼なら、ここの食事をもう少しましにして」
石段を上りながら、わたくしは考えていた。
グレーヴェ伯は、知っている。コレット様の話だけなら、牢の女の恨み言と笑い飛ばすこともできただろう。けれど伯は、それを確かめるために、使節団から魔法を一切取り除いてきた。わたくしが本当に見えるなら、見るものがなくて戸惑うはず。宴の夜、わたくしは戸惑い、伯はそれを見ていた。
確かめられてしまったのだ。
陛下に申し上げるべきか、とも考える。けれど、申し上げれば、見えると認めることになる。10年守ってきたものを、自分の口で手放すことになる。
石段の上に出ると、冬の陽がまぶしい。わたくしは、まだ決められずにいた。
◇
ゼーレンの「ほしい」の意味は、3日後にわかった。
条約更新の、第一回の協議の席である。陛下とルートヴィヒ殿下、宰相、重臣たちが居並ぶ前で、グレーヴェ伯が一通の書状を差し出した。わたくしは殿下の教育係として、末席に控えている。
「我が国の王弟、レオポルト殿下よりの親書にございます」
侍従が封を切り、読み上げる。
王弟殿下は、ヴァルデン侯爵家のエリシア嬢を妃に望む。この縁組が成るならば、ゼーレンは条約三条目を改め、ヘルム川の漁業権を両国の折半とすることに同意する。
部屋じゅうの目が、いっせいにわたくしへ向いた。
ルートヴィヒ殿下が、椅子の肘掛けを握りしめる音がする。
宰相が、咳払いをひとつした。
「……漁業権の折半。30年、どの使節も首を縦に振らなかった条件でございますな」
声に、隠しきれない色がにじんでいる。欲しかったものを目の前に置かれた者の声だ。
グレーヴェ伯は、穏やかに言葉を継いだ。
「ルートヴィヒ殿下の誓いは、我が国でも評判でございます。ご令嬢がご自分の意思で出ていくと仰るなら、誓いは破れず、果たされる」
伯は、わたくしに向かって、ゆっくりと頭を下げた。
「どなたも傷つかぬ、よいお話かと存じます」
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