第9話 身体を貸す代償
月曜日の放課後、倉橋監督は紅白戦のときと同じように、部員たちをグラウンド中央へ集めた。
「今日から、県大会を想定したメニューに切り替える」
監督の言葉で、部員たちの表情が引き締まる。
県大会まで、残り二か月を切っている。
これからは、ただ技術を伸ばすための練習ではない。
誰を試合で使うのか。
どの組み合わせで戦うのか。
その判断が、一回ごとの練習で積み重なっていく。
「最初は攻撃と守備に分かれて、ハーフコートでの実戦形式。攻撃側は六人、守備側はゴールキーパーを含めて七人」
倉橋監督が名前を読み上げる。
攻撃側には陽菜と私。
そして沙月も入っていた。
紅白戦のあと、監督は言った。
次の練習から、先発組でも試す。
その言葉どおり、私は沙月と同じ組で試されることになった。
胸の奥が落ち着かない。
うれしいはずだった。
けれど今は、沙月の隣に立つだけで、週末に見た映像を思い出す。
沙月をかわした私。
陽菜へパスを通した私。
迷わずシュートを打った私。
身体は私でも、プレーしたのは少年だった。
「藤崎」
真帆先輩に呼ばれ、顔を上げる。
「聞いてた?」
「はい」
「攻撃側は、中央に二人並べる。橘が少し低い位置。藤崎は一列前」
「分かりました」
「小野寺の動きを見落とさないで」
「はい」
少年は私の横で、配置を確認していた。
「お前が前で、橘が後ろか」
返事はしない。
部員たちが近くにいる。
「監督も、お前の攻撃を見たいんだろ」
分かっている。
だからこそ失敗できない。
「顔が固い」
少年が言う。
「前にも同じことを言ってましたね」
思わず小さく答えてしまった。
近くにいた陽菜が振り返る。
「美緒、何か言った?」
「独り言」
「最近増えてない?」
「考え事が多いだけ」
「試合中に考えすぎないでよ」
「分かってる」
陽菜は笑い、前線へ走っていった。
少年が私の顔をのぞき込む。
「気づかれるぞ」
「誰のせいですか」
「俺は普通に話してるだけだ」
「私にしか聞こえないのに、普通ではありません」
「今さらだろ」
言い返そうとしたところで、倉橋監督の笛が鳴った。
「始めるよ!」
◇
最初の攻撃。
沙月が後方からボールを受ける。
受ける前に、右。
次に左。
週末に見た映像のとおり、二度首を振っていた。
沙月はワンタッチで私へ縦パスを入れる。
私は相手のミッドフィルダーを背負いながら受けた。
右には陽菜。
左には味方のサイドハーフ。
相手のセンターバックは少し前へ出ている。
陽菜が背後へ走れば、通せる。
顔を上げる。
けれど陽菜は、まだ動いていなかった。
私は一度、沙月へ戻す。
「藤崎、前を向けたよ!」
倉橋監督の声が飛ぶ。
「はい!」
沙月は何も言わず、再びボールを受ける。
今度は反対側へ展開した。
攻撃は続いたものの、シュートまでは持ち込めない。
「今のは自分で運べた」
少年が隣から言う。
「相手が近かったです」
「背負ったまま一回外へ置けば、前を向けた」
「取られたら終わりです」
「取られないようにやるんだよ」
「簡単に言わないでください」
「週末に映像で見ただろ」
見た。
見たからこそ、自分と少年の違いが分かっている。
少年には、相手の重心が見えていた。
私には、それが分からない。
次の攻撃。
沙月からボールを受ける前に、私は右と左を確認した。
陽菜が相手ディフェンダーの外側にいる。
ボールが来る。
受けた瞬間、陽菜が内側へ走り込んだ。
今だ。
右足で縦へ出す。
けれど、相手の足に触れた。
ボールがこぼれる。
守備側が拾い、そのまま外へ運んだ。
「ごめん!」
私はすぐに戻る。
「今のは悪くない」
真帆先輩が守備から声をかけた。
「狙いは合ってた。次、もう少し早く」
「はい!」
怒られなかった。
失敗しても、次がある。
陽菜も振り返り、親指を立てている。
「次は通る!」
胸の奥に、少しだけ力が戻った。
「今の、よかったぞ」
少年も言う。
「取られましたけど」
「出すって決めたのは、お前だろ」
その言葉が、うれしかった。
週末に映像で見たものを、ほんの少しだけ使えた。
受ける前に周囲を見る。
陽菜が走ることを信じる。
結果は失敗でも、あれは私の判断だった。
次こそ。
そう思った。
◇
練習開始から二十分ほど経った。
何度かメンバーを入れ替えながら、実戦形式が続く。
私はまだ攻撃側に残されていた。
沙月は安定している。
ボールを失わない。
守備へ切り替えるのも速い。
決定的なパスこそないが、攻撃の流れを止めない。
対する私は、二度縦パスを失敗した。
一度は陽菜へ通ったものの、相手に追いつかれてシュートまでは行けなかった。
倉橋監督は何度もバインダーへ書き込んでいる。
何を書いているのかは分からない。
それでも、そのペン先が動くたびに胸がざわつく。
「気にしすぎだ」
少年が言う。
「気になります」
「一回の練習で全部決まらないだろ」
「でも、積み重ねで決まります」
「だったら、自分のプレーをしろ」
「しています」
「本当に?」
返事ができなかった。
紅白戦のあと、私は先発組で試すと言われた。
けれど、それは少年が出した結果のおかげだ。
このままでは、すぐに元の場所へ戻されるかもしれない。
監督が見たかったのは、沙月をかわした私だ。
陽菜へ完璧なパスを出した私だ。
今の私は、そこまでできていない。
「次、ラスト五分!」
倉橋監督が声を張る。
「攻撃側は一点を狙う! 守備側は奪ったら外のコーンまで運んで、攻撃を切って!」
部員たちの空気が変わる。
最後の五分。
結果が欲しい。
攻撃側がボールを回す。
私は中央で受ける。
相手がすぐに寄せてきた。
沙月へ戻す。
「前を向け!」
少年の声が飛ぶ。
沙月から再びボールが来る。
今度は身体を半分前へ向けて受けた。
目の前に一人。
右には陽菜。
でも、パスコースは切られている。
左へ出せば安全につながる。
けれど、それでは何も変わらない。
「仕掛けろ」
少年が言う。
私は右足でボールを前へ押し出した。
相手がついてくる。
もう一歩。
身体を入れられ、ボールを奪われた。
「あっ」
守備側が外のコーンへ運ぶ。
笛が鳴った。
「すぐ再開!」
倉橋監督の声。
私はその場で立ち止まった。
失敗した。
また監督の前で。
「今のは仕掛ける場所じゃなかった」
沙月が近くで言った。
責める声ではない。
「右が閉じてた。左へ出して、もう一回受け直せばよかった」
「分かってる」
強い声が出た。
沙月が少し目を見開く。
「……そう」
それだけ答え、位置へ戻った。
悪いことをした。
沙月は正しい。
私が焦っただけだ。
「美緒」
少年の声が聞こえる。
「何ですか」
「一回、落ち着け」
「仕掛けろって言ったのは蓮さんでしょう」
「でも、身体を入れられる前に外せた」
「私には無理です」
「無理じゃない」
「蓮さんならできるんでしょうね」
少年が黙る。
もう一度、ボールが入る。
私は沙月へ渡し、前へ走った。
けれど、足が重い。
身体ではなく、頭の中が。
何を選んでも遅れる気がする。
自分でやれば失敗する。
少年に任せれば結果が出る。
その考えが、一度浮かぶと消えなかった。
◇
再開後の攻撃。
残り時間は少ない。
相手も疲れている。
陽菜が右へ開く。
沙月が中央でボールを受けた。
私は相手ミッドフィルダーの背後へ移動する。
「藤崎!」
沙月から縦パスが入った。
受けた瞬間、相手が背中へ当たる。
ボールを守る。
右側で陽菜が動いた。
けれど、センターバックがついている。
左の味方も塞がれている。
自分で反転するしかない。
「行ける」
少年が言う。
「無理です」
「右へ見せて、左へ回れ」
「さっき失敗しました」
「今度は相手の重心が違う」
背中から押される。
ボールを奪われそうになる。
「早くしろ!」
結果が欲しい。
ここで奪われたくない。
「今だけ、身体を貸します」
周囲の声に紛れるほどの小さな声で告げた。
少年が息を呑む。
「待て。今は――」
「お願いします」
「美緒」
「この攻撃だけです」
少年は迷っていた。
私の同意がなければ、少年は身体へ入れない。
けれど、少年が応じなければ憑依は始まらない。
「蓮さんなら、ここから変えられるでしょう」
その言葉に、少年の表情が揺れた。
勝ちたい。
結果を出したい。
少年の中にも、同じ気持ちがある。
「……短い時間だけだ」
胸の奥に熱が広がる。
少年の輪郭が橙色の光に包まれ、私へ重なった。
視界が揺れる。
身体の重心が前へ移った。
『無理な動きはしないでください』
『分かってる』
少年は右肩をわずかに落とす。
背後の相手が右へ回り込もうとした。
その瞬間、左足でボールを引く。
身体を反転させる。
相手を抜いた。
「藤崎!」
真帆先輩の声が聞こえる。
前にスペースがある。
少年は迷わず運んだ。
陽菜が右側を走る。
センターバックが少年を止めるために前へ出る。
『陽菜へ』
『まだだ』
少年はさらに一歩進む。
ディフェンダーの足が伸びる直前、ボールを左へずらす。
相手の足が空を切った。
ペナルティーエリアの手前まで入る。
『打つ』
『陽菜が空いてます』
『キーパーが寄ってる。逆が空く』
少年は右足を振った。
シュートはキーパーの伸ばした手に触れ、左へ弾かれた。
陽菜が詰める。
けれど、ボールは一歩先を転がっていった。
「ああ!」
ゴールにはならない。
守備側がボールを外へ蹴り出す。
「まだ時間ある! 続けて!」
倉橋監督の声。
練習は終わっていない。
『今のは出した方がよかったです』
『シュートコースは空いてた』
『陽菜も空いてました』
『次は見る』
少年はすぐに守備へ切り替える。
相手がボールを運ぶ。
前に出て奪い返す。
左足で触れ、右へ運ぶ。
足元が少し揺れた。
『歩幅』
『分かってる』
けれど少年は速度を落とさない。
再び攻撃が始まる。
沙月が近づき、横に並んだ。
「一回預けて」
少年は答えない。
自分で前へ運ぶ。
「藤崎!」
沙月の声が強くなる。
それでも少年は止まらなかった。
相手が二人寄せてくる。
右へ切り返す。
一人目をかわす。
すぐに左へ切り返す。
足首の奥に、鈍い痛みが走った。
『痛い』
『もう少し』
『今、痛みました』
『分かってる。でも抜けた』
少年は前を向く。
ゴールまでは、あと少し。
ディフェンダーが身体を寄せてくる。
少年はボールを大きく前へ出した。
『歩幅が合いません!』
右足を伸ばす。
つま先が何とかボールへ届く。
しかし身体の軸が崩れた。
右足の裏が内側へ返る。
足首の外側に、鋭い痛みが走った。
『やめて!』
少年の動きが一瞬止まる。
その隙に相手がボールを奪った。
守備側が一気に外へ運ぶ。
追わなければならない。
少年は痛む足で踏み出した。
『戻ってください』
『奪い返す』
『戻って!』
『あと少しだ!』
頭の奥が強く脈打つ。
息が苦しい。
足が震えている。
それでも身体は走ろうとしていた。
『嫌です』
胸の奥から、少年を押し返す。
『美緒、待て!』
『もうやめて!』
身体の主導権を強く引き戻した。
橙色の光が弾ける。
少年の姿が私の横へ押し出された。
急に足元が崩れる。
「美緒!」
陽菜の声。
右足を地面へついた瞬間、再び痛みが走った。
身体を支えられず、その場へ倒れ込む。
笛が鳴った。
◇
「藤崎、動かないで」
倉橋監督がすぐに駆け寄ってきた。
真帆先輩と陽菜もそばにいる。
「どこ?」
「右の足首です」
「捻った?」
「たぶん……」
監督が慎重に足へ触れる。
外側を押された瞬間、痛みが広がった。
「痛っ」
「ここね」
倉橋監督は表情を変えず、足首の状態を確認する。
「大きく腫れてはいない。でも、今日は終わり」
「まだ練習が」
「終わり」
強い声だった。
「歩ける?」
「はい」
立ち上がろうとする。
右足へ体重をかけた瞬間、膝が揺れた。
「無理しない」
真帆先輩が肩を貸してくれる。
陽菜も反対側へ回った。
「ごめん」
「何で謝るの?」
「練習、止めたから」
「そんなのどうでもいいよ」
陽菜は私の足を見ながら、眉を寄せる。
「痛い?」
「少しだけ」
「嘘。顔に出てる」
少年は少し離れたところに立っていた。
さっきまで私の中にいたのに、今は何の痛みもない顔で。
けれど、その表情は青ざめているように見えた。
「保健室で冷やして。明日も痛みが残るなら病院へ行くこと」
倉橋監督が言う。
「はい」
「藤崎」
「何ですか?」
「さっきのプレー、どうして急に一人で行こうとしたの?」
胸が詰まった。
「得点したかったからです」
「それだけ?」
「……はい」
倉橋監督はすぐには答えなかった。
「紅白戦の後半以降、あなたの判断や動きが時々、大きく変わる」
陽菜がわずかに反応する。
沙月も少し離れた場所からこちらを見ている。
「思い切りが出た、と言えば聞こえはいい。でも、今のは判断の再現性がない」
「判断の、再現性」
「一度うまくいったプレーを、状況が違うのに無理に繰り返したように見えた」
何も言えない。
「良いプレーは、無理を繰り返すことじゃない」
倉橋監督は私の目を見る。
「怪我をしてまで結果を出そうとしたら、その次の試合には出られないよ」
「……はい」
「今日は休みなさい」
監督はそう言って、練習へ戻った。
真帆先輩と陽菜に支えられながら、私はグラウンドを離れる。
少年は黙ってついてきた。
◇
保健室で足首を冷やした。
腫れはひどくない。
歩くこともできる。
けれど足をひねると、外側に鋭い痛みが走る。
養護教諭から、今日は安静にするよう言われた。
帰る頃には、練習も終わっていた。
陽菜が私の鞄を持ってくれる。
「自分で持てるよ」
「足を痛めた人は黙ってて」
「腕は平気なんだけど」
「いいから」
陽菜は私の歩幅に合わせ、ゆっくり歩く。
少年は反対側にいる。
ずっと黙ったままだ。
「美緒」
校門を出たところで、陽菜が言った。
「今日も、あのときの美緒だった」
「何のこと?」
「紅白戦の後半」
足が止まりそうになる。
「急に目つきが変わって、一人で何人も抜こうとしてた」
「集中してただけだよ」
「前もそう言った」
陽菜の声は責めていなかった。
だからこそ、苦しかった。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫」
「足じゃなくて」
陽菜は私の顔を見る。
「最近の美緒、試合に出るためなら何でもしそうで、ちょっと怖い」
「何でもはしないよ」
「じゃあ、今日は何で止まらなかったの?」
答えられない。
止まろうとはした。
途中で痛いと伝えた。
けれど憑依を頼んだのは私だ。
この攻撃だけだと決めたのも私だ。
少年だけのせいにはできない。
「……焦っただけ」
「先発になりたいから?」
「うん」
「私も、美緒と試合に出たいよ」
陽菜は鞄の持ち手を握り直す。
「でも、怪我して出られなくなったら意味ないじゃん」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるよ」
少し強い声が出た。
陽菜が黙る。
「ごめん」
すぐに謝った。
「私も、ごめん」
「陽菜は悪くない」
「でも、言いすぎたかも」
「言ってることは合ってるから」
陽菜は少しだけ笑った。
「明日も痛かったら、ちゃんと病院へ行ってね」
「うん」
「隠したら怒るから」
「分かった」
駅まで陽菜と一緒に歩く。
別れるとき、陽菜は何度も振り返った。
その姿が見えなくなるまで、私は手を振った。
少年は一度も口を開かなかった。
◇
家へ帰ると、お姉ちゃんはまだ戻っていなかった。
私は玄関で靴を脱ぎ、壁へ手をつきながら階段を上る。
右足へ体重をかけるたび、痛みが残っている。
部屋へ入り、ベッドの端へ座った。
少年は扉の近くに立ったままだった。
「何か言ってください」
返事はない。
「さっきから、ずっと黙ってますよね」
「……何を言えばいい」
「知りません」
「俺も分からない」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
「また分からないんですか?」
「美緒」
「蓮さんは、いつもそうですね」
少年の眉が寄る。
「やるときは迷わないのに、終わったら分からないって言う」
「俺だけのせいじゃないだろ」
少年の声が強くなった。
「身体を貸すって言ったのはお前だ」
「分かっています」
「この攻撃だけって言ったのもお前だ」
「分かってる!」
「じゃあ、俺だけを責めるな」
「責めたくもなりますよ!」
私は右足を床へ下ろした。
わずかに体重がかかり、痛みが走る。
顔が歪んだ。
少年が反射的に近づく。
「動かすな」
「触れないくせに」
「美緒」
「蓮さんはいいですよね」
言葉が止まらなくなった。
「憑依が終わったら、何も残らないから」
「俺だって、痛みは感じた」
「その瞬間だけでしょう」
「痛かったのは分かってる」
「違う」
私は少年を見る。
「痛いのは私だけなんだよ」
少年が息を止める。
「あなたは終わったら何も残らないかもしれないけど、私は明日もこの身体でプレーするの」
声が震えた。
「明日も痛かったら練習できない。治らなかったら試合にも出られない。先発になるどころか、ベンチにも入れないかもしれない」
「そこまでひどくないだろ」
「どうして蓮さんに分かるんですか?」
「腫れてないって言われた」
「腫れてなければ何をしてもいいんですか?」
「そうは言ってない」
「言ってるのと同じです」
少年の表情が険しくなる。
「勝ちたいって言ったのはお前だろ」
「だから、無理をしていいとは言ってません」
「短い時間だけって言った」
「途中で痛いって言いました」
「あと少しで抜けられた」
「それで怪我をしたら意味がないでしょう!」
「だから、俺だけのせいにするな!」
「私だけのせいにも、しないでください!」
部屋に声が響く。
二人とも黙った。
呼吸が苦しい。
練習中の疲労が、まだ身体に残っている。
頭の奥も重い。
足首だけではない。
憑依していた時間のすべてが、私の身体に残っていた。
少年は拳を握りしめている。
「俺は」
低い声だった。
「結果を出したかった」
「私もです」
「お前を先発にしたかった」
「私もなりたかった」
「だったら――」
「でも、これは私の身体です」
少年の言葉を遮った。
「私の明日も、その次の日も、全部この身体で続くんです」
少年は何も言わない。
「蓮さんにとっては、憑依している間だけかもしれない。でも、私にとっては終わったあとも続くんです」
右足を両手で抱える。
動かさなくても、鈍い痛みが残っていた。
「そのことを、蓮さんは考えてなかった」
「……考えてた」
「本当に?」
「歩幅も、筋力も合わせようとした」
「それでも止まらなかった」
「勝てると思ったからだ」
「だから、それが無責任なんです」
少年の顔が歪んだ。
怒りではなかった。
傷ついたような表情だった。
「無責任って」
「そうでしょう」
「お前が頼んだのに」
「頼まれたら、何をしてもいいんですか?」
「そんなことは言ってない」
「だったら、痛いって言ったときに止まってください」
少年は唇をかみしめた。
返事はなかった。
私もそれ以上、言えなくなった。
部屋の中が静かになる。
外から、車の走る音が聞こえた。
◇
翌朝、足首の痛みは残っていた。
歩けないほどではない。
けれど、階段を下りるときに足をひねると痛む。
お姉ちゃんには、練習中に足を捻ったと説明した。
学校へ遅刻する連絡を入れ、朝一番でお姉ちゃんに整形外科へ連れていかれた。
診断は軽い捻挫。
骨には異常がなかったものの、数日間は運動を控えるように言われた。
足首には薄いサポーターが巻かれている。
大きな怪我ではなかった。
それでも、今日の練習には参加できない。
「痛みが強くなったら、すぐに連絡してね」
病院を出たところで、お姉ちゃんが言った。
「うん」
「学校も休んでいいんだよ」
「授業は受けられるから大丈夫」
「部活は?」
「今日は見学する」
「絶対に動いちゃ駄目だからね」
「分かってる」
お姉ちゃんは心配そうに私の足を見る。
「無理しちゃ駄目だよ」
「うん」
診察を終え、お姉ちゃんと別れてから学校へ向かった。
少年は少し離れたところに立っていた。
昨日から、ほとんど話していない。
学校へ向かう途中も、私の少し後ろを歩いていた。
足音はしない。
いつもなら一方的に話しかけてくるのに、今日は何も聞こえない。
学校へ着き、教室に入る。
授業中も少年は窓の外を見ていた。
昼休み、陽菜が私の席へ来る。
「足、どうだった?」
「軽い捻挫。数日間は運動禁止」
「大きな怪我じゃなくてよかった」
「うん」
「今日は見学だね」
「そうみたい」
「焦らないで休んで」
「分かってる」
「顔は納得してない」
「練習したいから」
「だから休むの」
陽菜は私の額を指で軽く押した。
「痛っ」
「足じゃないから平気」
「そういう問題じゃないでしょう」
陽菜が笑う。
その笑顔に、少しだけ救われた。
◇
放課後、私は倉橋監督へ診断結果を伝えた。
「軽い捻挫で、数日間は運動を控えるように言われました」
「分かった。今日は見学」
「はい」
「痛みが引いても、自己判断では戻らないこと。病院で言われた期間は守りなさい」
「分かりました」
私はグラウンドの外へ座り、足首を休ませた。
目の前では、部員たちが練習している。
沙月が攻撃的ミッドフィルダーに入っていた。
陽菜が裏へ走る。
沙月が迷わず縦パスを出す。
陽菜が受け、そのままシュートを打った。
ゴールにはならなかった。
けれど攻撃は続いている。
私がいなくても。
胸の奥が痛む。
「見てられないか?」
少年が初めて口を開いた。
「見ます」
「無理しなくていい」
「練習できないなら、見るしかありません」
少年は私の横へ立つ。
少し間を空けて。
「昨日は」
少年が言う。
「止まるべきだった」
サポーターの上へ置いていた手が止まる。
「痛いって言われたときに」
私は少年を見なかった。
「そうですね」
「でも、勝てると思った」
「聞きました」
「それしか見えてなかった」
目の前では、沙月がボールを受けている。
右を確認し、左へ展開する。
目立つプレーではない。
それでも攻撃をつないでいる。
「週末に映像を見て、分かったつもりになってた」
少年の声が続く。
「一人で決めるだけじゃないって」
「……はい」
「でも、身体に入ったら、また同じだった」
少年は自分の右手を見る。
「ボールを持ったら、自分で何とかしたくなった」
「蓮さんらしいですね」
「褒めてないだろ」
「褒めてません」
少年は少しだけ笑い、すぐに表情を戻した。
「俺には、終わったあとがない」
その言葉に、私は顔を上げた。
「憑依が終われば、痛みも疲れもなくなる。だから、分かってるつもりでも、本当には分かってなかった」
少年は私の足首を見る。
「お前が今日もこの足で歩くことも。練習できずに、ここから見てることも」
私は何も言えなかった。
「悪かった」
少年が言う。
言い訳のない、短い言葉だった。
すぐに許せたわけではない。
足首はまだ痛み、練習している仲間を見ているだけで焦りが募る。
それでも、少年が初めて「終わったあと」を見ようとしていることは分かった。
「……私も」
「何が?」
「結果が欲しくて、身体を貸しました」
足首に触れる指先へ、サポーターの感触が伝わる。
「蓮さんなら何とかしてくれるって思った」
「俺なら、か」
「はい」
「それで怪我した」
「二人で、です」
少年が私を見る。
「私が頼んで、蓮さんが止まらなかった。どちらかだけのせいではありません」
「でも、身体はお前のだ」
「そうです」
私ははっきり答えた。
「だから、次からは私が決めます」
「憑依するかどうかを?」
「それだけじゃありません」
グラウンドでは、陽菜が再び走っている。
沙月がパスを出す。
「勝つための便利な力みたいには使いません」
少年は黙って聞いている。
「結果が欲しいからって、全部任せるのはやめます」
「……分かった」
「蓮さんも、勝てそうだからって続けないでください」
「ああ」
「私が痛いと言ったら、すぐ止まってください」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
少年はまっすぐ私を見る。
「お前の身体を借りてることを忘れない」
その言葉は、昨日までとは違って聞こえた。
「約束ですよ」
「ああ」
「破ったら、二度と貸しません」
「分かってるって」
「蓮さんは勝負になると忘れそうなので」
「お前もな」
「私は忘れません」
「昨日忘れたばかりだろ」
言い返せなかった。
少年の口元が少しだけ緩む。
私も小さく息を吐いた。
問題が全部解決したわけではない。
足首の痛みも消えていない。
先発争いは、私が休んでいる間も続いている。
それでも、昨日までと同じではなかった。
憑依すれば、結果を出せる。
そう思っていた。
けれど借りた力には、終わったあとがある。
残る痛みも。
失う練習時間も。
責任も。
すべて、私の身体と人生へ返ってくる。
「藤崎」
倉橋監督に呼ばれた。
「はい」
「今日の練習を見て、気づいたことを書いておいて」
「分かりました」
監督はグラウンドへ戻る。
私は鞄からノートを取り出した。
「何を書くんだ?」
少年がのぞき込む。
「今、見えていることです」
沙月の首の動き。
陽菜が走り出すタイミング。
味方がボールに触れなくても作っている空間。
週末に少年と見た未来のサッカー。
自分がピッチの中にいないからこそ、見えるものがあった。
私はペンを動かす。
少年は何も言わず、私の隣でグラウンドを見つめていた。
この力を、もう使わないわけではない。
使えなくなったわけでもない。
ただ、次に身体を貸すときは、勝ちたいという気持ちだけで決めてはいけない。
私の身体で。
私の明日を使ってプレーするのだから。
そう決めたはずなのに、先発争いから置いていかれる怖さまでは消えてくれなかった。




