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夢を諦めた君のスパイクから、十七歳の君が現れた  作者: situ725


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9/17

第9話 身体を貸す代償

 月曜日の放課後、倉橋監督は紅白戦のときと同じように、部員たちをグラウンド中央へ集めた。


「今日から、県大会を想定したメニューに切り替える」


 監督の言葉で、部員たちの表情が引き締まる。


 県大会まで、残り二か月を切っている。


 これからは、ただ技術を伸ばすための練習ではない。


 誰を試合で使うのか。


 どの組み合わせで戦うのか。


 その判断が、一回ごとの練習で積み重なっていく。


「最初は攻撃と守備に分かれて、ハーフコートでの実戦形式。攻撃側は六人、守備側はゴールキーパーを含めて七人」


 倉橋監督が名前を読み上げる。


 攻撃側には陽菜と私。


 そして沙月も入っていた。


 紅白戦のあと、監督は言った。


 次の練習から、先発組でも試す。


 その言葉どおり、私は沙月と同じ組で試されることになった。


 胸の奥が落ち着かない。


 うれしいはずだった。


 けれど今は、沙月の隣に立つだけで、週末に見た映像を思い出す。


 沙月をかわした私。


 陽菜へパスを通した私。


 迷わずシュートを打った私。


 身体は私でも、プレーしたのは少年だった。


「藤崎」


 真帆先輩に呼ばれ、顔を上げる。


「聞いてた?」


「はい」


「攻撃側は、中央に二人並べる。橘が少し低い位置。藤崎は一列前」


「分かりました」


「小野寺の動きを見落とさないで」


「はい」


 少年は私の横で、配置を確認していた。


「お前が前で、橘が後ろか」


 返事はしない。


 部員たちが近くにいる。


「監督も、お前の攻撃を見たいんだろ」


 分かっている。


 だからこそ失敗できない。


「顔が固い」


 少年が言う。


「前にも同じことを言ってましたね」


 思わず小さく答えてしまった。


 近くにいた陽菜が振り返る。


「美緒、何か言った?」


「独り言」


「最近増えてない?」


「考え事が多いだけ」


「試合中に考えすぎないでよ」


「分かってる」


 陽菜は笑い、前線へ走っていった。


 少年が私の顔をのぞき込む。


「気づかれるぞ」


「誰のせいですか」


「俺は普通に話してるだけだ」


「私にしか聞こえないのに、普通ではありません」


「今さらだろ」


 言い返そうとしたところで、倉橋監督の笛が鳴った。


「始めるよ!」


     ◇


 最初の攻撃。


 沙月が後方からボールを受ける。


 受ける前に、右。


 次に左。


 週末に見た映像のとおり、二度首を振っていた。


 沙月はワンタッチで私へ縦パスを入れる。


 私は相手のミッドフィルダーを背負いながら受けた。


 右には陽菜。


 左には味方のサイドハーフ。


 相手のセンターバックは少し前へ出ている。


 陽菜が背後へ走れば、通せる。


 顔を上げる。


 けれど陽菜は、まだ動いていなかった。


 私は一度、沙月へ戻す。


「藤崎、前を向けたよ!」


 倉橋監督の声が飛ぶ。


「はい!」


 沙月は何も言わず、再びボールを受ける。


 今度は反対側へ展開した。


 攻撃は続いたものの、シュートまでは持ち込めない。


「今のは自分で運べた」


 少年が隣から言う。


「相手が近かったです」


「背負ったまま一回外へ置けば、前を向けた」


「取られたら終わりです」


「取られないようにやるんだよ」


「簡単に言わないでください」


「週末に映像で見ただろ」


 見た。


 見たからこそ、自分と少年の違いが分かっている。


 少年には、相手の重心が見えていた。


 私には、それが分からない。


 次の攻撃。


 沙月からボールを受ける前に、私は右と左を確認した。


 陽菜が相手ディフェンダーの外側にいる。


 ボールが来る。


 受けた瞬間、陽菜が内側へ走り込んだ。


 今だ。


 右足で縦へ出す。


 けれど、相手の足に触れた。


 ボールがこぼれる。


 守備側が拾い、そのまま外へ運んだ。


「ごめん!」


 私はすぐに戻る。


「今のは悪くない」


 真帆先輩が守備から声をかけた。


「狙いは合ってた。次、もう少し早く」


「はい!」


 怒られなかった。


 失敗しても、次がある。


 陽菜も振り返り、親指を立てている。


「次は通る!」


 胸の奥に、少しだけ力が戻った。


「今の、よかったぞ」


 少年も言う。


「取られましたけど」


「出すって決めたのは、お前だろ」


 その言葉が、うれしかった。


 週末に映像で見たものを、ほんの少しだけ使えた。


 受ける前に周囲を見る。


 陽菜が走ることを信じる。


 結果は失敗でも、あれは私の判断だった。


 次こそ。


 そう思った。


     ◇


 練習開始から二十分ほど経った。


 何度かメンバーを入れ替えながら、実戦形式が続く。


 私はまだ攻撃側に残されていた。


 沙月は安定している。


 ボールを失わない。


 守備へ切り替えるのも速い。


 決定的なパスこそないが、攻撃の流れを止めない。


 対する私は、二度縦パスを失敗した。


 一度は陽菜へ通ったものの、相手に追いつかれてシュートまでは行けなかった。


 倉橋監督は何度もバインダーへ書き込んでいる。


 何を書いているのかは分からない。


 それでも、そのペン先が動くたびに胸がざわつく。


「気にしすぎだ」


 少年が言う。


「気になります」


「一回の練習で全部決まらないだろ」


「でも、積み重ねで決まります」


「だったら、自分のプレーをしろ」


「しています」


「本当に?」


 返事ができなかった。


 紅白戦のあと、私は先発組で試すと言われた。


 けれど、それは少年が出した結果のおかげだ。


 このままでは、すぐに元の場所へ戻されるかもしれない。


 監督が見たかったのは、沙月をかわした私だ。


 陽菜へ完璧なパスを出した私だ。


 今の私は、そこまでできていない。


「次、ラスト五分!」


 倉橋監督が声を張る。


「攻撃側は一点を狙う! 守備側は奪ったら外のコーンまで運んで、攻撃を切って!」


 部員たちの空気が変わる。


 最後の五分。


 結果が欲しい。


 攻撃側がボールを回す。


 私は中央で受ける。


 相手がすぐに寄せてきた。


 沙月へ戻す。


「前を向け!」


 少年の声が飛ぶ。


 沙月から再びボールが来る。


 今度は身体を半分前へ向けて受けた。


 目の前に一人。


 右には陽菜。


 でも、パスコースは切られている。


 左へ出せば安全につながる。


 けれど、それでは何も変わらない。


「仕掛けろ」


 少年が言う。


 私は右足でボールを前へ押し出した。


 相手がついてくる。


 もう一歩。


 身体を入れられ、ボールを奪われた。


「あっ」


 守備側が外のコーンへ運ぶ。


 笛が鳴った。


「すぐ再開!」


 倉橋監督の声。


 私はその場で立ち止まった。


 失敗した。


 また監督の前で。


「今のは仕掛ける場所じゃなかった」


 沙月が近くで言った。


 責める声ではない。


「右が閉じてた。左へ出して、もう一回受け直せばよかった」


「分かってる」


 強い声が出た。


 沙月が少し目を見開く。


「……そう」


 それだけ答え、位置へ戻った。


 悪いことをした。


 沙月は正しい。


 私が焦っただけだ。


「美緒」


 少年の声が聞こえる。


「何ですか」


「一回、落ち着け」


「仕掛けろって言ったのは蓮さんでしょう」


「でも、身体を入れられる前に外せた」


「私には無理です」


「無理じゃない」


「蓮さんならできるんでしょうね」


 少年が黙る。


 もう一度、ボールが入る。


 私は沙月へ渡し、前へ走った。


 けれど、足が重い。


 身体ではなく、頭の中が。


 何を選んでも遅れる気がする。


 自分でやれば失敗する。


 少年に任せれば結果が出る。


 その考えが、一度浮かぶと消えなかった。


     ◇


 再開後の攻撃。


 残り時間は少ない。


 相手も疲れている。


 陽菜が右へ開く。


 沙月が中央でボールを受けた。


 私は相手ミッドフィルダーの背後へ移動する。


「藤崎!」


 沙月から縦パスが入った。


 受けた瞬間、相手が背中へ当たる。


 ボールを守る。


 右側で陽菜が動いた。


 けれど、センターバックがついている。


 左の味方も塞がれている。


 自分で反転するしかない。


「行ける」


 少年が言う。


「無理です」


「右へ見せて、左へ回れ」


「さっき失敗しました」


「今度は相手の重心が違う」


 背中から押される。


 ボールを奪われそうになる。


「早くしろ!」


 結果が欲しい。


 ここで奪われたくない。


「今だけ、身体を貸します」


 周囲の声に紛れるほどの小さな声で告げた。


 少年が息を呑む。


「待て。今は――」


「お願いします」


「美緒」


「この攻撃だけです」


 少年は迷っていた。


 私の同意がなければ、少年は身体へ入れない。


 けれど、少年が応じなければ憑依は始まらない。


「蓮さんなら、ここから変えられるでしょう」


 その言葉に、少年の表情が揺れた。


 勝ちたい。


 結果を出したい。


 少年の中にも、同じ気持ちがある。


「……短い時間だけだ」


 胸の奥に熱が広がる。


 少年の輪郭が橙色の光に包まれ、私へ重なった。


 視界が揺れる。


 身体の重心が前へ移った。


『無理な動きはしないでください』


『分かってる』


 少年は右肩をわずかに落とす。


 背後の相手が右へ回り込もうとした。


 その瞬間、左足でボールを引く。


 身体を反転させる。


 相手を抜いた。


「藤崎!」


 真帆先輩の声が聞こえる。


 前にスペースがある。


 少年は迷わず運んだ。


 陽菜が右側を走る。


 センターバックが少年を止めるために前へ出る。


『陽菜へ』


『まだだ』


 少年はさらに一歩進む。


 ディフェンダーの足が伸びる直前、ボールを左へずらす。


 相手の足が空を切った。


 ペナルティーエリアの手前まで入る。


『打つ』


『陽菜が空いてます』


『キーパーが寄ってる。逆が空く』


 少年は右足を振った。


 シュートはキーパーの伸ばした手に触れ、左へ弾かれた。


 陽菜が詰める。


 けれど、ボールは一歩先を転がっていった。


「ああ!」


 ゴールにはならない。


 守備側がボールを外へ蹴り出す。


「まだ時間ある! 続けて!」


 倉橋監督の声。


 練習は終わっていない。


『今のは出した方がよかったです』


『シュートコースは空いてた』


『陽菜も空いてました』


『次は見る』


 少年はすぐに守備へ切り替える。


 相手がボールを運ぶ。


 前に出て奪い返す。


 左足で触れ、右へ運ぶ。


 足元が少し揺れた。


『歩幅』


『分かってる』


 けれど少年は速度を落とさない。


 再び攻撃が始まる。


 沙月が近づき、横に並んだ。


「一回預けて」


 少年は答えない。


 自分で前へ運ぶ。


「藤崎!」


 沙月の声が強くなる。


 それでも少年は止まらなかった。


 相手が二人寄せてくる。


 右へ切り返す。


 一人目をかわす。


 すぐに左へ切り返す。


 足首の奥に、鈍い痛みが走った。


『痛い』


『もう少し』


『今、痛みました』


『分かってる。でも抜けた』


 少年は前を向く。


 ゴールまでは、あと少し。


 ディフェンダーが身体を寄せてくる。


 少年はボールを大きく前へ出した。


『歩幅が合いません!』


 右足を伸ばす。


 つま先が何とかボールへ届く。


 しかし身体の軸が崩れた。


 右足の裏が内側へ返る。


 足首の外側に、鋭い痛みが走った。


『やめて!』


 少年の動きが一瞬止まる。


 その隙に相手がボールを奪った。


 守備側が一気に外へ運ぶ。


 追わなければならない。


 少年は痛む足で踏み出した。


『戻ってください』


『奪い返す』


『戻って!』


『あと少しだ!』


 頭の奥が強く脈打つ。


 息が苦しい。


 足が震えている。


 それでも身体は走ろうとしていた。


『嫌です』


 胸の奥から、少年を押し返す。


『美緒、待て!』


『もうやめて!』


 身体の主導権を強く引き戻した。


 橙色の光が弾ける。


 少年の姿が私の横へ押し出された。


 急に足元が崩れる。


「美緒!」


 陽菜の声。


 右足を地面へついた瞬間、再び痛みが走った。


 身体を支えられず、その場へ倒れ込む。


 笛が鳴った。


     ◇


「藤崎、動かないで」


 倉橋監督がすぐに駆け寄ってきた。


 真帆先輩と陽菜もそばにいる。


「どこ?」


「右の足首です」


「捻った?」


「たぶん……」


 監督が慎重に足へ触れる。


 外側を押された瞬間、痛みが広がった。


「痛っ」


「ここね」


 倉橋監督は表情を変えず、足首の状態を確認する。


「大きく腫れてはいない。でも、今日は終わり」


「まだ練習が」


「終わり」


 強い声だった。


「歩ける?」


「はい」


 立ち上がろうとする。


 右足へ体重をかけた瞬間、膝が揺れた。


「無理しない」


 真帆先輩が肩を貸してくれる。


 陽菜も反対側へ回った。


「ごめん」


「何で謝るの?」


「練習、止めたから」


「そんなのどうでもいいよ」


 陽菜は私の足を見ながら、眉を寄せる。


「痛い?」


「少しだけ」


「嘘。顔に出てる」


 少年は少し離れたところに立っていた。


 さっきまで私の中にいたのに、今は何の痛みもない顔で。


 けれど、その表情は青ざめているように見えた。


「保健室で冷やして。明日も痛みが残るなら病院へ行くこと」


 倉橋監督が言う。


「はい」


「藤崎」


「何ですか?」


「さっきのプレー、どうして急に一人で行こうとしたの?」


 胸が詰まった。


「得点したかったからです」


「それだけ?」


「……はい」


 倉橋監督はすぐには答えなかった。


「紅白戦の後半以降、あなたの判断や動きが時々、大きく変わる」


 陽菜がわずかに反応する。


 沙月も少し離れた場所からこちらを見ている。


「思い切りが出た、と言えば聞こえはいい。でも、今のは判断の再現性がない」


「判断の、再現性」


「一度うまくいったプレーを、状況が違うのに無理に繰り返したように見えた」


 何も言えない。


「良いプレーは、無理を繰り返すことじゃない」


 倉橋監督は私の目を見る。


「怪我をしてまで結果を出そうとしたら、その次の試合には出られないよ」


「……はい」


「今日は休みなさい」


 監督はそう言って、練習へ戻った。


 真帆先輩と陽菜に支えられながら、私はグラウンドを離れる。


 少年は黙ってついてきた。


     ◇


 保健室で足首を冷やした。


 腫れはひどくない。


 歩くこともできる。


 けれど足をひねると、外側に鋭い痛みが走る。


 養護教諭から、今日は安静にするよう言われた。


 帰る頃には、練習も終わっていた。


 陽菜が私の鞄を持ってくれる。


「自分で持てるよ」


「足を痛めた人は黙ってて」


「腕は平気なんだけど」


「いいから」


 陽菜は私の歩幅に合わせ、ゆっくり歩く。


 少年は反対側にいる。


 ずっと黙ったままだ。


「美緒」


 校門を出たところで、陽菜が言った。


「今日も、あのときの美緒だった」


「何のこと?」


「紅白戦の後半」


 足が止まりそうになる。


「急に目つきが変わって、一人で何人も抜こうとしてた」


「集中してただけだよ」


「前もそう言った」


 陽菜の声は責めていなかった。


 だからこそ、苦しかった。


「本当に大丈夫?」


「大丈夫」


「足じゃなくて」


 陽菜は私の顔を見る。


「最近の美緒、試合に出るためなら何でもしそうで、ちょっと怖い」


「何でもはしないよ」


「じゃあ、今日は何で止まらなかったの?」


 答えられない。


 止まろうとはした。


 途中で痛いと伝えた。


 けれど憑依を頼んだのは私だ。


 この攻撃だけだと決めたのも私だ。


 少年だけのせいにはできない。


「……焦っただけ」


「先発になりたいから?」


「うん」


「私も、美緒と試合に出たいよ」


 陽菜は鞄の持ち手を握り直す。


「でも、怪我して出られなくなったら意味ないじゃん」


「分かってる」


「本当に?」


「分かってるよ」


 少し強い声が出た。


 陽菜が黙る。


「ごめん」


 すぐに謝った。


「私も、ごめん」


「陽菜は悪くない」


「でも、言いすぎたかも」


「言ってることは合ってるから」


 陽菜は少しだけ笑った。


「明日も痛かったら、ちゃんと病院へ行ってね」


「うん」


「隠したら怒るから」


「分かった」


 駅まで陽菜と一緒に歩く。


 別れるとき、陽菜は何度も振り返った。


 その姿が見えなくなるまで、私は手を振った。


 少年は一度も口を開かなかった。


     ◇


 家へ帰ると、お姉ちゃんはまだ戻っていなかった。


 私は玄関で靴を脱ぎ、壁へ手をつきながら階段を上る。


 右足へ体重をかけるたび、痛みが残っている。


 部屋へ入り、ベッドの端へ座った。


 少年は扉の近くに立ったままだった。


「何か言ってください」


 返事はない。


「さっきから、ずっと黙ってますよね」


「……何を言えばいい」


「知りません」


「俺も分からない」


 その言葉に、胸の奥が熱くなる。


「また分からないんですか?」


「美緒」


「蓮さんは、いつもそうですね」


 少年の眉が寄る。


「やるときは迷わないのに、終わったら分からないって言う」


「俺だけのせいじゃないだろ」


 少年の声が強くなった。


「身体を貸すって言ったのはお前だ」


「分かっています」


「この攻撃だけって言ったのもお前だ」


「分かってる!」


「じゃあ、俺だけを責めるな」


「責めたくもなりますよ!」


 私は右足を床へ下ろした。


 わずかに体重がかかり、痛みが走る。


 顔が歪んだ。


 少年が反射的に近づく。


「動かすな」


「触れないくせに」


「美緒」


「蓮さんはいいですよね」


 言葉が止まらなくなった。


「憑依が終わったら、何も残らないから」


「俺だって、痛みは感じた」


「その瞬間だけでしょう」


「痛かったのは分かってる」


「違う」


 私は少年を見る。


「痛いのは私だけなんだよ」


 少年が息を止める。


「あなたは終わったら何も残らないかもしれないけど、私は明日もこの身体でプレーするの」


 声が震えた。


「明日も痛かったら練習できない。治らなかったら試合にも出られない。先発になるどころか、ベンチにも入れないかもしれない」


「そこまでひどくないだろ」


「どうして蓮さんに分かるんですか?」


「腫れてないって言われた」


「腫れてなければ何をしてもいいんですか?」


「そうは言ってない」


「言ってるのと同じです」


 少年の表情が険しくなる。


「勝ちたいって言ったのはお前だろ」


「だから、無理をしていいとは言ってません」


「短い時間だけって言った」


「途中で痛いって言いました」


「あと少しで抜けられた」


「それで怪我をしたら意味がないでしょう!」


「だから、俺だけのせいにするな!」


「私だけのせいにも、しないでください!」


 部屋に声が響く。


 二人とも黙った。


 呼吸が苦しい。


 練習中の疲労が、まだ身体に残っている。


 頭の奥も重い。


 足首だけではない。


 憑依していた時間のすべてが、私の身体に残っていた。


 少年は拳を握りしめている。


「俺は」


 低い声だった。


「結果を出したかった」


「私もです」


「お前を先発にしたかった」


「私もなりたかった」


「だったら――」


「でも、これは私の身体です」


 少年の言葉を遮った。


「私の明日も、その次の日も、全部この身体で続くんです」


 少年は何も言わない。


「蓮さんにとっては、憑依している間だけかもしれない。でも、私にとっては終わったあとも続くんです」


 右足を両手で抱える。


 動かさなくても、鈍い痛みが残っていた。


「そのことを、蓮さんは考えてなかった」


「……考えてた」


「本当に?」


「歩幅も、筋力も合わせようとした」


「それでも止まらなかった」


「勝てると思ったからだ」


「だから、それが無責任なんです」


 少年の顔が歪んだ。


 怒りではなかった。


 傷ついたような表情だった。


「無責任って」


「そうでしょう」


「お前が頼んだのに」


「頼まれたら、何をしてもいいんですか?」


「そんなことは言ってない」


「だったら、痛いって言ったときに止まってください」


 少年は唇をかみしめた。


 返事はなかった。


 私もそれ以上、言えなくなった。


 部屋の中が静かになる。


 外から、車の走る音が聞こえた。


     ◇


 翌朝、足首の痛みは残っていた。


 歩けないほどではない。


 けれど、階段を下りるときに足をひねると痛む。


 お姉ちゃんには、練習中に足を捻ったと説明した。


 学校へ遅刻する連絡を入れ、朝一番でお姉ちゃんに整形外科へ連れていかれた。


 診断は軽い捻挫。


 骨には異常がなかったものの、数日間は運動を控えるように言われた。


 足首には薄いサポーターが巻かれている。


 大きな怪我ではなかった。


 それでも、今日の練習には参加できない。


「痛みが強くなったら、すぐに連絡してね」


 病院を出たところで、お姉ちゃんが言った。


「うん」


「学校も休んでいいんだよ」


「授業は受けられるから大丈夫」


「部活は?」


「今日は見学する」


「絶対に動いちゃ駄目だからね」


「分かってる」


 お姉ちゃんは心配そうに私の足を見る。


「無理しちゃ駄目だよ」


「うん」


 診察を終え、お姉ちゃんと別れてから学校へ向かった。


 少年は少し離れたところに立っていた。


 昨日から、ほとんど話していない。


 学校へ向かう途中も、私の少し後ろを歩いていた。


 足音はしない。


 いつもなら一方的に話しかけてくるのに、今日は何も聞こえない。


 学校へ着き、教室に入る。


 授業中も少年は窓の外を見ていた。


 昼休み、陽菜が私の席へ来る。


「足、どうだった?」


「軽い捻挫。数日間は運動禁止」


「大きな怪我じゃなくてよかった」


「うん」


「今日は見学だね」


「そうみたい」


「焦らないで休んで」


「分かってる」


「顔は納得してない」


「練習したいから」


「だから休むの」


 陽菜は私の額を指で軽く押した。


「痛っ」


「足じゃないから平気」


「そういう問題じゃないでしょう」


 陽菜が笑う。


 その笑顔に、少しだけ救われた。


     ◇


 放課後、私は倉橋監督へ診断結果を伝えた。


「軽い捻挫で、数日間は運動を控えるように言われました」


「分かった。今日は見学」


「はい」


「痛みが引いても、自己判断では戻らないこと。病院で言われた期間は守りなさい」


「分かりました」


 私はグラウンドの外へ座り、足首を休ませた。


 目の前では、部員たちが練習している。


 沙月が攻撃的ミッドフィルダーに入っていた。


 陽菜が裏へ走る。


 沙月が迷わず縦パスを出す。


 陽菜が受け、そのままシュートを打った。


 ゴールにはならなかった。


 けれど攻撃は続いている。


 私がいなくても。


 胸の奥が痛む。


「見てられないか?」


 少年が初めて口を開いた。


「見ます」


「無理しなくていい」


「練習できないなら、見るしかありません」


 少年は私の横へ立つ。


 少し間を空けて。


「昨日は」


 少年が言う。


「止まるべきだった」


 サポーターの上へ置いていた手が止まる。


「痛いって言われたときに」


 私は少年を見なかった。


「そうですね」


「でも、勝てると思った」


「聞きました」


「それしか見えてなかった」


 目の前では、沙月がボールを受けている。


 右を確認し、左へ展開する。


 目立つプレーではない。


 それでも攻撃をつないでいる。


「週末に映像を見て、分かったつもりになってた」


 少年の声が続く。


「一人で決めるだけじゃないって」


「……はい」


「でも、身体に入ったら、また同じだった」


 少年は自分の右手を見る。


「ボールを持ったら、自分で何とかしたくなった」


「蓮さんらしいですね」


「褒めてないだろ」


「褒めてません」


 少年は少しだけ笑い、すぐに表情を戻した。


「俺には、終わったあとがない」


 その言葉に、私は顔を上げた。


「憑依が終われば、痛みも疲れもなくなる。だから、分かってるつもりでも、本当には分かってなかった」


 少年は私の足首を見る。


「お前が今日もこの足で歩くことも。練習できずに、ここから見てることも」


 私は何も言えなかった。


「悪かった」


 少年が言う。


 言い訳のない、短い言葉だった。


 すぐに許せたわけではない。


 足首はまだ痛み、練習している仲間を見ているだけで焦りが募る。


 それでも、少年が初めて「終わったあと」を見ようとしていることは分かった。


「……私も」


「何が?」


「結果が欲しくて、身体を貸しました」


 足首に触れる指先へ、サポーターの感触が伝わる。


「蓮さんなら何とかしてくれるって思った」


「俺なら、か」


「はい」


「それで怪我した」


「二人で、です」


 少年が私を見る。


「私が頼んで、蓮さんが止まらなかった。どちらかだけのせいではありません」


「でも、身体はお前のだ」


「そうです」


 私ははっきり答えた。


「だから、次からは私が決めます」


「憑依するかどうかを?」


「それだけじゃありません」


 グラウンドでは、陽菜が再び走っている。


 沙月がパスを出す。


「勝つための便利な力みたいには使いません」


 少年は黙って聞いている。


「結果が欲しいからって、全部任せるのはやめます」


「……分かった」


「蓮さんも、勝てそうだからって続けないでください」


「ああ」


「私が痛いと言ったら、すぐ止まってください」


「分かった」


「本当に?」


「本当に」


 少年はまっすぐ私を見る。


「お前の身体を借りてることを忘れない」


 その言葉は、昨日までとは違って聞こえた。


「約束ですよ」


「ああ」


「破ったら、二度と貸しません」


「分かってるって」


「蓮さんは勝負になると忘れそうなので」


「お前もな」


「私は忘れません」


「昨日忘れたばかりだろ」


 言い返せなかった。


 少年の口元が少しだけ緩む。


 私も小さく息を吐いた。


 問題が全部解決したわけではない。


 足首の痛みも消えていない。


 先発争いは、私が休んでいる間も続いている。


 それでも、昨日までと同じではなかった。


 憑依すれば、結果を出せる。


 そう思っていた。


 けれど借りた力には、終わったあとがある。


 残る痛みも。


 失う練習時間も。


 責任も。


 すべて、私の身体と人生へ返ってくる。


「藤崎」


 倉橋監督に呼ばれた。


「はい」


「今日の練習を見て、気づいたことを書いておいて」


「分かりました」


 監督はグラウンドへ戻る。


 私は鞄からノートを取り出した。


「何を書くんだ?」


 少年がのぞき込む。


「今、見えていることです」


 沙月の首の動き。


 陽菜が走り出すタイミング。


 味方がボールに触れなくても作っている空間。


 週末に少年と見た未来のサッカー。


 自分がピッチの中にいないからこそ、見えるものがあった。


 私はペンを動かす。


 少年は何も言わず、私の隣でグラウンドを見つめていた。


 この力を、もう使わないわけではない。


 使えなくなったわけでもない。


 ただ、次に身体を貸すときは、勝ちたいという気持ちだけで決めてはいけない。


 私の身体で。


 私の明日を使ってプレーするのだから。


 そう決めたはずなのに、先発争いから置いていかれる怖さまでは消えてくれなかった。


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