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夢を諦めた君のスパイクから、十七歳の君が現れた  作者: situ725


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第8話 未来のサッカー

 紅白戦の翌日、少年は朝から妙に静かだった。


 昨日の帰り道で交わした言葉が、まだ二人の間に残っている。


 俺が取った場所に、お前が立っていいのか。


 その問いに、私は答えを出せていない。


 けれど、少年もそれ以上は何も言わなかった。


 朝食を終え、部屋へ戻る。


 私は机の上に教科書を広げた。


 月曜日に提出する数学の課題が残っている。


 少年はベッドの縁へ腰掛けるような姿勢で、私の手元をのぞき込んでいた。


 実際には身体が布団へ沈むことはなく、少し浮いているように見える。


「これ、何してるんだ?」


「見れば分かるでしょう。数学です」


「分からないから聞いてる」


「高校二年生ですよね?」


「たぶん」


「たぶんって何ですか」


「サッカー以外の授業なんて、細かく覚えてない」


 少年は悪びれずに答えた。


「よく進級できましたね」


「テスト前はちゃんとやってた」


「では、これを解いてください」


 私はシャープペンシルを置き、教科書を少年の方へ向けた。


 少年は数式をしばらく見つめる。


「……何だ、この記号」


「本当に高校二年生ですか?」


「俺の学校では、まだ習ってなかったんだよ」


「同じ高校二年生でも、習う順番は違うかもしれませんけど」


 少年は教科書から目をそらした。


「サッカーのことなら教えられる」


「昨日の紅白戦で、もう十分教えてもらいました」


 言ってから、空気が止まった。


 少年の表情から笑みが消える。


 私も教科書へ目を落とした。


「……その話は、今しなくていいです」


「美緒」


「課題が終わらないので」


 シャープペンシルを握り直す。


 けれど、問題文が頭へ入ってこない。


 少年はしばらく黙っていた。


 やがて立ち上がり、窓の近くへ移動する。


 カーテンの隙間から、外を眺めていた。


 風が吹いても、少年の髪はほとんど揺れない。


 その姿を見るたび、彼が普通の人間ではないことを思い出す。


「美緒」


「何ですか?」


「昨日のこと、全部悪かったとは思ってない」


 シャープペンシルの動きを止める。


「私の身体を使ったことですか?」


「それもある。でも、お前が結果を出したいと思ったことも」


 少年は窓の外を見たまま続ける。


「試合に出たいんだろ」


「はい」


「だったら、そのために何かしようとするのは悪くない」


「誰かに代わってもらっても?」


「そこは考えないといけない」


「答えになってません」


「俺にも、まだ分からないんだよ」


 少年が振り返る。


「身体はお前のものだ。でも、動かしたのは俺だった。だから、あのプレーが誰のものなのか、俺にもちゃんとは分からない」


 意外だった。


 少年なら、もっと簡単に答えを出すと思っていた。


 正しいか、間違っているか。


 やるか、やらないか。


 いつも迷わず決める人だと思っていた。


「蓮さんでも、分からないことがあるんですね」


「何だよ、その言い方」


「何でも分かってるみたいに言うからです」


「少なくとも、お前よりは迷わない」


「またそうやって」


「でも」


 少年の声が少しだけ柔らかくなる。


「昨日の最後の横パスは、お前が自分で選んだんだろ」


「逃げただけです」


「そうかもしれない。でも、俺が出したパスじゃない」


 私は何も言えなかった。


「お前のプレーが全部なくなったわけじゃない」


 少年はそう言うと、再び窓の外へ目を向けた。


 慰められたわけではない。


 問題が解決したわけでもない。


 それでも、胸に沈んでいたものが少しだけ軽くなった。


「蓮さん」


「何だ?」


「サッカーのことなら教えられるって言いましたよね」


「ああ」


「では、あとで勉強に付き合ってください」


「サッカーの勉強ならな」


「先に数学を終わらせます」


「俺は待ってればいいのか?」


「静かにしていてください」


「それが一番難しい」


「知っています」


 少年が笑った。


 昨日から初めて見る、いつもの笑顔だった。


     ◇


 昼過ぎ、ようやく課題を終えた。


 私はベッドへ背中を預け、スマートフォンを手に取る。


「何を見るんですか?」


「まずは、お前の試合」


「私の?」


「昨日の紅白戦、誰か撮ってただろ」


 確かに、倉橋監督の指示で一年生がタブレットを使い、試合を撮影していた。


 部員用の共有ページには、すでに動画がアップロードされている。


「見たくありません」


「何でだよ」


「自分のプレーを見るの、恥ずかしいからです」


「恥ずかしがってたら直せないだろ」


「分かっています。でも……」


 昨日の前半を思い出す。


 陽菜が何度走っても、私は迷った。


 通せなかったパスも、奪われたボールも、映像には全部残っている。


 それだけなら、まだいい。


 後半には、私ではない私も映っている。


 沙月をかわし、陽菜へパスを通し、迷わずシュートを打った姿。


 見ればきっと、前半との違いがはっきりしてしまう。


「失敗したところを見るのが嫌なのか?」


「それもあります」


「じゃあ、他には?」


 私はスマートフォンを握ったまま、答えられなかった。


 少年は急かさずに待っている。


「……後半の私を見たら、本当に私じゃなかったって分かってしまいそうで」


 少年の表情が少しだけ曇った。


「もう分かってることだろ」


「分かっているのと、見るのは違います」


 言葉にすると、胸の奥が重くなった。


「でも」


 少年が画面へ目を向ける。


「見なかったら、お前が何をできなかったのかも、俺が何をしたのかも分からないままだ」


「……」


「俺の動きを真似しろって言ってるんじゃない。お前に使えるものがあるかもしれない」


 その言葉に、親指が再生ボタンの上で止まった。


 昨日の活躍を、自分のものにはできない。


 それでも、あの中に自分が学べるものがあるなら。


 何も見ずに、ただ罪悪感だけを抱えているよりはいいのかもしれない。


「……途中で止めてもいいですか?」


「何度でも止めればいい」


「笑わないでくださいね」


「失敗を?」


「全部です」


「分かった」


 私は小さく息を吐き、共有ページを開いた。


 昨日の紅白戦の動画を再生する。


 画面には、グラウンド全体が少し高い位置から映っている。


 白組のキックオフ。


 沙月がボールを受け、右へ展開する。


「止めろ」


「まだ始まったばかりです」


「今の橘を見たい」


 言われたとおり、動画を止める。


 少年は画面へ顔を近づけた。


「スマートフォンを持ってるのは私なんですから、近すぎます」


「小さくて見えないんだよ」


「離してください」


「じゃあ大きくしろ」


「拡大すると全体が見えません」


「面倒だな、この板」


「スマートフォンです」


 私は画面を横向きにし、動画を拡大した。


 少年が画面へ指を伸ばす。


 私がスマートフォンを持っているため、指先は通り抜けずに表面へ触れた。


 けれど、思うようには動かせないらしい。


「貸せ」


「スマートフォンは貸せません」


「手を貸せって意味だ」


 少年が私の右手へ、自分の手を重ねる。


 二人で画面を滑らせると、動画が少し巻き戻った。


「できた」


「私も動かしてますけど」


「一緒に動かしたんだから、俺も操作しただろ」


「細かい違いは大事です」


「面倒くさいな」


 少年は気にせず、沙月がボールを受ける直前で動画を止めた。


「見ろ。受ける前に一回、右を見てる」


「味方の位置を確認したんでしょう」


「そのあと、後ろも見てる」


「本当だ」


「ボールが来るまでに二回。受けてから考えてない」


 少年は画面の沙月を見ながら、楽しそうに続ける。


「次に出す場所を決めてから受けてる。だから速いんだ」


 動画を再生する。


 沙月はワンタッチで右へパスを出した。


「やっぱりな」


「監督も、受ける前に見ろって言ってました」


「言われたから見るんじゃ遅い。癖にしろ」


「簡単に言わないでください」


「練習すればできる」


 少年は次々と動画を止めた。


 味方の立ち位置。


 守備の距離。


 パスを出したあとの動き。


 試合中、私は自分のことで精いっぱいだった。


 けれど画面の外から見ると、見えていなかったものがいくつもある。


「ここ」


 少年が動画を止める。


 前半、私が陽菜へのパスを沙月に触られた場面だった。


「見たくないです」


「見るって決めただろ」


「失敗したところです」


「だから見るんだよ」


 画面の中で、陽菜が走り出す。


 私は一度、右足を振りかける。


 けれど沙月の動きを見て迷い、蹴る直前に力が入っていた。


「止めるのが遅い」


「パスをですか?」


「違う。迷うのを」


「そんなこと言われても」


「出さないなら、もっと早く別の場所を見る。出すなら、相手が足を伸ばす前に出す」


 少年は自分の指を画面へ重ねた。


「お前は最後まで両方を残そうとしてる。失敗しない道と、陽菜に通す道を」


「どちらも見えたからです」


「だから決めるんだよ」


「それができないんです」


「できないんじゃない。決めたあとで失敗するのが嫌なんだろ」


 反論できなかった。


 動画を再生する。


 沙月がボールを奪い、白組の攻撃へつなげる。


 自分のミスを映像で見ると、試合中よりもはっきり分かる。


 迷った時間は、ほんの一瞬だった。


 けれどサッカーでは、その一瞬で道が閉じる。


「次」


 少年が動画を先へ進める。


 後半が始まった。


 画面の中で、私はまだ自分の意思で走っている。


 そして、憑依した場面が近づいてくる。


 胸の奥が落ち着かなくなった。


「止めましょう」


「何で?」


「ここから先は、見る必要ありません」


「さっきは見るって言っただろ」


「前半は私のプレーです。でも、ここからは違います」


 画面の中で、私は少年の方を見た。


 あのとき、身体を貸すと決めた瞬間だ。


「もう分かっています。私じゃないってことは」


「それだけを確かめるために見るんじゃない」


「では、何を見るんですか?」


「俺が、お前の身体で何をしたのか」


 少年は画面から目をそらさなかった。


「感覚だけじゃ説明できない。映像なら、お前にも見える」


「見たら、余計につらくなるかもしれません」


「そうかもな」


 少年は否定しなかった。


「でも、俺だけが知ってるままにするのも違うだろ」


 その言葉に、私は画面へ目を戻した。


 私の身体を使ったプレーなのに、私だけが何も知らない。


 それは、もっと嫌だった。


 先発候補になった理由を、自分の目で確かめなければならない。


 借りた力を使った責任まで、少年に預けたままにはできない。


「……再生してください」


「いいのか?」


「はい」


 怖くないわけではない。


 それでも今度は、目をそらさないと決めた。


 少年が動画を再生する。


 画面の私は、沙月と向かい合っている。


 受ける直前に右を見る。


 沙月の重心を動かし、左足で逆を取る。


 自分の姿なのに、知らない選手を見ているようだった。


「蓮さんは、最初からここまで考えてたんですか?」


「全部、言葉にして考えてたわけじゃない」


「では、どうやって?」


「見たら分かる」


「それが分からないんです」


「相手の足とか、腰とか、目線とか」


 少年は立ち上がり、自分の身体を使って見せる。


「右へ行きたいと思わせれば、相手は少し右を切ろうとする。その瞬間、左が空く」


「沙月は、そんなに簡単に動く選手じゃありません」


「だから、ボールを受ける前に右を見た」


「陽菜へのパスを見せた?」


「ああ。実際、陽菜も走ってたからな。嘘じゃない」


 画面の中で、私は相手二人を引きつけ、陽菜へパスを通した。


 陽菜がゴールを決める。


 動画の音声から、紅組の歓声が聞こえた。


 私も喜んでいる。


 けれど、その表情まで自分ではないように思えた。


 動画の中では、誰も疑っていない。


 陽菜も、監督も、あのプレーを私のものとして見ている。


 それがうれしかったはずなのに、今は再生される歓声から目をそらしたくなった。


「美緒」


「見ています」


 私は画面を見つめ直した。


 逃げないと決めたばかりだ。


「もう一回、見せてください」


「今の一連の動きか?」


「はい」


 少年が動画を巻き戻す。


 受ける前の視線。


 沙月の重心。


 左足でのボールの置き方。


 ディフェンダーを引きつける距離。


 陽菜へ出すタイミング。


 何度も見ているうちに、最初は魔法のように思えたプレーが、細かな判断の積み重ねに変わっていく。


「これなら、私にもできますか?」


 思わず尋ねた。


「全く同じは無理だな」


 すぐに答えられた。


「そこは少し考えてから答えてください」


「嘘をついても仕方ないだろ」


「では、どうして見せたんですか?」


「お前にできる部分があるからだ」


 少年は画面を指した。


「受ける前に見ること。相手を引きつけること。陽菜が走るのを信じること。これはお前にもできる」


「沙月をかわすのは?」


「練習すればできるかもしれない」


「シュートは?」


「もっと振れ」


「雑です」


「お前は蹴る前から入らないと思ってる」


「蓮さんは入ると思いすぎです」


「入ると思わなきゃ打てないだろ」


「外したらどうするんですか?」


「次に打つ」


 迷いのない返事だった。


 私は動画に映る少年のプレーを見る。


 私の身体を使っているから、強いシュートではない。


 それでも、彼は迷わずゴールを選んだ。


 自分にできる範囲で、最も得点へ近い場所を狙った。


 私ではない活躍だった。


 それでも、その中に私が学べるものはあるのかもしれない。


 少なくとも、目をそらさずに見ることはできた。


「次は別の試合を見るぞ」


 少年が言った。


「まだ見るんですか?」


「今のサッカーが、どれくらい変わったのか知りたい」


「私の課題を見るんじゃなかったんですか?」


「それも見た。海外の試合も見る」


「長くなりそうですね」


「今日は休みだろ」


「私にも予定があります」


「何だ?」


「特にありませんけど」


「じゃあ決まりだ」


 少年は嬉しそうに笑った。


     ◇


 私は動画配信サイトを開き、最近行われた海外リーグの試合を再生した。


 少年は開始数分で画面へ釘づけになった。


「速い」


「海外のトップリーグですから」


「ボールじゃない。切り替えが」


 攻撃していたチームがボールを失う。


 その瞬間、近くの三人が相手を囲み、数秒で奪い返した。


「全員、戻る判断が速すぎる」


「今は前の選手も守備を求められます」


「俺も守備はしてた」


「本当に?」


「してたって」


「今の蓮さん――大人になった方の蓮さんは、守備への参加が足りないって言われたみたいですけど」


 少年の表情が曇る。


「何で知ってる?」


「お姉ちゃんが少し話していました」


「俺が、守備をしなくなったのか?」


「詳しいことまでは知りません」


 画面では、フォワードの選手が自陣まで戻っている。


 少年はその動きを無言で追った。


「高校では、俺が決めれば勝てた」


「そうだったんですか?」


「ああ。守備をさぼってたわけじゃない。でも、最後は俺に集めればよかった」


「大学では通用しなかった?」


「……たぶんな」


 少年は画面へ目を戻した。


 自分の未来を、映像の中に探しているようだった。


「この選手、ボールを持つ前に何回見た?」


「二回くらいですか?」


「三回だ」


 少年は動画を巻き戻す。


 私がスマートフォンを持ち、少年が私の指へ自分の指を重ねる。


 一回。


 二回。


 三回。


 選手はボールが届く前に左右を確認し、ワンタッチで前を向いていた。


「本当だ」


「今はこんなことまで映像で分かるのか」


「もっと細かい分析もありますよ」


「どんな?」


「走った距離とか、パスの成功率とか、ボールを持った位置とか」


「誰が数えてるんだ?」


「機械です」


「機械が?」


 少年が本気で驚いた顔をした。


 私はチーム分析の解説動画を探す。


 画面には、選手の動きを示す線や数字が表示された。


「この色は何だ?」


「選手がよくいた場所です」


「じゃあ、この選手は左にいるように見えて、中央にも入ってるのか」


「そうみたいですね」


「面白いな」


 少年は次々と気づいたことを口にする。


 画面の端にいる選手。


 ボールを持っていないときの動き。


 相手を引きつけるための走り。


 誰も触れずに通り過ぎたパス。


 私が得点やボールばかり見ている間に、少年は試合全体を見ていた。


「一人で試合を決める選手が、一番すごいと思ってた」


 少年は画面の中で、味方のために走り続ける選手を見つめる。


「でも、ボールに触ってなくても、あいつがいなかったら点は入ってないんだな」


「今まで知らなかったんですか?」


「知識としては知ってた。でも、こんなに全員が動くとは思ってなかった」


 画面の中で、一人の選手が相手の守備を引きつける。


 その後ろにできた空間へ、別の選手が走り込んだ。


「今の選手、ボールには一回も触ってません」


「ああ」


 少年は納得しきれないような顔で、その選手の動きを追う。


「何か変な感じだ」


「何がですか?」


「目立ってないのに、試合を動かしてる」


 少年の声には、驚きと楽しさが混ざっていた。


 高校時代の蓮さんが持っていなかった考え方を、今の少年が新しく知ろうとしている。


 まだ理解したわけではない。


 けれど、今まで見ていなかったものへ目を向け始めている。


 それが少し不思議だった。


「蓮さんは、本当にサッカーが好きなんですね」


「今さら何を言ってるんだ」


「だって、ずっと話してるから」


「お前が映像を出すからだろ」


「もう二時間近く見ています」


「まだ二試合目だぞ」


「二試合目だから長いんです」


 私は充電残量を見る。


 朝は十分にあったはずなのに、半分近く減っていた。


「充電しながら見ればいい」


「スマートフォンが熱くなります」


「じゃあ休ませる」


 少年は名残惜しそうに画面を見る。


「その間に、このスパイクを調べたい」


「スパイク?」


 動画の途中に映った選手の足元を指している。


 鮮やかな色の、薄く軽そうなスパイクだった。


「俺が履いてたのと形が違う」


「何年も経っていますから」


「この底、こんなに薄くて大丈夫なのか?」


「軽さを重視してるんじゃないですか?」


「いくらだ?」


「種類によります」


「調べろ」


「命令しないでください」


 そう言いながら、私は検索画面を開いた。


 表示された価格を見て、少年が目を見開く。


「高っ!」


「上位モデルですから」


「俺の頃より高くないか?」


「物価も変わっています」


「高校生がこんなの履くのか?」


「全員ではありません」


 少年は商品画像を食い入るように見る。


「重さ、二百グラム切ってる」


「軽いですね」


「軽すぎないか? 本当に蹴れるのか?」


「今の選手は蹴っています」


「触ってみたい」


 少年の声が少しだけ低くなった。


 物には触れられない。


 画面の商品は、たとえ目の前にあったとしても、私が触れていなければ感触を得られない。


「スポーツ店へ行きますか?」


「今から?」


「私も、次に買うときの参考に見ておきたいので」


「いいのか?」


「数学の課題は終わりましたから」


 少年の顔が一気に明るくなる。


「行く」


「私が準備するまで待ってください」


「早くしろ」


「急に偉そうにならないでください」


 スマートフォンを置き、立ち上がる。


 少年はもう扉の前にいた。


 物には触れられないのに、誰よりも先に外へ出ようとしている。


「扉を開けないと出られませんよ」


「分かってる。早く」


「子どもみたいですね」


「新しいスパイクを見に行くんだから、普通だろ」


 何が普通なのか分からない。


 それでも、私は笑っていた。


     ◇


 駅前のスポーツ用品店は、休日ということもあり混んでいた。


 少年は店へ入った瞬間から、落ち着きをなくした。


「何だ、この数」


「声が大きいです」


「誰にも聞こえないだろ」


「私が反応したら不自然です」


 壁一面に、色とりどりのスパイクが並んでいる。


 黒や白だけではない。


 青。


 赤。


 黄色。


 左右で色の違うものまである。


「これ、本当にサッカーの靴か?」


「そうですよ」


「派手すぎるだろ」


「蓮さんの制服姿も、ネクタイを緩めていて十分目立ちますけど」


「関係ない」


 少年は次々と商品をのぞき込む。


 値札。


 底の形。


 スタッドの配置。


 素材の説明。


 どれも初めて見るもののように、目を輝かせていた。


「これを持ってみろ」


「買いませんよ」


「触るだけでいい」


 私は展示されている片方のスパイクを手に取った。


 少年が手を重ねる。


「軽い」


「本当に分かるんですか?」


「少しだけ。でも分かる」


 少年はつま先からかかとまで、慎重に指を動かした。


「革じゃない」


「合成素材ですね」


「こんなに薄くて、足を踏まれたら痛そうだな」


「そこを心配するんですか?」


「大事だろ」


 別のスパイクを手に取る。


 少年も触れる。


「こっちの方が硬い」


「ポジションによって選ぶ人もいるみたいです」


「お前は何を履いてる?」


「普通のものです」


「普通って何だよ」


 私は自分が使っているモデルに近い商品を探した。


 少年は値札を見る。


「もっといいのを履け」


「簡単に言わないでください」


「足に合うなら、道具は大事だろ」


「高ければいいわけではありません」


「それはそうだけど」


 少年は私の足元を見る。


「お前、右足の外側が減ってるだろ」


「どうして分かるんですか?」


「河川敷で見た」


「そんなところまで見てたんですか」


「蹴り方に癖がある」


 少年は棚のスパイクと私の足を見比べる。


「今度、店員に相談した方がいい」


「今日は買いませんよ」


「分かってる」


 少年はそう言いながら、まだ未練がましく商品を眺めていた。


 私たちは店の奥にある女子サッカー用品のコーナーへ移動する。


 少年はそこで足を止めた。


 壁には、女子選手の大きな写真が飾られている。


 代表ユニフォーム姿で、力強くボールを蹴っていた。


「女子サッカーって、こんなに大きく扱われてるんだな」


「昔は違ったんですか?」


「女子の試合を映像で見る機会なんて、ほとんどなかった」


「うちの部活を見て、驚いてましたもんね」


「軽く見てたわけじゃない」


「分かっています」


 少年は写真を見上げる。


「プロもいるんだよな」


「国内にも海外にも」


「お前もなれるんじゃないか?」


「急に何を言うんですか」


「目指してないのか?」


「全国大会にも出たことがない学校ですよ」


「学校は関係ないだろ」


「私自身も、まだ先発に入れるかどうかです」


「今できるかじゃなくて、なりたいかを聞いてる」


 すぐには答えられなかった。


 プロ。


 蓮さんが何度も口にしていた夢。


 私は蓮さんに憧れてサッカーを始めた。


 けれど、自分がプロになりたいと考えたことはほとんどない。


 全国大会へ行きたい。


 試合に出たい。


 陽菜へパスを通したい。


 目の前の願いばかりだった。


「分かりません」


 正直に答えた。


「そうか」


「笑わないんですね」


「何で笑うんだ?」


「蓮さんなら、夢がないのかって言うと思いました」


「決まってないなら、今から決めればいいだろ」


 少年は写真を見たまま言う。


「俺はプロになるって決めてる。でも、お前まで同じじゃなくていい」


 胸の奥がわずかに動いた。


「前なら、俺と同じものを目指せって言いそうだった」


「前って、いつですか?」


「俺が知ってる、中学に入ったばかりのお前」


「その頃の私は、ただ蓮さんの真似をしてただけです」


「そうだったな」


 少年が笑う。


「走り方まで真似して、転んでた」


「忘れてください」


「覚えてるものは仕方ない」


 その笑顔を見ていると、店内の音が少しだけ遠くなった気がした。


 昔の蓮さんと、こうして一緒に店へ来ることはなかった。


 サッカーの映像を何時間も見ることも。


 スパイクを選びながら話すことも。


 これは失った時間の続きではない。


 今、私と少年が新しく作っている時間だ。


 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。


     ◇


 帰宅すると、お姉ちゃんがリビングのソファに座っていた。


 テーブルの上には、冷めた紅茶が置かれている。


 スマートフォンを手に持ったまま、画面を見つめていた。


「ただいま」


「おかえり」


 お姉ちゃんは笑った。


 けれど、その笑顔は少し疲れていた。


「どこへ行ってたの?」


「駅前のスポーツ用品店。スパイクを見に」


「買ったの?」


「今日は見るだけ」


「そう」


 少年はお姉ちゃんのそばへ近づく。


 画面をのぞき込もうとするが、私が触れていないスマートフォンには触れられない。


「蓮さんから?」


 私が尋ねると、お姉ちゃんの指が止まった。


「ううん」


「連絡、まだないの?」


「忙しいんじゃないかな」


 その言い方で、何も来ていないことが分かった。


 お姉ちゃんがスマートフォンをテーブルへ伏せる。


 その直前、画面の端が見えた。


 昨日送ったメッセージには、まだ既読もついていなかった。


 少年の表情が険しくなる。


「忙しいわけないだろ」


 お姉ちゃんには聞こえない。


「練習にも行ってないくせに、何してるんだよ」


 私は少年を見ないようにした。


 ここで返事をすれば、お姉ちゃんに不審がられる。


「電話してみたら?」


「何度も送ってるから」


 お姉ちゃんは伏せたスマートフォンへ手を置く。


「これ以上送ったら、重いと思われるかもしれないし」


「お姉ちゃんが悪いわけじゃないでしょう」


「悪いとかじゃないよ」


「じゃあ、蓮さんが返事をすればいい」


 思ったより強い声が出た。


 お姉ちゃんが少し驚いた顔をする。


「美緒、蓮に怒ってるの?」


「だって、お姉ちゃんがずっと待ってるのに」


「待つって決めてるのは私だから」


「でも」


「美緒が怒らなくていいの」


 穏やかな声だった。


 それでも、どこか寂しそうだった。


「私と蓮のことだから」


 言葉が胸へ刺さる。


 そのとおりだ。


 私が口を出すことではない。


 少年が隣で拳を握っている。


「千春は何も悪くない」


 誰にも届かない声だった。


「俺が――あいつが、逃げてるだけだ」


 お姉ちゃんは立ち上がり、テーブルの紅茶を片づける。


「夕飯まで少し休むね」


「うん」


「スパイク、いいのあった?」


「たくさんあったよ」


「今度、一緒に見に行こうか」


「大丈夫。見るだけだったから」


「そっか」


 お姉ちゃんは笑い、リビングを出ていった。


 階段を上る足音が遠ざかる。


 テーブルの上には、お姉ちゃんが伏せたスマートフォンだけが残っていた。


 少年は閉じた扉を見つめている。


「蓮さん」


「何だ」


「今の蓮さんに、何を言いたいですか?」


「決まってる」


 少年は迷わなかった。


「千春に返事をしろ」


「それだけ?」


「練習に行け。逃げるな。約束を忘れるな」


 次々と言葉が出てくる。


「プロになるって言っただろ。千春を幸せにするって言っただろ。全部、自分で言ったことだ」


「全部できなかったら?」


 少年の声が止まる。


「プロになれなかったら、お姉ちゃんの前に戻れないんですか?」


「そんなこと言ってない」


「でも、今の蓮さんはそう思ってるのかもしれません」


「だからって、何も話さず逃げていいわけじゃない」


「それは、そうですけど」


 私はソファへ座った。


「今日、海外の試合を見ましたよね」


「ああ」


「高校の頃と、今のサッカーは違いました」


「そうだな」


「今の蓮さんも、高校の頃のあなたとは違うんじゃないですか?」


「何が言いたい?」


「昔と同じやり方で、通用しなくなったのかもしれません」


 少年は黙る。


「でも、どう変わればいいか分からなくて、動けなくなってるのかも」


「だから諦めていいっていうのか?」


「そうは言ってません」


「じゃあ、立ち上がるしかないだろ」


「蓮さんは簡単に言いすぎです」


「簡単じゃない」


 少年の声が強くなる。


「できるまでやるんだよ」


「それで壊れたら?」


 少年が言葉を失った。


 私は、今の蓮さんが足首を怪我したことを思い出す。


 結果を求めて無理をした。


 復帰したときには、もう自分の場所がなかった。


「蓮さんが正しいと思っていることが、今の蓮さんには苦しいのかもしれません」


「俺のせいだって言うのか?」


「分かりません」


 少年の顔が険しくなる。


 言いすぎたと思った。


 けれど、取り消すこともできなかった。


「ただ、昔の蓮さんに戻れって言うだけじゃ、戻れない気がします」


「じゃあ、どうすればいい」


「それを考えるために、今のサッカーを見たんじゃないですか?」


「俺は、ただ面白かったから見てた」


「それでもいいと思います」


 少年は視線を落とした。


 握っていた拳を、ゆっくりと開く。


「今のサッカーは、俺の知ってるものと違った」


「はい」


「でも、サッカーだった」


「そうですね」


「違っても、好きになれるのか」


 誰へ尋ねた言葉なのか分からなかった。


 自分自身か。


 今の蓮さんか。


 それとも私か。


「好きなものが変わるんじゃなくて、好きでいる方法が変わることもあるんじゃないですか?」


 少年は私を見る。


「お前、たまに難しいこと言うな」


「たまにって何ですか」


「普段は俺に文句ばかりなのに」


「蓮さんが文句を言わせるからです」


 少年の口元が少しだけ緩んだ。


「もう一試合見るぞ」


「今からですか?」


「今のサッカーをもっと知りたい」


「夕飯までですよ」


「分かってる」


「解説は静かにしてください」


「それは無理だ」


 私はスマートフォンを手に取る。


 少年がすぐ隣へ寄ってきた。


 画面が見えやすいように、二人で顔を近づける。


 少年の肩は私の肩をすり抜けるはずなのに、そこに誰かがいるような感覚がした。


 動画を再生する。


 選手たちがピッチへ入ってくる。


「このチーム、さっきの試合と形が違う」


「始まってもいないのに分かるんですか?」


「並びを見れば分かるだろ」


「分かりません」


「じゃあ説明する」


 少年は楽しそうに話し始めた。


 味方の動き。


 守備の距離。


 ボールを持つ前の視線。


 新しいスパイク。


 昔とは違う戦術。


 知らなかった未来のサッカー。


 憧れていた人と、こんなふうに好きなだけサッカーの話をする時間を、私はずっと望んでいたのかもしれない。


 今の蓮さんではなく。


 高校時代の記憶の中にいる蓮さんでもなく。


 今、私の隣で目を輝かせている少年と。


 その気持ちが何なのか、まだ分からなかった。


 ただ、動画が終わるまで、この時間が続けばいいと思った。


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