第7話 私じゃない活躍
翌週の金曜日、練習前に倉橋監督が部員たちを集めた。
「今日は紅白戦をする」
その一言で、並んでいた部員たちの空気が変わった。
県大会まで、もうあまり時間はない。
ただの練習ではないことを、全員が分かっていた。
倉橋監督は手元のバインダーへ目を落とす。
「試合時間は前後半二十分。メンバーは今から発表する。県大会の先発を決める材料にするから、そのつもりで」
胸の奥が大きく鳴った。
隣に立つ陽菜が、私の肘を軽くつつく。
「美緒、顔が固い」
「固くないよ」
「固いって」
口元を動かしてみる。
笑ったつもりだったけれど、陽菜は困ったような顔をした。
「もっと変になった」
「放っておいて」
私たちの後ろでは、少年が腕を組んで立っていた。
「紅白戦くらいで緊張するなよ」
返事はしない。
部員たちの前で独り言を言うわけにはいかなかった。
「紅組」
倉橋監督が名前を読み上げる。
「高瀬、小野寺、藤崎――」
自分の名前が呼ばれた瞬間、息を止めた。
紅組の攻撃的ミッドフィルダーは私。
フォワードには陽菜がいる。
そして白組には――
「橘」
沙月の名前が呼ばれた。
同じポジションを争う私たちは、別々のチームに分けられた。
直接比べるためだ。
「面白くなってきたな」
少年が白組にいる沙月を見ながら笑う。
私は胸元で手を握った。
今日、沙月よりいいプレーを見せられれば、先発へ近づける。
反対に何もできなければ、今までと変わらない。
見えているのに出せない選手。
監督から信用されないままの控え。
「藤崎」
呼ばれて顔を上げる。
主将の真帆先輩が、メンバー表を持って立っていた。
「紅組は最初から前へ行く。小野寺の裏への動きを使いたい」
「はい」
「あなたが止まったら、攻撃も止まるから」
「……はい」
真帆先輩は脅しているわけではない。
私の役割を確認しているだけだ。
それでも、その言葉は重かった。
「大丈夫」
陽菜が隣から顔をのぞき込む。
「今日は何回でも走るから」
「外しても?」
「外したら、もう一回走る」
「何回も失敗したら?」
「何回でも走る」
陽菜は迷わず答えた。
「だから、美緒も何回でも出して」
私は頷いた。
そのやり取りを聞いていた少年が、満足そうに笑う。
「分かってるじゃないか」
分かっている。
陽菜が走ったら、迷わず出す。
失敗しても、次を選ぶ。
頭では、ずっと前から分かっていた。
◇
試合開始の笛が鳴った。
白組のキックオフ。
沙月はボールを受ける前に一度後ろを確認し、すぐに右へ展開した。
派手なプレーではない。
けれど判断が速い。
出したあとも止まらず、中央へ戻ってパスコースを作る。
「橘、戻りが速いな」
少年が感心したように言う。
白組がボールを失う。
沙月はすぐに切り替え、味方と二人で陽菜の進路を塞いだ。
陽菜が苦し紛れに戻したボールを、私は受ける。
前を向いた。
右側では味方が寄ってきている。
左の奥では、陽菜が沙月の背後へ動き始めていた。
見えている。
今なら通せる。
けれど、沙月も気づいていた。
身体の向きを変え、陽菜へのコースを消そうとしている。
少しでも遅れれば奪われる。
「今だ!」
少年の声が飛ぶ。
右足を振りかける。
その瞬間、沙月の足が伸びてくるのが見えた。
私は蹴る方向を変え、近くの味方へ横パスを出した。
「ああ!」
陽菜が走るのをやめる。
沙月は何事もなかったように中央へ戻った。
「何でやめた!」
少年が私の隣で声を上げる。
「今のは足が届いてました」
「届く前に出せただろ」
返事はできない。
白組の選手が近づいてきたため、私はボールを受け直しに動いた。
けれど、頭の中には今の場面が残っていた。
出せたかもしれない。
でも、奪われたかもしれない。
同じ迷いが、次の判断を遅らせる。
白組のボールになった。
沙月が中央で受ける。
紅組の選手が寄せるより先に、左前方へ縦パスを通した。
味方が抜け出す。
真帆先輩が身体を入れ、何とかボールを外へ逃がした。
「戻って!」
真帆先輩の声が響く。
私は慌てて守備へ戻る。
沙月はもう次の位置へ動いていた。
攻撃でも守備でも迷わない。
失敗しない場所を選びながら、必要なときには前へ出す。
私が欲しいものを、沙月は全部持っているように見えた。
「比べるな」
少年が横から言った。
「比べてません」
「顔に出てる」
私は前だけを見た。
試合は動かないまま、前半の半分を過ぎた。
紅組はボールを持てている。
けれど、決定的な場面を作れない。
私のところで攻撃が遅くなる。
陽菜が何度も裏へ走っているのに、私は確実なときしか出せない。
確実になるまで待っているうちに、白組の守備が整う。
「藤崎、受ける前に見て!」
ベンチの倉橋監督から声が飛ぶ。
「はい!」
分かっている。
見ている。
だからこそ、失敗する場面まで見えてしまう。
私のパスが相手に引っかかるところ。
白組の速い攻撃につながるところ。
真帆先輩や陽菜が、落胆するところ。
悪い結果ばかりが、ボールを蹴る前に頭へ浮かぶ。
「美緒!」
陽菜が右の裏へ飛び出した。
沙月との間に、一本だけ道が開いている。
今度こそ。
右足で縦へ出す。
けれど、蹴る直前に力が入った。
ボールは狙った場所より内側へ転がり、沙月に触れられた。
白組の選手が拾う。
「ごめん!」
私はすぐに戻る。
白組の攻撃が始まった。
沙月が私の横を走り抜けていく。
パスを受け、そのまま前方へ運ぶ。
味方へ預けたあとも止まらず、ペナルティーエリアの手前へ入り込んだ。
折り返されたボールに右足を合わせる。
シュートはゴールの上へ外れた。
それでも、沙月は迷わず打った。
前半終了の笛が鳴る。
得点は〇対〇。
私は膝に手をつき、息を吐いた。
走っている。
守備にも戻っている。
大きなミスを繰り返したわけでもない。
それでも、何もできていない。
「紅組、集まって」
真帆先輩の声で、私たちはベンチ前に集まった。
「ボールは持ててる。でも、持たされてるだけ」
真帆先輩は全員の顔を見渡す。
「小野寺が何度も裏を取ってる。そこを使わないなら、前に置いてる意味がない」
視線が私へ向いたわけではない。
それでも、私のことだと分かった。
「後半は、縦を意識して。失敗してもいいから、相手の守備を下げさせる」
「はい」
全員が返事をする。
倉橋監督は少し離れたところで、バインダーに何かを書いていた。
私の評価も、そこへ記されているのだろう。
また見えているのに出さなかった。
また沙月に負けた。
「美緒」
陽菜が隣へ座る。
「さっきのパス、もう少しだったね」
「取られたけど」
「でも、出してくれた」
「成功しなきゃ意味がないよ」
「意味はあるよ」
陽菜は言い切った。
「次は通るかもしれないから」
そんなに簡単には思えない。
次も失敗したら。
その次も失敗したら。
県大会の先発は沙月に決まる。
私はまたベンチから試合を見ることになる。
「後半、交代なし」
倉橋監督が告げた。
「同じメンバーで続ける」
まだ機会はある。
あと二十分。
その時間で結果を出さなければならない。
「顔、怖いぞ」
少年が私の前にしゃがみ込んだ。
誰にも見えない琥珀色の目が、私をのぞき込む。
「焦っても身体が固くなるだけだ」
分かっています。
心の中で答えても、憑依していない少年には届かない。
「お前が見えてるものを信じろ」
それができないから、困っている。
少年のように、迷わず前へ出られたら。
少年のように、失敗を恐れず勝負できたら。
あの数秒間のように。
身体を任せれば、結果を出せるかもしれない。
「まさか」
少年の表情が変わった。
私が見ていたものに気づいたのだろう。
「使うつもりか?」
私は答えずに立ち上がった。
◇
後半が始まった。
紅組は前半より高い位置から守備を始めた。
陽菜が白組のディフェンダーへ走る。
私もパスコースを切る。
白組が焦って出したボールを、真帆先輩が奪った。
「藤崎!」
縦パスが入る。
私は中央で受け、身体を前へ向けた。
目の前には沙月。
右には陽菜。
左には味方のサイドハーフ。
三つの選択肢がある。
沙月はすぐに飛び込まず、私が迷うのを待っていた。
右へ出せば、陽菜が走れる。
でも、沙月に読まれている。
左なら安全につながる。
自分で運ぶこともできる。
「来い」
少年の声が近くで聞こえた。
沙月が一歩、間合いを詰める。
私は左へパスを出した。
攻撃は続いた。
けれど、白組はその間に守備を整えていた。
結局、シュートまで行けない。
また同じだ。
時間だけが過ぎていく。
後半五分。
沙月が縦へ出したパスから、白組が決定機を作った。
シュートは真帆先輩が身体を投げ出して防いだ。
「藤崎!」
立ち上がった真帆先輩が、私を呼ぶ。
「切り替えて!」
「はい!」
怒られたわけではない。
それなのに胸が縮む。
私の方がいいところを見せなければならないのに、沙月ばかりが試合を動かしている。
監督は何度もバインダーへ何かを書いている。
あと十五分。
結果が欲しい。
ただ前へ出しただけでは足りない。
得点につながるプレー。
誰が見ても分かる結果。
私は少年を見た。
彼は険しい顔をしている。
「本当にやるのか?」
小さく頷いた。
周囲から見れば、試合中に一度俯いただけに見えただろう。
「昨日、分かっただろ」
少年は私の身体を見る。
「俺の感覚で無理に動かせば、また足に負担がかかる」
「短い時間だけ」
走りながら、小さな声で答えた。
「何か言った?」
近くにいた陽菜が振り返る。
「何でもない」
私は前を向いた。
少年が隣を走る。
「俺に何をさせるつもりだ?」
「結果を出したいんです」
「それは、お前が出す結果だろ」
「手伝ってください」
「美緒」
「少しだけでいいから」
白組がボールを回している。
私は守備の位置を取りながら、少年の返事を待った。
「無理な動きはしない」
少年が言う。
「お前の歩幅と筋力に合わせる。それでもいいなら」
「お願いします」
「本当に、俺に任せるのか?」
胸の奥が震えた。
これは検証ではない。
私は結果を求めている。
沙月に勝ちたい。
監督に認められたい。
先発に選ばれたい。
そのために、少年へ身体を貸そうとしている。
迷いを押し込める。
「今だけ、私の身体を貸します」
胸の奥に熱が生まれた。
走っていた少年の輪郭が、橙色の光に包まれる。
その姿が私へ重なった。
視界が一瞬だけ揺れる。
『聞こえるか?』
『はい』
『無理だと思ったら、すぐに止めろ』
『分かっています』
身体の重心が前へ移る。
背筋が伸びる。
視界そのものは変わらない。
けれど、見えているものの意味が変わった。
白組の選手の足の向き。
味方との距離。
沙月が次に閉じようとしている場所。
すべてが、一つの道につながって見える。
『来るぞ』
真帆先輩が白組からボールを奪った。
「藤崎!」
パスが来る。
少年は、受ける前に一度右を見た。
陽菜が動き始めている。
沙月は、その視線につられて右側へ重心を寄せた。
ボールを受ける。
少年は右足で前へ押し出すと見せかけ、左足の外側へボールを逃がした。
沙月の足が空を切る。
「えっ」
誰かの声が聞こえた。
身体が沙月の横を抜ける。
速くなったわけではない。
筋力が増えたわけでもない。
相手が動く前に、その逆を選んだだけだ。
『歩幅、合わせてください』
『分かってる』
少年は大きく蹴り出さない。
私の足が届く範囲で、細かくボールを運ぶ。
白組のディフェンダーが前へ出てきた。
その背後に空いた場所へ、陽菜が走る。
『陽菜が空いてます』
『まだだ』
少年は陽菜を見ながら、そのまま中央へ進んだ。
ディフェンダーが私を止めるために寄ってくる。
もう一人も中央へ絞る。
陽菜への道が広がった。
『今だ』
右足でボールを押し出す。
相手二人の間を、低いパスが抜けた。
「陽菜!」
私の口から、普段より大きな声が出る。
陽菜がボールへ追いついた。
ゴールキーパーと一対一になる。
右足を振り抜く。
ボールはゴール左隅へ転がった。
「入った!」
紅組から歓声が上がる。
陽菜が両手を上げ、そのまま私へ走ってきた。
「美緒、今のすごい!」
抱きつかれそうになった瞬間、少年が一歩避けた。
けれど身体は私のものなので、陽菜の腕から逃げきれない。
「ちょっと、小野寺。苦しい」
私の声なのに、口調が普段と違う。
陽菜の動きがわずかに止まった。
「……美緒?」
『口調』
内側から注意する。
『悪い』
「ごめん。ちょっと息が苦しくて」
私の意識で言い直す。
身体の主導権はまだ少年にある。
それでも、声だけなら私も出せるらしい。
「大丈夫?」
「うん」
陽菜は笑った。
けれど、その目には少しだけ戸惑いが残っていた。
紅組の選手たちが自陣へ戻っていく。
得点は一対〇。
私のパスから、陽菜が決めた。
結果が出た。
胸の中に喜びが広がる。
けれど同時に、身体の奥に少年の意識があることも感じていた。
今の判断は私ではない。
相手の重心を動かしたのも。
沙月をかわしたのも。
陽菜へ完璧なタイミングで出したのも。
全部、少年だ。
『もう戻ってください』
『まだ数秒しか経ってない』
『得点できました』
『監督は、一回のプレーだけで決めるのか?』
答えられなかった。
少年の言うとおりだった。
一度いいプレーをしただけでは、先発になれるとは限らない。
『もう少しだけ』
私から頼んだ。
少年はすぐには答えなかった。
『足は?』
『大丈夫です』
『違和感が出たら、すぐ終わるぞ』
『はい』
試合が再開する。
白組は同点に追いつこうと前へ出てきた。
沙月が中央でボールを受ける。
少年は迷わず距離を詰めた。
沙月が右へ運ぼうとする。
その瞬間、少年が左足を伸ばした。
ボールだけを奪う。
沙月の目が見開かれた。
「藤崎?」
少年は答えない。
奪ったボールを前へ運ぶ。
白組の守備が下がる。
ゴールまでの道が見えた。
『打つぞ』
『ここから?』
『入る』
ペナルティーエリアの手前。
普段の私なら、味方を探す場所だ。
陽菜も右へ走っている。
それでも少年はゴールを見ていた。
ディフェンダーの身体に隠れ、キーパーから一瞬だけボールが見えなくなる。
少年は右足を振った。
強いシュートではない。
私の筋力で打てる範囲の、低く速いボール。
ディフェンダーの足元を抜ける。
ゴールキーパーが反応する。
伸ばした手の先を通り、ボールが左ポストへ当たった。
硬い音が響く。
跳ね返ったボールは、ゴール前へ戻ってきた。
「美緒!」
陽菜が飛び込む。
けれど、白組のディフェンダーが先に外へ蹴り出した。
「ああ、惜しい!」
紅組の声が上がる。
得点にはならなかった。
それでも、ベンチの空気が変わったのが分かった。
倉橋監督がバインダーから顔を上げ、こちらを見ている。
憑依してから、それほど長い時間は経っていない。
それでも、前回の数秒とは比べものにならないほど長く感じた。
呼吸だけでなく、頭の奥にも鈍い重さが広がり始めていた。
『今の、私には打てません』
『身体はお前のだ』
『でも、打つと決めたのは蓮さんです』
少年は答えなかった。
胸の奥が息苦しい。
足も少しずつ重くなっている。
『もう戻ってください』
『分かった』
私は身体の主導権を取り戻そうとする。
胸の奥の熱が薄れる。
少年の姿が、私の隣へ押し出された。
一瞬、足元が揺らぐ。
「美緒!」
近くにいた陽菜が腕を支えてくれた。
「大丈夫?」
「うん。少し息が上がっただけ」
「急に動きが変わったから」
陽菜は私の顔をのぞき込む。
「また、この前みたいだった」
胸が詰まった。
「集中できてたのかも」
「そっか」
陽菜はそう答えた。
けれど、完全には納得していない。
試合はそのまま続いた。
身体は私へ戻っている。
視界も、判断も、いつもの自分のものだ。
白組のボールを奪い、私へパスが来る。
さっきまで見えていた道が消えている。
沙月が近づく。
私は一度、陽菜を見た。
裏へ走ろうとしている。
今なら出せる。
足を振る。
けれど、また失敗が頭をよぎった。
私は近くの味方へ横パスを出した。
少年が隣で息を呑む。
沙月は何も言わず、パスを追って守備へ戻った。
さっきまでの私は、沙月をかわした。
今の私は、勝負を避けた。
同じ身体なのに。
試合終了の笛が鳴った。
紅組が一対〇で勝った。
得点は、私から陽菜へのアシスト。
シュートも一本。
誰が見ても、前半よりいい結果だった。
それなのに、心から喜ぶことができなかった。
◇
「集合」
倉橋監督の声で、両チームがベンチ前へ集まった。
監督は紅白戦の内容を一人ずつ振り返っていく。
守備の連係。
攻撃への切り替え。
声の掛け方。
そして、私の名前が呼ばれた。
「藤崎」
「はい」
「後半のアシストはよかった」
部員たちの視線が集まる。
「相手を一人引きつけてから、小野寺へ出した。あの判断なら、前線の選手を生かせる」
「はい」
「シュートも悪くない。今までなら、あの位置でも横を探していた」
褒められている。
ずっと欲しかった言葉だった。
監督に認めてほしかった。
先発候補に入れてほしかった。
そのために結果を出した。
けれど、その言葉を受け取っているのは私だ。
「次の練習から、先発組でも試す」
胸が大きく鳴った。
「本当ですか?」
「決定ではない。橘と競争してもらう」
「はい!」
反射的に大きな返事が出た。
嬉しい。
先発へ近づいた。
沙月と同じ場所に立てるかもしれない。
隣にいた少年を見る。
喜んでいると思った。
けれど、彼は沙月の方を見たまま、口元を引き結んでいた。
自分のプレーが、誰の立場を動かしたのか。
少年も今になって気づいたようだった。
部員たちが解散する。
陽菜がすぐに駆け寄ってきた。
「やったね、美緒!」
「うん」
「先発組だよ!」
「まだ候補だけど」
「候補になったのがすごいんだって」
陽菜は自分のことのように喜んでいる。
「今日のパス、本当に気持ちよかった。絶対来るって思った」
「私も……通ると思った」
「うん。でも」
陽菜は一瞬だけ、私の目を確かめるように見た。
「途中の美緒、やっぱり少しだけ知らない人みたいだった」
「集中してただけだよ」
「……そっか」
陽菜はそれ以上、追及しなかった。
けれど、笑顔はさっきより少しだけ小さくなっていた。
「次もお願いね」
「うん」
返事をした声が、自分のものではないように感じた。
陽菜が片づけへ向かう。
私はその場に立ったまま、手のひらを見つめた。
この手でパスを出した。
この足で沙月をかわした。
この身体でシュートを打った。
それでも、私がしたことではない。
「藤崎」
声をかけられて振り返る。
沙月が立っていた。
黒髪のボブが、汗で頬に張りついている。
「何?」
「今日のあなた、うまかった」
「……ありがとう」
素直に喜べない。
沙月は私の顔を見たまま、言葉を続ける。
「でも、藤崎らしくなかった」
心臓をつかまれたような気がした。
「どういう意味?」
「そのままの意味」
「私がいいプレーをしたら、おかしいの?」
「そうは言ってない」
沙月の声は冷たくなかった。
責めているわけでもない。
ただ、本当に疑問を感じているようだった。
「前半は、いつもの藤崎だった。見えてるのに迷って、安全な方へ出してた」
何も言えない。
「でも後半、急に迷わなくなった」
「吹っ切れただけだよ」
「そうかもしれない」
沙月は一度、視線を下げた。
「シュートを打つ前、小野寺が右を走ってた」
「それが何?」
「いつもの藤崎なら、あそこでは絶対に小野寺を見る」
沙月は静かに続けた。
「でも、あのときは最初からゴールしか見てなかった」
少年は、陽菜が走っていることに気づいていた。
それでも迷わずシュートを選んだ。
私なら、きっと最後までパスを探していた。
「最後は、また戻ってた」
試合終了前の横パス。
陽菜の動きを見ながら、私は前へ出せなかった。
沙月はそこまで見ていた。
「私がどんなプレーをしても、沙月には関係ないでしょう」
思ったより強い言葉が出た。
「関係ある」
沙月はすぐに答えた。
「同じポジションを争ってるから」
その言葉に、胸が痛んだ。
沙月は自分の力で、この場所に立っている。
守備をして、走って、判断し続けている。
私は誰かの力を借りて、その場所を奪おうとしている。
「今日のあなたが本当の藤崎なら、私ももっと頑張る」
沙月は真っすぐ私を見る。
「でも、そうじゃないなら――」
そこで言葉を止めた。
「何?」
「分からない」
沙月は首を横へ振る。
「ただ、変だった」
それだけ言って、片づけへ戻っていった。
私は追いかけられなかった。
◇
部室を出る頃には、空が薄暗くなっていた。
少年は校門まで何も言わなかった。
いつもなら、試合の場面を一つずつ振り返り、あれがよかった、ここが悪かったと話し続ける。
けれど今日は、私の少し後ろを歩いている。
「何か言ってください」
校門を出たところで、私は立ち止まった。
「何を?」
「結果が出たんですよ」
「そうだな」
「先発組でも試してもらえることになりました」
「聞いてた」
「だったら、少しくらい喜んでくれてもいいでしょう」
少年は私を見た。
その表情は、河川敷で一緒にボールを蹴ったときとは違っていた。
「美緒は嬉しいのか?」
「嬉しいです」
「本当に?」
「何でそんなことを聞くんですか」
「お前、監督に褒められたとき、ずっと下を向いてただろ」
「疲れてただけです」
「橘に言われたことを気にしてるのか?」
「気にしてません」
「嘘つけ」
私は歩き出した。
少年も隣へ並ぶ。
「沙月は、私の事情を知らないだけです」
「知ったら納得すると思うか?」
「知ることはありません」
「そういう話じゃない」
足を止める。
「じゃあ、何が言いたいんですか?」
少年はしばらく黙っていた。
通学路を、自転車に乗った生徒が通り過ぎる。
誰も、私の隣にいる少年を見ない。
誰にも聞こえない声で、少年は言った。
「俺が取った場所に、お前が立っていいのか?」
胸の奥が冷たくなった。
少年は言葉を切る。
「……いや。俺も途中で止めるべきだった」
意外な言葉だった。
「蓮さんが?」
「一回結果が出たら、もっとやれると思った」
少年は自分の右足へ目を落とす。
「試合の中に入ったら、勝ちたくなった。シュートも打ちたくなった」
「だったら、私だけが悪いわけじゃないでしょう」
「そうだな。俺にも責任はある」
少年は否定しなかった。
「でも、最後に身体を貸すと決めたのはお前だ」
「手伝うって言ったのは蓮さんでしょう」
「言った」
「私が身体を貸さなければ、何もできなかったじゃないですか」
「それもそうだ」
「だったら、二人で出した結果でしょう」
「本当にそう思ってるなら、何でそんな顔してるんだ?」
答えられなかった。
少年は私を責めるような目をしていない。
怒ってもいなかった。
自分にも責任があると認めた上で、私へ問いかけている。
それが余計につらかった。
「俺はプレーした」
少年が静かに続ける。
「お前の身体を借りて、俺の判断で沙月をかわして、陽菜へ出した」
「分かっています」
「シュートを打ったのも俺だ」
「分かってるって言ってるでしょう!」
声が大きくなった。
前を歩いていた生徒が振り返る。
私は慌てて俯いた。
少年は何も言わず、私を見ている。
「……分かってます」
今度は小さな声で言った。
監督に褒められたのは私。
先発候補になったのも私。
沙月の場所を奪おうとしているのも私。
けれど、結果を出したのは少年だった。
「でも」
私は胸元で手を握る。
「私だって、試合に出たいんです」
「うん」
「先発になりたい」
「分かってる」
「ずっと沙月に負けて、監督にも信用されなくて……やっと機会をもらえたんです」
少年は否定しなかった。
「少しくらい、力を借りてもいいじゃないですか」
口にしてから、その言葉が胸の中へ重く残った。
少しくらい。
今日だけ。
短い時間だけ。
そう言えば、何度でも借りられる。
少年は私にしか見えない。
誰にも知られない。
結果だけは、すべて私のものになる。
「そうかもな」
少年が言った。
私は顔を上げる。
「でも、それを決めるのは俺じゃない」
「じゃあ、誰ですか?」
「お前だよ」
少年は、まっすぐ私を見た。
「今日の活躍を、自分のものだって思えるかどうかは、お前が決めることだ」
返す言葉がなかった。
少年は先に歩き出す。
私から離れられないため、数歩先で速度を緩めた。
その背中を追いながら、私は右足へ目を落とした。
沙月をかわした足。
シュートを打った足。
陽菜へのパスを通した足。
全部、私の身体だ。
それなのに、試合を思い返すたび、そこにいるのは私ではなかった。
倉橋監督の言葉が蘇る。
先発組でも試す。
ずっと欲しかった機会。
嬉しいはずなのに、胸の奥には、喜びとは違うものが残っている。
私じゃない誰かの活躍を、自分の名前で受け取ってしまった。
その重さを、どうすればいいのか分からなかった。




