第6話 二人で一人の選手
練習が終わるまで、少年はほとんど何も話さなかった。
いつもなら、私が横パスを出しただけでも何か言ってくる。
味方の位置。
相手の重心。
次に空く場所。
聞いてもいないのに、次々と口を挟む。
けれど今日の少年は、少し離れたところから私を見ているだけだった。
自分の両手を何度も確かめている。
あの数秒間に起きたことを、私と同じように理解できていないのだろう。
「藤崎、今日はここまで」
倉橋監督の笛が鳴った。
「はい」
私はピッチの外へ出た。
接触した右肩に痛みはない。
足首にも異常はなかった。
それでも身体の奥には、うまく説明できない疲れが残っていた。
全力で走ったあとの疲労とは違う。
自分の身体を、短い間だけ別の誰かに動かされた。
そんな感覚だけが消えない。
「美緒」
陽菜がタオルを首に掛けながら近づいてくる。
「本当に大丈夫?」
「うん。どこも痛くないよ」
「だったらいいけど」
陽菜は私の顔をじっと見つめた。
「さっきのこと、監督にはたまたまって言ってたよね」
「……うん」
「本当に?」
すぐに答えられなかった。
陽菜は私の返事を待っている。
嘘をつきたいわけではない。
けれど、十七歳の蓮さんが私にしか見えず、その人が身体の中に入ったなどと言っても信じてもらえるはずがない。
「自分でも、よく分からないの」
嘘ではなかった。
「倒れそうになって、気づいたら身体が動いてた」
「無意識に?」
「たぶん」
「そっか」
陽菜は納得しきれていない顔をしていた。
それでも、それ以上は聞かなかった。
「でも、無理はしないでね」
「うん」
「あと」
陽菜は少しだけ頬を膨らませる。
「次は、普通の美緒のパスもちゃんとちょうだい」
「普通の私の?」
「さっきのパス、すごかったけど」
陽菜は一度、言葉を選ぶように視線を落とした。
「私は、いつもの美緒が出してくれるパスも好きだから」
胸の奥が小さく揺れた。
「……ありがとう」
「じゃあ、片づけよう」
陽菜はいつものように笑い、ボールかごの方へ走っていった。
その背中を見送りながら、私は少年を見る。
彼も陽菜を見ていた。
「いいやつだな」
「前にも言ってましたね」
「本当のことだからな」
ようやく口を開いた少年の声は、いつもより静かだった。
◇
帰宅して、自分の部屋へ入る。
「着替えるので、廊下に出てください」
「またかよ」
「当たり前です」
「扉、開けてくれないと出られないんだけど」
「今、開けます」
少年を廊下へ出し、扉を閉める。
急いで制服から動きやすいジャージへ着替えた。
着替えを終えて扉を開くと、少年は廊下の壁にもたれることもできず、腕を組んで立っていた。
「遅い」
「急いだでしょう」
「待ってる方は長く感じるんだよ」
「では、入ってください」
少年が部屋へ戻る。
私は扉を閉め、鞄を床へ置いた。
「説明してください」
「俺に聞くなよ」
「私の身体に入ったのは蓮さんでしょう」
「入ろうと思って入ったわけじゃない」
「『貸せ』って言いましたよね」
「あのままじゃ、お前が倒れてボールを失ってた」
「だからって、普通は人の身体に入りません」
「普通じゃないのは、もう分かってるだろ」
言い返せなかった。
少年は幽霊でもなければ、過去から来た本人とも限らない。
物には触れられず、私から離れることもできない。
今さら普通を求めても意味がないのかもしれない。
「でも、お前も貸すって言った」
少年が続ける。
「言いましたけど……」
「その直後だった」
確かにそうだ。
少年が「貸せ」と言った。
私は「今だけ貸す」と答えた。
そのあとで、彼の手が私の身体の中へ入ってきた。
「もう一度、試してみます」
「今?」
「条件を確認しないと、また勝手に起きるかもしれません」
「勝手にはやってないだろ」
「反射的にやったんでしょう」
「それは……そうだけど」
少年は少し考え、頷いた。
「分かった。やってみる」
私はベッドの前に立つ。
「どうすればいいんですか?」
「さっきと同じじゃないか」
「今は倒れそうになってません」
「じゃあ、お前が貸すって言えばいい」
簡単に言う。
けれど、一度経験したあとでは、軽く口にできなかった。
自分の身体が自分の意思で動かなくなる。
意識は残っているのに、手も足も別の人が動かす。
思い出すだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
「やっぱり、怖いのか?」
「怖くないとは言ってません」
「無理ならやめるぞ」
意外な言葉だった。
「やらないんですか?」
「お前が嫌がってるのに、無理やり入れるかよ」
「入れるかもしれないでしょう」
「今、試せば分かる」
少年は私の前へ立った。
「とりあえず、俺が入ろうとしてみる」
「待ってください。まだ心の準備が」
「入れないかもしれないだろ」
少年が手を伸ばしかける。
私は反射的に一歩下がった。
「やっぱり嫌です」
「分かった。入ろうとはしない」
少年は一度手を下ろした。
「でも、触れるだけなら何も起きないか確かめてもいいか?」
少しためらってから、私は頷いた。
「……触れるだけなら」
少年の指先が、慎重に私の胸元へ伸びる。
あのときのような熱は来なかった。
手は抵抗なく身体を通り抜け、背中側へ抜けていく。
「……何も起きない」
「本当に?」
「今までと同じだ」
もう一度、慎重に手を伸ばす。
やはり何も起きない。
私の身体に熱は生まれず、意識も揺れなかった。
「じゃあ、蓮さんが一方的に入ることはできない?」
「たぶんな」
「今度は、私が許可します」
「大丈夫なのか?」
「数秒だけです」
深く息を吸う。
怖い。
それでも、条件を知らないままの方がもっと怖かった。
「……試すことには同意します」
何も起きない。
少年も私も、しばらく黙っていた。
「言い方の問題か?」
「違うと思います」
私は胸元へ手を当てる。
試すことに同意しただけだった。
少年へ身体を預ける覚悟まではしていなかった。
あのときの私は、心から彼の力を求めていた。
陽菜へパスを出したかった。
倒れたくなかった。
少年なら何とかしてくれると思った。
ただ言葉にするだけでは足りないのだ。
試すだけではない。
本当に少年に、自分の身体を任せなければならない。
私は目を閉じる。
たった数秒だけ。
そう心の中で決める。
「蓮さん」
「何だ?」
「今だけ、私の身体を貸します」
胸の奥が熱くなった。
「来た」
少年の声が近くなる。
目を開ける。
目の前にいた少年の輪郭が、橙色の光に包まれていた。
その身体が前へ傾く。
私の胸元へ重なる。
一瞬、息が止まった。
少年の姿が消える。
次の瞬間、身体の内側から声が聞こえた。
『聞こえるか?』
耳からではない。
頭の奥に直接響く声だった。
『聞こえます』
声には出していない。
そう思っただけなのに、少年へ伝わった。
『聞こえた。中にいる間は、声にしなくても話せるみたいだな』
『私の考えていることを、全部読めるんですか?』
『いや。今の返事は聞こえたけど、それ以外までは分からない』
少しだけ安心した。
『俺も、お前が見てるものが見える』
視界はいつもの部屋だった。
机。
ベッド。
棚の上の古いスパイク。
けれど、物の見え方が少し違う。
どこまで足を伸ばせるか。
どの方向へ身体を動かせるか。
立っているだけなのに、周囲の空間がすべて動きへつながって見えた。
『今、身体を動かしてるのは?』
『俺だ』
右手が持ち上がる。
私の意思ではない。
指を開き、握る。
自分の手なのに、少し遠く感じる。
『私の意識は残っています』
『俺の声も聞こえてる。だったら、内側で話しながら動けるな』
『歩いてみてもいいですけど、ゆっくりお願いします』
『分かってる』
右足が前へ出る。
身体の重心が、普段より前へ傾く。
少年は二歩目を大きく踏み出そうとした。
けれど、私の足は彼が思っていた位置まで届かなかった。
『短い』
『何がですか』
『歩幅』
『失礼ですね』
『悪口じゃない。俺の感覚と違うんだ』
三歩目。
少年は今度こそ歩幅を合わせた。
けれど重心が前へ寄りすぎ、身体がわずかに傾く。
『危ない!』
『分かってる』
左足を出して踏みとどまる。
その動きは、普段の私より素早かった。
けれど、身体そのものが軽くなったわけではない。
少年が思い描いた動きに、私の身体が追いついていない。
『少し走れるか?』
『部屋の中ですよ』
『その場で足を動かすだけだ』
『ゆっくりなら』
足が交互に動く。
その場で軽くステップを踏む。
最初の数歩は問題なかった。
けれど、少年はすぐに速度を上げた。
『ちょっと、速いです』
『このくらいなら――』
右足を軸に、身体がひねられる。
ターンするつもりらしい。
『待って!』
少年は自分の身体と同じ感覚で、強く床を蹴った。
けれど、私の脚には彼と同じ筋力がない。
踏み込んだ足が滑った。
『え?』
重心が外れる。
視界が大きく傾いた。
『止めて!』
身体がベッドの横へ倒れ込む。
右肩が布団へぶつかり、そのまま床へ膝をついた。
右足首に、引っ張られるような違和感が走る。
「痛っ!」
怪我をしたというほどではない。
それでも、普段とは違う方向へ無理にひねられたことは分かった。
もうやめて。
そう強く拒んだ瞬間、胸の奥の熱が弾けた。
少年の姿が、私の身体から押し出される。
橙色の光が散り、彼はベッドの横に立っていた。
私は床へ座り込み、右足首を押さえる。
「美緒!」
少年がしゃがみ込む。
触れようとした手は、やはり私の身体を通り抜けた。
「大丈夫か?」
「大丈夫に見えますか?」
「今、俺を追い出したのか?」
「分かりません。止めてって思ったら、急に……」
少年は少し考え込む。
「入るにはお前の同意が必要で、お前が拒めば途中でも解除できるのか」
「私の身体なんだから、当然です」
足首をゆっくり動かす。
強い痛みはない。
けれど、同じ動きを続ければ、本当に痛めるかもしれなかった。
「お前、今のまだ痛いのか?」
「少し違和感があります」
「俺は、抜けた瞬間に消えた」
少年が自分の足首を見る。
「中にいたときは、確かに痛かったのに」
「蓮さんは消えても、私はこの身体を明日も使うんです」
言いかけて、口を閉じる。
少年は痛みを感じなかったわけではない。
ただ、彼には何も残らない。
それでも、私には続きがある。
「だから、勝手に無理をしないでください」
「悪かった。痛めるつもりはなかった」
「これは私の身体なんだから、ちゃんと合わせてください」
「分かってる。でも、勝手にっていうのは違うだろ。お前も許可した」
「ターンして転んでいいとは言ってません」
「俺は普通にターンしただけだ」
「蓮さんにとっては普通でも、私には普通じゃないんです!」
「お前がもっと思い切って動かないから、どこまでできるか分からなかったんだよ」
「だから試したんでしょう!」
「俺だって、お前の身体がここまで違うとは思わなかった」
「男子と女子なんだから違って当然です」
「身長も筋力も違うのは分かってた。でも、実際に動かすと――」
「言い訳しないでください」
少年の眉がつり上がる。
「言い訳じゃない。次は合わせればいい」
「次もやるつもりですか?」
「条件は分かっただろ」
「分かったからって、使うとは言ってません」
「でも、今日のパスは通った」
その言葉に、胸が詰まった。
陽菜へ通した決定的なパス。
監督も、沙月も、チームメイトも驚いていた。
あれができれば、試合で結果を出せるかもしれない。
沙月から先発の座を奪えるかもしれない。
けれど、あれは私の判断でも、私の技術でもなかった。
「黙るなよ」
「考えてるんです」
「お前は考えすぎなんだ」
「蓮さんは考えなさすぎです」
「何だと?」
「私の身体なのに、自分の身体みたいに使うから転んだんでしょう」
「お前が普段からもっと思い切って動いてれば、身体もついてくる」
「それとこれとは別です!」
声が大きくなる。
廊下から足音が近づいてきた。
「美緒?」
お姉ちゃんの声だった。
私は慌てて立ち上がろうとした。
足首へ力を入れると、先ほどの違和感がわずかに戻る。
「どうしたの?」
扉が開き、お姉ちゃんが顔をのぞかせた。
私は床へ座り込んだまま、慌てて笑った。
「ちょっと足を滑らせただけ」
「足、大丈夫?」
「うん。ひねったわけじゃないけど、少し変な感じがして」
お姉ちゃんが部屋へ入ってくる。
少年は立ち上がり、邪魔にならないように壁際へ避けた。
「部活で?」
「家で」
「家で何してたの?」
「その……ターンの練習」
「部屋の中で?」
「急に試したくなって」
お姉ちゃんは呆れたように息を吐いた。
「サッカーが好きなのは分かるけど、部屋でやることじゃないでしょう」
「ごめんなさい」
「念のため冷やそう。明日も部活でしょう?」
「大丈夫。自分で行くから」
「変な感じがする人が無理しないの」
お姉ちゃんはそう言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
私は壁際の少年をにらんだ。
「ほら。心配かけたでしょう」
「悪かったって言ってるだろ」
「ちゃんと反省してください」
「してる」
「顔に出てません」
「お前、本当に昔より面倒くさくなったな」
「誰のせいですか!」
また声が大きくなりそうになり、慌てて口を押さえた。
少年は小さく笑った。
「何がおかしいんですか」
「いや。お前、前よりちゃんと言い返すようになったと思って」
「褒めてませんよね」
「半分は褒めてる」
「残り半分は?」
「面倒くさい」
「やっぱり褒めてないじゃないですか」
足首にはわずかな違和感が残っている。
腹も立っている。
それなのに、少年とこうして言い合っていると、少しだけ昔に戻ったような感覚があった。
幼い頃も、蓮さんは私をからかった。
私が怒ると笑い、次の瞬間には何事もなかったようにボールを差し出した。
その頃の時間が、今になって続いている。
そんな気がした。
◇
翌日の放課後。
足首の違和感は、もうほとんど残っていなかった。
軽く走っても問題はない。
それでも念のため、部活が終わったあとに無理な動きをしないと少年へ何度も約束させた。
「ここなら転んでも部屋よりましです」
私たちが来たのは、川沿いの小さな公園だった。
古びたフェンス。
土がむき出しになった広場。
片側にだけ置かれた、小さなサッカーゴール。
幼い頃、私が蓮さんと何度もボールを蹴った場所だ。
「懐かしいな」
少年が周囲を見回す。
「覚えてるんですね」
「当たり前だろ。何回来たと思ってるんだ」
私は鞄からボールを取り出し、地面へ置いた。
「物には触れられないんですよね」
「お前が触ってないと無理だな」
「昨日、憑依したときは普通に蹴れました」
「あれはお前の身体を使ってたからだろ」
「じゃあ、今は?」
私は右足をボールの上へ置いた。
少年が近づく。
「触ってみてください」
「手で?」
「どちらでも」
少年がしゃがみ込み、ボールへ手を伸ばす。
指先が表面に触れた。
今までのように、すぐ通り抜けることはなかった。
「触れる」
少年の顔が明るくなる。
「どんな感じですか?」
「薄い」
「薄い?」
「本当に触ってるっていうより、お前が感じてるものが少し流れてくる感じだ」
少年は指先でボールの表面をなぞる。
「硬さも分かる。縫い目も」
その声が、子どものように弾んでいた。
「お前、足を離してみろ」
言われたとおり、ボールから足を離す。
同時に、少年の指先が表面を通り抜けた。
「やっぱり駄目か」
「私が触ってる間だけですね」
「もう一回」
私は足を乗せる。
少年も再びボールへ手を触れた。
今度は目を閉じている。
「サッカーボールだ」
「見れば分かるでしょう」
「そういう意味じゃない」
少年は目を開けた。
「昨日、身体に入ったときは余裕がなかった。でも今は、ちゃんと分かる」
ボールを見つめる顔に、迷いはなかった。
現在の蓮さんが、もう見せなくなった表情。
少年は今も、サッカーへ触れられることを心から喜んでいる。
「蹴ってみますか?」
「どうやって?」
「私が蹴るので、足を重ねてみてください」
私はボールの横へ立ち、靴の内側を軽く当てた。
少年が私の足元へ立つ。
自分の足を、私の靴へ重ねるように動かした。
「いくぞ」
「実際に動かすのは私ですからね」
「分かってる」
私はゆっくりと足を押し出した。
ボールが少しだけ転がる。
「分かった」
少年の顔が明るくなった。
「蹴った感触が、少しだけ伝わった」
「私が蹴ったんです」
「分かってる。でも、俺にも感触はあった」
少年が笑う。
「もう一回」
「子どもみたいですね」
「久しぶりなんだから仕方ないだろ」
私はボールを追い、また足を当てる。
少年が私の足へ自分の足を重ねる。
一度。
二度。
三度。
ボールをゆっくり転がしながら、公園の中を進んでいく。
実際に蹴っているのは私だ。
少年の足は、私の靴へ重なっているだけ。
それでも彼には、わずかにボールの感触が伝わっている。
「もっと強く」
「昨日のことを忘れたんですか?」
「蹴るだけなら大丈夫だろ」
「私が加減します」
「分かってる」
右足を振る。
少年の足も重なる。
ボールは地面を転がり、小さなゴールの横を通り過ぎた。
「外した」
「蓮さんが合わせにくいからです」
「俺は感触をもらってるだけだろ。お前の狙いが悪い」
「私一人なら入ってました」
「じゃあ、次は入れろ」
「簡単に言わないでください」
「最初から無理だと思ってたら入らないぞ」
「それ、前にも聞きました」
「何度でも言う」
私はボールを拾い、元の位置へ戻す。
少年も隣へ並ぶ。
次は少し右を狙う。
足を振る。
少年の足が重なる中、ボールがゴールの中央へ転がっていった。
「入った!」
少年が声を上げる。
「こんなに近いんだから、入って当然です」
「素直に喜べよ」
「蓮さんが喜びすぎなんです」
そう言いながら、私も笑っていた。
ずっと昔。
この場所で、私は何度もボールを空振りした。
蓮さんは笑わずに、もう一度と言ってボールを置き直してくれた。
初めてゴールへ入ったときは、私以上に喜んでくれた。
今、隣にいる少年も同じ顔をしている。
失ったと思っていた時間が、少しだけ戻ってきたようだった。
「変な感じだな」
少年が転がったボールを見ながら言った。
「何がですか?」
「俺一人じゃ触れない。でも、お前と一緒ならボールを蹴れる」
「それだけでしょう」
「それだけじゃないだろ」
少年は私を見る。
「お前だって、俺がいると少しは前を向ける」
「それは……」
「違うか?」
すぐには否定できなかった。
昨日、倒れそうになったあの瞬間、私は少年に身体を貸した。
自分一人では出せなかったパスを、彼は迷わず陽菜へ通した。
あれを私の力だと思うことはできない。
それでも、少年が隣にいると、今までより前を見ようと思えるのも事実だった。
少年は、夕日に照らされた顔で笑った。
「今だけは、二人で一人の選手みたいだ」
二人で一人。
その言葉が、なぜか胸の奥に残った。
「美緒」
「何ですか?」
「もう一回やろう」
「まだやるんですか?」
「暗くなるまで」
「宿題があります」
「あと十回」
「三回です」
「少なすぎる」
「昨日、私の足を痛めかけた人に決定権はありません」
「じゃあ五回」
「四回」
「分かった」
少年は不満そうに言った。
それでも口元は笑っている。
私もボールを置き直す。
二人なら、できることが増える。
けれど、動かされる身体も、残る痛みも、私のものだ。
そのことだけは、忘れてはいけない。
「今度は左を狙います」
「分かった」
「勝手に動かそうとしないでくださいね」
「今は感触しか伝わってないだろ」
「念のためです」
「信用ないな」
「当然です」
二人の声が重なる。
夕暮れの河川敷を、ボールがゆっくりと転がっていった。




