第5話 別の選手みたいに
「本当に学校まで来るんですか?」
玄関でスニーカーの紐を結びながら尋ねると、少年は当然のように頷いた。
「お前から離れられないんだから、仕方ないだろ」
「教室では静かにしてくださいね」
「分かってる」
「昨日もそう言いました」
「できるだけ静かにするって言ったんだ。絶対に話さないとは言ってない」
「今から約束を変えないでください」
立ち上がり、鞄を肩へ掛ける。
少年は、四年前の高校の制服姿のまま、玄関の前で腕を組んでいた。
今の私が通う県立青葉高校とは違う、紺色のブレザー。
姿が見える人はいないとしても、知らない男子生徒を学校へ連れていくようで落ち着かなかった。
「美緒、朝から誰と話してるの?」
背後から声を掛けられ、肩が跳ねた。
振り返ると、お姉ちゃんがリビングから顔をのぞかせていた。
黒に近い焦げ茶色の髪を低い位置でまとめ、淡い水色のカーディガンを羽織っている。
「ひ、一人です」
「一人で言い合いしてたの?」
「今日の予定を確認してただけ」
「予定に反論されてなかった?」
「気のせいだよ」
お姉ちゃんは不思議そうな顔をしたものの、それ以上は追及しなかった。
「今日も部活?」
「うん。今日は部内でゲーム形式の練習がある」
「頑張ってね」
「ありがとう。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関の扉を開けると、少年は待っていたように私より先に廊下へ出た。
お姉ちゃんの横を通るとき、ほんの少しだけ歩みを緩める。
「千春、今日も大学か?」
もちろん、その声はお姉ちゃんには届かない。
「髪、本当に長くなったな」
少年は名残惜しそうに振り返った。
私は小さな声で呼ぶ。
「蓮さん、行きますよ」
「分かってる」
「美緒?」
「何でもない! 行ってきます!」
扉を閉め、足早に階段へ向かった。
「学校では絶対に話しかけないでください」
「さっきのは学校じゃないだろ」
「外でも独り言だと思われます」
「お前が返事しなければいい」
「一方的に話しかけるつもりなんですね」
少年は否定しなかった。
◇
「おはよう、美緒!」
校門の前で、明るい声が飛んできた。
小柄な身体が、こちらへ駆けてくる。
明るい茶色の髪を短いポニーテールにまとめた陽菜だった。
「おはよう」
「今日はちゃんと眠れた?」
「どうして?」
「昨日から返信遅かったし、朝からちょっと疲れた顔してる」
眠っている間、少年がどうなっているのか気になり、何度か目を覚ました。
目を開けるたび、少年は部屋の窓際に立っていた。
本人も眠っていたのか、意識が薄れていただけなのか分からないと言っていた。
「少し考え事してただけ」
「またサッカー?」
「それもあるけど……」
陽菜の隣を歩きながら、少年を横目で見る。
少年は校門を見上げていた。
「ここが美緒の学校か」
返事をしてはいけない。
私は前だけを見る。
「グラウンド、狭くないか?」
無視する。
「男子と一緒に使ってるんだろ?」
聞こえないふりをする。
「おい、美緒」
答えない。
「無視するなよ」
「美緒?」
陽菜が私の顔をのぞき込む。
「何か聞こえた?」
「聞こえてない」
「何も聞いてないけど」
「そ、そうだよね」
「今日、本当に変だよ?」
陽菜が心配そうに眉を下げる。
「体調悪いなら、部活は無理しない方がいいよ」
「大丈夫。体調は悪くないから」
「ならいいけど」
陽菜はまだ納得していない様子だった。
「こいつが陽菜か?」
少年が陽菜の顔をのぞき込む。
陽菜は何も気づかず、私の隣を歩いている。
「河川敷に何度か来てた、小さい子だろ」
どうやら、陽菜のことも覚えているらしい。
私と陽菜は中学からの友達だけれど、小学生の頃にも何度か河川敷で一緒にボールを蹴ったことがある。
「昔より髪が短くなったな。小さいのは変わってないけど」
思わず少年をにらんだ。
「どうしたの?」
陽菜が首を傾げる。
「何でもない」
「今日、そればっかりだね」
少年が声を殺して笑った。
◇
一時間目が始まって、十分。
私は早くも少年を学校へ連れてきたことを後悔していた。
「この問題、何やってるんだ?」
黒板の前では、数学の教師が数列について説明している。
「数字がずっと並んでるぞ」
聞こえないふりをする。
「美緒、分かるのか?」
教科書から顔を上げない。
「俺は全然分からない」
昨日、自分で言っていた。
授業中はできるだけ静かにする、と。
けれど少年の「できるだけ」は、私の考えていたものとはかなり違った。
「四年後なのに、授業はあんまり変わってないな」
少年は私の机の横へしゃがみ込み、教科書をのぞく。
「でも、俺の学校ではここまで進んでなかった気がする」
シャープペンシルを握る手に力が入る。
「なあ、次のページ、めくってくれ」
無視する。
「美緒」
無視する。
「聞こえてるだろ」
無視する。
「さっきから同じところに線引いてるぞ」
見ると、教科書の一文の下に何重もの線を引いていた。
慌てて手を止める。
その瞬間、教師と目が合った。
「藤崎」
「はい!」
「ずいぶん熱心に線を引いているな。次の答えは?」
「えっと……」
黒板を見る。
何を聞かれているのか分からない。
「蓮さんのせいです」
小さく呟く。
「俺は知らないぞ」
「藤崎?」
「すみません。分かりません」
教室のあちこちから笑い声が上がった。
教師は呆れたように息を吐き、別の生徒を指名した。
「最初から俺に聞けばよかったのに」
「分からないって言ってたでしょう」
声を抑えて言い返す。
前の席の生徒が振り返った。
「藤崎、何か言った?」
「何でもない」
まただ。
この調子では、一日も持たない。
休み時間になった瞬間、私は少年を廊下の端へ連れ出した。
「話しかけない約束でしたよね」
「できるだけ静かにしてただろ」
「ずっと話してました」
「大声は出してない」
「声の大きさの問題じゃありません」
「誰にも聞こえないんだからいいだろ」
「私には聞こえるんです!」
通りかかった生徒が、驚いたようにこちらを見る。
私は慌てて口元を押さえた。
少年は面白そうに笑っている。
「今の方が目立ってるぞ」
「誰のせいですか」
「お前が返事するからだろ」
「もう本当に無視します」
「分かった。次は黙る」
「本当ですか?」
「たぶん」
「絶対に黙ってください」
予鈴が鳴る。
教室へ戻ろうとすると、少年が私の後ろをついてきた。
「でも、学校って退屈だな」
私は返事をしなかった。
「部活は何時からだ?」
無視する。
「サッカーは見るからな」
その一言だけ、少し楽しそうだった。
◇
放課後。
更衣室で練習着に着替えた私は、グラウンドへ向かった。
着替えている間、少年には廊下で待ってもらった。
戻ってきた彼は不満そうだったけれど、約束は守っている。
「やっとサッカーか」
グラウンドへ出た瞬間、少年の表情が変わった。
授業中の退屈そうな顔が消える。
練習中の選手たちへ、鋭い視線を向けていた。
ピッチでは、先に出ていた部員たちが二人一組でパスを回している。
「部員は二十人くらいか」
少年が全体を見渡す。
「専用グラウンドじゃないんだな」
少し離れた場所では、陸上部が準備を始めていた。
男子サッカー部が使う時間まで、私たちに与えられているのは限られている。
「強いのか?」
私は周囲に人がいないことを確かめ、小さく答えた。
「県大会では、だいたいベスト八です」
「全国は?」
「出たことありません」
「じゃあ、今年出ればいい」
少年は簡単に言った。
「簡単に言わないでください」
「最初から無理だって思ってたら、出られるものも出られないだろ」
その言葉に、昨日の現在の蓮さんが重なる。
少年にとって、夢は目指して当然のものなのだ。
できるかどうかではなく、やるかどうか。
それが今の彼のすべてだった。
「美緒、アップ始めるよ!」
陽菜が手を振っている。
「今行く!」
私は部員たちの列へ加わった。
少年も、当然のようにその横までついてくる。
ジョギング。
ストレッチ。
ボールを使った基礎練習。
彼は最初こそ女子サッカー部の練習を珍しそうに見ていたが、すぐに選手一人ひとりの動きを追い始めた。
「あの短い髪の三年、センターバックだろ」
主将の真帆先輩を指している。
「身体を入れるのがうまい。相手が触る前に進路を消してる」
次に、黒髪のボブを揺らしながらボールを受ける沙月を見る。
「あいつ、派手じゃないけど判断が早いな」
沙月はボールを受ける前に周囲を確認し、少ないタッチで味方へつないでいる。
パスを出したあとも止まらず、すぐに次の位置へ動く。
「守備に戻るのも早い。監督が使いやすいのは、ああいう選手だ」
少年の分析は的確だった。
「女子だからって、もっと遅いと思ってた?」
小声で聞く。
「思ってない」
少年は選手たちから目を離さなかった。
「男子より身体の当たりは弱いけど、その分、ボールを動かすのが早い。無駄に持たない選手が多いな」
軽く見ている様子はなかった。
むしろ自分の知らないサッカーを見るように、楽しそうだった。
「お前は?」
「何がですか?」
「どんなプレーするんだ」
「見れば分かります」
「それを今から見るんだよ」
なぜか少し緊張した。
幼い頃、蓮さんとは何度もボールを蹴った。
けれど、試合形式で私のプレーを見てもらったことはほとんどない。
憧れていた人に、今の自分を評価される。
そう考えると、監督に見られるときとは違う緊張が胸に広がった。
「藤崎、集中して」
沙月の声で我に返る。
「ごめん」
私の足元へパスが来る。
右足で止め、前を見る。
少し離れた位置で、陽菜が動き出していた。
守備役の背後。
今なら通せる。
そう思った瞬間、失敗したときの光景が浮かぶ。
パスが弱くなり、相手に奪われる。
カウンターを受ける。
私の判断で、チーム全体に迷惑を掛ける。
私は陽菜ではなく、横にいる沙月へボールを渡した。
沙月は一度で前を向き、迷わず陽菜へ縦パスを通した。
「ほら」
少年の声が飛んでくる。
「今、陽菜が走っただろ」
聞こえていた。
けれど、練習中に返事はできない。
「見えてたよな?」
次のボールを受ける。
今度は後ろへ戻す。
「また横かよ」
少年の声が苛立ちを帯びる。
「前が空いてただろ」
相手役の選手が距離を詰めてきた。
私は安全な位置にいる味方へパスを出す。
少年が私のすぐ横へ並んだ。
「陽菜が走ったのに、なんで出さなかった?」
分かっている。
私だって見えていた。
「見えてなかったわけじゃないだろ」
黙ってプレーを続ける。
「失敗するのが怖いからだろ」
胸の奥を直接突かれたようだった。
「安全なパスじゃない」
少年は容赦なく続ける。
「責任から逃げただけだ」
足元のボールが少し浮いた。
相手役の選手に奪われる。
「美緒、切り替えて!」
陽菜の声で追いかける。
けれど一歩遅れた。
「藤崎!」
倉橋監督の鋭い声が飛ぶ。
「取られたあとに止まらない!」
「はい!」
走って守備へ戻る。
どうにか相手の進路を塞ぎ、味方がボールを奪い返した。
練習が一度止まる。
「美緒、大丈夫?」
陽菜が近づいてきた。
「大丈夫」
「今日、ちょっと集中できてないよ」
「分かってる」
「分かってるなら出せよ」
少年が横から口を挟む。
思わず彼をにらんだ。
「何?」
陽菜が振り返る。
「何でもない」
「またそれ?」
陽菜は頬を膨らませた。
「何かあるなら言ってよ。さっきから変だよ」
「本当に何でもないから」
「だったら、次は出してね」
陽菜は真っすぐ私を見る。
「外しても、私の責任だから」
「でも、届かなかったら――」
「届かなくても走るよ」
迷いのない言葉だった。
「美緒が見つけてくれると思って走ってるんだから」
陽菜はそう言って、元の位置へ戻った。
「いい仲間じゃないか」
少年が呟く。
「だったら、なおさら出せよ」
分かっている。
分かっているのに、身体が動かない。
◇
基礎練習のあと、紅白に分かれて、短いゲーム形式の練習が始まった。
沙月が先発組の攻撃的ミッドフィルダーに入り、私は控え組としてベンチ脇に立っていた。
少年は私の隣で試合を見ている。
「橘は安定してるな」
沙月はボールを受ける前に首を振り、味方の位置を確かめている。
縦が塞がれていれば横へ。
前を向けるなら迷わず縦へ。
ボールを失えば、すぐ守備に戻る。
派手なプレーはない。
それでも、沙月が中央にいるとチーム全体が落ち着いて見えた。
「お前より信用されてる理由、分かった」
少年が言う。
「聞いてません」
「判断を途中で変えない。出すと決めたら出す」
「沙月は失敗しないから」
「違うだろ」
少年が私を見る。
「失敗しそうでも、判断したプレーを最後までやるんだ」
反論できなかった。
「藤崎!」
倉橋監督に呼ばれる。
「はい!」
「次、沙月と交代。中央に入って」
「分かりました」
ビブスを受け取り、頭からかぶる。
隣で少年が笑った。
「見せてもらうぞ」
「静かにしててください」
「いいプレーしたらな」
「余計に緊張することを言わないでください」
ピッチへ入ると、沙月がこちらへ歩いてきた。
「中央、相手の六番が前へ食いつくから、その後ろは空く」
「分かった」
「陽菜も何度かそこを狙ってる」
沙月は私の目を見る。
「見えてるなら、出せばいいから」
入部して間もない頃、監督に言われた言葉と重なる。
見えているのに、見えていないふりをする。
沙月と交代し、中央へ入った。
笛が鳴る。
味方のセンターバックからボールが来る。
後ろから相手が近づいている。
「右!」
少年の声。
右足で止め、身体を開く。
陽菜が前線から下がり、ボールを受けようとしていた。
その背後を別の味方が走る。
「奥が空いてる!」
見えている。
でも、相手の足が届くかもしれない。
私は陽菜の足元へ短いパスを出した。
陽菜は囲まれ、後ろへ戻すしかなかった。
「今のは奥だろ!」
通らなかったかもしれない。
「通ったかどうかじゃない。出せたのに出さなかっただろ」
簡単に言わないでほしい。
「簡単な話だ。味方が走った。お前には見えた。それなら出せ」
失敗したら、どうするの。
「次に取り返せばいい」
返事をしていないのに、私の考えていることが分かっているようだった。
それが簡単にできる人だから、そう言えるのだ。
少年は高校時代のエースだった。
失敗しても、次のプレーを任せてもらえた。
私は違う。
一度失敗すれば、また沙月と交代させられるかもしれない。
次のボールが来る。
相手を背負いながら受ける。
「前を向け!」
無理。
「まだ来てない!」
相手の気配に焦り、後ろへ返す。
「藤崎、消極的にならない!」
監督の声が飛んだ。
分かっている。
それでも怖い。
数分後、陽菜がまた走った。
相手のセンターバックとサイドバックの間。
今度こそ。
右足を振ろうとした。
けれど、最後の瞬間に迷い、ボールを横へずらす。
「何でだよ!」
少年の声が響いた。
私の中に苛立ちが湧く。
「蓮さんには分からない!」
思わず声が漏れた。
近くにいた味方がこちらを見る。
私はごまかすようにボールを追った。
「何が分からないんだ」
少年は私の横を走る。
足音はしない。
息も乱れていない。
失敗したら、私は外される。
「だから何だ」
蓮さんはエースだった。
何度失敗しても使ってもらえた。
私は違う。
沙月の方が安定している。
監督も沙月を信用している。
「今のお前は、失敗しない代わりに何もしてないだろ」
足が止まりそうになった。
「横へ出して、後ろへ戻して。それでボールを失わなければ満足か?」
チームに迷惑を掛けるよりいい。
「陽菜が走ったのに、出さない方が迷惑だろ」
そんなこと――。
「お前のパスを信じて走ってるんだぞ」
少年の言葉が胸に刺さる。
「安全なプレーと、逃げるプレーは違う」
真帆先輩にも、似たことを言われた。
私は何も答えられなかった。
「藤崎、集中!」
「はい!」
倉橋監督の声に返事をし、前を向く。
相手チームの選手がボールを持っていた。
パスが中央へ入る。
私は相手へ寄せる。
相手が身体を入れ、ボールを守った。
取り切れない。
かわされる。
「戻れ!」
少年の声に反応し、追いかける。
味方のセンターバックがボールを奪い、すぐ私へパスを出した。
相手の守備が整う前。
前にはスペースがある。
「運べ!」
少年が叫ぶ。
私はボールを前へ運ぶ。
右側を陽菜が走り始めた。
中央では別の選手が相手を引きつけている。
今なら通せる。
「今だ!」
右足を振る。
けれど、相手の選手が斜め前から飛び込んできた。
怖い。
ぶつかる。
反射的に身体を引いた。
肩に強い衝撃が走る。
「美緒!」
陽菜の声が聞こえた。
身体が傾く。
足がもつれた。
地面が近づいてくる。
倒れる。
その瞬間、少年が目の前にいた。
「貸せ!」
明るい茶色の瞳が、まっすぐ私を見る。
何を、と聞く余裕はなかった。
このまま倒れれば、ボールを失う。
陽菜が走っている。
今度こそ、パスを出したい。
「……お願い。今だけ、貸す!」
声にしたのか、心の中で叫んだのか分からなかった。
少年の手が、私の胸元へ伸びる。
指先が身体に触れた。
今までは、私に触れようとしても通り抜けていたはずなのに。
その手は、私の身体の中へ沈んでいった。
熱い。
胸の奥へ、火が飛び込んできたようだった。
景色が揺れる。
一瞬だけ、身体の感覚が遠ざかった。
次の瞬間。
世界が広がった。
倒れかけているはずなのに、周囲のすべてが見えた。
右側を走る陽菜。
中央を塞ごうとする相手。
左から上がってくる味方。
私へ接触した選手の重心。
足の向き。
身体の傾き。
ほんのわずかに空いた、相手の右側。
普段の私も、周囲を見ている。
けれど今は、見えるだけではなかった。
どこへ動けばいいのか。
誰へ出せばいいのか。
それが考えるより先に分かる。
倒れかけた身体が、右足を踏み込んだ。
私の意思ではない。
けれど、少年が考えていたより、私の歩幅は短かった。
踏み込んだ足がわずかにずれ、膝が揺れる。
少年は思い描いた動きを変え、倒れないことを優先するように身体を反転させた。
「え――」
声が漏れる。
私は確かにここにいる。
自分の目で見ている。
自分の足で立っている。
それなのに、身体を動かしているのは私ではなかった。
相手の足が伸びる。
少年は――私の身体は、ボールを左へ運びながら、右足の裏でわずかに引いた。
完璧ではなかった。
それでも、相手の重心を外すには十分だった。
空いた横を抜ける。
視界の端で、陽菜が守備の背後へ走っていた。
少年なら、ここから自分でシュートを狙うのかもしれない。
そう思った。
けれど私の右足は、迷わずボールを押し出した。
相手のセンターバックとサイドバックの間。
陽菜の進む先へ。
鋭いパスが、地面を滑る。
「陽菜!」
自分の声が聞こえた。
でも、普段より低く、強い声だった。
陽菜が走りながら右足でボールを受ける。
そのままゴール前へ進み、シュートを放った。
ボールがネットを揺らす。
「ナイス!」
味方の声が上がった。
その瞬間、胸の奥にあった熱が消えた。
身体の重さが一気に戻ってくる。
視界が狭くなる。
膝から力が抜け、私はその場に手をついた。
「美緒!」
陽菜が駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
「う、うん……」
一度、うまく息を吸えなかった。
胸元を押さえ、ゆっくり呼吸を整える。
全力で数歩走っただけなのに、身体の内側だけが急に疲れたようだった。
「さっきの、何?」
「何って……」
「あの切り返し。美緒、あんなの練習してた?」
「してないけど……」
「だよね」
陽菜は笑おうとした。
けれど、その目には少しだけ戸惑いが残っていた。
「すごかったけど……さっきの美緒、ちょっと怖かった」
答えられない。
少し離れた場所に、少年が立っていた。
自分の両手を見つめ、呆然としている。
「今の……俺がやったのか?」
少年にも、何が起きたのか分かっていないらしい。
「藤崎」
倉橋監督の声がして、顔を上げる。
監督は腕を組み、こちらをじっと見ていた。
「足は?」
「大丈夫です」
「接触したとき、痛めなかった?」
「はい」
監督は私の足元を確かめたあと、視線を上げた。
「それと、今のプレー。どうしたの?」
「どうした、とは……」
「さっきまでと、判断がまるで違った」
監督は、陽菜へ通したパスの軌道を確かめるようにピッチを見る。
「切り返しも、身体の使い方も」
周囲の部員たちも私を見ていた。
沙月も、ベンチの近くから無言でこちらを見つめている。
「できるなら、どうして今までやらなかったの?」
答えが見つからない。
あれは私のプレーではない。
身体は私のものだった。
けれど、判断したのも、相手をかわしたのも、パスを出したのも少年だ。
「……たまたまです」
ようやく、それだけ答えた。
「たまたま?」
「倒れそうになって、無我夢中で」
倉橋監督は納得していない顔だった。
それでも練習を止め続けることはせず、短く息を吐いた。
「分かった。続けて」
「はい」
私は自分の位置へ戻ろうとした。
そのとき、監督の小さな声が聞こえた。
「今の藤崎……」
足が止まる。
「別の選手みたいだった」
振り返れなかった。
少年を見る。
彼も私を見ていた。
いつもの自信に満ちた表情ではない。
戸惑いと驚きが混じった顔。
「美緒」
少年が自分の胸元へ手を当てる。
「今、俺はお前の中にいた」
私も同じ場所へ手を当てた。
そこにはまだ、少年が入ってきたときの熱が残っていた。




