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夢を諦めた君のスパイクから、十七歳の君が現れた  作者: situ725


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第4話 俺はあんな男にならない

「あれが、未来の俺なのか?」


 少年の声が震えていた。


 道を挟んだ小さな公園。


 木陰のベンチに座る蓮さんは、背中を丸めたまま地面を見つめている。


 黒いパーカー。


 伸びた前髪。


 日焼けの薄れた顔。


 昨日、喫茶店で会ったときと変わらない姿だった。


 少年と現在の蓮さん。


 二人を交互に見る。


 顔立ちは同じだった。


 目の色も、鼻筋も、口元も。


 それでも、同じ人には見えなかった。


 少年は、何かを追いかけるように前を向いている。


 現在の蓮さんは、何かから目をそらすように下を向いていた。


「……違う」


 少年が小さく呟いた。


「何がですか?」


「あれは俺じゃない」


「でも――」


「俺は、あんな座り方しない」


 声に怒りが混じる。


「練習は?」


「今の時間なら、もう始まっているはずです」


「じゃあ何で、あいつはここにいるんだよ」


「私に聞かれても分かりません」


「足首は治ってるんだろ?」


「本人はそう言ってました」


「だったら行けよ」


 少年は公園へ向かって歩き始めた。


「待ってください」


「待てるか」


 車が来ていないことも確かめず、道路を横切ろうとする。


 慌てて私も後を追った。


「蓮さん!」


 呼び止めても、少年は止まらない。


 ベンチに座る現在の蓮さんへ、まっすぐ近づいていく。


「おい!」


 少年が叫んだ。


 現在の蓮さんは顔を上げなかった。


「聞こえてるだろ!」


 返事はない。


 少年はベンチの前まで進み、現在の自分を見下ろした。


「何やってるんだよ」


 現在の蓮さんは動かない。


「練習に行け!」


 少年の叫びは、私の耳には痛いほど届いている。


 それなのに、振り返る人は一人もいなかった。


 近くを歩く人も。


 遊具で遊んでいる子どもも。


 そして、目の前にいる現在の蓮さんも。


「プロになるんだろ!」


 少年が一歩踏み込む。


「何を諦めたみたいな顔してるんだよ!」


 現在の蓮さんは、少年の身体越しに地面を見ていた。


 同じ顔をした少年が目の前で叫んでいるのに、その姿も声も届いていない。


「蓮さん」


 私は少年の横へ並んだ。


「やっぱり、見えてません」


「そんなはずない」


「お姉ちゃんにも見えなかったでしょう」


「俺だぞ」


 少年が自分の胸を指す。


「こいつと同じ瀬川蓮なんだ。ほかのやつに見えなくても、こいつには見えるはずだろ」


「でも、反応してません」


「聞こえないふりをしてるだけだ」


 少年はさらに顔を近づける。


「おい、顔を上げろ!」


 現在の蓮さんが、わずかに眉を寄せた。


 少年の声が届いたのかと思った。


 けれど、違った。


 蓮さんが見たのは、少年ではなく、その後ろに立っている私だった。


「……美緒?」


 低い声で名前を呼ばれる。


「どうしてここにいるんだ」


「それは……」


 何と説明すればいいのか分からなかった。


 高校生のあなたが、今のあなたに会いたがったから。


 そんなことを言っても、信じてもらえるはずがない。


「言えよ」


 少年が私を見る。


「あいつに、練習へ行けって言え」


「私がですか?」


「俺の声が聞こえないなら、お前が言うしかないだろ」


「でも――」


「早く」


 現在の蓮さんが怪訝そうに私を見る。


「誰と話してるんだ?」


「何でもないです」


「何でもないようには見えないけど」


 視線をそらしたくなった。


 昨日、喫茶店で蓮さんを傷つけたばかりだ。


 お姉ちゃんにも言われた。


 昔の蓮さんを、今の蓮さんに求めてはいけない。


「美緒」


 少年が急かす。


「練習に行けって」


「自分で言ってください」


「聞こえないんだから仕方ないだろ」


「私に押しつけないでください」


「何をぶつぶつ言ってる?」


 現在の蓮さんの表情が険しくなる。


「千春から何か聞いたのか」


「お姉ちゃんからは何も」


「じゃあ、何でここにいる」


「たまたま通っただけです」


「俺のアパートの近くを?」


 苦しい言い訳だった。


 蓮さんは小さく息を吐く。


「昨日のことなら、もういいから」


「よくない」


 少年が即座に言う。


「よくないだろ。何で練習に行かないんだ」


 その声は、もちろん現在の蓮さんには聞こえていない。


 隣で叫ぶ少年の声。


 練習時間に公園へ座る蓮さんの姿。


 黙っていなければならないと分かっているのに、言葉が喉まで上がってきた。


「足首は、もう治ったんですよね」


 現在の蓮さんが目を細める。


「それも千春から聞いたのか?」


「本人から聞きました。前に、治ったって言ってたじゃないですか」


 現在の蓮さんは、わずかに顔を背けた。


「治ったからって、すぐ前と同じようにできるわけじゃない」


「前と同じじゃなくても、練習には行けるだろ」


 少年が言う。


 その言葉を、私はそのまま伝えられなかった。


 昨日の喫茶店で見た、蓮さんの傷ついた顔が浮かんだからだ。


「……行きたくない理由があるなら、教えてください」


 言葉を選んだつもりだった。


 それでも現在の蓮さんの顔は固くなる。


「今度は美緒まで、千春と同じことを言うんだな」


「お姉ちゃんは心配してるだけです」


「分かってるよ」


「分かってるなら――」


「分かってるから、放っておいてほしいんだ」


 蓮さんが立ち上がった。


 少年より少しだけ高い身体。


 高校時代より広くなった肩。


 それなのに、少年よりずっと小さく見えた。


「心配されても、俺には何も返せない」


 少年の口が、わずかに止まった。


 未来の自分が、ただ怠けているだけではない。


 そのことを、ほんの少しだけ感じたのかもしれない。


 けれど、少年はすぐに眉を寄せた。


「だからって、逃げていい理由にはならない」


「何も返してほしいわけじゃありません」


「美緒には分からない」


「何がですか」


「分からなくていい」


 現在の蓮さんは、私の横を通り過ぎようとする。


「逃げるのかよ」


 少年がその前へ立ちはだかった。


 けれど、現在の蓮さんは歩みを止めない。


 肩が触れ合うはずだった。


 少年は反射的に横へ避ける。


 現在の蓮さんは、何もなかったかのように通り過ぎた。


「待て!」


 少年が追いかける。


「話は終わってない!」


 私も後を追おうとした。


「蓮さん!」


 現在の蓮さんが一度だけ振り返る。


「今日はもう帰ってくれ」


「でも――」


「昨日のことも、今日のことも、千春には言わなくていいから」


「お姉ちゃんは関係ありません」


「じゃあ、なおさら放っておいてくれ」


 それだけ言い残し、蓮さんは歩いていった。


 少年が後を追う。


「おい!」


 声は届かない。


「止まれよ!」


 現在の蓮さんとの距離が少しずつ開いていく。


 私はその場に立ち尽くしていた。


 昨日と同じだった。


 私はまた、何も聞き出せなかった。


 違う。


 聞き出せなかったのではない。


 蓮さんが話したくないと言っているのに、自分の知りたいことを押しつけただけだ。


「美緒、来い!」


 少年の声で顔を上げる。


 少年は現在の蓮さんを追い、十メートルほど先まで進んでいた。


「早く!」


「もうやめてください」


「何言ってるんだ。あいつを止めるぞ」


「今は無理です」


「無理かどうかは、やってから決めろ」


 少年が再び走り出そうとする。


 その瞬間だった。


 少年の身体が大きく揺れた。


「え?」


 見えない糸で引かれたように、後ろへ引っ張られる。


 足が地面から離れた。


「うわっ!」


 少年の輪郭が一瞬ぼやける。


 次の瞬間、私のすぐ横へ戻ってきた。


「何ですか、今の」


「俺が聞きたい!」


 少年は体勢を立て直し、現在の蓮さんの背中を見る。


 まだ追いつける距離だった。


「もう一回だ」


「待ってください」


 私が止めるより早く、少年が走り出す。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 私から離れていく。


 十メートルほど進んだところで、少年の動きが止まった。


「何だ、これ」


 前へ進もうとしているのに、身体が動かない。


 強い向かい風に押し返されているように、制服の輪郭が揺らぐ。


「美緒、こっちに来い!」


「どうして私が」


「いいから!」


 私が一歩近づく。


 少年も一歩進めるようになる。


 私が止まると、少年もそれ以上進めなくなった。


「まさか……」


 私は反対方向へ一歩下がった。


 直後、少年の身体がまた引かれる。


「おい、待て!」


 少年は抵抗しようとした。


 けれど踏ん張ることもできず、私のそばまで一気に戻された。


「やっぱり」


「やっぱりじゃない!」


 少年が私をにらむ。


「何で俺がお前に引っ張られるんだよ」


「知りません」


「さっき、わざと下がっただろ」


「確かめただけです」


「人を実験に使うな」


「蓮さんが勝手に走っていったんでしょう」


 言い合っている間にも、現在の蓮さんの背中は遠ざかっていく。


 やがて角を曲がり、見えなくなった。


 少年は、その場所をしばらく見つめていた。


「……何でだよ」


 怒りよりも、戸惑いの方が強い声だった。


「あいつに近づきたいのに、お前から離れられない」


「私だって困ってます」


「困ってるのはこっちだ」


「私の前に突然現れたのは蓮さんですよ」


「俺が好きで現れたみたいに言うな」


「私だって、好きで連れて歩いてるわけじゃありません」


「じゃあ離れろよ」


「離れたら戻ってくるでしょう」


「もう一回試す」


「まだやるんですか?」


 少年は答えず、今度はゆっくりと私から離れていった。


 やはり十メートルほどで足が止まる。


「駄目だ」


「本当に十メートルくらいですね」


「測ってたのか?」


「だいたいです」


「そういうところだけ冷静になるな」


 少年がこちらへ戻ってくる。


 今度は引き戻される前に、自分から歩いてきた。


「何でお前なんだ」


「何がですか」


「俺がついていくなら、千春だろ」


 その言葉に、胸の奥が小さく痛んだ。


 どうして痛んだのか、自分でも分からなかった。


「お姉ちゃんには、蓮さんが見えません」


「でも俺は、千春のところにいたい」


「だったら、私も一緒にいないと無理みたいですね」


「何でお前までついてくるんだよ」


「蓮さんが私から離れられないからでしょう!」


 少年は何か言い返そうとして、口を閉じた。


 しばらく黙ったあと、現在の蓮さんが消えた方向を見る。


「決めた」


「何をですか」


「あいつを元に戻す」


「元に?」


「今の俺を、サッカーに戻す」


 迷いのない声だった。


「練習にも行かない。千春を避ける。高校の夢なんて、そんなものだって言う」


 少年が拳を握る。


「俺は、あんな男にならない」


 夕方の光が、少年の横顔を照らしていた。


 強い光の中で、身体の輪郭がわずかに透けている。


 それでも、その瞳だけは鮮やかだった。


「絶対にプロになる」


「今の蓮さんが、もうプロを目指していなかったら?」


「目指させる」


「本人が望んでなくても?」


「望んでないわけないだろ」


 少年は即座に言い切った。


「俺なんだから」


 その言葉に、何も返せなかった。


 目の前の少年は、まだ挫折を知らない。


 頑張れば前へ進めると信じている。


 諦めなければ夢は叶うと疑っていない。


 だから、現在の蓮さんがサッカーから離れている理由も、簡単に考えているのかもしれない。


 練習へ行けばいい。


 もう一度頑張ればいい。


 夢を思い出せばいい。


 昨日までの私も、同じことを考えていた。


     ◇


 家へ帰ると、私は最初に自分の部屋へ向かった。


 少年も当然のようについてくる。


 棚には、古いスパイクが置かれていた。


 少年が現れた昨夜から、位置は変わっていない。


「そういえば」


 私はスパイクへ近づいた。


「蓮さんは、これから出てきたんですよね」


「俺に聞くな。気づいたら、お前の部屋にいたんだ」


「でも、光ってました」


「これが?」


「はい」


 古いスパイクを手に取る。


 使い込まれた革。


 傷のついたつま先。


 少し色あせた靴紐。


 今はもう、昨夜のような光を放っていない。


「これを家に置いたまま出かけても、蓮さんはついてきました」


「だから?」


「蓮さんがこのスパイクに取り憑いているだけなら、外まではついてこられないと思います」


「じゃあ、俺はあの靴じゃなくて、お前にくっついてるってことか?」


「その可能性が高いです」


「最悪だ」


「それはこっちの台詞です」


「何だと?」


「学校にも部活にもついてくるつもりですか?」


「お前から離れられないなら仕方ないだろ」


「私が離れられないんじゃありません。蓮さんが離れられないんです」


「どっちでも同じだ」


「全然違います」


 少年は机の上のスパイクを見つめた。


「これ、本当に俺が履いてたやつなのか?」


「覚えてないんですか?」


「見覚えはある」


 少年が少し顔を近づける。


「新しいのを買う前に履いてた」


「捨てようとしたのを、私がもらったんです」


「美緒が?」


「忘れたんですか?」


「いや……」


 少年は考え込むように眉を寄せる。


「何となく覚えてる。お前が、捨てるなら欲しいって言った」


「何となく?」


「四年前のことなんだから、細かいところまで覚えてなくても普通だろ」


 そういうものかもしれないと思い、それ以上は聞かなかった。


「次は、物に触れられるか試します」


「扉も机も無理だっただろ」


「全部が無理とは限りません」


 机の上に消しゴムを置く。


「これを動かしてください」


 少年が手を伸ばす。


 指先は消しゴムの表面を滑り、そのまま通り抜けた。


「無理だ」


「じゃあ、これなら」


 私は消しゴムを右手で持ち上げた。


「触ってみてください」


「同じだろ」


「いいから」


 少年が人差し指を伸ばす。


 消しゴムへ触れた。


 今度は指がすり抜けなかった。


「え?」


 少年が驚いたように指を引く。


「今、触れましたよね」


「もう一回」


 私が消しゴムを持ったまま差し出す。


 少年が指先で押す。


 小さな抵抗が手に伝わった。


 消しゴムが私の指の間でわずかに動く。


「触れる」


「私が持ってる物なら、触れるみたいです」


「何で?」


「知りません」


「本当に何も知らないな、お前」


「昨日現れたばかりの人のことを、どうして私が知ってるんですか」


「でも、お前に関係してるんだろ」


「どうしてそう思うんですか」


「俺が離れられないから」


 少年が私を見る。


「それに、お前が触ってる物には触れられる」


 言われてみれば、そのとおりだった。


 少年は古いスパイクから現れた。


 けれど、今はスパイクではなく私についてくる。


 私から十メートル以上離れられない。


 私が触れている物になら、触れられるらしい。


「私のせいだって言いたいんですか?」


「そこまでは言ってない」


「顔が言ってます」


「お前、昔より面倒くさくなったな」


「蓮さんは昔から失礼ですね」


「俺にとっては今なんだよ」


「私にとっては四年前です」


「ややこしいな」


 私は消しゴムを机へ戻した。


 次にスマートフォンを手に取る。


「これも触れるかもしれません」


「壊しても怒るなよ」


「壊さないでください」


 画面を点けたまま差し出す。


 少年が恐る恐る指を伸ばした。


 画面へ触れる。


 表示が横へ動いた。


「動いた」


「勝手に変なところを開かないでください」


「お前が試せって言ったんだろ」


「触るだけでいいんです」


「じゃあ、これは?」


 少年が画面を何度か押す。


「待って、どこを開いてるんですか」


「写真」


「勝手に見ないでください!」


 私は慌てて画面を胸元へ引き寄せた。


 けれど、その前に少年は次の写真を開いていた。


「サッカーの写真ばっかりだな」


「だから、勝手に見ないでください」


「持ってるのはお前だろ」


 少年が笑った。


 その顔を見て、昨夜から張りつめていた気持ちが少しだけ緩む。


 現在の蓮さんを見たときの怒りも、困惑も消えたわけではない。


 それでも、スマートフォンの画面を面白そうに触る姿は、私の知っている蓮さんに近かった。


「学校にも持っていけよ」


「何をですか」


「スマホ」


「当然持っていきますけど」


「暇なときに触れるだろ」


「授業中は使いません」


「俺は授業を受ける必要ない」


「私にはあります」


「じゃあ、机の下で持ってろ」


「嫌です」


「けち」


「没収されたら困るんです」


 私がスマートフォンをポケットへしまうと、少年は不満そうに腕を組んだ。


「ほかに調べることは?」


「たくさんあります」


 指を折りながら考える。


「食事が必要なのか。眠るのか。壁を通れるのか。それから、ほかにもできることがあるのか」


 着替えやお風呂のことが頭に浮かぶ。


 私は少年を見る。


「何だよ」


「今夜から、私が着替えるときは部屋の外にいてください」


「扉を開けられないんだけど」


「私が開けます」


「でも、お前から離れたら引き戻されるだろ」


「部屋の外なら十メートルもありません」


「ずっと廊下に立ってろって?」


「当然です」


「千春が通ったら?」


「見えないんだから問題ないでしょう」


「俺が嫌なんだよ」


「私の方が嫌です!」


 少年は大きく息を吐いた。


「面倒くさいな」


「誰のせいだと思ってるんですか」


「俺だって好きでこうなったわけじゃない」


 その言葉に、言い返せなくなる。


 少年自身も、自分がなぜここにいるのか分かっていない。


 四年後へ来た理由も。


 私にしか見えない理由も。


 私から離れられない理由も。


「……とりあえず、今日から決まりを作りましょう」


「決まり?」


「私の生活についてくるなら、守ってもらいます」


「何でお前が決めるんだ」


「蓮さんが離れられないからです」


「それを言えば何でも通ると思うなよ」


「着替えを見ない。お風呂についてこない。授業中に話しかけない。勝手にスマートフォンを触らない」


「最後の二つは納得できない」


「全部守ってください」


「嫌だ」


「守らないなら、ずっと無視します」


「できるのか?」


「やります」


 少年とにらみ合う。


 先に視線をそらしたのは、少年だった。


「分かったよ」


「本当に?」


「着替えと風呂は見ない。授業中も、できるだけ静かにする」


「スマートフォンは?」


「暇なときだけ」


「駄目です」


「お前が持ってるときしか触れないんだから、勝手には使えないだろ」


 それはそうだった。


「私の許可を取ってください」


「はいはい」


「返事は一回」


「千春みたいなこと言うな」


 少年の口から姉の名前が出る。


 その瞬間、彼の表情が少し曇った。


「……あいつは、今の俺と別れたいのか?」


「お姉ちゃんは、そんなこと言ってません」


「でも、最近は俺の部屋にも来ないんだろ」


「蓮さんが避けてるからです」


「俺は避けない」


 少年は迷わず言う。


「千春を一人にしたりしない」


「今の蓮さんにも、何か理由があるのかもしれません」


「理由があれば、あんな態度を取っていいのかよ」


「そうは言ってません」


「なら、やっぱり俺が直す」


 少年は古いスパイクを見る。


「サッカーにも戻す。千春にもちゃんと向き合わせる」


「どうやって?」


「考える」


「何も決まってないんですね」


「最初から全部決まってるやつなんていないだろ」


 少年が私を見る。


「でも、諦めなければ方法は見つかる」


 その言葉は、昔の蓮さんらしかった。


 自信に満ちていて、まぶしくて。


 だからこそ、少しだけ怖かった。


 現在の蓮さんが諦めたのではなく、もう立ち上がれないほど傷ついているのだとしたら。


 少年の正しさは、今の蓮さんをさらに追い詰めるかもしれない。


「美緒」


「何ですか」


「手伝えよ」


「嫌です」


「即答するな」


「また昨日みたいに怒らせたくありません」


「じゃあ、お前はあのままでいいのか?」


 答えられなかった。


 夢を語らなくなった蓮さん。


 千春を避け、一人で下を向いている蓮さん。


 あのままでいいとは思えない。


 けれど、無理に昔へ戻そうとすることが正しいとも思えなかった。


「……話を聞くくらいなら」


「よし」


「無理やり練習へ行かせるのは駄目です」


「それは話を聞いてから決める」


「もう行かせるつもりじゃないですか」


 少年が笑う。


 現在の蓮さんが、もう見せなくなった迷いのない笑顔だった。


「絶対に戻してみせる」


 私は机の上の古いスパイクを見る。


 昨夜まで、ただのお守りだったもの。


 今はその隣に、夢を諦めていない十七歳の蓮さんが立っている。


 私から十メートル以上離れられず。


 私が触れている物にだけ触れられ。


 私以外の誰にも、姿も声も届かない。


 こうして、私と高校生の蓮さんとの奇妙な生活が始まった。


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