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夢を諦めた君のスパイクから、十七歳の君が現れた  作者: situ725


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3/19

第3話 十七歳の瀬川蓮

「俺は瀬川蓮だろ」


 少年は、何を当たり前のことを聞いているんだという顔で言った。


 返事ができなかった。


 目の前に立っているのは、確かに蓮さんだった。


 短く切られた黒髪。


 日に焼けた肌。


 明るい茶色の目。


 シャツの袖を肘までまくり、ネクタイを少し緩めた制服姿。


 姿勢はまっすぐで、身体全体が少し前のめりになっている。


 何か面白いものを見つけたら、すぐにでも走り出しそうな立ち方だった。


 今日、喫茶店で会った蓮さんとは、似ても似つかない。


 それでも、間違えるはずがなかった。


 何度も河川敷でボールを蹴ってくれた。


 試合で得点を決めるたび、子どものように笑っていた。


 私がずっと追いかけてきた、あの頃の蓮さんだった。


 少年は私の顔をじっと見つめた。


 目元を確かめるように少し目を細めたあと、首をかしげる。


「……美緒だよな?」


「そうです」


「やっぱり。顔には面影がある。でも――」


 少年の視線が、私の髪から制服、足元へと動いていく。


「何でそんなに大きくなってるんだ?」


「普通に成長したんです」


「普通って……俺の知ってる美緒は、まだ中学に入ったばかりだっただろ」


 遠慮なく私を見る仕草まで、昔のままだった。


 少年の表情から、少しずつ余裕が消えていく。


「待て。何年たった?」


「その前に確認させてください。蓮さんは今、何歳ですか?」


「十七。高校二年」


 迷いのない返答だった。


「私も十七歳です。高校二年生」


「俺と同い年じゃねえか」


「そうですよ」


「いや、そうですよじゃないだろ」


 少年が一歩近づく。


 顔立ちは現在の蓮さんより幼い。


 けれど、身長は私よりずっと高く、至近距離で見上げる形になる。


「俺が知ってる美緒は、中学に入ったばかりだった。何で急に高校二年生になってるんだ?」


「私が聞きたいです」


「それに、ここはどこだ?」


 少年が初めて部屋の中を見回した。


 机。


 ベッド。


 壁に掛けた制服。


 棚に置かれた、光を失った古いスパイク。


「千春の家じゃないよな」


「私の部屋です」


「美緒の?」


「はい」


「何がどうなってる?」


「だから、私が聞きたいんです」


 少年は納得できない顔で、もう一度部屋を見回した。


 足は確かに床へついている。


 けれど、不思議なことに足音がしなかった。


「ここへ来る前のこと、覚えてないんですか?」


「学校を出たところまでは覚えてる」


「そのあとで部活へ?」


「行くつもりだった。県大会で外したシュートを、練習し直したくて」


 迷いのない返答だった。


 サッカーの話をした途端、少年の目に強い光が戻る。


「このまま終われないんだ。こんなところで遊んでる場合じゃない」


 少年は部屋の扉へ向かった。


「待ってください」


「悪いけど、説明はあとだ。俺、戻らないと」


 少年が扉の取っ手へ手を伸ばす。


 けれど、指先は金属の表面を滑り、握ることができなかった。


「あれ?」


 もう一度試す。


 それでも、取っ手は動かない。


「何だ、これ」


 少年の表情が曇る。


「触れないんですか?」


「いや、そんなわけ――」


 何度試しても、扉は開かなかった。


 少年は自分の手のひらを見つめる。


「待って」


 私は立ち上がり、取っ手を握った。


 扉はいつもどおり開く。


「開きますけど」


「俺には開かなかったんだよ」


「蓮さんが弱いだけじゃないですか」


「お前、久しぶりに会って最初に言うことがそれか?」


 ぶっきらぼうな「お前」という呼び方まで、昔のままだった。


「私が大きくなったことばかり気にしてる人に言われたくありません」


「だって、急に何年も成長してるんだぞ」


「私は普通に成長しました」


「普通じゃないだろ。俺が知ってるお前は、中学に入ったばかりだった」


「私にとっては、そこから四年たってます」


「四年?」


 少年の動きが止まる。


「今、四年って言ったか?」


 私は机の上に置いていたスマートフォンを手に取った。


 画面を点け、日付を表示する。


「今は、この年です」


 少年が画面をのぞき込んだ。


「……何だ、これ」


「今日の日付です」


「そんなわけあるか」


「スマートフォンの日付を勝手に四年進める理由がありますか?」


「お前が俺を驚かそうとしてるとか」


「そこまで暇じゃありません」


 少年は画面を凝視している。


 さっきまで余裕のあった顔から、少しずつ表情が消えていった。


「本当に、四年後なのか?」


「少なくとも、私にとってはそうです」


「じゃあ、俺は二十一歳になってるってことか?」


「はい」


「二十一……」


 少年の口元が、わずかに緩んだ。


 驚いてはいるものの、恐怖より好奇心が勝ったらしい。


「大学生か」


「大学三年生です」


「サッカーは?」


 真っ先に出た質問だった。


「大学でもサッカーやってるんだよな?」


「……一応」


「一応って何だよ」


「その話は、あとでします」


「プロには?」


「まだなってません」


「まだ?」


 少年の目が輝く。


「じゃあ、大学からプロを狙ってるのか。どこの大学だ? 強豪? 俺、試合に出てる?」


 次々に質問が飛んでくる。


 何も知らない少年の表情は明るかった。


 この先、自分が挫折するなんて少しも疑っていない。


 喫茶店で見た現在の蓮さんの姿が、頭に浮かぶ。


 私はすぐに答えられなかった。


「美緒?」


 少年が私の顔をのぞき込む。


「何で黙るんだよ」


「分かりません」


「何が?」


「大学でどれくらい試合に出てるのかは、詳しく知らないんです」


 嘘ではなかった。


 最近、練習に行っていないことは知っている。


 足首を怪我したことも。


 けれど、大学で何があったのかは、まだ何も聞いていない。


「千春なら知ってるだろ」


 その名前を口にした瞬間、少年の表情が変わった。


「そうだ。千春は?」


「お姉ちゃんは――」


 廊下から足音が聞こえた。


 私は反射的に扉へ顔を向けた。


「美緒?」


 姉の声だった。


「帰ってたの?」


 少年の目が大きくなる。


「千春?」


 次の瞬間、扉が開いた。


「部屋の前まで話し声が聞こえてたけど、誰かと電話してた?」


 姉が顔をのぞかせる。


 外を歩いて帰ったのだろう。


 低い位置でまとめていた髪が少し乱れ、頬もわずかに赤くなっていた。


「千春」


 少年が姉の前へ進む。


 少年の顔に、驚きのあとからうれしさが広がった。


 四年後の姉を見ても、迷うことなく千春だと分かったらしい。


「髪、伸びたな」


 呼びかける声が、さっきまでより少しだけ柔らかくなる。


 けれど、姉の視線は少年の顔で止まらなかった。


 部屋の中へ視線を巡らせ、最後に私を見る。


「一人?」


「え……」


「さっきから誰かと話してたでしょう?」


「千春、俺だよ」


 少年が姉の前へ立つ。


「どうなってるのか分からないけど、俺――」


 姉は少年を見ていなかった。


 視線が、その身体を通り抜けているようだった。


「お姉ちゃん」


「何?」


「そこに、誰かいるように見えない?」


 私は少年を指さした。


 姉が指先の方向を見る。


 そこには、制服姿の蓮さんが立っている。


 姉から一歩も離れていない。


 それでも、姉は困ったように眉を下げた。


「誰もいないけど」


「本当に?」


「うん」


「声も聞こえない?」


「美緒の声しか聞こえないよ」


「美緒、大丈夫?」


 姉が私へ近づく。


 少年と肩が重なりそうになった。


「危ない!」


 思わず声を上げる。


 少年が慌てて身を引いた。


「どうしたの?」


「何でもない」


「顔、青いよ」


「大丈夫だから」


 姉は心配そうに私を見る。


「今日のこと、まだ気にしてる?」


「それは……」


「私なら大丈夫だよ」


 姉は小さく笑った。


 けれど、その笑顔は喫茶店にいたときと同じように、少しだけ無理をしていた。


「美緒も、あまり自分を責めないでね」


「うん」


「夕飯、もうすぐできるって」


「分かった」


「着替えたら下りてきて」


 姉が部屋を出ていく。


 扉が閉まるまで、少年は何も言わなかった。


「……千春」


 閉ざされた扉へ向かって、もう一度名前を呼ぶ。


 先ほどまで浮かんでいたうれしさは、もうその顔には残っていなかった。


 返事はない。


 私は少年を見る。


「見えてませんでした」


「そんなはずないだろ」


「声も聞こえてません」


「でも、俺はここにいる」


「私には見えてます」


「何でお前にだけ見えるんだよ」


「知りませんよ」


 少年は自分の腕へ触れようとした。


 右手で左腕をつかむ。


 自分の身体には触れられるらしい。


 けれど、机へ手を伸ばすと、指先は表面をなぞるだけで何も動かなかった。


「まさか」


 少年の顔から血の気が引く。


「俺、死んでるのか?」


「え?」


「千春には見えない。物にも触れない。足音もしない」


 少年が自分の足元を見る。


 私もつられて視線を落とした。


 部屋の明かりの下で、私の影は床へはっきり伸びている。


 少年の足元にも影はあった。


 けれど、私のものよりずっと薄い。


「幽霊って、こういう感じなんじゃないのか」


「落ち着いてください」


「これで落ち着けるかよ」


「蓮さんは死んでません」


「何で分かる」


「今日、会いましたから」


 少年が動きを止めた。


「誰に?」


「今の蓮さんに」


「……今の俺?」


「はい」


「生きてるのか?」


「生きてます」


 少年の肩から、わずかに力が抜けた。


「何だよ」


 乾いた笑いを漏らす。


「先に言えよ。マジで死んだのかと思っただろ」


「言おうとしたら、お姉ちゃんが来たんです」


「じゃあ、俺は幽霊じゃない」


「たぶん」


「たぶんを付けるな」


「今の蓮さんが生きてるなら、少なくとも死んだ人の幽霊ではないと思います」


「だったら、俺は何なんだ?」


「それを今から考えるんです」


 少年は納得していない顔だった。


 けれど、少し考え込んだあと、机の横にある鏡へ目を向けた。


「幽霊って、鏡に映らないんじゃないのか?」


「作品によります」


「作品?」


「映画とか小説とか」


「そんな曖昧な基準で判断するなよ」


「ほかに知りません」


 少年は鏡の前へ立った。


 私も隣へ並ぶ。


 鏡の中には、制服姿の私と少年の姿が映っていた。


「映ってる」


「映ってますね」


「じゃあ、やっぱり幽霊じゃない」


「鏡に映る幽霊もいるかもしれません」


「お前、さっきから俺を幽霊にしたいのか?」


「慎重に考えてるだけです」


「もっと安心させろよ」


「私だって混乱してるんです」


 鏡の中で、少年が自分の顔を確かめる。


 顔も身体も、本人の記憶にある姿と何も変わっていないのだろう。


 それなら、自分だけが四年後へ飛ばされたと考える方が、怪異になったと認めるよりも理解しやすかったのかもしれない。


「別に変わってないな」


「高校生の頃のままです」


「お前の言うことが本当なら、四年たってるんだろ」


「はい」


「じゃあ、今の俺はどんな感じなんだ?」


 少年の声には、隠しきれない期待があった。


 私はためらった。


「写真、あります」


「見せろ」


「今の蓮さんの?」


「当たり前だろ。四年後の俺だぞ」


 少年は少し笑った。


「背、伸びてるかな。身体ももっとできてるだろ。大学でサッカーやってるなら、今より絶対うまくなってる」


 私はスマートフォンを握りしめた。


 現在の蓮さんの写真は、姉が少し前に送ってきたものが残っている。


 三人で出かけたときに撮った写真だった。


 そこに写る蓮さんは、今日ほど疲れた顔をしてはいない。


 それでも、高校時代の少年とはまるで違う。


「早く」


「期待しすぎないでください」


「何だよ、それ」


 写真を開き、画面を少年へ向ける。


 少年がのぞき込む。


 最初に目へ入ったのは、姉だったらしい。


「千春だ」


 うれしそうに声を上げる。


「髪、伸びたな。大人っぽくなってる」


 その横には、現在の蓮さんが立っている。


 少年は画面へ顔を近づけた。


「これが、俺?」


「そうです」


「背、伸びてるな」


「三センチくらいですけど」


「肩幅も広くなってる」


 少年は興味深そうに写真を見る。


 自分が成長した姿を見ているだけなら、楽しそうだった。


 けれど、やがて眉間にしわが寄る。


「何でこんな格好してるんだ?」


 写真の蓮さんは、暗い色のパーカーを着ている。


「大学生なら普通じゃないですか」


「いや、服じゃなくて」


 少年はさらに画面へ顔を近づける。


「何でこんな顔してる?」


 写真の蓮さんは笑っていなかった。


 姉は穏やかに笑っている。


 私は少しぎこちなく笑っている。


 蓮さんだけが、カメラから視線を外していた。


「このとき、何かあったのか?」


「分かりません」


「試合のあと?」


「違います」


「じゃあ、何で」


 少年が私を見る。


「さっきから、お前、何か隠してるだろ」


「隠してません」


「大学のサッカーのことを聞いても答えない。今の俺の写真を見せるのもためらった」


「私だって全部知ってるわけじゃありません」


「じゃあ、知ってることだけ言えよ」


 強い口調だった。


 私は画面を消し、スマートフォンを胸元へ引き寄せる。


「足首を怪我したことは知ってます」


 少年の表情が変わる。


「足首?」


「もう治ったって言ってました」


「いつ怪我した?」


「分かりません」


「試合で?」


「知りません」


「今はサッカーできるんだよな?」


 すぐには答えられなかった。


 その沈黙だけで、少年には伝わってしまったらしい。


「できないのか?」


「怪我は治ってます」


「じゃあ、やってるんだろ」


「最近は、練習に行ってないみたいです」


 部屋が静かになる。


 少年は私を見ていた。


 さっきまでの明るさが、少しずつ消えていく。


「何で?」


「分かりません」


「プロを目指してるんだろ」


「……高校生の頃は」


「今もだ」


 少年は迷わず言い切った。


「俺が諦めるわけない」


 その確信が、今は痛かった。


「今日はもう、夕飯を食べないと」


「逃げるなよ」


「逃げてません」


「じゃあ、今の俺に会わせろ」


「今から?」


「住所は知ってるんだろ」


「もう夜です」


「電話すればいい」


「今日会って、喧嘩みたいになったばかりです」


「喧嘩?」


「蓮さんに、プロになるんじゃなかったのって聞きました」


「当然だろ」


「それで、蓮さんは言ったんです」


 声にするのをためらった。


 少年が私を見ている。


「何て?」


「高校生の夢なんて、そんなものだって」


 少年の目が見開かれた。


「……は?」


「そのときは本気でも、大人になれば分かる。頑張れば何でもできるわけじゃないって」


「俺が?」


「はい」


「そんなこと言うわけない」


「言いました」


「嘘だ」


「嘘じゃありません」


「俺は絶対、プロになる」


 少年が強く言う。


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 私が何度も思い出してきた言葉。


 もう聞けないと思っていた声で、もう一度聞くことができた。


「何があっても諦めない。怪我したなら治せばいい。試合に出られないなら、出られるまで練習する」


 少年は拳を握る。


「四年後の俺だろうが、そんなこと言うなら俺じゃない」


「でも、同じ人です」


「確かめる」


「今日は無理です」


「じゃあ、明日」


「学校があります」


「俺もある」


「四年前の学校には行けませんよ」


「だったら、お前の学校が終わってからでいい」


「部活もあります」


「サッカー部?」


「女子サッカー部です」


 少年の視線が、私の脚へ落ちる。


「続けてたんだな」


「はい」


 その一言だけで、少年の表情が少し和らいだ。


「ポジションは?」


「攻撃的ミッドフィルダー」


「へえ」


「何ですか」


「小学生の頃は、ボールを蹴るだけで転んでたのに」


「いつの話をしてるんですか」


「俺にとっても、そこまで昔じゃない」


 少年が笑う。


 その笑顔を見ると、時間が本当に巻き戻ったような気がした。


 けれど、姉には見えなかった。


 物にも触れられない。


 現在の蓮さんは、別に存在している。


 目の前の少年が何者なのか、何一つ分かっていない。


「明日、連れていきます」


「今の俺のところへ?」


「遠くから見るだけです」


「話す」


「姿が見えるかも分からないでしょう」


「千春に見えなかっただけかもしれない」


「声も聞こえてませんでした」


「今の俺なら見えるかもしれないだろ」


 確かに、その可能性はあった。


 同じ瀬川蓮なら、この少年を認識できるのかもしれない。


「分かりました。でも、勝手なことはしないでください」


「何でお前に命令されるんだよ」


「案内するのは私です」


「昔はもっと素直だったのにな」


「蓮さんが覚えてるのは、中学に入ったばかりの私ですから」


 そのとき、階下から母の声がした。


「美緒、ご飯よ!」


「今行く!」


 返事をしてから、少年を見る。


「夕飯を食べてきます」


「俺は?」


「知りません」


「俺も腹減ってる気がする」


「食べられるんですか?」


「それは……」


 少年が自分の腹へ手を当てる。


 しばらく考えてから、首をかしげた。


「分からない」


「蓮さんはここにいてください」


「千春のところに行く」


「お姉ちゃんには見えてません」


「でも、俺は見える」


「だからって、勝手についていかないでください」


「何で?」


「着替えたり、お風呂に入ったりするかもしれないでしょう!」


 少年が固まった。


「あ」


「あ、じゃありません」


「いや、別に見るつもりなんて」


「当たり前です!」


 私は少年を部屋の中へ押し戻そうと、両手を伸ばした。


 しかし手は少年の胸へ触れなかった。


 わずかな抵抗もなく、身体の中を通り抜ける。


「え……」


 少年も目を見開く。


 触れられない。


 姉だけではなく、私も少年へ触れられないらしい。


 腕を引くと、指先が小さく震えていた。


「本当に、何なんですか」


「俺に聞くなよ」


「ここから出ないでください」


「扉も開けられないんだから、出られないだろ」


「それなら安心です」


「全然安心じゃない」


 私は部屋を出て、扉を閉めた。


 少年の姿が見えなくなる。


 廊下へ出ると、急に現実へ戻されたような感覚がした。


 階下には母と姉がいる。


 夕食が用意され、いつもどおりの夜が続いている。


 そのすぐ隣の部屋には、十七歳の蓮さんがいる。


 自分を本物の瀬川蓮だと信じたまま。


     ◇


 翌日の放課後。


 私は少年を連れて、現在の蓮さんが住むアパートの近くまで来ていた。


 部活動は休みだった。


 少年は昨夜と同じ制服姿のまま、私の隣を歩いている。


 朝、部屋へ入ると、少年は窓辺に立っていた。


 眠っていたのかと尋ねても、自分でもよく分からないと答えただけだった。


 少なくとも、私が部屋を出たときと同じ制服姿のままで、疲れている様子もない。


「本当に四年後なんだな」


 通りを走る車や、歩く人たちを眺めながら、少年が言う。


「昨日も説明しました」


「頭では分かってる。でも、町はそこまで変わってない」


「四年ですから」


「もっと空飛ぶ車とかあると思った」


「四年でそこまで変わりません」


「スマホはでかくなってた」


「そこですか」


 通行人には、少年の姿も声も届いていなかった。


 何度か正面から人が歩いてきても、少年の存在には気づかなかった。


 ただ、少年自身は人をすり抜けることを嫌がり、そのたびに道の端へ避けている。


「蓮さんの部屋は、この先です」


「一人暮らし?」


「大学の近くなので」


「千春はよく来るのか?」


「前は」


「今は?」


「最近は、あまり」


 少年の表情が曇る。


「俺、千春とうまくいってないのか?」


「付き合ってはいます」


「じゃあ、何で来ないんだよ」


「それも、本人に聞いてください」


 アパートの見える場所まで来たところで、私は足を止めた。


「ここです」


「何号室?」


「そこまでは行きません」


「何でだよ」


「急に訪ねても、また嫌がられるだけです」


「俺が話す」


「蓮さんには見えないかもしれません」


「だから確かめるんだろ」


 少年が先へ進もうとした。


「待って」


「今度は何だよ」


「蓮さん、あそこにいます」


 アパートの前ではなかった。


 道を挟んだ小さな公園。


 木陰に置かれたベンチへ、一人の男性が座っていた。


 黒いパーカー。


 伸びた前髪。


 丸められた背中。


 足元には黒いスニーカー。


 昨日と同じ姿だった。


 現在の蓮さんは、スマートフォンも見ず、ただ地面へ視線を落としていた。


「練習時間のはずなのに」


 私は小さく呟く。


 少年が隣で立ち止まった。


 何も言わない。


「蓮さん」


 呼びかけても、返事がない。


 少年の視線は、ベンチに座る現在の自分へ向けられていた。


 昨日、写真を見たときとは違う。


 写真なら、一瞬を切り取っただけだと思えたのかもしれない。


 けれど今は、実際に動いている未来の自分が目の前にいる。


 それなのに、サッカー部の練習へ行かず、一人で地面を見つめている。


 少年が一歩踏み出した。


「蓮さん?」


 私は少年の横顔を見る。


 明るい茶色の目が、大きく見開かれていた。


 怒っているわけではない。


 悲しんでいるわけでもない。


 ただ、信じられないものを見た顔だった。


「……あれが」


 少年の声が震える。


「あれが、未来の俺なのか?」


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