第2話 高校生の夢なんて
五月も半ばを過ぎた頃、姉から一通のメッセージが届いた。
『今日の夕方、蓮と会うことになったんだけど、美緒も来ない? 久しぶりに三人で話せたらと思って』
放課後、部室で着替えていた私は、画面を見たまま動きを止めた。
蓮さんと会うのは久しぶりだった。
以前なら、姉についていく理由を考える必要なんてなかった。
サッカーの話を聞ける。
練習方法を教えてもらえる。
運がよければ、一緒にボールを蹴ってもらえる。
それだけで十分だった。
けれど、今は違う。
先月、姉と食べたケーキと、クローゼットへしまわれたスパイクの話を思い出す。
「美緒、帰らないの?」
制服へ着替え終えた陽菜が、ロッカーの扉から顔をのぞかせた。
「うん。今行く」
「何かあった?」
「お姉ちゃんから連絡」
「千春さん?」
「蓮さんと会うから、一緒に来ないかって」
私が答えると、陽菜は少しだけ目を見開いた。
陽菜も、中学時代から何度か蓮さんに会ったことがある。高校時代の活躍も知っていた。
「行くの?」
「……たぶん」
「行きたいなら行けばいいじゃん」
「行きたいかどうか、分からない」
「じゃあ、行かないで後悔するより、行ってから悩めば?」
「それ、適当じゃない?」
「美緒が考えすぎなんだって」
陽菜は当たり前のことのように言うと、鞄を肩へ掛けた。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
陽菜が部室を出ていく。
一人残された私は、もう一度スマートフォンを見た。
『行く』
短く返信してから、ロッカーを閉めた。
◇
待ち合わせ場所は、駅前にある小さな喫茶店だった。
学校から電車で二駅。
姉と合流して店へ入ると、窓際の席に一人の男性が座っていた。
一瞬、別人かと思った。
黒いパーカーに、色の落ちたジーンズ。
高校時代より肩幅は広くなっているのに、背中を丸めているせいで身体が小さく見える。
伸びた黒髪の前髪が目元へかかり、日に焼けていた肌も白くなっていた。
足元にあるのは、サッカー用のトレーニングシューズではない。
何の特徴もない、黒いスニーカーだった。
「蓮」
姉が呼ぶ。
蓮さんはゆっくり顔を上げた。
前髪の隙間から見えた明るい茶色の目は、私の記憶にあるものと同じだった。
それなのに、そこに宿っている光だけが違って見えた。
「悪い。待たせた」
「私たちも今来たところ」
姉は蓮さんの向かいへ座る。
私は迷った末、その隣へ腰を下ろした。
「美緒も来たのか」
「……うん」
「久しぶり」
「久しぶりです」
会話が途切れた。
蓮さんは私と目を合わせず、テーブルの端に置かれた水のグラスを見ている。
昔なら、私の顔を見るなり聞いたはずだ。
『まだサッカー続けてるのか?』
『レギュラーになれそうか?』
『今度、試合を見に行くよ』
何か一つくらい、サッカーに関することを聞いてくれたはずだ。
けれど、蓮さんは何も言わなかった。
店員が来て、三人分の注文を取る。
姉は紅茶、私はオレンジジュース。
蓮さんはメニューも見ずに、アイスコーヒーを頼んだ。
「大学はどう?」
店員が離れたあと、姉が尋ねた。
「普通」
「授業、忙しい?」
「まあ」
「この前、用事があるって言ってたけど」
「ゼミ」
「そうなんだ」
姉は穏やかに話しかける。
蓮さんは、必要な言葉だけを返す。
そのやり取りが続くたびに、姉の笑顔が少しずつ固くなっていく。
「足首は、もう痛くないの?」
姉が慎重に尋ねた。
蓮さんの指が、グラスの横で止まった。
「治ってる」
「そう」
「前にも言っただろ」
「うん。ごめん」
謝る必要なんてない。
そう思ったけれど、私は口を挟めなかった。
やがて、注文した飲み物が運ばれてくる。
氷の浮かんだオレンジジュースへストローを差しながら、私は蓮さんの右足を見た。
目立った腫れはない。
歩き方も普通だった。
怪我が治っているなら、どうして練習へ行かないのだろう。
「サッカー部は?」
姉が聞いた。
蓮さんはアイスコーヒーへ口をつける。
「別に」
「別にって?」
「今、その話しないと駄目か?」
「責めたいわけじゃないよ。ただ、最近も練習へ行ってないみたいだから」
「誰から聞いた?」
「誰からって……」
「俺の部屋を見て、勝手に決めたのか」
「勝手に決めてない。心配してるだけ」
「心配しなくていい」
姉の手が、膝の上で固く握られた。
蓮さんはそれに気づいているはずなのに、顔を上げない。
「蓮」
「何?」
「サッカーを続けてほしいって言ってるんじゃないの」
姉は静かに言った。
「苦しいことがあるなら、話してほしいだけ」
「何もない」
「何もないようには見えないよ」
「じゃあ、どう見えるんだよ」
蓮さんの声が低くなる。
周囲の客に聞こえるほど大きな声ではない。
けれど、テーブルの空気が急に重くなった。
「サッカーがうまくいかなくて、落ち込んでるように見える?」
「そういう言い方はしてない」
「高校の頃はよかったのにって思ってるんだろ」
「思ってない」
「今の俺を見て、がっかりしてる」
「蓮」
「違うって言えるのか?」
姉はすぐには答えなかった。
否定する言葉を探しているように見えた。
けれど、その沈黙を、蓮さんは別の意味に受け取ったらしい。
「やっぱりな」
自嘲するように笑う。
その笑い方が、私は嫌だった。
高校時代の蓮さんは、自分を笑うような人ではなかった。
失敗すれば悔しそうに歯を食いしばり、それでも次は決めると言っていた。
「蓮さん」
気づけば、声を出していた。
蓮さんが初めて私を見る。
「何?」
「本当に、もう練習に行ってないんですか?」
「美緒までその話か」
「だって、怪我は治ったんですよね」
「治ったよ」
「だったら、どうして――」
「関係ないだろ」
言葉を遮られた。
胸の奥が熱くなる。
「関係あります」
「何が」
「私がサッカーを始めたのは、蓮さんがいたからです」
姉が私を見る。
けれど、もう止められなかった。
「蓮さんがプロになるって言ってたから、私も頑張ろうって思った。何度失敗しても前へ行くのが格好よくて、私もそうなりたいって――」
「美緒」
姉が静かに呼ぶ。
その声には、これ以上言わないでという気持ちが含まれていた。
分かっていた。
分かっているのに、私は止まれなかった。
練習で陽菜へパスを出せなかった自分。
先発を沙月に奪われそうになっている自分。
それでも蓮さんのようになりたいと、今まで頑張ってきた自分。
その全部を、目の前の人に否定されている気がした。
「プロになるんじゃなかったの?」
蓮さんの顔から、表情が消えた。
言ってはいけない言葉だった。
口にした直後に分かった。
蓮さんの右手が、わずかに震える。
目の奥に、痛みのようなものが浮かんだ。
けれど、それはすぐに冷たい色へ変わった。
「高校生の夢なんて、そんなもんだろ」
それは私に向けた言葉というより、自分自身へ何度も言い聞かせてきた言葉のように聞こえた。
息が止まる。
「そんなもんって……」
「そのときは本気でも、大人になれば分かる」
蓮さんは椅子の背にもたれた。
「頑張れば何でもできるわけじゃない。好きなだけで続けられるわけでもない」
「でも――」
「美緒も、そのうち分かるよ」
その言葉が、胸へ突き刺さった。
私が今まで追いかけてきたものを、昔の蓮さん本人に笑われたような気がした。
「私は、そんなふうに思いたくない」
「今はな」
「あの頃の蓮さんまで、そんなものだったことにしないでください」
蓮さんの眉が、わずかに動いた。
「あんなに大切そうにしてたのに。それまで全部、子どもの夢だったみたいに言わないで」
「美緒」
姉が今度こそ強く私の名前を呼んだ。
私は唇を噛む。
蓮さんは視線を逸らした。
そのとき、窓の外をユニフォーム姿の小学生が走っていった。
脇にサッカーボールを抱え、隣の子どもと楽しそうに話している。
蓮さんの目が、その姿を追った。
ほんの一瞬だけだった。
次の瞬間には、何も見なかったように視線を地面へ落としていた。
「悪い、千春。今日はもう無理だ」
「蓮、待って」
蓮さんは財布から紙幣を取り出し、テーブルへ置いた。
「蓮」
姉がもう一度呼ぶ。
けれど、蓮さんは振り返らなかった。
丸めた背中が、店の外へ消えていく。
かつては誰よりも前を向いていた人が、今は地面だけを見て歩いていた。
◇
「ごめん」
駅へ向かう道で、私は姉に謝った。
姉は前を向いたまま歩いている。
「何が?」
「余計なこと言った」
「うん」
否定されなかった。
胸が痛む。
「お姉ちゃんが話そうとしてたのに」
「そうだね」
「ごめんなさい」
「美緒が怒る気持ちも分かるよ」
姉は立ち止まり、私を見た。
少し垂れた茶色の目が、寂しそうに細められる。
「でも、今の蓮に、高校時代の蓮を求めすぎないで」
「私は、そんなつもりじゃ……」
否定しようとしたけれど、最後まで言えなかった。
プロになるんじゃなかったのか。
昔のように戻ってほしい。
私は確かに、そう願っていた。
「私も、聞き方を間違えたのかもしれない」
「お姉ちゃんが?」
「練習はどう、足はどうって、そればかり聞いてたから」
姉は小さく息を吐く。
「蓮には、昔に戻ってほしいって言われてるように聞こえたのかも」
「でも、お姉ちゃんはそんなこと……」
「思ってないよ」
姉はすぐに答えた。
「サッカーを続けるかどうかは、蓮が決めることだから」
そこで言葉を切り、姉は視線を落とす。
「ただ、どうして何も話してくれないのかは、知りたい」
姉はサッカーを続けろとは言っていない。
プロになれとも言っていない。
ただ、今の蓮さんが何に苦しんでいるのか知りたいと願っている。
それなのに私は、蓮さんへ昔と同じ夢を求めた。
「蓮、あんな言い方をする人じゃなかったんだけどな」
姉が呟く。
その一言に、責める響きはなかった。
ただ、悲しそうだった。
「私、少し歩いて帰るね」
「一緒に帰ろうか?」
「大丈夫。頭を冷やしたいだけ」
「そう」
姉は心配そうに私を見たあと、無理には引き止めなかった。
「遅くならないでね」
「うん」
駅前で姉と別れ、私は川沿いの道を歩いた。
夕方の風が、少し長くなった前髪を揺らす。
学校で使っているグラウンド。
河川敷の小さなゴール。
蓮さんに初めてボールの蹴り方を教わった場所。
目に入るものすべてが、今日だけは苦しかった。
『高校生の夢なんて、そんなもんだろ』
あの言葉が何度も頭の中で繰り返される。
蓮さんが夢を諦めることが、嫌なのではない。
プロになれなかったから、がっかりしたわけでもない。
ただ、あんなに大切そうに抱えていた夢まで、自分自身で否定したことが悲しかった。
あの頃の蓮さんまで、いなくなってしまったように思えた。
◇
家に帰ると、姉はまだ戻っていなかった。
私はそのまま自分の部屋へ入った。
鞄を床へ置き、制服のままベッドへ腰を下ろす。
視線の先に、古いスパイクがある。
数週間前、かすかな音がしたように感じたスパイク。
あの日から、特に変わったことは起きていない。
黒い革も、細かな傷も、少し擦り切れた紐も、すべて昔のままだ。
私は棚からスパイクを手に取った。
革は冷たかった。
「高校生の夢なんて、そんなもんだって」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「蓮さんが言ったんだよ」
当然、返事はない。
指先で紐をなぞる。
考え事をすると、いつもこうして触ってしまう。
「あんなに楽しそうだったのに」
河川敷を走る、高校生の蓮さんを思い出す。
汗だくになりながら笑っていた。
何度シュートを外しても、もう一度ボールを要求していた。
新しいスパイクを買った日には、子どものようにうれしそうに見せてくれた。
『これなら、もっと速く動ける気がする』
私は笑った。
『スパイクだけで速くなるの?』
『気持ちが変われば速くなるんだよ』
迷いなく、そう答えた。
今日会った蓮さんは、その言葉さえ笑うのだろうか。
「どうして、こんなふうになっちゃったの?」
声が震えた。
姉に、昔の蓮を求めすぎるなと言われた。
それでも、願わずにはいられなかった。
「私が憧れてた蓮さんは、どこに行ったの?」
スパイクを握る指へ、力が入る。
「あの頃の蓮さんは、もういなくなっちゃったの?」
その言葉を口にした途端、胸の奥が強く痛んだ。
「戻ってきてよ」
自分でも驚くほど、はっきりとした言葉だった。
「夢を諦めてない蓮さんに、もう一度会いたい」
その瞬間、冷たかった革が、手のひらの中で急に熱を持った。
「え?」
スパイクが、わずかに震える。
薄い光が、縫い目に沿って走った。
橙色に近い、柔らかな光。
私は慌ててスパイクを棚へ置き、手を引っ込めた。
光は消えない。
むしろ少しずつ強くなり、暗くなり始めた部屋を照らしていく。
「何、これ……」
立ち上がり、後ずさる。
スパイクの周囲に光の粒が浮かんだ。
風もないのに、机の上のノートがぱらぱらとめくれる。
眩しさに目を閉じた。
次の瞬間、背後から声が聞こえた。
「誰がいなくなったって?」
明るくて、自信に満ちた声。
何度も記憶の中で聞いた声だった。
息をすることも忘れ、ゆっくり振り返る。
窓の前に、一人の少年が立っていた。
白いシャツの袖を肘までまくり、制服のネクタイを少し緩めている。
細身の身体は日に焼け、鍛えられた脚で、確かに床に立っている。
短い黒髪の前髪は少し跳ねている。
明るい茶色の目が、驚いたように私を見ていた。
その顔を、私は知っている。
誰よりもサッカーを愛していた頃の顔。
「……蓮さん?」
少年は眉を寄せる。
「なんで疑問形なんだよ」
聞き慣れた笑い方で、彼は言った。
「俺は瀬川蓮だろ」
そこに立っていたのは、十七歳だった頃の瀬川蓮だった。




