第1話 夢を語らなくなった人
「私、あなたが好き」
ようやく言えた。
ずっと胸の奥へ隠してきた言葉だった。
河川敷を吹き抜ける風が、私の髪を揺らす。
夕日の中で、制服姿の少年が立っていた。
「昔の蓮さんだからじゃない」
声が震える。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
「ここにいる、蓮くんが好き」
少年は何も言わず、私を見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
◇
陽菜が走った。
右サイドから中央へ切れ込み、相手ディフェンダーの背後へ抜けようとしている。
私には見えていた。
陽菜の前には、誰もいない。
今、縦へ出せば、そのままゴール前まで運べる。
けれど、私はボールを蹴れなかった。
パスが少しでも長くなったら。
相手に読まれていたら。
陽菜が追いつけなかったら。
考えている間にも、相手の選手が距離を詰めてくる。
結局、私は身体の向きを変え、近くにいた味方へ横パスを出した。
「美緒!」
陽菜の声がグラウンドに響いた。
責めるような声ではなかった。
それでも、胸の奥が小さく痛んだ。
数秒後、倉橋先生の笛が鳴る。
「一度止める!」
選手たちが、その場で動きを止めた。
先生はタッチラインの外から、私をまっすぐ見ている。
「藤崎。今、何が見えていた?」
「……陽菜が、裏へ走っていました」
「なら、なぜ出さなかった」
「相手に取られるかもしれないと思って」
「取られなかったかもしれない」
返す言葉がなかった。
先生は腕を組み、わずかに眉を寄せる。
「安全な判断をすることが悪いとは言わない。けれど、今のは安全な判断じゃない」
先生の視線が、私の足元へ落ちる。
「失敗する責任から逃げただけだ」
胸の奥を直接指で押されたような気がした。
「藤崎は見えているのに、見えていないふりをする」
「……はい」
「このままなら、次の練習試合は橘を先発で使う」
分かっていたことなのに、実際に言葉にされると苦しかった。
「見えたなら、選びなさい。出すにしても、出さないにしても、自分で決める」
先生は笛を口元へ戻した。
「続ける。橘、藤崎と交代」
「はい」
眉の上で切りそろえられた前髪と、乱れのない黒髪のボブ。
橘沙月は、練習中でも姿勢を崩さず、まっすぐピッチへ入ってきた。
私と同じ二年生で、同じ攻撃的ミッドフィルダー。
ポジションを争っている相手だ。
もっとも、今のところ、争いと呼べるほど競えてはいない。
私がタッチラインの外へ出ると、沙月とすれ違う。
「お疲れ」
沙月はそれだけ言って、ピッチの中央へ走っていった。
嫌みでも、挑発でもない。
だから余計に、自分が情けなくなる。
練習が再開する。
沙月はボールを受ける前に首を振り、周囲を確認した。
相手が寄ってくると、一度ボールを下げてから、空いたスペースへ走り直す。
数分後、陽菜が再び裏へ走った。
沙月は一度だけ顔を上げ、そのまま縦へボールを送る。
陽菜が追いつき、ペナルティーエリアへ進入した。
シュートはゴールキーパーに防がれた。
こぼれ球を相手に拾われると、沙月はすぐに自陣へ戻った。
「外を切って。中は私が見る」
短く指示を出しながら、ボールを持った選手へ身体を寄せる。
相手が苦し紛れに出したパスを、沙月は自分で奪い返した。
陽菜へ縦パスを出した直後なのに、もう守備へ戻っている。
沙月には、私より多くのものが見えているわけではない。
たぶん、私にだって同じものは見えている。
違うのは、見えたものを迷わず実行できることだった。
沙月は、私よりずっと迷いが少ない。
私はベンチの横に置かれた水筒を手に取った。
額へ落ちてきた焦げ茶色の前髪を、細いヘアバンドの下へ押し込む。
四月とはいえ、毎日の練習で腕や頬はすでに少し日に焼けていた。
喉は渇いていたけれど、水はほとんど通らなかった。
「美緒」
隣から声がした。
振り向くと、明るい茶色の短いポニーテールを揺らしながら、陽菜がこちらへ走ってくるところだった。
小柄な身体なのに、ピッチを駆けているときだけは誰よりも大きく見える。
「練習中でしょ」
「給水」
陽菜はそう言って、自分の水筒を傾ける。
「さっき、見えてたよね?」
「……うん」
「じゃあ出してよ」
「でも、長くなるかもしれなかったし」
「長くても走るって」
「相手に取られたら」
「取られたら取り返す」
陽菜は迷いなく答えた。
昔からそうだ。
陽菜は走ることを恐れない。
ボールが来ないかもしれなくても、追いつけないかもしれなくても、まず走る。
中学一年生から一緒にプレーしているけれど、その姿勢は変わらない。
「私が外しても、私の責任だから」
「でも、パスを出したのは私になる」
「だから何?」
陽菜は不思議そうに首をかしげた。
「失敗したら、次はもう少し短くすればいいじゃん」
簡単に言う。
けれど、私にはその簡単なことが難しかった。
「美緒が出さなきゃ、私は走る意味がないじゃん」
陽菜はそう言うと、私の肩を軽く叩いた。
「次はお願いね」
先生の笛が鳴り、陽菜は急いでピッチへ戻っていく。
私は何も答えられないまま、その背中を見送った。
見えている。
陽菜がどこへ走るのかも。
相手の守備がどこでずれるのかも。
時々、自分でも驚くほどよく分かる。
けれど、その先が怖い。
自分の判断でボールを蹴り、失敗することが。
私がもっと思い切ってプレーできたら。
昔のあの人のように、迷いなく前を向けたら。
そんなことを考えながら、私はベンチに座った。
◇
練習が終わると、入れ替わりを待っていた男子サッカー部が、すぐにグラウンドへ入ってきた。
青葉高校には、女子だけが自由に使えるグラウンドはない。
決められた時間が終われば、ネットもボールも急いで片づける。
全国大会常連の強豪私立ほど、設備には恵まれていない。
それでも、私たちは全国を目指していた。
これまでの最高成績は県大会ベスト四。
毎年、あと少しと言われながら、そのあと少しが遠い。
「藤崎」
片づけをしていると、背後から声をかけられた。
振り向くと、高瀬真帆先輩がボールの入ったネットを肩に担いでいた。
三年生の主将で、ポジションはセンターバック。
短い黒髪と日焼けした肌。普段は鋭い目つきをしているけれど、笑うと意外なほど優しい。
左眉の近くには、昔の試合でできたという小さな傷がある。
「今日、先生に言われたこと、分かってる?」
「はい」
「本当に?」
「……たぶん」
真帆先輩は小さく息を吐いた。
「藤崎が迷うと、前で走った選手も迷うんだよ」
私は顔を上げた。
「陽菜だけじゃない。パスが来ると思って動いてる選手がいること、忘れないで」
「……はい」
「藤崎のパスを待ってる選手がいる。それは、責任だけど、悪い意味じゃないから」
真帆先輩にとって、この秋の県大会は最後になる。
私たち二年生には来年があるかもしれない。
でも、先輩たちにはない。
そう考えると、余計に怖くなる。
私のミスで、先輩たちの最後の大会を終わらせてしまったら。
「また難しい顔してる」
先輩が私の額を指で軽く弾いた。
「痛いです」
「まだ大会は始まってない。今から全部背負わなくていい」
先輩はボールのネットを担ぎ直す。
「その代わり、ピッチに立ったら、自分の判断を信じること。いい?」
「……はい」
今度は少しだけ、はっきり答えた。
◇
家に帰ると、リビングの明かりがついていた。
「ただいま」
「おかえり」
返事はあったけれど、いつもの姉の声より元気がない。
リビングへ入ると、姉の千春がソファに座っていた。
白いブラウスに淡い青色のカーディガン。黒に近い焦げ茶色の長い髪は、低い位置で一つにまとめられている。
目元は私と似ているはずなのに、姉が笑うと、同じ顔立ちとは思えないほど柔らかく見えた。
テーブルの上には、二人分だったらしいケーキの箱が置かれている。
「今日、蓮さんと会うんじゃなかったの?」
「その予定だったんだけどね」
千春は困ったように笑う。
「大学で用事ができたって」
「また?」
思わず強い声が出た。
「仕方ないよ」
「でも、最近ずっとじゃん」
姉は答えず、スマートフォンの画面を伏せた。
連絡を待っていたことは、その動作だけで分かった。
「蓮さん、サッカー部は?」
「さあ」
「さあって」
「最近、その話を嫌がるから」
千春はケーキの箱を開けた。
「美緒、食べる?」
「……食べる」
本当は夕食前だったけれど、断れなかった。
二人でケーキを食べながら、私は何度も姉の横顔を見た。
姉は穏やかに笑っている。
でも、その笑顔が無理をして作られたものだと、妹の私には分かった。
瀬川蓮。
姉が高校生の頃から付き合っている人で、私がサッカーを始めるきっかけになった人だ。
高校時代はサッカー部のエースだった。
誰よりも走って、誰よりもボールを追って、点を取るたびに大きな声で笑っていた。
『俺は絶対、プロになる』
蓮さんは何度もそう言った。
夢を語ることを恥ずかしがらなかった。
子どもだった私は、その姿が格好よくて仕方なかった。
『美緒も蹴るか?』
姉との待ち合わせに私がついていくと、蓮さんは嫌な顔をせず、よく一緒にボールを蹴ってくれた。
私は足が遅くて、ボールもまともに扱えなかった。
それでも蓮さんは笑わなかった。
『今、ちゃんと前見てたな』
『美緒は周りを見るのがうまいかもな』
その言葉がうれしくて、私はサッカーを始めた。
あの頃の私は、蓮さんのようになりたかった。
迷わず前へ進み、ゴールを決めて、みんなから頼られる選手に。
けれど、実際の私は蓮さんとは違った。
今でも失敗を恐れて、前へボールを出せない。
そして蓮さん本人も、いつの間にかサッカーの話をしなくなった。
「お姉ちゃん」
「何?」
「蓮さん、いつから練習に行ってないの?」
千春の手が止まった。
「分からない」
「怪我はもう治ったんでしょ?」
「治ったって本人は言ってる」
「じゃあ、どうして?」
「美緒」
姉の声が少しだけ強くなる。
私は口を閉じた。
「ごめん」
「ううん。私も分からないから」
千春は小さく笑う。
「分からないことを何度も聞くと、蓮が余計に苦しそうな顔をするの」
「でも、お姉ちゃんも苦しそう」
姉はしばらく黙っていた。
やがて、フォークを皿の上へ置く。
「そう見える?」
「見えるよ」
「そっか」
千春は視線を落とした。
「この前、蓮の部屋に行ったの」
「うん」
「スパイクも練習着も、全部クローゼットに入ってた」
「全部?」
「うん」
姉は少し間を置いてから続けた。
「見えないところに、片づけたみたいに」
蓮さんは、高校生の頃からサッカー用品を部屋の見える場所に置いていた。
新しいスパイクを買えば、姉や私に見せていた。
練習着も、試合でもらった賞状も、サッカーに関係する物は隠さなかった。
そんな人が、自分のスパイクを見えない場所へしまった。
「最近は、試合の中継も見てないみたい」
千春はそれ以上、何も言わなかった。
◇
自分の部屋へ戻り、制服から部屋着へ着替える。
毎日走っているおかげで、脚だけは少しずつ強くなった。
それでも、判断する勇気までは鍛えられていない。
机の横の棚には、片方だけの古いサッカースパイクが飾られていた。
黒を基調にした、今では少し重そうなデザイン。
革には細かな傷があり、靴底には土の色がわずかに残っている。
蓮さんが高校生の頃に履いていたものだ。
新しいスパイクを買ったから捨てると言った蓮さんに、私は無理を言って譲ってもらった。
『こんなボロいのでいいのか?』
『これがいい』
『変なやつ』
蓮さんは笑いながら、きれいに汚れを落としてから私に渡してくれた。
サイズが違うため、履いたことはない。
それでも、私にとってはずっとお守りだった。
試合前に触れると、少しだけ勇気をもらえる気がした。
蓮さん本人は、新しいスパイクも練習着も、見えない場所へしまい込んでいる。
なのに私は、昔のスパイクを今も部屋の一番目立つ場所に飾っている。
そのことが、少しだけおかしく思えた。
私はベッドに座り、スパイクを見つめる。
今日の練習が頭から離れない。
陽菜が走っていた。
私は見えていた。
それなのに、ボールを出せなかった。
高校時代の蓮さんなら、きっと迷わなかった。
相手に取られる可能性なんて考えず、ゴールへ向かっていたはずだ。
「私も変わらなきゃ」
小さく呟く。
けれど、視線は自分ではなく、古いスパイクへ向いていた。
私はまだ、蓮さんの背中を追いかけている。
その蓮さんは、もうサッカーを見ようともしない。
棚の上のスパイクだけが、あの頃のまま残っている。
夢を語り、走り続けていた人の痕跡。
私はそっとスパイクへ手を伸ばした。
「蓮さん」
返事があるはずもない。
革の表面に指を滑らせる。
「どうして、夢を語らなくなったの?」
部屋には、時計の針が進む音だけが響いていた。
私はスパイクから手を離す。
明日も練習がある。
いつまでも昔のことばかり考えてはいられない。
そう思い、部屋の明かりを消してベッドへ入った。
目を閉じて、しばらくした頃。
棚の方から、かすかな音がした。
革が擦れたような、小さな音。
私は上半身を起こし、暗闇の中へ目を凝らす。
古いスパイクは、何も変わらず棚の上に置かれていた。
「……気のせいか」
もう一度、布団へ身体を沈める。
けれど眠りに落ちるまで、私は何度も棚の方を振り返った。
古いスパイクは、暗闇の中で、あの頃と変わらない姿をしていた。




