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夢を諦めた君のスパイクから、十七歳の君が現れた  作者: situ725


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第1話 夢を語らなくなった人

 「私、あなたが好き」


 ようやく言えた。


 ずっと胸の奥へ隠してきた言葉だった。


 河川敷を吹き抜ける風が、私の髪を揺らす。


 夕日の中で、制服姿の少年が立っていた。


「昔の蓮さんだからじゃない」


 声が震える。


 それでも、今度は目を逸らさなかった。


「ここにいる、蓮くんが好き」


 少年は何も言わず、私を見つめていた。


 やがて、ゆっくりと口を開く。


     ◇

 陽菜が走った。


 右サイドから中央へ切れ込み、相手ディフェンダーの背後へ抜けようとしている。


 私には見えていた。


 陽菜の前には、誰もいない。

 今、縦へ出せば、そのままゴール前まで運べる。


 けれど、私はボールを蹴れなかった。


 パスが少しでも長くなったら。


 相手に読まれていたら。


 陽菜が追いつけなかったら。


 考えている間にも、相手の選手が距離を詰めてくる。


 結局、私は身体の向きを変え、近くにいた味方へ横パスを出した。


「美緒!」


 陽菜の声がグラウンドに響いた。


 責めるような声ではなかった。


 それでも、胸の奥が小さく痛んだ。


 数秒後、倉橋先生の笛が鳴る。


「一度止める!」


 選手たちが、その場で動きを止めた。


 先生はタッチラインの外から、私をまっすぐ見ている。


「藤崎。今、何が見えていた?」


「……陽菜が、裏へ走っていました」


「なら、なぜ出さなかった」


「相手に取られるかもしれないと思って」


「取られなかったかもしれない」


 返す言葉がなかった。


 先生は腕を組み、わずかに眉を寄せる。


「安全な判断をすることが悪いとは言わない。けれど、今のは安全な判断じゃない」


 先生の視線が、私の足元へ落ちる。


「失敗する責任から逃げただけだ」


 胸の奥を直接指で押されたような気がした。


「藤崎は見えているのに、見えていないふりをする」


「……はい」


「このままなら、次の練習試合は橘を先発で使う」


 分かっていたことなのに、実際に言葉にされると苦しかった。


「見えたなら、選びなさい。出すにしても、出さないにしても、自分で決める」


 先生は笛を口元へ戻した。


「続ける。橘、藤崎と交代」


「はい」


 眉の上で切りそろえられた前髪と、乱れのない黒髪のボブ。


 橘沙月は、練習中でも姿勢を崩さず、まっすぐピッチへ入ってきた。


 私と同じ二年生で、同じ攻撃的ミッドフィルダー。


 ポジションを争っている相手だ。


 もっとも、今のところ、争いと呼べるほど競えてはいない。


 私がタッチラインの外へ出ると、沙月とすれ違う。


「お疲れ」


 沙月はそれだけ言って、ピッチの中央へ走っていった。


 嫌みでも、挑発でもない。


 だから余計に、自分が情けなくなる。


 練習が再開する。


 沙月はボールを受ける前に首を振り、周囲を確認した。


 相手が寄ってくると、一度ボールを下げてから、空いたスペースへ走り直す。


 数分後、陽菜が再び裏へ走った。


 沙月は一度だけ顔を上げ、そのまま縦へボールを送る。


 陽菜が追いつき、ペナルティーエリアへ進入した。


 シュートはゴールキーパーに防がれた。


 こぼれ球を相手に拾われると、沙月はすぐに自陣へ戻った。


「外を切って。中は私が見る」


 短く指示を出しながら、ボールを持った選手へ身体を寄せる。


 相手が苦し紛れに出したパスを、沙月は自分で奪い返した。


 陽菜へ縦パスを出した直後なのに、もう守備へ戻っている。


 沙月には、私より多くのものが見えているわけではない。


 たぶん、私にだって同じものは見えている。


 違うのは、見えたものを迷わず実行できることだった。


 沙月は、私よりずっと迷いが少ない。


 私はベンチの横に置かれた水筒を手に取った。


 額へ落ちてきた焦げ茶色の前髪を、細いヘアバンドの下へ押し込む。


 四月とはいえ、毎日の練習で腕や頬はすでに少し日に焼けていた。


 喉は渇いていたけれど、水はほとんど通らなかった。


「美緒」


 隣から声がした。


 振り向くと、明るい茶色の短いポニーテールを揺らしながら、陽菜がこちらへ走ってくるところだった。


 小柄な身体なのに、ピッチを駆けているときだけは誰よりも大きく見える。


「練習中でしょ」


「給水」


 陽菜はそう言って、自分の水筒を傾ける。


「さっき、見えてたよね?」


「……うん」


「じゃあ出してよ」


「でも、長くなるかもしれなかったし」


「長くても走るって」


「相手に取られたら」


「取られたら取り返す」


 陽菜は迷いなく答えた。


 昔からそうだ。


 陽菜は走ることを恐れない。


 ボールが来ないかもしれなくても、追いつけないかもしれなくても、まず走る。


 中学一年生から一緒にプレーしているけれど、その姿勢は変わらない。


「私が外しても、私の責任だから」


「でも、パスを出したのは私になる」


「だから何?」


 陽菜は不思議そうに首をかしげた。


「失敗したら、次はもう少し短くすればいいじゃん」


 簡単に言う。


 けれど、私にはその簡単なことが難しかった。


「美緒が出さなきゃ、私は走る意味がないじゃん」


 陽菜はそう言うと、私の肩を軽く叩いた。


「次はお願いね」


 先生の笛が鳴り、陽菜は急いでピッチへ戻っていく。


 私は何も答えられないまま、その背中を見送った。


 見えている。


 陽菜がどこへ走るのかも。


 相手の守備がどこでずれるのかも。


 時々、自分でも驚くほどよく分かる。


 けれど、その先が怖い。


 自分の判断でボールを蹴り、失敗することが。


 私がもっと思い切ってプレーできたら。


 昔のあの人のように、迷いなく前を向けたら。


 そんなことを考えながら、私はベンチに座った。


     ◇


 練習が終わると、入れ替わりを待っていた男子サッカー部が、すぐにグラウンドへ入ってきた。


 青葉高校には、女子だけが自由に使えるグラウンドはない。


 決められた時間が終われば、ネットもボールも急いで片づける。


 全国大会常連の強豪私立ほど、設備には恵まれていない。


 それでも、私たちは全国を目指していた。


 これまでの最高成績は県大会ベスト四。


 毎年、あと少しと言われながら、そのあと少しが遠い。


「藤崎」


 片づけをしていると、背後から声をかけられた。


 振り向くと、高瀬真帆先輩がボールの入ったネットを肩に担いでいた。


 三年生の主将で、ポジションはセンターバック。


 短い黒髪と日焼けした肌。普段は鋭い目つきをしているけれど、笑うと意外なほど優しい。


 左眉の近くには、昔の試合でできたという小さな傷がある。


「今日、先生に言われたこと、分かってる?」


「はい」


「本当に?」


「……たぶん」


 真帆先輩は小さく息を吐いた。


「藤崎が迷うと、前で走った選手も迷うんだよ」


 私は顔を上げた。


「陽菜だけじゃない。パスが来ると思って動いてる選手がいること、忘れないで」


「……はい」


「藤崎のパスを待ってる選手がいる。それは、責任だけど、悪い意味じゃないから」


 真帆先輩にとって、この秋の県大会は最後になる。


 私たち二年生には来年があるかもしれない。


 でも、先輩たちにはない。


 そう考えると、余計に怖くなる。


 私のミスで、先輩たちの最後の大会を終わらせてしまったら。


「また難しい顔してる」


 先輩が私の額を指で軽く弾いた。


「痛いです」


「まだ大会は始まってない。今から全部背負わなくていい」


 先輩はボールのネットを担ぎ直す。


「その代わり、ピッチに立ったら、自分の判断を信じること。いい?」


「……はい」


 今度は少しだけ、はっきり答えた。


     ◇


 家に帰ると、リビングの明かりがついていた。


「ただいま」


「おかえり」


 返事はあったけれど、いつもの姉の声より元気がない。


 リビングへ入ると、姉の千春がソファに座っていた。


 白いブラウスに淡い青色のカーディガン。黒に近い焦げ茶色の長い髪は、低い位置で一つにまとめられている。


 目元は私と似ているはずなのに、姉が笑うと、同じ顔立ちとは思えないほど柔らかく見えた。


 テーブルの上には、二人分だったらしいケーキの箱が置かれている。


「今日、蓮さんと会うんじゃなかったの?」


「その予定だったんだけどね」


 千春は困ったように笑う。


「大学で用事ができたって」


「また?」


 思わず強い声が出た。


「仕方ないよ」


「でも、最近ずっとじゃん」


 姉は答えず、スマートフォンの画面を伏せた。


 連絡を待っていたことは、その動作だけで分かった。


「蓮さん、サッカー部は?」


「さあ」


「さあって」


「最近、その話を嫌がるから」


 千春はケーキの箱を開けた。


「美緒、食べる?」


「……食べる」


 本当は夕食前だったけれど、断れなかった。


 二人でケーキを食べながら、私は何度も姉の横顔を見た。


 姉は穏やかに笑っている。


 でも、その笑顔が無理をして作られたものだと、妹の私には分かった。


 瀬川蓮。


 姉が高校生の頃から付き合っている人で、私がサッカーを始めるきっかけになった人だ。


 高校時代はサッカー部のエースだった。


 誰よりも走って、誰よりもボールを追って、点を取るたびに大きな声で笑っていた。


『俺は絶対、プロになる』


 蓮さんは何度もそう言った。


 夢を語ることを恥ずかしがらなかった。


 子どもだった私は、その姿が格好よくて仕方なかった。


『美緒も蹴るか?』


 姉との待ち合わせに私がついていくと、蓮さんは嫌な顔をせず、よく一緒にボールを蹴ってくれた。


 私は足が遅くて、ボールもまともに扱えなかった。


 それでも蓮さんは笑わなかった。


『今、ちゃんと前見てたな』


『美緒は周りを見るのがうまいかもな』


 その言葉がうれしくて、私はサッカーを始めた。


 あの頃の私は、蓮さんのようになりたかった。


 迷わず前へ進み、ゴールを決めて、みんなから頼られる選手に。


 けれど、実際の私は蓮さんとは違った。


 今でも失敗を恐れて、前へボールを出せない。


 そして蓮さん本人も、いつの間にかサッカーの話をしなくなった。


「お姉ちゃん」


「何?」


「蓮さん、いつから練習に行ってないの?」


 千春の手が止まった。


「分からない」


「怪我はもう治ったんでしょ?」


「治ったって本人は言ってる」


「じゃあ、どうして?」


「美緒」


 姉の声が少しだけ強くなる。


 私は口を閉じた。


「ごめん」


「ううん。私も分からないから」


 千春は小さく笑う。


「分からないことを何度も聞くと、蓮が余計に苦しそうな顔をするの」


「でも、お姉ちゃんも苦しそう」


 姉はしばらく黙っていた。


 やがて、フォークを皿の上へ置く。


「そう見える?」


「見えるよ」


「そっか」


 千春は視線を落とした。


「この前、蓮の部屋に行ったの」


「うん」


「スパイクも練習着も、全部クローゼットに入ってた」


「全部?」


「うん」


 姉は少し間を置いてから続けた。


「見えないところに、片づけたみたいに」


 蓮さんは、高校生の頃からサッカー用品を部屋の見える場所に置いていた。


 新しいスパイクを買えば、姉や私に見せていた。


 練習着も、試合でもらった賞状も、サッカーに関係する物は隠さなかった。


 そんな人が、自分のスパイクを見えない場所へしまった。


「最近は、試合の中継も見てないみたい」


 千春はそれ以上、何も言わなかった。


     ◇


 自分の部屋へ戻り、制服から部屋着へ着替える。


 毎日走っているおかげで、脚だけは少しずつ強くなった。


 それでも、判断する勇気までは鍛えられていない。


 机の横の棚には、片方だけの古いサッカースパイクが飾られていた。


 黒を基調にした、今では少し重そうなデザイン。


 革には細かな傷があり、靴底には土の色がわずかに残っている。


 蓮さんが高校生の頃に履いていたものだ。


 新しいスパイクを買ったから捨てると言った蓮さんに、私は無理を言って譲ってもらった。


『こんなボロいのでいいのか?』


『これがいい』


『変なやつ』


 蓮さんは笑いながら、きれいに汚れを落としてから私に渡してくれた。


 サイズが違うため、履いたことはない。


 それでも、私にとってはずっとお守りだった。


 試合前に触れると、少しだけ勇気をもらえる気がした。


 蓮さん本人は、新しいスパイクも練習着も、見えない場所へしまい込んでいる。


 なのに私は、昔のスパイクを今も部屋の一番目立つ場所に飾っている。


 そのことが、少しだけおかしく思えた。


 私はベッドに座り、スパイクを見つめる。


 今日の練習が頭から離れない。


 陽菜が走っていた。


 私は見えていた。


 それなのに、ボールを出せなかった。


 高校時代の蓮さんなら、きっと迷わなかった。


 相手に取られる可能性なんて考えず、ゴールへ向かっていたはずだ。


「私も変わらなきゃ」


 小さく呟く。


 けれど、視線は自分ではなく、古いスパイクへ向いていた。


 私はまだ、蓮さんの背中を追いかけている。


 その蓮さんは、もうサッカーを見ようともしない。


 棚の上のスパイクだけが、あの頃のまま残っている。


 夢を語り、走り続けていた人の痕跡。


 私はそっとスパイクへ手を伸ばした。


「蓮さん」


 返事があるはずもない。


 革の表面に指を滑らせる。


「どうして、夢を語らなくなったの?」


 部屋には、時計の針が進む音だけが響いていた。


 私はスパイクから手を離す。


 明日も練習がある。


 いつまでも昔のことばかり考えてはいられない。


 そう思い、部屋の明かりを消してベッドへ入った。


 目を閉じて、しばらくした頃。


 棚の方から、かすかな音がした。


 革が擦れたような、小さな音。


 私は上半身を起こし、暗闇の中へ目を凝らす。


 古いスパイクは、何も変わらず棚の上に置かれていた。


「……気のせいか」


 もう一度、布団へ身体を沈める。


 けれど眠りに落ちるまで、私は何度も棚の方を振り返った。


 古いスパイクは、暗闇の中で、あの頃と変わらない姿をしていた。


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