第10話 お前にしかできないこと
足首を捻ってから一週間後、私はようやく練習へ戻ることを許された。
痛みはほとんど消えている。
軽く走っても問題はない。
ただし、急な切り返しや強い接触は、まだ避けるように言われていた。
「少しでも違和感が出たら、すぐ止めること」
練習前、倉橋監督が念を押す。
「はい」
「取り返そうとしなくていいから」
胸の内を見透かされたような気がした。
「何をですか?」
「休んだ分」
倉橋監督は私の足元を見る。
「一週間休んだからって、今まで積み重ねたものが全部なくなるわけじゃない。逆に、今日一日で休んだ分を取り戻せるものでもない」
「分かっています」
「本当に分かってる顔には見えないけど」
返事に困っていると、監督は小さく息を吐いた。
「今日は基礎練習まで。実戦形式には入れない」
「でも、もう痛みはありません」
「痛みがないことと、試合の動きに耐えられることは別」
「……はい」
「焦らないことも、選手の判断だからね」
倉橋監督はそう言って、ほかの部員のもとへ向かった。
私は右足首へ巻いたテーピングを見下ろす。
グラウンドの中央では、沙月たちがパス練習を始めていた。
私が休んでいた間にも、みんなは練習している。
沙月は前よりも速くボールを動かしているように見えた。
陽菜との呼吸も合っている。
「監督の言うとおりだ」
少年が隣から言った。
「分かっています」
「なら、そんな顔するな」
「どんな顔ですか?」
「今すぐ全部取り戻そうとしてる顔」
「監督と同じことを言わないでください」
「同じことを言われるってことは、顔に出てるんだろ」
私は答えず、ボールを一つ取った。
まずは軽いジョギング。
そのあと、短い距離でのパス交換。
足首に痛みは出なかった。
ボールを蹴る感覚も残っている。
けれど、練習から離れていたせいか、身体が少し重い。
「もっと力を抜け」
少年が言う。
「これでも抜いています」
「蹴るたびに肩が上がってる」
「久しぶりだからです」
「一週間だろ」
「一週間も、です」
少年は呆れたように笑った。
けれど、前のように私の動きを急かすことはなかった。
足元を確認しながら、少し離れた場所を歩いている。
私が右足を踏み込むたびに、少年の視線が足首へ落ちる。
「そんなに見ないでください」
「見てない」
「ずっと足を見ています」
「また痛めたら困るだろ」
「痛かったら言います」
「本当に?」
「約束しましたから」
少年は少しだけ黙った。
「ああ」
短い返事だった。
私たちは、憑依を勝つための便利な力として使わないと決めた。
少年も、私の身体を借りていることを忘れないと言った。
けれど約束を交わしてから、私たちは一度も憑依していない。
私が身体を貸そうとしなかったからだ。
怖くなったわけではない。
そう思いたかった。
けれど、胸の奥にはまだ、あの痛みが残っている。
少年が私の身体を動かし続け、止めてと言っても止まらなかった感覚。
自分の足なのに、自分の意思では止められなかった恐怖。
同時に、少年なら結果を出してくれるという期待も消えていなかった。
だから今は使わない。
使わずに、自分でできることを増やす。
そう決めていた。
◇
基礎練習のあと、倉橋監督は私だけをコートの外へ呼んだ。
「藤崎は別メニュー」
「何をすればいいですか?」
「ボールを使った軽い動き。急な方向転換は禁止」
「分かりました」
「橘」
監督が沙月を呼ぶ。
沙月がこちらへ来た。
「藤崎の相手をして。強く当たらなくていいから」
「はい」
私は思わず沙月を見る。
「私と?」
「嫌?」
「そういうわけでは」
「なら始めるよ」
沙月は淡々とボールを足元へ置いた。
倉橋監督がコーンを四つ並べ、小さな四角形を作る。
「二人でボールを奪い合うんじゃない。藤崎がボールを持って、橘は進む方向を制限するだけ」
「ドリブル練習ですか?」
「そう。ただし、藤崎は速さで抜こうとしないこと」
「では、どうやって抜くんですか?」
「考えて」
倉橋監督はそれだけ言い、ほかの練習へ戻っていった。
沙月が私の正面に立つ。
「いつでもいいよ」
「本気で来ないでくださいね」
「監督に言われてるから、当たらない」
「そうじゃなくて」
「何?」
「……何でもないです」
私はボールを右足の前へ置いた。
少年が少し離れた場所から見ている。
「右を見せろ」
小さな声で言われる。
私は顔だけを右へ向けた。
沙月は動かない。
「肩も使え」
右肩を少し下げる。
沙月の重心が、ほんのわずかに右へ寄ったように見えた。
今だ。
左足でボールを動かす。
けれど沙月はすぐについてきた。
進路を塞がれる。
「遅い」
少年が言う。
私はボールを止めた。
「もう一回」
沙月が元の位置へ戻る。
今度は、少年が紅白戦で使った動きを思い出す。
右へ行くように見せて、左へ。
相手の重心が動いた瞬間を狙う。
私は右足でボールを一度外へ触った。
沙月の足が動く。
すぐに左へ切り返す。
右足首に不安がよぎり、踏み込みが弱くなった。
ボールが身体から離れる。
沙月が足を伸ばし、簡単に止めた。
「今、怖がった?」
沙月が聞いた。
「何をですか?」
「右足で踏み込むの」
「別に」
「そう」
沙月はそれ以上追及しなかった。
少年が私のそばへ来る。
「踏み込めなかったな」
「まだ復帰したばかりです」
「それなら、無理に俺の動きをやるな」
私は少年を見る。
「蓮さんが教えたんでしょう」
「参考にしろとは言った。でも、同じ動きをしろとは言ってない」
「違いが分かりません」
「俺とお前じゃ身体が違う」
「知っています」
「なら、お前の身体でできる形に変えろ」
「簡単に言わないでください」
沙月が不思議そうに私を見る。
「また独り言?」
「考えを整理してるだけです」
「声に出さないと整理できないの?」
「最近は」
「そう」
沙月は少し間を置いてから、ボールを私へ戻した。
「続ける?」
「はい」
もう一度向き合う。
今度は、少年の切り返しをそのまま再現しようとせず、ボールを近くに置いたまま身体だけを動かす。
右を見る。
沙月の肩がわずかに動く。
左へ行くように見せる。
今度は沙月が動かない。
読まれている。
私は迷い、結局横へ逃げた。
コーンの外へ出る。
「終了」
沙月が言う。
「分かっています」
「最初から、抜く方向を決めてた?」
「決めていました」
「だから、動きを見られてたんだと思う」
「どういう意味ですか?」
「私が動いたから抜くんじゃなくて、左へ行きたいから私を右へ動かそうとしてた」
少年が反応する。
「橘の言うとおりだ」
「では、どうすればいいんですか?」
沙月には少年の声は聞こえない。
私は沙月へ尋ねる形に言い直した。
「相手を見てから決めるんですか?」
「私はそうしてる」
「受ける前に決めるんじゃないんですか?」
「出す場所は考える。でも、相手がそのとおり動くとは限らない」
沙月は自分の足元へボールを置いた。
「一回、私がやる」
私と位置を交代する。
沙月は速い選手ではない。
ドリブルで何人も抜くタイプでもない。
けれど、ボールを持つ前に私の位置を確認していた。
右足で少し外へ動かす。
私がついていく。
沙月は無理に抜こうとせず、身体を入れてボールを守る。
私が内側を切ると、空いた外側へ静かに運んだ。
派手な切り返しはない。
それでも、私は進路を塞げなかった。
「今、私が内側へ動いたから外へ行った?」
「そう」
「最初から決めてなかった?」
「二つは考えてた」
「二つ?」
「内側が空けば内側。閉じられたら外側」
沙月はボールを私へ返す。
「どっちか一つを通すために相手を動かすんじゃなくて、相手が動いたあとに空いた方を使う」
少年は黙って沙月を見ていた。
週末の映像で、少年は言っていた。
私は最後まで二つの道を残そうとしている。
失敗しない道と、陽菜へ通す道を。
だから決められないのだと。
けれど沙月は、二つを残している。
迷うためではなく、相手の動きに合わせて選ぶために。
似ているようで、まるで違う。
「もう一回お願いします」
「うん」
私は沙月と向き合った。
右へ行く。
左へ行く。
どちらかを先に決めない。
沙月の位置を見る。
右足で小さくボールを外へ動かす。
沙月が内側を切る。
外が空いた。
そこへボールを運ぶ。
派手には抜けない。
けれど、沙月の横を半歩だけ通り過ぎることができた。
「今の」
思わず振り返る。
「通れました」
「うん」
少年が少し離れた場所で笑っている。
笑わないでください。
声には出さず、目だけで訴えた。
少年はますます楽しそうに笑った。
◇
練習終了後、私は一人でボールを蹴っていた。
実戦形式には参加できなかった。
その代わり、倉橋監督から許可をもらい、足首へ負担をかけない範囲でパスとシュートの確認をしている。
ゴールの中央へボールを置く。
少年がペナルティーエリアの外から指示する。
「次は右上」
「いきなり難しくないですか?」
「試合なら、空いてる場所を狙わないと入らない」
「今は復帰練習です」
「じゃあ右半分」
「範囲が広すぎます」
「文句が多いな」
私は助走を取り、右足を振る。
ボールはゴールの中央より少し右へ飛んだ。
「入ったじゃないですか」
「キーパーがいたら止められてる」
「今はいません」
「試合ではいる」
「では、蓮さんがキーパーをしてください」
「触れないって知ってるだろ」
「だから簡単に言わないでください」
少年は腕を組んだ。
「もう一回」
私はボールを置き直す。
今度は右上を狙う。
助走。
踏み込み。
右足を振り抜く。
ボールはゴールの右へ大きく外れた。
「力みすぎ」
「分かっています」
「もっと軸足を近くに置け」
言われたとおりにする。
再び蹴る。
今度は低いボールが中央へ飛んだ。
「違う」
「今、直してる途中です」
「足首は?」
「痛くありません」
「本当に?」
「本当です」
少年は足首から目を離さない。
「そんなに心配なら、もうやめますか?」
「違う」
「何が違うんですか?」
「お前がやりたいなら、やればいい」
「では見守っていてください」
「ああ」
私は何度もボールを蹴った。
右上。
左下。
中央。
狙った場所へ飛ばない。
少年なら、私の身体でも迷わずシュートを打てた。
強さはなくても、キーパーの逆を狙う判断があった。
私は、自分で蹴ると力んでしまう。
外したくないと思うほど、身体が硬くなる。
「次はドリブルから打ちます」
「今日は切り返し禁止だろ」
「急な切り返しはしません」
「無理するなよ」
「しません」
コーンを二つ並べる。
右へ運び、左へずらしてシュート。
少年が沙月を抜いたときの動きを、速度を落として再現する。
右へ見せる。
左足で触る。
身体を反転する。
足元のボールが大きく離れた。
「違う」
少年が言う。
「分かっています」
もう一度。
今度は身体を先に動かしすぎて、ボールが残る。
「遅い」
「分かってます」
「焦るな」
「蓮さんに言われたくありません」
もう一度試す。
右足を踏み込んだ瞬間、あの日の痛みが頭をよぎった。
足が止まる。
ボールだけが前へ転がった。
「美緒」
「大丈夫です」
「今日は終わりにしろ」
「まだできます」
「足を止めただろ」
「痛くはありません」
「怖かったんだろ」
私はボールを拾いに行く。
「別に」
「嘘つくな」
「嘘ではありません」
「じゃあ、もう一回やってみろ」
挑発するような言い方だった。
腹が立ち、ボールを元の位置へ戻す。
右へ見せる。
左へ動く。
踏み込む。
また身体が止まった。
足首に痛みはない。
それでも、身体があの瞬間を覚えている。
「もういい」
「まだです」
「今やっても同じだ」
「では、できるまでやります」
「そうやって無理して怪我しただろ」
「蓮さんに任せたからです」
言ってから、少年の表情が変わった。
私も口を閉じる。
「……今のは」
「本当のことだろ」
「私にも責任があるって、話したじゃないですか」
「でも、今は俺のせいにした」
「そういうつもりでは」
「じゃあ、どういうつもりだよ」
少年の声は大きくない。
怒っているというより、傷ついているように聞こえた。
「すみません」
すぐに謝った。
「焦ってました」
「何に?」
「何にって」
グラウンドの向こうでは、沙月と陽菜が片づけをしている。
沙月は実戦形式へ参加した。
私は外から見ていただけだった。
「私が休んでいる間に、沙月は前へ進んでいます」
「お前も練習してる」
「でも、同じではありません」
「同じになる必要があるのか?」
「同じポジションを争ってるんです」
「だからって、橘と同じことをするのか?」
「少なくとも、沙月よりできることがなければ選ばれません」
「お前にはあるだろ」
「何がですか?」
少年はすぐに答えなかった。
その沈黙が、余計に苦しかった。
「ありませんよね」
「決めつけるな」
「蓮さんみたいに相手を抜けない。迷わずシュートも打てない。沙月みたいに安定したプレーもできない」
「美緒」
「私には何があるんですか?」
少年は黙っている。
答えがないように見えた。
「もう帰ります」
私はボールを片づけ、鞄を持った。
◇
帰宅後、少年はほとんど話しかけてこなかった。
夕食を終え、部屋へ戻る。
私は机へ向かい、宿題を始める。
けれど、文字が頭に入らない。
少年はベッドの横で、私のスマートフォンを見ていた。
「何をしてるんですか?」
「紅白戦の映像を見せろ」
「またですか?」
「見たいものがある」
「今は宿題をしています」
「じゃあ終わってから」
「何を見るんですか?」
「お前のプレー」
「もう見たでしょう」
「ちゃんとは見てなかった」
私は少年を見る。
「あれだけ止めながら見たのに?」
「俺がやったところばかり見てた」
少年は少し言いにくそうに続ける。
「お前が何をしてるかじゃなくて、何ができてないかを探してた」
「それは監督と同じです」
「違う」
「何がですか?」
「今度は、お前が何を見てるのかを見たい」
意味が分からなかった。
「映像に、私が見ているものは映りません」
「動きには出る」
少年は真剣だった。
「終わったら見せてくれ」
「……分かりました」
私は宿題へ戻った。
その間も、少年は何も言わず待っていた。
◇
宿題を終え、私はベッドへ腰を下ろした。
スマートフォンを横向きに持ち、紅白戦の映像を開く。
少年が隣へ座るような姿勢を取った。
「どこからですか?」
「最初から」
「長いですよ」
「必要なところは飛ばす」
動画を再生する。
白組のキックオフ。
沙月がボールを受ける。
少年は今回は止めなかった。
少しして、画面の中の私が映る。
相手の背後で、何度も首を動かしている。
「止めろ」
私は動画を止めた。
「ここ」
「何ですか?」
「お前、ボールを見てない」
「見ています」
「一瞬だけだ。ほとんど周りを見てる」
画面の中の私は、ボールが来る前に右を向いている。
次に左。
後ろ。
前。
「普通でしょう」
「橘も見てる。でも、お前はもっと遠くを見てる」
「遠く?」
「陽菜だけじゃない。逆側の選手まで」
動画を進める。
私はボールを受ける。
迷った末に横へ出した。
「失敗した場面です」
「その前に、何を見てた?」
「覚えていません」
「画面を見ろ」
私の顔が向いた先には、陽菜がいる。
でも、その奥には別の味方が走っていた。
逆サイドも空いている。
「お前、三つ見てたんだ」
「三つ?」
「陽菜への縦パス。逆側への展開。近くの横パス」
「でも、選べませんでした」
「見えてなかったわけじゃない」
「見えていても、出せなければ意味がありません」
「違う」
少年は画面を指す。
「俺は、得点につながる場所ばかり見てた」
「蓮さんなら、陽菜へ出したんじゃないですか?」
「たぶんな。でも、逆側までは見てない」
「それは、陽菜が一番得点に近いからでしょう」
「ああ。だから、ほかを早く捨ててた」
動画を進める。
次の場面。
私はボールを持っていない。
それでも首を動かし、味方と相手の位置を確認している。
自分では意識していなかった。
「ここも」
少年が動画を止める。
「相手がボールを持ってるのに、お前は味方の位置を見てる」
「守備の受け渡しを確認していたんだと思います」
「誰に言われた?」
「誰にも」
「なら、お前が見たんだろ」
「それくらい、みんな見ています」
「全員が同じように見えてたら、監督に『見えてるのに見えてないふりをする』なんて言われない」
胸の奥がわずかに動いた。
「それは、悪い意味です」
「見えてること自体は悪くない」
少年はまた動画を進める。
陽菜が走る。
私はパスを出せない。
その代わり、少し遅れて別の場所へ動いている。
「この動き、何だ?」
「こぼれ球を拾うためです」
「陽菜に通らなかったときの?」
「はい」
「パスを出してないのに、その次を考えてるのか?」
「出せなかったからです」
「それでも、次の場所が分かってる」
「偶然です」
「何回も偶然が続くかよ」
少年の声が少し強くなる。
「お前は、自分ができてないところばかり見てる」
「蓮さんも見ていたでしょう」
「だから今、見直してる」
動画の中で、紅白戦前半が続く。
私は失敗している。
迷っている。
安全なパスへ逃げている。
それでも、ボールのない場所で何度も周囲を確認していた。
味方が走り出す前に、空いた場所へ顔を向けている。
相手が動く前に、その後ろを見ている。
できていないことばかりだと思っていた映像の中に、自分でも知らなかった動きがあった。
「次」
少年が再生位置を進める。
憑依した場面が近づく。
「ここは見なくても」
「見る」
画面の中で、私の動きが変わる。
背筋が伸び、重心が前へ移る。
沙月をかわし、陽菜へパスを出す。
少年はその映像を見ながら、黙っていた。
「何ですか?」
「俺は、ゴールへ直結するものばかり見てた」
少年は、今度はゆっくりと言った。
「陽菜が走ったから出した。でも、ほかの味方がどこにいたかは、ほとんど覚えてない」
「結果は出ました」
「ああ」
「では、それでいいんじゃないですか?」
「一回ならな」
少年は画面を止める。
私の身体がシュートを打とうとしている瞬間だった。
「でも、相手に読まれたら終わる」
「蓮さんは相手を抜けます」
「毎回は無理だ」
「それでも私よりは」
「俺と比べるな」
はっきり言われた。
「でも」
「俺みたいになる必要はない」
少年は画面ではなく、私を見ていた。
「俺は、ゴールへ直結するものばかり見てた。でも、お前は、みんながどこにいるか見えてる」
「見えているだけです」
「それができない選手もいる」
「私にはドリブルも、シュートもありません」
「あるかないかじゃない。何を使うかだろ」
「視野だけで試合には出られません」
「なら、それをパスに使え」
「失敗するかもしれません」
「失敗しない選手なんていない」
「蓮さんは簡単に言いますね」
「簡単じゃない」
少年の声は穏やかだった。
「お前が見えてるものは、俺には見えてなかった」
「……蓮さんに?」
「ああ」
信じられなかった。
私がずっと追いかけてきた人。
何でもできると思っていた選手。
その少年が、自分には見えなかったものを私が見ていると言っている。
「俺の切り返しを真似しても、お前の身体には合わない」
少年は続ける。
「俺と同じシュートを打とうとしても、同じ強さにはならない」
「だから、私は」
「でも、俺と同じになる必要はない」
少年が少しだけ身を乗り出す。
「お前には、お前にしか出せないパスがあるだろ」
胸の奥が熱くなった。
昔の蓮さんに、認めてもらいたかった。
サッカーを始めた頃から、ずっと。
転んでも。
うまく蹴れなくても。
蓮さんみたいになりたいと思って、ボールを追いかけてきた。
今、その人と同じ姿をした少年が、私に同じになる必要はないと言っている。
「本当に、そう思いますか?」
「思ってるから言ってる」
「私を励ますためではなく?」
「お前を励ますなら、もっと気の利いたことを言う」
「言えないでしょう」
「言える」
「では言ってください」
「今言っただろ」
「気の利いた言葉ではありません」
「面倒だな」
少年が呆れたように笑う。
その笑顔を見ていると、胸の奥の熱が少しずつ広がっていった。
「もう一回、前半を見てもいいですか?」
「何で俺に聞くんだ?」
「一緒に見てほしいからです」
少年が少し驚いた顔をする。
やがて、画面へ目を戻した。
「ああ」
私は動画を最初へ戻した。
今度は、失敗だけを探さなかった。
自分がどこを見ているのか。
味方が走る前に、何に気づいているのか。
ボールのない場所で、何を考えているのか。
少年は何度も動画を止めた。
けれど、以前のように間違いを指摘するためではなかった。
「ここ、何を見た?」
「陽菜の外側です」
「そのあと逆を見たのは?」
「相手のサイドバックが中へ絞ったからです」
「じゃあ、外が空くと思った?」
「はい」
「出せなかったけど、見えてたんだな」
「……はい」
見えていた。
私は何も持っていないわけではなかった。
ただ、自分で信じていなかっただけだ。
◇
翌日の昼休み、お姉ちゃんからメッセージが届いた。
『昨日、蓮に美緒の紅白戦の動画を送っておいたよ』
「私の動画?」
思わず声が出た。
近くにいた陽菜が振り返る。
「何かあった?」
「お姉ちゃんから連絡」
「驚くような内容?」
「少しだけ」
私は画面へ目を戻した。
お姉ちゃんに確認すると、以前私が見せた紅白戦の一部を、蓮さんへ送ったらしい。
どうして私の動画を送ったのか尋ねると、すぐに返事が来た。
『最近、美緒がサッカーのことで悩んでるみたいだから、何か気づくことがないかなって』
勝手に送られたことには少し困った。
けれど、動画には既読がついている。
返信はない。
「今の俺は見たのか?」
少年が私の肩越しに画面をのぞき込む。
「既読はついています」
「なら、ちゃんと見てる」
「再生しないで既読だけつけた可能性もあります」
「何でそんなに疑うんだよ」
「今の蓮さんだからです」
少年は不満そうに画面を見た。
その日の放課後。
着替えを終えてグラウンドへ向かおうとしたところで、もう一度お姉ちゃんからメッセージが届いた。
『蓮から返事が来た』
続けて、短い文章が表示される。
『受ける前に、一度逆を見た方がいいんじゃないかって』
誰からの言葉なのか、尋ねる必要はなかった。
「今の俺が言ったのか?」
少年が画面へ顔を近づける。
「そうみたいです」
「それだけ?」
「それだけです」
「ほかにもあるだろ。守備の位置とか、身体の向きとか」
「一つ返事をしただけでも十分では?」
少年は少し考えたあと、口元を緩めた。
「興味ないふりして、ちゃんと見てるじゃないか」
うれしそうな声だった。
私も、画面の短い言葉を見つめる。
サッカーを忘れたように見える蓮さんの中にも、まだ試合を見る目が残っている。
完全に消えてしまったわけではない。
「逆を見るって、どういう意味ですか?」
「陽菜へ出したいなら、一度反対側を見る」
「相手の目線を動かすため?」
「ああ。ずっと陽菜を見てたら、出す場所がばれる」
「できるでしょうか」
「やってみればいい」
「簡単に言わないでください」
「俺が言ったんじゃない。今の俺が言ったんだろ」
「同じ顔で責任を押しつけないでください」
少年は笑った。
私はスマートフォンを鞄へしまい、グラウンドへ向かった。
◇
ウォーミングアップを終え、軽い方向転換の動きも確認した。
倉橋監督は私の足元を見ながら尋ねる。
「違和感は?」
「ありません」
「怖さは?」
昨日、足が止まったことを思い出す。
「少しだけあります」
「正直でよろしい」
倉橋監督は黄色いビブスを差し出した。
「接触を抑えた実戦形式に、五分だけ入って」
「本当ですか?」
「強い接触は禁止。違和感が出たら即交代」
「はい」
「取り返そうとしないこと」
「分かっています」
「それから、無理に抜こうとしない」
「はい」
「失敗を怖がるのも禁止」
「それは難しいです」
「難しくてもやる」
倉橋監督はわずかに笑った。
「試合に出たいんでしょう?」
「はい」
「なら、自分の判断で取りに来なさい」
私はビブスを受け取った。
陽菜も同じ組だった。
「やっと一緒だね」
「五分だけだけど」
「その五分で出してよ」
「何を?」
「私へのパス」
陽菜は当たり前のように笑う。
「走るから」
「外したら?」
「私の責任」
「またそれ?」
「何回でも言うよ」
陽菜は前線へ走っていった。
少年が私の横へ並ぶ。
「今日は貸すなよ」
「分かっています」
「確認しただけだ」
「私も使うつもりはありません」
「なら、自分でやれ」
「言われなくても」
実戦形式が始まる。
私は中央へ入った。
相手は沙月のいる組。
沙月が前から寄せてくる。
ボールを受ける前に見る。
右。
左。
後ろ。
陽菜は相手センターバックの外側にいる。
まだ走っていない。
ボールが来る。
私はワンタッチで横へ逃がした。
「美緒!」
陽菜の声。
また逃げた。
胸が縮む。
けれどプレーは続いている。
私はすぐに前へ動いた。
味方から再びボールが戻ってくる。
今度は沙月が少し遅れている。
前を向く。
陽菜が走り出す。
センターバックは陽菜についていく。
その内側に、別の味方が入っている。
二つ見えた。
陽菜への縦。
中央への短いパス。
以前なら迷った。
どちらを選んでも失敗する気がして、横へ逃がしていた。
でも今は、相手を見る。
センターバックが陽菜へ寄る。
中央が空く。
私は中央へパスを通した。
味方が受ける。
陽菜の走りによって空いた場所だった。
そのままシュート。
ゴールキーパーに止められる。
「惜しい!」
陽菜が叫ぶ。
得点にはならなかった。
私から陽菜へのパスでもなかった。
それでも、陽菜の走りを使って中央を空けた。
「今のだ」
少年が言う。
「お前が見えてたもの」
私はうなずく。
次の攻撃。
沙月が私へ寄せてくる。
無理に抜かない。
沙月が内側を切る。
外へ運ぶ。
ほんの半歩だけ前へ出る。
そこから逆側へ展開する。
派手ではない。
少年のように相手を置き去りにしたわけでもない。
けれど、攻撃は前へ進んだ。
「藤崎、続けて!」
倉橋監督の声が飛ぶ。
私はボールから目を離し、もう一度周囲を見る。
陽菜が相手の背後へ回る。
その前に、別の味方が下がってボールを受けようとしている。
相手の中盤がつられて前へ出た。
その後ろが空く。
味方から、私へボールが戻ってくる。
届く前に陽菜を見る。
センターバックも、私の視線につられる。
蓮さんの助言を思い出す。
受ける前に、一度逆を見る。
私はあえて左へ顔を向けた。
中央の味方へ出すように見せる。
相手のサイドバックが、一歩だけ内側へ寄った。
陽菜の前に道が開く。
ボールを前向きに受ける。
「陽菜!」
陽菜が走る。
私は相手の足が届く前に、右足を振った。
低いパスが、センターバックとサイドバックの間を通る。
陽菜が追いつく。
ワンタッチで前へ出す。
ゴールキーパーが飛び出してくる。
陽菜は右足でボールを浮かせた。
キーパーの肩を越える。
ボールがゴールへ入った。
「入った!」
陽菜が振り返る。
そのまま私へ走ってきた。
「今の! 今のパス!」
勢いよく抱きつかれそうになり、私は一歩下がる。
「足!」
「あ、ごめん!」
陽菜は慌てて止まり、代わりに両手を上げた。
私も手を合わせる。
乾いた音が鳴った。
「やっぱり美緒だよ」
「何が?」
「あのパス」
陽菜はうれしそうに笑う。
「私が走る前から、そこへ出すって分かってたみたいだった」
「走ると思ったから」
「信じてた?」
「少しだけ」
「そこは全部って言ってよ」
私は笑った。
少し離れた場所で、沙月がこちらを見ている。
悔しそうではなかった。
ただ、何かを確かめるような目だった。
少年も私のそばにいた。
「ほらな」
「何がですか?」
「お前にしか出せないパス」
「陽菜が走ってくれたからです」
「それでいいんだよ」
「蓮さんなら、自分で行ったでしょう」
「たぶんな」
少年はゴールの方を見る。
「でも、今の方が簡単に点が入った」
「簡単ではありません」
「分かってる」
少年は笑った。
「だから、お前のパスなんだろ」
胸の奥が、ゆっくりと温かくなる。
憧れていた人と同じにはなれない。
けれど、同じになる必要もなかった。
私には、私が見えているものがある。
それを信じて、味方へ届ければいい。
◇
練習後、倉橋監督に呼ばれた。
「足首は?」
「大丈夫です。痛みもありません」
「無理した感覚は?」
「ありません」
「ならよかった」
倉橋監督はバインダーを閉じた。
「最後のパス、見えてた?」
「はい」
「いつから?」
「ボールを受ける前から、陽菜が走れる場所は見えていました」
「小野寺だけ?」
「中央の選手も見えていました。最初は中央へ出して、その次は相手が中央を警戒したので、陽菜の方が空きました」
「最後は、受ける前に逆を見たね」
「はい」
「誰かに教わった?」
一瞬、隣にいる少年を見る。
けれど、口にしたのは今の蓮さんのことだった。
「姉の恋人に、動画を見てもらったんです」
「瀬川君に?」
「はい。短い助言をもらいました」
「そう」
倉橋監督は小さくうなずく。
「助言を使うのは悪くない。でも、相手が動かなかったら?」
「中央へ出すことも考えていました」
「ならいい」
監督はグラウンドへ目を向ける。
「それを毎回説明できるようにして」
「毎回?」
「偶然の一回じゃなく、自分で繰り返せる判断にするの」
判断の再現性。
前に監督から言われた言葉を思い出す。
「はい」
「今日のプレーは、紅白戦の後半よりよかった」
思わず顔を上げる。
「でも、紅白戦の方が目立っていました」
「目立つことと、チームに必要なことは同じじゃない」
倉橋監督はグラウンドを見る。
「紅白戦の後半は、一人で何とかしようとしていた。今日は周囲を使って、相手を動かした」
「でも、自分では相手を抜いていません」
「抜くことだけが攻撃じゃない」
監督の言葉が、少年の言葉と重なる。
「藤崎には、見えているものがある」
倉橋監督は私を見る。
「問題は、それを信じて選べるかどうか」
「……はい」
「足首の様子を見ながらだけど、明日から参加時間を増やす」
「本当ですか?」
「ただし、無理な突破は禁止」
「分かりました」
「失敗を怖がるのも禁止」
「それは難しいです」
「難しくてもやる」
倉橋監督はわずかに笑った。
「試合に出たいんでしょう?」
「はい」
「なら、自分の判断で取りに来なさい」
「はい」
今度は迷わず答えた。
◇
帰宅すると、お姉ちゃんはリビングのソファに座っていた。
手にはスマートフォンがある。
「ただいま」
「おかえり。足、どうだった?」
「大丈夫。今日は五分だけ実戦にも入ったよ」
「本当に痛くない?」
「うん」
「よかった」
お姉ちゃんは安心したように笑う。
「動画を送ったこと、怒ってる?」
「少しだけ」
「ごめん」
「でも、助言は役に立った」
「本当?」
「受ける前に逆を見るっていうの、今日試した」
「うまくいった?」
「陽菜が点を決めた」
お姉ちゃんの表情が明るくなる。
「よかったね」
「うん」
少年は、お姉ちゃんのそばに立っている。
「今の俺は、それだけしか返してないのか」
私は答えない。
お姉ちゃんには聞こえないからだ。
「蓮さん、ほかには何か言ってた?」
「ううん。それだけ」
「そう」
「でも」
お姉ちゃんはスマートフォンへ目を落とす。
「動画を見てくれただけでも、少しうれしかった」
「連絡は?」
「それ以外は来てない」
「……そっか」
少年の表情が曇る。
お姉ちゃんは画面を消し、テーブルへ置いた。
「近いうちに、ちゃんと会いに行こうと思ってる」
「大学まで?」
「うん」
「返事がないのに?」
「だからこそ」
お姉ちゃんの声は穏やかだった。
けれど以前のように、ただ待っているだけの声ではなかった。
「このままずっと、蓮が話してくれるのを待つだけなのはやめようと思う」
少年が真剣な顔でお姉ちゃんを見る。
「千春」
届かない声だった。
「美緒は心配しなくていいよ」
「でも」
「これは私と蓮のことだから」
前にも言われた言葉だった。
そのときは、突き放されたように感じた。
けれど今は少し違う。
お姉ちゃんが自分で決めようとしているのだと分かった。
「うん」
私はうなずいた。
「分かった」
お姉ちゃんは少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「ありがとう」
◇
夜。
私はベッドの上で、今日の練習動画を見ていた。
倉橋監督の指示で一年生が撮影していた短い映像を、部員用の共有ページで確認する。
少年も隣から画面をのぞき込む。
私が陽菜へパスを出した場面。
陽菜がゴールを決める。
「もう一回」
少年が言う。
「何度目ですか?」
「いいだろ」
「自分がプレーしたわけでもないのに」
「だから見るんだよ」
私は動画を巻き戻した。
受ける前に周囲を見る。
中央へ入る味方。
陽菜へ寄るセンターバック。
一度、逆を見る。
相手が動く。
空いた場所へパスを出す。
画面の中の私は、少年のように鋭くはない。
沙月のように安定してもいない。
それでも、確かに自分の判断でプレーしていた。
「蓮さん」
「何だ?」
「今日のパス、本当に私にしか出せなかったと思いますか?」
「同じ場所へ出すだけなら、ほかの選手にもできる」
「では、違うじゃないですか」
「でも、あの瞬間に陽菜が走るって信じて出したのはお前だ」
「……はい」
「だから、お前のパスだ」
少年は画面へ目を向けたまま言う。
「誰にも真似できないって意味じゃない」
「では、どういう意味ですか?」
「お前が、自分で選んだって意味だ」
その言葉が、胸の中へ静かに落ちた。
特別な技術があるから、自分にしかできないのではない。
自分が見て。
自分が信じて。
自分で選ぶ。
だから、そのプレーは私のものになる。
紅白戦で少年が出したパスとは違う。
今日のパスは、誰にも借りていない。
私の身体で。
私の目で。
私が出した。
「もう一回見ます」
「まだ見るのか?」
「蓮さんが何度も見たがったんでしょう」
「俺はもう覚えた」
「私はまだです」
動画を最初へ戻す。
画面の中で、陽菜が走り出す。
私はその前に顔を上げていた。
その姿を見ながら、初めて思った。
蓮さんのようになれなくてもいい。
まだ、その言葉を完全には信じられない。
それでも。
蓮さんには見えなかったものを、私が見つけられるのなら。
私にしか選べない道も、きっとあるのだと思った。




