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夢を諦めた君のスパイクから、十七歳の君が現れた  作者: situ725


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第10話 お前にしかできないこと

 足首を捻ってから一週間後、私はようやく練習へ戻ることを許された。


 痛みはほとんど消えている。


 軽く走っても問題はない。


 ただし、急な切り返しや強い接触は、まだ避けるように言われていた。


「少しでも違和感が出たら、すぐ止めること」


 練習前、倉橋監督が念を押す。


「はい」


「取り返そうとしなくていいから」


 胸の内を見透かされたような気がした。


「何をですか?」


「休んだ分」


 倉橋監督は私の足元を見る。


「一週間休んだからって、今まで積み重ねたものが全部なくなるわけじゃない。逆に、今日一日で休んだ分を取り戻せるものでもない」


「分かっています」


「本当に分かってる顔には見えないけど」


 返事に困っていると、監督は小さく息を吐いた。


「今日は基礎練習まで。実戦形式には入れない」


「でも、もう痛みはありません」


「痛みがないことと、試合の動きに耐えられることは別」


「……はい」


「焦らないことも、選手の判断だからね」


 倉橋監督はそう言って、ほかの部員のもとへ向かった。


 私は右足首へ巻いたテーピングを見下ろす。


 グラウンドの中央では、沙月たちがパス練習を始めていた。


 私が休んでいた間にも、みんなは練習している。


 沙月は前よりも速くボールを動かしているように見えた。


 陽菜との呼吸も合っている。


「監督の言うとおりだ」


 少年が隣から言った。


「分かっています」


「なら、そんな顔するな」


「どんな顔ですか?」


「今すぐ全部取り戻そうとしてる顔」


「監督と同じことを言わないでください」


「同じことを言われるってことは、顔に出てるんだろ」


 私は答えず、ボールを一つ取った。


 まずは軽いジョギング。


 そのあと、短い距離でのパス交換。


 足首に痛みは出なかった。


 ボールを蹴る感覚も残っている。


 けれど、練習から離れていたせいか、身体が少し重い。


「もっと力を抜け」


 少年が言う。


「これでも抜いています」


「蹴るたびに肩が上がってる」


「久しぶりだからです」


「一週間だろ」


「一週間も、です」


 少年は呆れたように笑った。


 けれど、前のように私の動きを急かすことはなかった。


 足元を確認しながら、少し離れた場所を歩いている。


 私が右足を踏み込むたびに、少年の視線が足首へ落ちる。


「そんなに見ないでください」


「見てない」


「ずっと足を見ています」


「また痛めたら困るだろ」


「痛かったら言います」


「本当に?」


「約束しましたから」


 少年は少しだけ黙った。


「ああ」


 短い返事だった。


 私たちは、憑依を勝つための便利な力として使わないと決めた。


 少年も、私の身体を借りていることを忘れないと言った。


 けれど約束を交わしてから、私たちは一度も憑依していない。


 私が身体を貸そうとしなかったからだ。


 怖くなったわけではない。


 そう思いたかった。


 けれど、胸の奥にはまだ、あの痛みが残っている。


 少年が私の身体を動かし続け、止めてと言っても止まらなかった感覚。


 自分の足なのに、自分の意思では止められなかった恐怖。


 同時に、少年なら結果を出してくれるという期待も消えていなかった。


 だから今は使わない。


 使わずに、自分でできることを増やす。


 そう決めていた。


     ◇


 基礎練習のあと、倉橋監督は私だけをコートの外へ呼んだ。


「藤崎は別メニュー」


「何をすればいいですか?」


「ボールを使った軽い動き。急な方向転換は禁止」


「分かりました」


「橘」


 監督が沙月を呼ぶ。


 沙月がこちらへ来た。


「藤崎の相手をして。強く当たらなくていいから」


「はい」


 私は思わず沙月を見る。


「私と?」


「嫌?」


「そういうわけでは」


「なら始めるよ」


 沙月は淡々とボールを足元へ置いた。


 倉橋監督がコーンを四つ並べ、小さな四角形を作る。


「二人でボールを奪い合うんじゃない。藤崎がボールを持って、橘は進む方向を制限するだけ」


「ドリブル練習ですか?」


「そう。ただし、藤崎は速さで抜こうとしないこと」


「では、どうやって抜くんですか?」


「考えて」


 倉橋監督はそれだけ言い、ほかの練習へ戻っていった。


 沙月が私の正面に立つ。


「いつでもいいよ」


「本気で来ないでくださいね」


「監督に言われてるから、当たらない」


「そうじゃなくて」


「何?」


「……何でもないです」


 私はボールを右足の前へ置いた。


 少年が少し離れた場所から見ている。


「右を見せろ」


 小さな声で言われる。


 私は顔だけを右へ向けた。


 沙月は動かない。


「肩も使え」


 右肩を少し下げる。


 沙月の重心が、ほんのわずかに右へ寄ったように見えた。


 今だ。


 左足でボールを動かす。


 けれど沙月はすぐについてきた。


 進路を塞がれる。


「遅い」


 少年が言う。


 私はボールを止めた。


「もう一回」


 沙月が元の位置へ戻る。


 今度は、少年が紅白戦で使った動きを思い出す。


 右へ行くように見せて、左へ。


 相手の重心が動いた瞬間を狙う。


 私は右足でボールを一度外へ触った。


 沙月の足が動く。


 すぐに左へ切り返す。


 右足首に不安がよぎり、踏み込みが弱くなった。


 ボールが身体から離れる。


 沙月が足を伸ばし、簡単に止めた。


「今、怖がった?」


 沙月が聞いた。


「何をですか?」


「右足で踏み込むの」


「別に」


「そう」


 沙月はそれ以上追及しなかった。


 少年が私のそばへ来る。


「踏み込めなかったな」


「まだ復帰したばかりです」


「それなら、無理に俺の動きをやるな」


 私は少年を見る。


「蓮さんが教えたんでしょう」


「参考にしろとは言った。でも、同じ動きをしろとは言ってない」


「違いが分かりません」


「俺とお前じゃ身体が違う」


「知っています」


「なら、お前の身体でできる形に変えろ」


「簡単に言わないでください」


 沙月が不思議そうに私を見る。


「また独り言?」


「考えを整理してるだけです」


「声に出さないと整理できないの?」


「最近は」


「そう」


 沙月は少し間を置いてから、ボールを私へ戻した。


「続ける?」


「はい」


 もう一度向き合う。


 今度は、少年の切り返しをそのまま再現しようとせず、ボールを近くに置いたまま身体だけを動かす。


 右を見る。


 沙月の肩がわずかに動く。


 左へ行くように見せる。


 今度は沙月が動かない。


 読まれている。


 私は迷い、結局横へ逃げた。


 コーンの外へ出る。


「終了」


 沙月が言う。


「分かっています」


「最初から、抜く方向を決めてた?」


「決めていました」


「だから、動きを見られてたんだと思う」


「どういう意味ですか?」


「私が動いたから抜くんじゃなくて、左へ行きたいから私を右へ動かそうとしてた」


 少年が反応する。


「橘の言うとおりだ」


「では、どうすればいいんですか?」


 沙月には少年の声は聞こえない。


 私は沙月へ尋ねる形に言い直した。


「相手を見てから決めるんですか?」


「私はそうしてる」


「受ける前に決めるんじゃないんですか?」


「出す場所は考える。でも、相手がそのとおり動くとは限らない」


 沙月は自分の足元へボールを置いた。


「一回、私がやる」


 私と位置を交代する。


 沙月は速い選手ではない。


 ドリブルで何人も抜くタイプでもない。


 けれど、ボールを持つ前に私の位置を確認していた。


 右足で少し外へ動かす。


 私がついていく。


 沙月は無理に抜こうとせず、身体を入れてボールを守る。


 私が内側を切ると、空いた外側へ静かに運んだ。


 派手な切り返しはない。


 それでも、私は進路を塞げなかった。


「今、私が内側へ動いたから外へ行った?」


「そう」


「最初から決めてなかった?」


「二つは考えてた」


「二つ?」


「内側が空けば内側。閉じられたら外側」


 沙月はボールを私へ返す。


「どっちか一つを通すために相手を動かすんじゃなくて、相手が動いたあとに空いた方を使う」


 少年は黙って沙月を見ていた。


 週末の映像で、少年は言っていた。


 私は最後まで二つの道を残そうとしている。


 失敗しない道と、陽菜へ通す道を。


 だから決められないのだと。


 けれど沙月は、二つを残している。


 迷うためではなく、相手の動きに合わせて選ぶために。


 似ているようで、まるで違う。


「もう一回お願いします」


「うん」


 私は沙月と向き合った。


 右へ行く。


 左へ行く。


 どちらかを先に決めない。


 沙月の位置を見る。


 右足で小さくボールを外へ動かす。


 沙月が内側を切る。


 外が空いた。


 そこへボールを運ぶ。


 派手には抜けない。


 けれど、沙月の横を半歩だけ通り過ぎることができた。


「今の」


 思わず振り返る。


「通れました」


「うん」


 少年が少し離れた場所で笑っている。


 笑わないでください。


 声には出さず、目だけで訴えた。


 少年はますます楽しそうに笑った。


     ◇


 練習終了後、私は一人でボールを蹴っていた。


 実戦形式には参加できなかった。


 その代わり、倉橋監督から許可をもらい、足首へ負担をかけない範囲でパスとシュートの確認をしている。


 ゴールの中央へボールを置く。


 少年がペナルティーエリアの外から指示する。


「次は右上」


「いきなり難しくないですか?」


「試合なら、空いてる場所を狙わないと入らない」


「今は復帰練習です」


「じゃあ右半分」


「範囲が広すぎます」


「文句が多いな」


 私は助走を取り、右足を振る。


 ボールはゴールの中央より少し右へ飛んだ。


「入ったじゃないですか」


「キーパーがいたら止められてる」


「今はいません」


「試合ではいる」


「では、蓮さんがキーパーをしてください」


「触れないって知ってるだろ」


「だから簡単に言わないでください」


 少年は腕を組んだ。


「もう一回」


 私はボールを置き直す。


 今度は右上を狙う。


 助走。


 踏み込み。


 右足を振り抜く。


 ボールはゴールの右へ大きく外れた。


「力みすぎ」


「分かっています」


「もっと軸足を近くに置け」


 言われたとおりにする。


 再び蹴る。


 今度は低いボールが中央へ飛んだ。


「違う」


「今、直してる途中です」


「足首は?」


「痛くありません」


「本当に?」


「本当です」


 少年は足首から目を離さない。


「そんなに心配なら、もうやめますか?」


「違う」


「何が違うんですか?」


「お前がやりたいなら、やればいい」


「では見守っていてください」


「ああ」


 私は何度もボールを蹴った。


 右上。


 左下。


 中央。


 狙った場所へ飛ばない。


 少年なら、私の身体でも迷わずシュートを打てた。


 強さはなくても、キーパーの逆を狙う判断があった。


 私は、自分で蹴ると力んでしまう。


 外したくないと思うほど、身体が硬くなる。


「次はドリブルから打ちます」


「今日は切り返し禁止だろ」


「急な切り返しはしません」


「無理するなよ」


「しません」


 コーンを二つ並べる。


 右へ運び、左へずらしてシュート。


 少年が沙月を抜いたときの動きを、速度を落として再現する。


 右へ見せる。


 左足で触る。


 身体を反転する。


 足元のボールが大きく離れた。


「違う」


 少年が言う。


「分かっています」


 もう一度。


 今度は身体を先に動かしすぎて、ボールが残る。


「遅い」


「分かってます」


「焦るな」


「蓮さんに言われたくありません」


 もう一度試す。


 右足を踏み込んだ瞬間、あの日の痛みが頭をよぎった。


 足が止まる。


 ボールだけが前へ転がった。


「美緒」


「大丈夫です」


「今日は終わりにしろ」


「まだできます」


「足を止めただろ」


「痛くはありません」


「怖かったんだろ」


 私はボールを拾いに行く。


「別に」


「嘘つくな」


「嘘ではありません」


「じゃあ、もう一回やってみろ」


 挑発するような言い方だった。


 腹が立ち、ボールを元の位置へ戻す。


 右へ見せる。


 左へ動く。


 踏み込む。


 また身体が止まった。


 足首に痛みはない。


 それでも、身体があの瞬間を覚えている。


「もういい」


「まだです」


「今やっても同じだ」


「では、できるまでやります」


「そうやって無理して怪我しただろ」


「蓮さんに任せたからです」


 言ってから、少年の表情が変わった。


 私も口を閉じる。


「……今のは」


「本当のことだろ」


「私にも責任があるって、話したじゃないですか」


「でも、今は俺のせいにした」


「そういうつもりでは」


「じゃあ、どういうつもりだよ」


 少年の声は大きくない。


 怒っているというより、傷ついているように聞こえた。


「すみません」


 すぐに謝った。


「焦ってました」


「何に?」


「何にって」


 グラウンドの向こうでは、沙月と陽菜が片づけをしている。


 沙月は実戦形式へ参加した。


 私は外から見ていただけだった。


「私が休んでいる間に、沙月は前へ進んでいます」


「お前も練習してる」


「でも、同じではありません」


「同じになる必要があるのか?」


「同じポジションを争ってるんです」


「だからって、橘と同じことをするのか?」


「少なくとも、沙月よりできることがなければ選ばれません」


「お前にはあるだろ」


「何がですか?」


 少年はすぐに答えなかった。


 その沈黙が、余計に苦しかった。


「ありませんよね」


「決めつけるな」


「蓮さんみたいに相手を抜けない。迷わずシュートも打てない。沙月みたいに安定したプレーもできない」


「美緒」


「私には何があるんですか?」


 少年は黙っている。


 答えがないように見えた。


「もう帰ります」


 私はボールを片づけ、鞄を持った。


     ◇


 帰宅後、少年はほとんど話しかけてこなかった。


 夕食を終え、部屋へ戻る。


 私は机へ向かい、宿題を始める。


 けれど、文字が頭に入らない。


 少年はベッドの横で、私のスマートフォンを見ていた。


「何をしてるんですか?」


「紅白戦の映像を見せろ」


「またですか?」


「見たいものがある」


「今は宿題をしています」


「じゃあ終わってから」


「何を見るんですか?」


「お前のプレー」


「もう見たでしょう」


「ちゃんとは見てなかった」


 私は少年を見る。


「あれだけ止めながら見たのに?」


「俺がやったところばかり見てた」


 少年は少し言いにくそうに続ける。


「お前が何をしてるかじゃなくて、何ができてないかを探してた」


「それは監督と同じです」


「違う」


「何がですか?」


「今度は、お前が何を見てるのかを見たい」


 意味が分からなかった。


「映像に、私が見ているものは映りません」


「動きには出る」


 少年は真剣だった。


「終わったら見せてくれ」


「……分かりました」


 私は宿題へ戻った。


 その間も、少年は何も言わず待っていた。


     ◇


 宿題を終え、私はベッドへ腰を下ろした。


 スマートフォンを横向きに持ち、紅白戦の映像を開く。


 少年が隣へ座るような姿勢を取った。


「どこからですか?」


「最初から」


「長いですよ」


「必要なところは飛ばす」


 動画を再生する。


 白組のキックオフ。


 沙月がボールを受ける。


 少年は今回は止めなかった。


 少しして、画面の中の私が映る。


 相手の背後で、何度も首を動かしている。


「止めろ」


 私は動画を止めた。


「ここ」


「何ですか?」


「お前、ボールを見てない」


「見ています」


「一瞬だけだ。ほとんど周りを見てる」


 画面の中の私は、ボールが来る前に右を向いている。


 次に左。


 後ろ。


 前。


「普通でしょう」


「橘も見てる。でも、お前はもっと遠くを見てる」


「遠く?」


「陽菜だけじゃない。逆側の選手まで」


 動画を進める。


 私はボールを受ける。


 迷った末に横へ出した。


「失敗した場面です」


「その前に、何を見てた?」


「覚えていません」


「画面を見ろ」


 私の顔が向いた先には、陽菜がいる。


 でも、その奥には別の味方が走っていた。


 逆サイドも空いている。


「お前、三つ見てたんだ」


「三つ?」


「陽菜への縦パス。逆側への展開。近くの横パス」


「でも、選べませんでした」


「見えてなかったわけじゃない」


「見えていても、出せなければ意味がありません」


「違う」


 少年は画面を指す。


「俺は、得点につながる場所ばかり見てた」


「蓮さんなら、陽菜へ出したんじゃないですか?」


「たぶんな。でも、逆側までは見てない」


「それは、陽菜が一番得点に近いからでしょう」


「ああ。だから、ほかを早く捨ててた」


 動画を進める。


 次の場面。


 私はボールを持っていない。


 それでも首を動かし、味方と相手の位置を確認している。


 自分では意識していなかった。


「ここも」


 少年が動画を止める。


「相手がボールを持ってるのに、お前は味方の位置を見てる」


「守備の受け渡しを確認していたんだと思います」


「誰に言われた?」


「誰にも」


「なら、お前が見たんだろ」


「それくらい、みんな見ています」


「全員が同じように見えてたら、監督に『見えてるのに見えてないふりをする』なんて言われない」


 胸の奥がわずかに動いた。


「それは、悪い意味です」


「見えてること自体は悪くない」


 少年はまた動画を進める。


 陽菜が走る。


 私はパスを出せない。


 その代わり、少し遅れて別の場所へ動いている。


「この動き、何だ?」


「こぼれ球を拾うためです」


「陽菜に通らなかったときの?」


「はい」


「パスを出してないのに、その次を考えてるのか?」


「出せなかったからです」


「それでも、次の場所が分かってる」


「偶然です」


「何回も偶然が続くかよ」


 少年の声が少し強くなる。


「お前は、自分ができてないところばかり見てる」


「蓮さんも見ていたでしょう」


「だから今、見直してる」


 動画の中で、紅白戦前半が続く。


 私は失敗している。


 迷っている。


 安全なパスへ逃げている。


 それでも、ボールのない場所で何度も周囲を確認していた。


 味方が走り出す前に、空いた場所へ顔を向けている。


 相手が動く前に、その後ろを見ている。


 できていないことばかりだと思っていた映像の中に、自分でも知らなかった動きがあった。


「次」


 少年が再生位置を進める。


 憑依した場面が近づく。


「ここは見なくても」


「見る」


 画面の中で、私の動きが変わる。


 背筋が伸び、重心が前へ移る。


 沙月をかわし、陽菜へパスを出す。


 少年はその映像を見ながら、黙っていた。


「何ですか?」


「俺は、ゴールへ直結するものばかり見てた」


 少年は、今度はゆっくりと言った。


「陽菜が走ったから出した。でも、ほかの味方がどこにいたかは、ほとんど覚えてない」


「結果は出ました」


「ああ」


「では、それでいいんじゃないですか?」


「一回ならな」


 少年は画面を止める。


 私の身体がシュートを打とうとしている瞬間だった。


「でも、相手に読まれたら終わる」


「蓮さんは相手を抜けます」


「毎回は無理だ」


「それでも私よりは」


「俺と比べるな」


 はっきり言われた。


「でも」


「俺みたいになる必要はない」


 少年は画面ではなく、私を見ていた。


「俺は、ゴールへ直結するものばかり見てた。でも、お前は、みんながどこにいるか見えてる」


「見えているだけです」


「それができない選手もいる」


「私にはドリブルも、シュートもありません」


「あるかないかじゃない。何を使うかだろ」


「視野だけで試合には出られません」


「なら、それをパスに使え」


「失敗するかもしれません」


「失敗しない選手なんていない」


「蓮さんは簡単に言いますね」


「簡単じゃない」


 少年の声は穏やかだった。


「お前が見えてるものは、俺には見えてなかった」


「……蓮さんに?」


「ああ」


 信じられなかった。


 私がずっと追いかけてきた人。


 何でもできると思っていた選手。


 その少年が、自分には見えなかったものを私が見ていると言っている。


「俺の切り返しを真似しても、お前の身体には合わない」


 少年は続ける。


「俺と同じシュートを打とうとしても、同じ強さにはならない」


「だから、私は」


「でも、俺と同じになる必要はない」


 少年が少しだけ身を乗り出す。


「お前には、お前にしか出せないパスがあるだろ」


 胸の奥が熱くなった。


 昔の蓮さんに、認めてもらいたかった。


 サッカーを始めた頃から、ずっと。


 転んでも。


 うまく蹴れなくても。


 蓮さんみたいになりたいと思って、ボールを追いかけてきた。


 今、その人と同じ姿をした少年が、私に同じになる必要はないと言っている。


「本当に、そう思いますか?」


「思ってるから言ってる」


「私を励ますためではなく?」


「お前を励ますなら、もっと気の利いたことを言う」


「言えないでしょう」


「言える」


「では言ってください」


「今言っただろ」


「気の利いた言葉ではありません」


「面倒だな」


 少年が呆れたように笑う。


 その笑顔を見ていると、胸の奥の熱が少しずつ広がっていった。


「もう一回、前半を見てもいいですか?」


「何で俺に聞くんだ?」


「一緒に見てほしいからです」


 少年が少し驚いた顔をする。


 やがて、画面へ目を戻した。


「ああ」


 私は動画を最初へ戻した。


 今度は、失敗だけを探さなかった。


 自分がどこを見ているのか。


 味方が走る前に、何に気づいているのか。


 ボールのない場所で、何を考えているのか。


 少年は何度も動画を止めた。


 けれど、以前のように間違いを指摘するためではなかった。


「ここ、何を見た?」


「陽菜の外側です」


「そのあと逆を見たのは?」


「相手のサイドバックが中へ絞ったからです」


「じゃあ、外が空くと思った?」


「はい」


「出せなかったけど、見えてたんだな」


「……はい」


 見えていた。


 私は何も持っていないわけではなかった。


 ただ、自分で信じていなかっただけだ。


     ◇


 翌日の昼休み、お姉ちゃんからメッセージが届いた。


『昨日、蓮に美緒の紅白戦の動画を送っておいたよ』


「私の動画?」


 思わず声が出た。


 近くにいた陽菜が振り返る。


「何かあった?」


「お姉ちゃんから連絡」


「驚くような内容?」


「少しだけ」


 私は画面へ目を戻した。


 お姉ちゃんに確認すると、以前私が見せた紅白戦の一部を、蓮さんへ送ったらしい。


 どうして私の動画を送ったのか尋ねると、すぐに返事が来た。


『最近、美緒がサッカーのことで悩んでるみたいだから、何か気づくことがないかなって』


 勝手に送られたことには少し困った。


 けれど、動画には既読がついている。


 返信はない。


「今の俺は見たのか?」


 少年が私の肩越しに画面をのぞき込む。


「既読はついています」


「なら、ちゃんと見てる」


「再生しないで既読だけつけた可能性もあります」


「何でそんなに疑うんだよ」


「今の蓮さんだからです」


 少年は不満そうに画面を見た。


 その日の放課後。


 着替えを終えてグラウンドへ向かおうとしたところで、もう一度お姉ちゃんからメッセージが届いた。


『蓮から返事が来た』


 続けて、短い文章が表示される。


『受ける前に、一度逆を見た方がいいんじゃないかって』


 誰からの言葉なのか、尋ねる必要はなかった。


「今の俺が言ったのか?」


 少年が画面へ顔を近づける。


「そうみたいです」


「それだけ?」


「それだけです」


「ほかにもあるだろ。守備の位置とか、身体の向きとか」


「一つ返事をしただけでも十分では?」


 少年は少し考えたあと、口元を緩めた。


「興味ないふりして、ちゃんと見てるじゃないか」


 うれしそうな声だった。


 私も、画面の短い言葉を見つめる。


 サッカーを忘れたように見える蓮さんの中にも、まだ試合を見る目が残っている。


 完全に消えてしまったわけではない。


「逆を見るって、どういう意味ですか?」


「陽菜へ出したいなら、一度反対側を見る」


「相手の目線を動かすため?」


「ああ。ずっと陽菜を見てたら、出す場所がばれる」


「できるでしょうか」


「やってみればいい」


「簡単に言わないでください」


「俺が言ったんじゃない。今の俺が言ったんだろ」


「同じ顔で責任を押しつけないでください」


 少年は笑った。


 私はスマートフォンを鞄へしまい、グラウンドへ向かった。


     ◇


 ウォーミングアップを終え、軽い方向転換の動きも確認した。


 倉橋監督は私の足元を見ながら尋ねる。


「違和感は?」


「ありません」


「怖さは?」


 昨日、足が止まったことを思い出す。


「少しだけあります」


「正直でよろしい」


 倉橋監督は黄色いビブスを差し出した。


「接触を抑えた実戦形式に、五分だけ入って」


「本当ですか?」


「強い接触は禁止。違和感が出たら即交代」


「はい」


「取り返そうとしないこと」


「分かっています」


「それから、無理に抜こうとしない」


「はい」


「失敗を怖がるのも禁止」


「それは難しいです」


「難しくてもやる」


 倉橋監督はわずかに笑った。


「試合に出たいんでしょう?」


「はい」


「なら、自分の判断で取りに来なさい」


 私はビブスを受け取った。


 陽菜も同じ組だった。


「やっと一緒だね」


「五分だけだけど」


「その五分で出してよ」


「何を?」


「私へのパス」


 陽菜は当たり前のように笑う。


「走るから」


「外したら?」


「私の責任」


「またそれ?」


「何回でも言うよ」


 陽菜は前線へ走っていった。


 少年が私の横へ並ぶ。


「今日は貸すなよ」


「分かっています」


「確認しただけだ」


「私も使うつもりはありません」


「なら、自分でやれ」


「言われなくても」


 実戦形式が始まる。


 私は中央へ入った。


 相手は沙月のいる組。


 沙月が前から寄せてくる。


 ボールを受ける前に見る。


 右。


 左。


 後ろ。


 陽菜は相手センターバックの外側にいる。


 まだ走っていない。


 ボールが来る。


 私はワンタッチで横へ逃がした。


「美緒!」


 陽菜の声。


 また逃げた。


 胸が縮む。


 けれどプレーは続いている。


 私はすぐに前へ動いた。


 味方から再びボールが戻ってくる。


 今度は沙月が少し遅れている。


 前を向く。


 陽菜が走り出す。


 センターバックは陽菜についていく。


 その内側に、別の味方が入っている。


 二つ見えた。


 陽菜への縦。


 中央への短いパス。


 以前なら迷った。


 どちらを選んでも失敗する気がして、横へ逃がしていた。


 でも今は、相手を見る。


 センターバックが陽菜へ寄る。


 中央が空く。


 私は中央へパスを通した。


 味方が受ける。


 陽菜の走りによって空いた場所だった。


 そのままシュート。


 ゴールキーパーに止められる。


「惜しい!」


 陽菜が叫ぶ。


 得点にはならなかった。


 私から陽菜へのパスでもなかった。


 それでも、陽菜の走りを使って中央を空けた。


「今のだ」


 少年が言う。


「お前が見えてたもの」


 私はうなずく。


 次の攻撃。


 沙月が私へ寄せてくる。


 無理に抜かない。


 沙月が内側を切る。


 外へ運ぶ。


 ほんの半歩だけ前へ出る。


 そこから逆側へ展開する。


 派手ではない。


 少年のように相手を置き去りにしたわけでもない。


 けれど、攻撃は前へ進んだ。


「藤崎、続けて!」


 倉橋監督の声が飛ぶ。


 私はボールから目を離し、もう一度周囲を見る。


 陽菜が相手の背後へ回る。


 その前に、別の味方が下がってボールを受けようとしている。


 相手の中盤がつられて前へ出た。


 その後ろが空く。


 味方から、私へボールが戻ってくる。


 届く前に陽菜を見る。


 センターバックも、私の視線につられる。


 蓮さんの助言を思い出す。


 受ける前に、一度逆を見る。


 私はあえて左へ顔を向けた。


 中央の味方へ出すように見せる。


 相手のサイドバックが、一歩だけ内側へ寄った。


 陽菜の前に道が開く。


 ボールを前向きに受ける。


「陽菜!」


 陽菜が走る。


 私は相手の足が届く前に、右足を振った。


 低いパスが、センターバックとサイドバックの間を通る。


 陽菜が追いつく。


 ワンタッチで前へ出す。


 ゴールキーパーが飛び出してくる。


 陽菜は右足でボールを浮かせた。


 キーパーの肩を越える。


 ボールがゴールへ入った。


「入った!」


 陽菜が振り返る。


 そのまま私へ走ってきた。


「今の! 今のパス!」


 勢いよく抱きつかれそうになり、私は一歩下がる。


「足!」


「あ、ごめん!」


 陽菜は慌てて止まり、代わりに両手を上げた。


 私も手を合わせる。


 乾いた音が鳴った。


「やっぱり美緒だよ」


「何が?」


「あのパス」


 陽菜はうれしそうに笑う。


「私が走る前から、そこへ出すって分かってたみたいだった」


「走ると思ったから」


「信じてた?」


「少しだけ」


「そこは全部って言ってよ」


 私は笑った。


 少し離れた場所で、沙月がこちらを見ている。


 悔しそうではなかった。


 ただ、何かを確かめるような目だった。


 少年も私のそばにいた。


「ほらな」


「何がですか?」


「お前にしか出せないパス」


「陽菜が走ってくれたからです」


「それでいいんだよ」


「蓮さんなら、自分で行ったでしょう」


「たぶんな」


 少年はゴールの方を見る。


「でも、今の方が簡単に点が入った」


「簡単ではありません」


「分かってる」


 少年は笑った。


「だから、お前のパスなんだろ」


 胸の奥が、ゆっくりと温かくなる。


 憧れていた人と同じにはなれない。


 けれど、同じになる必要もなかった。


 私には、私が見えているものがある。


 それを信じて、味方へ届ければいい。


     ◇


 練習後、倉橋監督に呼ばれた。


「足首は?」


「大丈夫です。痛みもありません」


「無理した感覚は?」


「ありません」


「ならよかった」


 倉橋監督はバインダーを閉じた。


「最後のパス、見えてた?」


「はい」


「いつから?」


「ボールを受ける前から、陽菜が走れる場所は見えていました」


「小野寺だけ?」


「中央の選手も見えていました。最初は中央へ出して、その次は相手が中央を警戒したので、陽菜の方が空きました」


「最後は、受ける前に逆を見たね」


「はい」


「誰かに教わった?」


 一瞬、隣にいる少年を見る。


 けれど、口にしたのは今の蓮さんのことだった。


「姉の恋人に、動画を見てもらったんです」


「瀬川君に?」


「はい。短い助言をもらいました」


「そう」


 倉橋監督は小さくうなずく。


「助言を使うのは悪くない。でも、相手が動かなかったら?」


「中央へ出すことも考えていました」


「ならいい」


 監督はグラウンドへ目を向ける。


「それを毎回説明できるようにして」


「毎回?」


「偶然の一回じゃなく、自分で繰り返せる判断にするの」


 判断の再現性。


 前に監督から言われた言葉を思い出す。


「はい」


「今日のプレーは、紅白戦の後半よりよかった」


 思わず顔を上げる。


「でも、紅白戦の方が目立っていました」


「目立つことと、チームに必要なことは同じじゃない」


 倉橋監督はグラウンドを見る。


「紅白戦の後半は、一人で何とかしようとしていた。今日は周囲を使って、相手を動かした」


「でも、自分では相手を抜いていません」


「抜くことだけが攻撃じゃない」


 監督の言葉が、少年の言葉と重なる。


「藤崎には、見えているものがある」


 倉橋監督は私を見る。


「問題は、それを信じて選べるかどうか」


「……はい」


「足首の様子を見ながらだけど、明日から参加時間を増やす」


「本当ですか?」


「ただし、無理な突破は禁止」


「分かりました」


「失敗を怖がるのも禁止」


「それは難しいです」


「難しくてもやる」


 倉橋監督はわずかに笑った。


「試合に出たいんでしょう?」


「はい」


「なら、自分の判断で取りに来なさい」


「はい」


 今度は迷わず答えた。


     ◇


 帰宅すると、お姉ちゃんはリビングのソファに座っていた。


 手にはスマートフォンがある。


「ただいま」


「おかえり。足、どうだった?」


「大丈夫。今日は五分だけ実戦にも入ったよ」


「本当に痛くない?」


「うん」


「よかった」


 お姉ちゃんは安心したように笑う。


「動画を送ったこと、怒ってる?」


「少しだけ」


「ごめん」


「でも、助言は役に立った」


「本当?」


「受ける前に逆を見るっていうの、今日試した」


「うまくいった?」


「陽菜が点を決めた」


 お姉ちゃんの表情が明るくなる。


「よかったね」


「うん」


 少年は、お姉ちゃんのそばに立っている。


「今の俺は、それだけしか返してないのか」


 私は答えない。


 お姉ちゃんには聞こえないからだ。


「蓮さん、ほかには何か言ってた?」


「ううん。それだけ」


「そう」


「でも」


 お姉ちゃんはスマートフォンへ目を落とす。


「動画を見てくれただけでも、少しうれしかった」


「連絡は?」


「それ以外は来てない」


「……そっか」


 少年の表情が曇る。


 お姉ちゃんは画面を消し、テーブルへ置いた。


「近いうちに、ちゃんと会いに行こうと思ってる」


「大学まで?」


「うん」


「返事がないのに?」


「だからこそ」


 お姉ちゃんの声は穏やかだった。


 けれど以前のように、ただ待っているだけの声ではなかった。


「このままずっと、蓮が話してくれるのを待つだけなのはやめようと思う」


 少年が真剣な顔でお姉ちゃんを見る。


「千春」


 届かない声だった。


「美緒は心配しなくていいよ」


「でも」


「これは私と蓮のことだから」


 前にも言われた言葉だった。


 そのときは、突き放されたように感じた。


 けれど今は少し違う。


 お姉ちゃんが自分で決めようとしているのだと分かった。


「うん」


 私はうなずいた。


「分かった」


 お姉ちゃんは少し驚いたあと、柔らかく笑った。


「ありがとう」


     ◇


 夜。


 私はベッドの上で、今日の練習動画を見ていた。


 倉橋監督の指示で一年生が撮影していた短い映像を、部員用の共有ページで確認する。


 少年も隣から画面をのぞき込む。


 私が陽菜へパスを出した場面。


 陽菜がゴールを決める。


「もう一回」


 少年が言う。


「何度目ですか?」


「いいだろ」


「自分がプレーしたわけでもないのに」


「だから見るんだよ」


 私は動画を巻き戻した。


 受ける前に周囲を見る。


 中央へ入る味方。


 陽菜へ寄るセンターバック。


 一度、逆を見る。


 相手が動く。


 空いた場所へパスを出す。


 画面の中の私は、少年のように鋭くはない。


 沙月のように安定してもいない。


 それでも、確かに自分の判断でプレーしていた。


「蓮さん」


「何だ?」


「今日のパス、本当に私にしか出せなかったと思いますか?」


「同じ場所へ出すだけなら、ほかの選手にもできる」


「では、違うじゃないですか」


「でも、あの瞬間に陽菜が走るって信じて出したのはお前だ」


「……はい」


「だから、お前のパスだ」


 少年は画面へ目を向けたまま言う。


「誰にも真似できないって意味じゃない」


「では、どういう意味ですか?」


「お前が、自分で選んだって意味だ」


 その言葉が、胸の中へ静かに落ちた。


 特別な技術があるから、自分にしかできないのではない。


 自分が見て。


 自分が信じて。


 自分で選ぶ。


 だから、そのプレーは私のものになる。


 紅白戦で少年が出したパスとは違う。


 今日のパスは、誰にも借りていない。


 私の身体で。


 私の目で。


 私が出した。


「もう一回見ます」


「まだ見るのか?」


「蓮さんが何度も見たがったんでしょう」


「俺はもう覚えた」


「私はまだです」


 動画を最初へ戻す。


 画面の中で、陽菜が走り出す。


 私はその前に顔を上げていた。


 その姿を見ながら、初めて思った。


 蓮さんのようになれなくてもいい。


 まだ、その言葉を完全には信じられない。


 それでも。


 蓮さんには見えなかったものを、私が見つけられるのなら。


 私にしか選べない道も、きっとあるのだと思った。


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