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夢を諦めた君のスパイクから、十七歳の君が現れた  作者: situ725


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11/16

第11話 今でも好き?

 お姉ちゃんが蓮さんに会いに行くと決めたのは、それから三日後のことだった。


 土曜日の昼前。


 午前練習を終えて玄関を開けると、お姉ちゃんが鏡の前に立っていた。


 淡い水色のブラウスに、白いロングスカート。


 普段より少しだけ丁寧に髪をまとめている。


 けれど、どこかへ遊びに行くときのような明るさはなかった。


「ただいま」


「おかえり。足、大丈夫だった?」


「うん。今日は全部参加できた」


「痛みは?」


「ないよ」


「よかった」


 お姉ちゃんは笑った。


 そのあと、また鏡へ目を戻す。


 耳の横から落ちた髪を直しては、もう一度同じ場所を触っている。


「今日、会うの?」


 私が尋ねると、お姉ちゃんの手が止まった。


「うん」


「蓮さんに?」


「大学の近くまで行く」


「連絡はついたの?」


「昨日、返事が来た」


「何て?」


「少しなら話せるって」


 お姉ちゃんは鏡越しに私を見る。


「美緒も、待ち合わせ場所の近くまで来てくれない?」


「私も?」


「会うのは私一人で会うよ」


 先にそう付け加えられた。


「ただ、行くところまでは誰かにいてほしくて」


「……うん」


 断る理由はなかった。


 少年は、廊下の壁にもたれながら黙ってお姉ちゃんを見ている。


 いつもなら、蓮さんと会うと聞けば真っ先に何か言うはずだった。


 けれど今日は何も言わない。


 お姉ちゃんがどんな話をするつもりなのか、分かっているのだろう。


「着替えてくる」


「急がなくていいよ」


 私は階段を上がる。


 少年も当然のようについてきた。


 部屋へ入って扉を閉めると、少年がようやく口を開いた。


「俺も行く」


「私が行けば、蓮さんもついてくることになります」


「分かってる」


「お姉ちゃんと今の蓮さんの話ですよ」


「それも分かってる」


 声が少し強くなった。


「でも、千春が何を言うのか聞きたい」


「聞いてどうするんですか?」


「どうするって」


「今の蓮さんには、あなたの声は届きません」


「だからって、何も知らないままでいろっていうのか?」


「そうではありません」


 少年は苛立ったように視線を逸らす。


「俺なら、千春をあんな顔にしない」


「また、今の蓮さんと自分を比べるんですか?」


「比べるだろ。あれも俺なんだから」


「違う人だって、少しずつ分かってきたんじゃないですか?」


 少年が私を見る。


「違ってても、俺だ」


「どちらなんですか?」


「知らないよ」


 少年は吐き捨てるように答えた。


 その顔は怒っていた。


 けれど、自分が何に怒っているのか、少年自身にも分かっていないように見えた。


「あいつも、千春を嫌いになったわけじゃないんだろ」


「お姉ちゃんとは別れていません」


「だったら、何で会おうとしない」


「それを今日、お姉ちゃんが聞くんでしょう」


 少年は何も答えなかった。


 私は制服から動きやすい服へ着替えた。


 薄いパーカーを羽織り、髪を整える。


「美緒」


「何ですか?」


「千春は、俺と別れたいと思ってるのか?」


 鏡越しに少年を見る。


 少年の目から、さっきまでの苛立ちが消えていた。


「分かりません」


「お前は妹だろ」


「妹でも、お姉ちゃんの気持ちを全部知っているわけではありません」


「でも、ずっと一緒にいる」


「一緒にいても、聞かないと分からないことはあります」


 お姉ちゃんも、今の蓮さんに同じことを思っている。


 苦しいことがあるなら話してほしい。


 何も話してくれなければ、そばにいても分からない。


 少年は視線を落とした。


「千春は、別れないよな」


 それは質問というより、願いのように聞こえた。


 私は答えられなかった。


     ◇


 待ち合わせ場所は、蓮さんの大学から少し離れた公園だった。


 大学の正門から続く大通りを外れた先にある、小さな公園。


 遊具は少なく、中央に噴水がある。


 休日だからか、ベンチに座っている人もまばらだった。


「美緒は、あっちで待ってて」


 お姉ちゃんが噴水の反対側を指す。


「うん」


「ごめんね。連れてきたのに」


「大丈夫」


「終わったら声をかけるから」


 お姉ちゃんは少し迷ったあと、私の手を握った。


 冷たかった。


「お姉ちゃん」


「何?」


「言いたいこと、ちゃんと言ってね」


 お姉ちゃんは驚いたように目を見開いた。


 それから、少しだけ笑う。


「うん」


 手が離れる。


 お姉ちゃんは、噴水の近くにあるベンチへ向かった。


 私は反対側のベンチへ座る。


 少年も隣に立った。


「ここから聞こえるか?」


「大きな声なら」


「もっと近くに行こう」


 私は小さく首を横へ振った。


「何でだよ」


「二人で話すために来たんです」


 周囲に聞かれないよう、声を落として答えた。


 少年は不満そうにお姉ちゃんを見る。


 私たちとお姉ちゃんの距離は、十メートルもない。


 少年が引き戻されないぎりぎりの場所だった。


 話している内容までは、はっきり聞こえないかもしれない。


 それでも、二人の表情は見える。


「来た」


 少年の声で顔を上げる。


 公園の入り口から、蓮さんが歩いてきた。


 黒いパーカー。


 色の落ちたジーンズ。


 伸びた前髪。


 ポケットへ両手を入れ、顔を上げようとしない。


 喫茶店で会ったときと、ほとんど変わっていなかった。


 蓮さんがお姉ちゃんの前で立ち止まる。


 二人は短く言葉を交わしたあと、少し離れてベンチへ座った。


 お姉ちゃんは蓮さんの方を向いている。


 蓮さんは前を見たまま、顔を向けない。


「もっと近くに行けば聞こえる」


 少年が呟く。


 私はもう一度、首を横へ振った。


 聞かなくていい。


 二人が自分の言葉で話すために来たのだから。


 少年は納得していない様子だったが、それ以上は前へ出なかった。


 噴水の水が落ちる音。


 近くを走る車の音。


 子どもたちの笑い声。


 その間に、お姉ちゃんの声が途切れ途切れに聞こえる。


「……連絡しても……」


「……心配してるんじゃなくて……」


 蓮さんの返事は聞き取れない。


 声が低く、短いからだ。


 お姉ちゃんが膝の上で両手を組む。


 蓮さんは相変わらず前を向いている。


「何で千春を見ないんだよ」


 少年が言う。


「ちゃんと見ろよ」


 届かない声だった。


 しばらくして、お姉ちゃんが何かを言った。


 今度は少し声が大きかった。


「私は、サッカーを続けてほしいって言ってるんじゃない」


 その言葉は、私たちの場所まで届いた。


 聞くつもりはなかった。


 けれど、二人の声は少しずつ大きくなり、噴水の音を越えてこちらまで届いてきた。


 少年の身体が止まる。


 蓮さんも、お姉ちゃんへ顔を向けた。


「続けたいなら応援する。でも、やめたいなら、それも蓮が決めればいいと思ってる」


 お姉ちゃんの声は震えていなかった。


 落ち着いていた。


 何度も自分の中で考え、今日伝える言葉を選んできたのだろう。


「私が知りたいのは、どうして何も話してくれないのかだけ」


 蓮さんが何かを答える。


 今度は声が少し大きくなった。


「話してどうするんだよ」


「どうするって?」


「励ますのか?」


「違うよ」


「高校の頃みたいに頑張れって?」


「そんなこと言ってない」


「言わなくても同じだろ」


 蓮さんが立ち上がった。


 お姉ちゃんも、少し遅れて立ち上がる。


 少年が一歩前へ出た。


 私は目で制した。


 けれど少年は、お姉ちゃんたちから目を離さない。


「千春はそんなこと言ってないだろ」


 その声は、やはり届かない。


「私はサッカーをしている蓮と付き合ってるんじゃない」


 お姉ちゃんの声だった。


 公園の空気が止まったように感じた。


 蓮さんも、何も言わない。


「サッカーをやめたから嫌いになるわけじゃない」


「じゃあ、何なんだよ」


「話してくれないことがつらいの」


「話したところで分からないだろ」


「分かるかどうかは、話してみないと分からないよ」


「分からない」


 蓮さんは、はっきりと言った。


「千春には分からない」


「どうして決めつけるの?」


「お前は、うまくいってた頃の俺しか知らないからだよ」


 少年の表情が変わった。


「違う」


 届かない声で呟く。


 お姉ちゃんの眉が寄る。


「高校の頃だって、うまくいかないことはあったでしょう」


「あの頃とは違う」


「何が?」


「全部だよ」


 蓮さんが声を荒らげる。


 周囲に響くほどではない。


 それでも、私のいる場所まではっきり聞こえた。


「高校では、俺が一番だった。失敗しても、次は俺にボールが来た。監督もチームメイトも、最後は俺が何とかするって思ってた」


 少年は無言で聞いている。


「大学じゃ違った。俺よりうまいやつなんて、いくらでもいた。俺がいなくてもチームは勝つ。怪我してる間に後輩が試合に出て、俺が戻っても必要とされなかった」


「必要とされなかったって、誰かに言われたの?」


「言われなくても分かる」


「それは蓮がそう思ってるだけじゃないの?」


「またそれかよ」


 蓮さんが顔を背ける。


「大丈夫とか、必要とされてるとか、簡単に言うなよ」


「簡単になんて言ってない」


「千春は知らないだろ。試合に出られないまま、毎日練習する気持ちなんて」


「分からないよ」


 お姉ちゃんは答えた。


 蓮さんが振り返る。


「分からない。私は蓮じゃないから」


「だったら」


「だから、話してほしいって言ってるの」


 お姉ちゃんの声が初めて震えた。


「分からないから、聞きたいの。分かったふりをしたいんじゃない。蓮が何を考えてるのか、蓮の言葉で聞きたいの」


 蓮さんの唇が動く。


 けれど、すぐには声が出なかった。


 お姉ちゃんは続ける。


「私が何か言うたびに怒って、何も話してくれなくなって、会う約束も断って」


「それは」


「蓮が苦しいなら待とうと思った。でも、何も言われないまま待ち続けるのも、苦しいよ」


 お姉ちゃんの目が潤んでいた。


 少年が息を呑む。


「千春」


 一歩、前へ出る。


 私は少年の袖へ手を伸ばしかけた。


 けれど、触れることはできない。


 少年は私との距離を気にすることもなく、お姉ちゃんだけを見ていた。


 蓮さんは、お姉ちゃんの涙に気づいている。


 それでも、近づこうとはしなかった。


「……がっかりしてるんだろ」


「え?」


「今の俺を見て」


「してない」


「嘘つくなよ」


「嘘じゃない」


「高校時代の俺が好きだったんだろ」


 少年の目が大きくなる。


 お姉ちゃんも、言葉を失ったように蓮さんを見る。


「プロになるって言ってた俺が好きだった。試合で点を取って、みんなに頼られてた俺が」


「違う」


「今の俺を見て、がっかりしてるんだろ」


「違うよ」


 お姉ちゃんが一歩近づく。


「私は、サッカーをしているあなたと付き合ってるんじゃない」


「じゃあ、何でサッカーの話ばかりするんだよ」


「蓮が何も話してくれないからでしょう!」


 お姉ちゃんの声が公園に響いた。


 初めて聞くほど強い声だった。


 お姉ちゃん自身も驚いたように、口を閉じる。


 蓮さんは動かなかった。


 お姉ちゃんは息を整えようとする。


「ごめん。でも――」


「もういい」


 蓮さんが言った。


「よくないよ」


「今日は帰る」


「待って。まだ話は終わってない」


「俺は終わった」


 蓮さんが背を向ける。


「蓮!」


 お姉ちゃんが呼ぶ。


 少年も同時に叫んだ。


「逃げるな!」


 二人の声が重なった。


 けれど、今の蓮さんに届いたのは、お姉ちゃんの声だけだった。


 蓮さんの足が一瞬止まる。


 少年の顔に、わずかな期待が浮かぶ。


 しかし蓮さんは振り返らなかった。


「高校の頃の俺が好きなら、その思い出だけ持ってればいいだろ」


「蓮」


「今の俺には、何もないから」


 蓮さんはそのまま公園を出ていった。


 黒い背中が、少しずつ遠ざかる。


 お姉ちゃんは追わなかった。


 追えなかったのかもしれない。


 その場に立ち尽くしている。


 少年は、今の蓮さんの背中とお姉ちゃんを何度も見比べていた。


「追いかける」


 少年が駆け出そうとする。


 私は小さく、しかしはっきりと言った。


「ここにいてください」


「止めないと」


「今行っても、声は届きません」


「お前が言えばいい」


「何を言うんですか?」


「千春の話を聞けって」


「私が言っても、またお姉ちゃんから何か聞いたのかって怒るだけです」


「じゃあ、放っておくのかよ!」


 少年が私をにらむ。


 その声に、お姉ちゃんが反応することはない。


 私にしか聞こえない。


「千春が泣いてるんだぞ!」


「分かっています」


 声を抑えたつもりだった。


 それでも強い調子になった。


 近くにいた人が一瞬こちらを見る。


 私はすぐに口を閉じた。


 少年は苦しそうに顔を歪めていた。


「俺なら、あんなこと言わない」


「……はい」


「千春が俺の何を好きかなんて、勝手に決めない」


 そこで言葉が止まる。


 今の蓮さんも、四年前はそう思っていたのかもしれない。


 千春を泣かせることなんてない。


 逃げることなんてない。


 何でも話せる。


 自分なら、ちゃんとできる。


 そう思っていた少年が、四年後には今の蓮さんになった。


「分からない」


 少年が小さく言う。


「何で、あんなこと言うんだよ」


 怒りではなかった。


 自分が信じていた未来を失ったような声だった。


     ◇


 お姉ちゃんがこちらへ戻ってきた。


 目元が赤い。


 けれど、涙は拭いていた。


「お姉ちゃん」


「ごめん。待たせたね」


「大丈夫?」


「うん」


 どう見ても大丈夫ではない。


 それでも、お姉ちゃんは笑おうとした。


「帰ろうか」


「うん」


 立ち上がる。


 少年はお姉ちゃんのすぐ横を歩いた。


「千春」


 返事はない。


「俺は、あんなこと思ってない」


 お姉ちゃんには聞こえない。


「お前が好きなのは、高校の俺だけだなんて、思ってない」


 少年の声が震えていた。


「千春」


 何度呼んでも、届かない。


 駅までの道を、お姉ちゃんは黙って歩いた。


 私も何を話せばいいのか分からない。


 少年だけが、お姉ちゃんへ言葉をかけ続けている。


「サッカーをやめたって、俺は俺だろ」


「お前は、ずっとそう言ってくれた」


「俺が外したときも、負けたときも」


「千春」


 信号で足を止める。


 お姉ちゃんが俯いた。


 肩が小さく震えている。


「お姉ちゃん」


 背中に手を添える。


「ごめん」


 お姉ちゃんが言った。


「何で謝るの?」


「美緒の前で、こんな」


「泣いていいよ」


 口にした瞬間、少年が私を見る。


 お姉ちゃんも少し驚いた顔をした。


「今日は、泣いていいと思う」


 誰かが昔、お姉ちゃんに同じような言葉を言われた。


 その話を、私はまだ知らない。


 それでも自然に言葉が出た。


 お姉ちゃんの目から、涙がこぼれる。


「私は」


 声が震える。


「サッカーをやめてほしくないわけじゃないの」


「うん」


「続けてほしいわけでもない」


「うん」


「ただ、つらいなら話してほしかった」


 お姉ちゃんは涙を拭う。


「蓮にとって私は、話せる相手じゃなくなったのかな」


「そんなことない」


「でも、蓮は何も言ってくれない」


「今は、言えないだけかもしれない」


「いつまで待てばいいんだろう」


 答えられなかった。


 待っていれば必ず話してくれるとは言えない。


 こちらから何度手を伸ばしても、今の蓮さんが背を向け続ける可能性もある。


 お姉ちゃんは少しずつ呼吸を整えた。


「ごめんね」


「だから、謝らなくていいよ」


「美緒に心配ばかりかけてる」


「私は妹だから」


「妹だからって、何でも見せていいわけじゃないでしょう?」


「見せてくれた方がいい」


 私は、お姉ちゃんの手を握った。


「分からないままにされる方が苦しいから」


 お姉ちゃんが私を見る。


 今日、蓮さんへ伝えたのと同じことだった。


 お姉ちゃんは、少しだけ笑った。


「そうだね」


 信号が青になる。


 私たちはゆっくり歩き出した。


 少年は、お姉ちゃんの反対側を歩く。


 その手は、何度もお姉ちゃんの手へ伸びていた。


 けれど、触れることはできなかった。


     ◇


 家へ帰ると、お姉ちゃんは部屋へ入った。


「少し一人にして」


 そう言われ、私は自分の部屋へ戻った。


 扉を閉める。


 少年は窓の前に立っていた。


 公園を出てから、ほとんど話していない。


 私はベッドに腰を下ろす。


「蓮さん」


「俺は、あんな男にならない」


 初めて現在の蓮さんを見たときと同じ言葉だった。


 けれど、今度は自分へ言い聞かせているように聞こえた。


「千春の言葉を聞かないような男には、ならない」


「……はい」


 少年は窓の外を見る。


「俺は、千春のことをちゃんと分かってる」


「そうですか?」


 少年が振り返る。


「何だよ」


「お姉ちゃんの気持ちを、全部知っていますか?」


「それは」


「一緒にいても、聞かないと分からないことはあるって、さっき言いました」


「俺は聞く」


「今の蓮さんも、昔はそう思っていたかもしれません」


 少年の表情が固まる。


「俺も、ああなるって言いたいのか?」


「分かりません」


「ならない」


「そうかもしれません」


「何で信じないんだよ」


「信じていないわけではありません」


「だったら」


「蓮さんは、今の蓮さんを何も知らないでしょう」


 言葉にすると、少年の顔に痛みが走った。


「大学でどれくらい苦しかったのか」


「それは」


「試合に出られなくなったとき、誰に何を言われたのか。どれだけ練習したのか。どうしてお姉ちゃんへ話せなくなったのか」


「俺なら話す」


「今の蓮さんも、最初は話すつもりだったかもしれません」


「じゃあ、どうすればよかったんだよ」


 少年の声が荒くなる。


「あいつは、どうすれば千春を泣かせずに済んだんだ」


「私には分かりません」


「またそれかよ」


「でも、逃げずに話すことはできたと思います」


 少年は黙った。


「分かってもらえないと決めつけずに、お姉ちゃんへ話すことはできた」


「……ああ」


「お姉ちゃんも、全部理解できるとは言っていません」


「分からないから聞きたいって言ってた」


「はい」


 少年は拳を握る。


 自分の手に、自分の指が食い込む。


「何で、あいつには分からないんだ」


「何がですか?」


「千春が、どれだけあいつを好きか」


 胸の奥が、小さく痛んだ。


「高校の俺だけが好きなわけじゃない」


「はい」


「サッカーができる俺だけでもない」


「はい」


「千春は、点を取れなくても、サッカーができなくても、俺を俺として見てくれる」


 迷いなく言い切った。


 お姉ちゃんのことを話す少年の目は、苦しいほどまっすぐだった。


「だから、あいつは間違ってる」


 少年は現在の自分へ怒っている。


 お姉ちゃんを泣かせたことへ。


 その気持ちを信じなかったことへ。


 でも、それだけではない。


 自分が大切にしていたものを、未来の自分が自ら手放そうとしていることが許せないのだ。


「蓮さん」


「何だ?」


「今でも、お姉ちゃんのことが好きですか?」


 聞いたあとで、なぜそんなことを尋ねたのか、自分でも分からなかった。


 確認する必要なんてない。


 少年の言葉も、表情も、答えを示している。


 それでも、聞かずにはいられなかった。


 少年は驚いたように私を見る。


 けれど、迷ったのは一瞬にも満たなかった。


「当たり前だろ」


 あまりにも自然な返事だった。


 考える必要すらないというように。


「少なくとも、今の俺が千春を好きじゃなくなるわけない」


「そう、ですよね」


「何だよ、急に」


「少し気になっただけです」


「今の俺があんなだから?」


「はい」


 嘘ではない。


 けれど、それだけでもなかった。


「俺は千春が好きだ」


 少年は言う。


「それだけは絶対に変わらない」


 胸の奥に、細い針を刺されたような痛みが走った。


 自分だけに見える。


 いつも私の隣にいる。


 学校でも、部活動でも、家でも。


 一緒に映像を見て。


 一緒にボールを蹴って。


 私のプレーを誰より近くで見てくれている。


 それでも、少年の心は最初からお姉ちゃんへ向いている。


 分かっていた。


 少年は高校時代の蓮さんと同じ記憶を持っている。


 お姉ちゃんと付き合い、将来も一緒にいるつもりだった。


 私のことは、幼い頃から知っている妹のような存在だ。


 何も変わっていない。


 なのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。


「美緒?」


 少年が顔をのぞき込む。


「何でもありません」


「何でもない顔じゃないだろ」


「お姉ちゃんのことを考えていただけです」


「千春は大丈夫かな」


「今は一人にしてほしいと言っていました」


「見に行かなくていいのか?」


「行っても、蓮さんには何もできません」


 また同じ言葉を使ってしまった。


 少年が少し傷ついた顔をする。


「すみません」


「いや」


 少年は窓の外へ目を向ける。


「本当のことだから」


「でも、お姉ちゃんは一人ではありません」


「どういう意味だ?」


「私がいます」


 少年が私を見る。


「蓮さんの声は届かなくても、私ならお姉ちゃんの話を聞けます」


「……そうだな」


「だから今は、私に任せてください」


「頼んだ」


 少年は素直にうなずいた。


「千春を一人にしないでくれ」


「はい」


 私にしか見えない少年から、お姉ちゃんを託される。


 それは当然のことだった。


 私はお姉ちゃんの妹だから。


 少年がお姉ちゃんを好きだから。


 それだけのことだ。


 けれど、胸の奥の痛みは消えなかった。


 少年が今でもお姉ちゃんを好きだと知ったから、苦しい。


 その理由を考えようとすると、何かを認めてしまう気がした。


 だから私は、それ以上考えなかった。


 今はただ、お姉ちゃんが心配なだけ。


 そう自分へ言い聞かせ、部屋を出た。


 扉を閉める直前、少年の声が聞こえた。


「美緒」


 振り返る。


「千春のこと、よろしくな」


「はい」


 私は笑った。


 笑えていたと思う。


 廊下へ出て、お姉ちゃんの部屋へ向かう。


 一歩進むたびに、胸の奥が小さく痛んだ。


 けれど、その痛みが何なのか。


 私はまだ、名前をつけることができなかった。


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