表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢を諦めた君のスパイクから、十七歳の君が現れた  作者: situ725


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/16

第12話 借り物の勝利

 試合開始まで、あと十五分。


 ベンチの端に座った私は、何度目か分からないほどスパイクの紐へ触れた。


「また触ってるぞ」


 隣に立つ少年が言う。


「何をですか?」


「紐」


 慌てて手を離す。


 きつく結んだはずなのに、少し緩んでいるような気がしていた。


「別に、普通です」


「緊張すると触るだろ」


「してません」


「じゃあ、さっきから五回くらい結び直してるのは何だよ」


「念のためです」


「切れるぞ」


 少年が呆れた顔をする。


 私は返事をせず、グラウンドへ目を向けた。


 県大会まで、まだ少し時間はある。


 今日の相手は、市内でも上位に入る私立高校だった。


 男子サッカー部を相手に対人練習を行うことも多く、フィジカルの強い選手がそろっている。


 特に中盤の守備が厳しい。


 ボールを持った選手へ一人が寄せ、逃げ道をもう一人が消す。


 前半から先発している沙月は、その圧力を受けながらも簡単には奪われていなかった。


 派手な突破はない。


 けれど、味方との距離を保ち、短いパスをつなぎ、守備へ切り替わればすぐ戻る。


 倉橋監督が沙月を信頼する理由が、ベンチからでもよく分かった。


「橘、安定してるな」


 少年も同じことを考えたらしい。


「はい」


「悔しいか?」


「別に」


「嘘つけ」


 私は少年を見ない。


 悔しくないわけがなかった。


 県大会の登録メンバーは、今日の試合と残り数回の練習を見て、順次決められる。


 全員が登録されるわけではない。


 同じポジションの沙月が先発し、私はベンチ。


 足首の怪我から復帰したばかりだから仕方がない。


 そう思おうとしても、胸の奥は落ち着かなかった。


 前半二十八分。


 陽菜が相手の背後へ走る。


 沙月が一度顔を上げた。


 けれど、相手の寄せが速く、縦へ出せない。


 無理をせず、左サイドへつなぐ。


 正しい判断だった。


 それでも私は、陽菜なら追いつけたかもしれないと思ってしまった。


「今、出せたと思っただろ」


「少しだけ」


「お前なら?」


「分かりません」


「見えてたのに?」


「見えることと、通せることは違います」


「それはそうだ」


 少年は否定しなかった。


 以前なら、出せと言っていたかもしれない。


 失敗を怖がるな。


 勝負しろ。


 責任から逃げるな。


 けれど今は、私の身体と、その後に残るものまで考えてくれている。


 足首を痛めてから、少年は変わった。


 勝つためなら何をしてもいいとは言わなくなった。


 だからこそ、私は少し安心していた。


 少年に頼らなくても、自分の判断で戦える。


 前の練習では、それが少しだけできた。


 受ける前に逆を見る。


 相手を動かし、空いた場所を使う。


 少年にも、現在の蓮さんにも教えられたことだった。


 でも、最後に選んだのは私だ。


 あの感覚を、今日も再現したかった。


 前半が終わる。


 得点はゼロ対ゼロ。


 倉橋監督が選手を集めた。


「相手は中を固めている。無理に中央で受ける必要はない」


 地面に置いた作戦ボードを指す。


「一度外へ動かして、相手の中盤を広げる。前線は裏だけじゃなく、足元にも顔を出して」


「はい」


「守備では、奪いに行く一人と、後ろを締める一人をはっきりさせること。二人とも食いつかない」


 選手たちがうなずく。


 倉橋監督はベンチへ目を向けた。


「藤崎」


「はい」


「後半十五分から入る。橘と交代」


 胸が大きく跳ねた。


「攻撃的ミッドフィルダー。相手の中盤が疲れ始める時間帯だ。受ける前に周囲を見ろ」


「はい」


「足首は?」


「問題ありません」


「違和感が出たらすぐ言うこと」


「はい」


 倉橋監督は短くうなずいた。


 沙月はタオルで汗を拭きながら、私を見る。


「相手、かなり寄せてくるよ」


「うん」


「背中から来る方が速い。前だけ見てると取られる」


「分かった」


「あと、ボランチの六番」


 沙月が相手選手を顎で示す。


 小柄だけれど、身体の入れ方がうまい選手だった。


「右へ追い込むふりをして、左足側を狙ってくる」


「左を切ってるように見えたけど」


「わざと空けてる」


「そうなんだ」


「一回引っかかった」


 沙月は悔しそうに言う。


 自分の失敗を隠すことなく、私へ伝えてくれている。


「ありがとう」


「別に」


 沙月はグラウンドへ戻っていった。


 少年が私を見る。


「橘、いいやつだな」


「知ってます」


「お前より素直じゃないけど」


「蓮さんにだけは言われたくないと思います」


「俺は素直だろ」


「どこがですか」


 少しだけ笑えた。


 けれど、後半が始まると、緊張はすぐに戻ってきた。


     ◇


 後半十五分。


「藤崎、準備」


「はい」


 ビブスを脱ぐ。


 タッチライン際で軽く跳ね、足首の感覚を確かめる。


 痛みはない。


 怖さも、以前より薄い。


 沙月がこちらへ走ってくる。


「相手、少し前から来なくなってる」


「分かった」


「でも六番はまだ動ける」


「うん」


 手を合わせる。


「頼んだ」


「任せて」


 ピッチへ入る。


 陽菜がすぐに近づいてきた。


「美緒、待ってた」


「走ってくれる?」


「当たり前」


「見つけられなかったら?」


「何回でも走る」


 陽菜が笑う。


「美緒が出さなきゃ、私が文句言うから」


「それ、励ましてる?」


「かなり」


 笛が鳴る。


 試合が再開した。


 最初のボールは、後方の真帆先輩から来た。


 受ける前に右を見る。


 左を見る。


 相手の六番は、私の背後から近づいている。


 前を向こうとせず、ワンタッチで右へ落とす。


「ナイス」


 味方の声。


 まずは失わなかった。


 次の場面でも、短くつないだ。


 前へ出せる場所はなかった。


 無理をしない。


 焦らない。


 自分の判断でプレーする。


「悪くない」


 少年の声が聞こえる。


 私は答えない。


 試合中に声を返す余裕はない。


 五分が経つ。


 相手は私がボールを持つたび、六番とセンターバックの一人が距離を縮めてきた。


 前を向く時間がない。


 陽菜が何度か裏へ走る。


 見えている。


 けれど、パスコースの前には相手の足がある。


 失敗すればカウンターになる。


 横へ出す。


 戻す。


 また横へ出す。


 正しい。


 きっと正しいはずだ。


 それなのに、試合の流れは変わらない。


 後半二十三分。


 相手の攻撃を真帆先輩が跳ね返す。


 こぼれ球が私の前へ来た。


「前向け!」


 倉橋監督の声。


 身体を半分開いて受ける。


 目の前に六番。


 その奥では、陽菜が右のセンターバックとサイドバックの間へ走っている。


 見えた。


 今なら出せる。


 そう思った瞬間、六番が一歩近づいた。


 奪われたら。


 縦パスを切られたら。


 また怪我をしたら。


 違う。


 怪我とは関係ない。


 失敗するのが怖いだけだ。


 私は縦を諦め、左へ出した。


「美緒!」


 陽菜の声が背中へ刺さる。


 パスを受けた味方が囲まれ、ボールを失う。


 相手のカウンター。


 真帆先輩が身体を張って止める。


「戻れ!」


 全員が自陣へ戻る。


 私は必死に走った。


 失点はしなかった。


 それでも、胸の奥に重いものが残った。


 あのパスを出していれば。


 陽菜へ通っていたかもしれない。


「今のは出せた」


 少年が言う。


 分かっている。


「見えてただろ」


 分かっている。


「何で出さなかった」


 答えられない。


 その後も同じだった。


 ボールは受けられる。


 奪われてもいない。


 でも、前へ進められない。


 相手にとって怖いプレーができない。


 後半も残りわずかになった。


 得点はまだゼロ対ゼロ。


 倉橋監督が腕時計を確認している。


 このまま終われば、悪い評価ではないかもしれない。


 大きなミスはしていない。


 守備にも戻っている。


 ボールも失っていない。


 でも、それだけだ。


 沙月と同じことをしようとして、沙月より遅い。


 私を使う理由がない。


「藤崎、もっと前で受けろ!」


 倉橋監督の声が飛ぶ。


「はい!」


 返事をする。


 けれど、前へ出れば六番がついてくる。


 背中で受けても、振り向けない。


 陽菜が近づいてくる。


「美緒」


「何?」


「一回、私を使って」


「分かった」


「裏じゃなくてもいいから」


 陽菜はすぐ前線へ戻った。


 私を助けようとしている。


 分かっている。


 次は出す。


 絶対に出す。


 そう思った直後、相手のスローインからボールを奪った。


 味方のボランチが私へ出す。


 背後から六番。


 前方に陽菜。


 足元へ下りてきている。


 出せる。


 私は右足を振る。


 しかし六番が身体を入れた。


 ボールが足元から離れる。


「しまった」


 相手に奪われた。


 六番が前を向く。


 私はすぐ追いかける。


 足を伸ばして触ろうとする。


 届かない。


 相手は左へ展開した。


 クロスが上がる。


 ゴール前で相手のフォワードが合わせた。


 ボールは枠の外へ外れた。


 助かった。


 でも、私のミスから生まれた決定機だった。


「ごめん!」


 味方へ声をかける。


「切り替えろ!」


 真帆先輩が返す。


 責める声ではない。


 だから余計に苦しかった。


「美緒」


 少年が近くに来る。


「今のは相手がうまかった」


「分かってます」


「顔を下げるな」


「下げてません」


「下がってる」


 私は唇を噛む。


 足首は痛くない。


 身体も動く。


 少年に頼らないと決めた。


 自分の力でやると決めた。


 なのに何もできない。


 前の練習で一度うまくいっただけで、変われたつもりになっていた。


「残り十分!」


 倉橋監督が叫ぶ。


 ベンチでは沙月が立って試合を見ている。


 このままなら、沙月との差を縮められない。


 登録されたとしても、県大会で出番をもらえないかもしれない。


 陽菜と一緒にピッチへ立てない。


 真帆先輩の最後の大会を、ベンチから見ているだけになる。


 胸が苦しくなる。


「美緒、落ち着け」


 少年が言う。


「落ち着いてます」


「呼吸が速い」


「走ってるからです」


「違う。焦ってる」


「焦ってません」


 またボールが来る。


 相手の寄せ。


 私は前を向けず、後ろへ戻した。


「藤崎!」


 倉橋監督の声が厳しくなる。


「安全に逃がすだけなら、そこにいる意味はない!」


 胸に突き刺さる。


 同じことを、何度も言われてきた。


 見えているのに、見えていないふりをする。


 責任から逃げる。


 私には私にしか出せないパスがある。


 それなのに、今日の私は何も選べていない。


「蓮さん」


 小さく呼んだ。


 少年が私を見る。


「何だ」


「次、入ってください」


 少年の表情が変わった。


「駄目だ」


「どうしてですか」


「約束しただろ」


「勝つための便利な力として使わない、ですよね」


「そうだ」


「でも、必要なんです」


「今のは、お前が焦ってるだけだ」


「焦っていて何が悪いんですか」


「美緒」


「県大会で出るために、結果が必要なんです」


「だからって」


「このまま何もできないで終わる方が嫌です」


 声はほとんど息に近かった。


 近くの選手には聞こえない。


「この場面だけです」


「足首は治ったばかりだ」


「痛くありません」


「痛みの問題じゃない」


「じゃあ、何なんですか」


「お前が、また俺に逃げようとしてる」


 その言葉に腹が立った。


「逃げてません」


「今のままじゃ結果が出ないから、俺に代わってほしいんだろ」


「手伝ってほしいだけです」


「同じだ」


「違います」


「美緒」


「入ってください」


「嫌だ」


 少年がはっきり言った。


 初めて、憑依を拒まれた。


 胸の奥で何かが切れた。


「蓮さんが言ったんでしょう」


「何を」


「私には私にしかできないことがあるって」


「言った」


「でも、できないんです」


「今日できないからって、なくなるわけじゃない」


「今日できなかったら、県大会で出られないかもしれない!」


 思わず声が出た。


 近くにいた陽菜が振り返る。


「美緒?」


「何でもない」


 私はすぐに走り出す。


 ボールから目を離せない。


 少年も横をついてくる。


「冷静になれ」


「十分冷静です」


「嘘だ」


「蓮さんには分からないでしょう」


「何が」


「自分の場所を取られる怖さです」


 口にしたあとで、現在の蓮さんが話していたことを思い出した。


 怪我をしている間に、後輩にポジションを奪われた。


 戻っても必要とされなかった。


 少年の顔がわずかに歪む。


「……分からなくはない」


「あなたはいつもエースだったじゃないですか」


「だからって」


「私には、次があるか分からないんです」


 残り八分。


 相手のコーナーキック。


 全員が守備へ戻る。


 私はペナルティーエリアの外に立った。


 こぼれ球を拾えば、カウンターへ出られる。


 クロスが上がる。


 真帆先輩が跳ね返す。


 ボールが私の近くへ落ちた。


 相手の六番も走ってくる。


「美緒!」


 陽菜が前へ飛び出す。


 今なら速攻になる。


 でも、六番の方が近い。


 また奪われる。


 また失敗する。


「蓮さん」


 私は、はっきりと言った。


「お願いします」


 少年は答えない。


「このまま終わりたくないんです」


 少年は苦しそうに私を見る。


「後悔するぞ」


「それでもいいです」


「本当に?」


「はい」


 少年は唇を噛んだ。


 止めるべきだと思っている。


 それでも、目の前に広がるピッチから目を離せずにいる。


 少年だって、勝負を諦めきれないのだ。


「……短くするぞ」


「はい」


「無理な動きはしない」


「分かっています」


「痛みが出たら、すぐ戻る」


「分かっています」


 その瞬間、身体の奥へ熱が流れ込んだ。


 視界が変わる。


 六番の走る角度。


 体重のかかった足。


 空いている場所。


 前を走る陽菜。


 すべてが、今までより鮮明に見えた。


 六番が足を出す。


 身体が勝手に右へ動いた。


 いや、勝手ではない。


 私が許した。


 右へ行くと見せて、左足の外側でボールをずらす。


 六番の足が空を切る。


「え?」


 相手の声。


 身体が前へ出る。


 さっきまで振り向けなかった相手を、一歩でかわした。


 観客席もない小さなグラウンドなのに、空気が変わったのが分かった。


「美緒!」


 陽菜が走る。


 少年は陽菜を見た。


 でも、すぐには出さない。


 相手のセンターバックが陽菜へ寄る。


 その瞬間、中央に空間ができた。


 少年はボールを運ぶ。


 次の一人が前へ出てくる。


 細かいタッチ。


 相手の重心が右へ傾く。


 左へ抜く。


『蓮さん、陽菜が』


『まだだ』


 頭の中で声が返る。


 ペナルティーエリア手前。


 相手のセンターバックが二人とも私へ寄った。


 右サイドの味方が空く。


 少年はそちらへボールを出した。


 味方がクロスを上げる。


 陽菜がニアへ飛び込む。


 相手ゴールキーパーが弾く。


 こぼれ球。


 少年はもう走っていた。


 私の身体で。


 私の足で。


 相手より先に触れる。


 シュートではない。


 左へ短く落とす。


 後ろから走り込んだ味方が右足を振り抜いた。


 ネットが揺れた。


「入った!」


 陽菜の声。


 味方が一斉に駆け寄ってくる。


「美緒、何今の!」


「すごい!」


「よく見えてた!」


 肩を叩かれる。


 頭を撫でられる。


 みんなが笑っている。


 身体の主導権が戻る。


 視界が少し揺れた。


 息が苦しい。


 でも足首に痛みはない。


『戻ったぞ』


 少年の声が外から聞こえる。


 私のすぐ隣に立っていた。


「美緒!」


 陽菜が抱きついてくる。


「すごかった! あそこから抜けると思わなかった!」


「うん」


「最後もよく見てたね」


「うん」


「何でそんな顔してるの?」


 私は笑おうとした。


「笑ってるよ」


「笑ってない」


「疲れただけ」


「本当に?」


「本当」


 試合は再開された。


 残りは五分ほど。


 相手は前がかりになる。


 私はもう憑依を使わなかった。


 短いパスをつなぎ、守備へ戻り、時間を使う。


 終了の笛が鳴った。


 一対ゼロ。


 青葉高校の勝利だった。


     ◇


「集合」


 倉橋監督の声で、全員が集まる。


「前半は、相手の圧力を受けて中央で窮屈になった。後半は外を使えるようになったが、まだボールを持つ選手へ任せすぎている」


 倉橋監督が一人ずつ選手を見る。


「得点場面は、藤崎が一人かわしたことで相手の守備が崩れた。その後も、最後まで自分で行かず、空いた味方を使えたのはよかった」


 みんなの視線が私へ集まる。


「はい」


「ただし」


 倉橋監督の目が細くなる。


「それまでと、あの場面だけで判断の速さが違いすぎる」


 心臓が止まりそうになった。


「何か変えたのか?」


「……思い切って、前へ行きました」


「それだけか?」


「はい」


 嘘をついた。


 倉橋監督はしばらく私を見た。


「そうか」


 納得したようには見えなかった。


「県大会では、今日より相手の強度が上がる。毎回あの突破ができるとは思うな。できないときに何を選ぶかが大事だ」


「はい」


 倉橋監督は選手全員を見回す。


「登録メンバーについて伝える」


 胸が締めつけられる。


「今日だけで決めたわけじゃない。ここまでの練習も含めて、橘も藤崎も登録メンバーには入れる」


 顔を上げる。


「本当ですか?」


「現時点ではそのつもりだ。ただし、先発はまだ決めない」


「はい」


「残り二週間で判断する」


 沙月が隣で短く返事をした。


 陽菜が私の背中を軽く叩く。


「やったね」


「うん」


「県大会、一緒に出よう」


「うん」


 欲しかった言葉だった。


 ずっと欲しかった場所だった。


 それなのに、胸の中に喜びが広がらない。


 登録メンバーへ入れた。


 チームも勝った。


 得点に関わった。


 結果だけを見れば、すべてうまくいっている。


 けれど、あのプレーを選んだのは私ではない。


「藤崎」


 沙月が呼ぶ。


「何?」


「少しいい?」


「うん」


 みんなから離れ、ベンチの近くへ移動する。


 沙月は私の顔を見た。


「勝ったのに、どうしてそんな顔してるの?」


「どんな顔?」


「うれしくなさそう」


「疲れただけ」


「陽菜にも同じこと言ってた」


「本当に疲れただけだよ」


 沙月は黙って私を見る。


「何?」


「得点の前」


「うん」


「急に別の選手みたいになった」


 胸が締めつけられる。


「前にも言われた」


「紅白戦のときもそうだった」


「たまたまだよ」


「たまたまで、あんなに変わる?」


「集中できたから」


「それまで集中してなかったの?」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ、どういう意味?」


 答えられない。


 沙月は責めるような言い方をしていなかった。


 ただ、本当に不思議に思っているのだ。


「藤崎」


「何?」


「私、あなたがメンバーに入るのは嫌じゃない」


 予想していなかった言葉だった。


「同じポジションなのに?」


「競争だから」


 沙月は淡々と答える。


「私よりいいプレーをしたなら、藤崎が出ればいい」


「沙月」


「でも」


 切れ長の目が、まっすぐ私を見る。


「今日のあのプレーを、あなた自身が喜んでないように見える」


「そんなこと」


「違う?」


 否定できなかった。


 沙月は少しだけ視線を落とす。


「うまく言えないけど」


 言葉を探すように間を置く。


「あのときのあなた、すごかった。でも、藤崎らしくなかった」


 前にも、同じことを言われた。


 あのときも、少年へ身体を預けていた。


 今日も同じだ。


「私らしいって、何?」


 思わず強い声が出た。


 沙月がわずかに目を見開く。


「安全なパスばかり出して、何もできないのが私らしいってこと?」


「そうは言ってない」


「じゃあ何?」


「あなたは、もっと周りを見る選手でしょ」


「見てたよ」


「得点の場面は、ほとんど一人で抜いた」


「最後はパスを出した」


「そうだけど」


「それで点が入った。勝った。それじゃ駄目なの?」


 沙月は何も答えない。


 私は自分でも、誰に怒っているのか分からなかった。


 沙月ではない。


 少年でもない。


 自分自身に腹を立てている。


「ごめん」


 先に沙月が言った。


「責めるつもりじゃなかった」


「私も、ごめん」


「県大会、一緒に頑張ろう」


「うん」


 沙月はそれ以上何も聞かず、みんなのところへ戻っていった。


 私はベンチへ座る。


 少年は少し離れた場所に立っていた。


 試合が終わってから、一度も話しかけてこない。


「蓮さん」


 呼ぶ。


 少年がこちらを見る。


「何だ」


「勝ちました」


「ああ」


「メンバーにも入れました」


「聞いてた」


「喜んでくれないんですか?」


「お前は喜んでるのか?」


 言葉に詰まる。


「喜んでます」


「嘘だ」


「どうして決めつけるんですか」


「顔を見れば分かる」


「みんな同じこと言いますね」


「みんなに分かるくらい、分かりやすいんだよ」


 少年が近づいてくる。


「今日の勝利を、自分のものだって言えるのか?」


 胸の奥を突かれた。


「チームの勝利です」


「そういう意味じゃない」


「私が頼んで、蓮さんが入った。最後にパスを出したのも、この身体です」


「身体はお前でも、あの場面で主導権を握ってたのは俺だ」


「私も中で見てました」


「でも、選んで動かしたのは俺だ」


「あなたが手伝うって言ったんでしょ」


 声が強くなる。


 周囲に聞かれないよう、小さく抑えた。


「最初から、私を助けるためにいるんじゃないんですか」


 少年の顔が固まる。


「俺は、お前の代わりになるためにいるんじゃない」


「代わりになんて」


「なっただろ」


「一回だけです」


「一回でも同じだ」


「勝つために必要だったんです」


「約束した」


「状況が変わったんです」


「何が変わった?」


「県大会で出るために、結果が必要だった」


「だから?」


「だから、仕方なかった!」


 少年の表情が険しくなる。


「仕方なかったって言えば、何でもいいのか?」


「何でもなんて言ってません」


「今日はメンバー入り。次は先発。その次は県大会で勝つためか?」


「必要なら」


 口にした瞬間、少年の目が揺れた。


「必要なら、また俺にやらせるのか」


「蓮さんだって勝ちたいでしょう」


「勝ちたい」


「だったら」


「でも、お前がいなくなる勝ち方は嫌だ」


 息が止まった。


「いなくなるって、どういう意味ですか」


「身体はそこにいても、お前の判断が消える」


「私もいました」


「見ていることしかできなかっただろ」


「違います」


「じゃあ、次も同じことができるのか?」


 答えられない。


 少年は一歩近づく。


「俺が入らなくても、六番をかわして、相手を引きつけて、最後のパスを出せるのか?」


「練習すれば」


「今日の話をしてる」


「今日はできなかったから頼んだんです」


「それを代わりって言うんだ」


「手伝うのと何が違うんですか」


 少年はしばらく黙っていた。


 それから、静かに言った。


「手伝うのと、お前の代わりになるのは違う」


 責めるような声ではなかった。


 だからこそ、胸に深く刺さった。


「お前が選んだことを、俺が少し支えるなら手伝える」


「同じでしょう」


「違う」


「何が違うんですか」


「今日、お前は選ぶことをやめた」


 何も言えなくなった。


「勝ちたいから、俺に全部渡した」


「全部じゃありません」


「だったら、何を自分で決めた?」


 聞かれても、答えが浮かばない。


 憑依を頼むと決めた。


 それだけだった。


 入ったあとの動きも、判断も、最後のパスも少年が選んだ。


「でも、勝ちました」


 絞り出した言葉は、それだった。


「ああ」


「メンバーに入れました」


「ああ」


「それなら、よかったじゃないですか」


「お前がそれでいいならな」


 少年は私から目を逸らした。


 これ以上、何を言っても届かないと思ったような顔だった。


 胸の奥に、怒りが湧く。


「蓮さんだって、私の身体でプレーするのを楽しんでたでしょう」


 少年が振り返る。


「最初に入ったときも、紅白戦のときも」


「それは」


「自分がサッカーできるから、うれしかったんじゃないですか」


「否定しない」


「だったら、私だけが悪いみたいに言わないでください」


「悪いなんて言ってない」


「言ってるのと同じです」


「俺も間違えた」


 少年がはっきり言った。


「最初は、お前の身体だってちゃんと分かってなかった。自分が動けることばかり考えてた」


 足首を痛めた日の言葉が戻ってくる。


 痛いのは私だけ。


 明日もこの身体でプレーするのは私。


「今日だって同じだ」


 少年は続ける。


「止めるべきだって分かってた。でも、俺もピッチを見て、勝負を諦めきれなかった」


 少年が自分の手を見る。


「あの六番をかわせると思った。前に空いた場所が見えた。まだサッカーができるって思った」


 その声には、苦い後悔が混じっていた。


「だから入った。お前に押し切られただけじゃない。俺も間違えた」


 少年が顔を上げる。


「だから、もう同じことをしたくない」


「私は頼みました」


「頼まれても、止めるべきだった」


「それなら最初から入らなければよかったじゃないですか」


「ああ」


 少年はうなずいた。


「そうすればよかった」


 予想していなかった返事だった。


「次からは、ああいう頼み方をされても入らない」


「勝てなくても?」


「勝てなくてもだ」


「県大会でも?」


「お前が自分から逃げるためなら、入らない」


 胸が熱くなる。


「勝手に決めないでください」


「身体はお前のものだ」


「だったら」


「でも、俺が入るかは俺が決める」


 何も言い返せなかった。


 少年には少年の意思がある。


 私が許可すれば、必ず従う存在ではない。


 分かっていたはずなのに、私は少年を力としてしか見ていなかった。


「もういいです」


 立ち上がる。


「美緒」


「帰ります」


「まだ話は」


「今は話したくありません」


 少年を置いて歩き出す。


 十メートルも離れないうちに、少年の姿が私のそばへ引き戻される。


 本人の意思に関係なく。


 それが今は、ひどく皮肉に思えた。


 離れたいのに離れられない。


 話したくないのに、隣にいる。


 少年は何も言わなかった。


 私も前だけを見て歩いた。


     ◇


 帰宅すると、お姉ちゃんはリビングにいなかった。


 部屋にいるのだろう。


 公園で話してから、まだ蓮さんとは連絡を取っていないらしい。


 私は自分の部屋へ入った。


 少年も続いて入ろうとする。


 私は棚の上にある古いスパイクへ手を伸ばした。


「戻って」


 少年が足を止める。


「美緒」


「一人にしてください」


「でも」


「戻ってください」


 古いスパイクが淡く光る。


 少年の輪郭が揺れる。


「俺は、お前を責めたいんじゃない」


「今は聞きたくありません」


「今日のプレーが悪かったとも思ってない」


「だったら、何なんですか」


「自分のプレーじゃないって分かってるのに、無理に自分のものにしようとしてるだろ」


 胸が痛む。


「戻って」


「美緒」


「お願いです」


 少年はしばらく私を見ていた。


 やがて、何かを諦めたように息を吐く。


「分かった」


 その身体が光へ変わる。


 古いスパイクの中へ吸い込まれていく。


 部屋が静かになった。


 ずっと隣にいた声が消える。


 私はスパイクから手を離した。


 机の上に置いたスマートフォンが震える。


 陽菜からのメッセージだった。


『メンバー入りおめでとう!』


 続けて、写真が送られてくる。


 試合後にみんなで撮った集合写真。


 中央で陽菜が笑っている。


 沙月も、少しだけ口元を緩めている。


 私はその隣にいた。


 笑っているように見えた。


 でも、自分の顔なのに、自分ではないように感じた。


『美緒の突破、動画でもう一回見たい!』


 返信画面を開く。


『ありがとう』


 そこまで打って、手が止まる。


 今日の突破を褒められても、何と返せばいいのか分からない。


 私がやった。


 私の身体で。


 私が頼んだ。


 だから、私のプレーだ。


 そう思おうとする。


 けれど、少年の言葉が離れなかった。


 ――今日、お前は選ぶことをやめた。


 倉橋監督は、得点場面を評価した。


 沙月は、私らしくなかったと言った。


 陽菜は、すごかったと喜んだ。


 誰も真実を知らない。


 私だけが知っている。


 あのプレーを選んだのは、私ではない。


 登録メンバーに入れた。


 ずっと欲しかった結果だった。


 なのに、その結果を自分のものだと言うたび、胸の奥が苦しくなる。


 私はスマートフォンを伏せた。


 部屋の隅にある古いスパイクを見る。


 少年は中にいる。


 呼べば、また出てくる。


 でも今は呼べなかった。


 謝りたくない。


 間違っていたと認めたくない。


 それでも、一人になった部屋はひどく静かだった。


 勝ったはずなのに。


 欲しかった場所へ近づいたはずなのに。


 私は、少しも前へ進めた気がしなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ