第13話 私が好きなのは
少年をスパイクから出したのは、次の日の朝だった。
それから三日間、私は毎朝少年を呼び出した。
けれど、私たちは必要なことしか話さなかった。
練習へ向かう時間。
食事の時間。
家で過ごす時間。
少年はいつも通り私のそばにいた。
それでも、以前のように一方的に話しかけてくることはなかった。
私も、こちらから話題を探さなかった。
話しかければ、あの試合のことを思い出す。
少年へ身体を預けたこと。
借り物のプレーで結果を出したこと。
その結果を、自分のものだと言い張ったこと。
そして、少年から言われた言葉。
――今日、お前は選ぶことをやめた。
正しいことを言われたから、余計に腹が立った。
少年だって憑依を受け入れた。
少年だって、私の身体でサッカーをしたかった。
私だけが悪いわけではない。
そう思うのに、少年へ向き直ることができなかった。
夏休みに入って、数日が過ぎていた。
その朝も、私は古いスパイクへ触れた。
「出てきてください」
少し間があって、スパイクが淡く光った。
光が部屋の中央へ集まり、少年の姿になる。
制服姿。
少し跳ねた黒髪。
明るい茶色の目。
少年は私を見た。
「おはよう」
「おはようございます」
それだけだった。
以前なら、寝癖がひどいとか、起きるのが遅いとか、何か余計なことを言ったはずだ。
今日は何も言わない。
「練習、九時からだろ」
「はい」
「もう七時過ぎてる」
「分かっています」
「飯は?」
「これからです」
「じゃあ、早くした方がいい」
「はい」
少年は窓の方へ顔を向けた。
私も着替えを取り出す。
気まずい。
口論したことなら何度もある。
私が怒って、少年が言い返して。
それでも翌日には、どちらかが何かを言って元に戻っていた。
今回は違う。
何を謝ればいいのか、まだ分からない。
「戻ってください」
着替えるために言う。
「ああ」
少年は素直にスパイクへ戻った。
光が消える。
私は一人で着替えた。
誰にも話しかけられない部屋は静かだった。
静かでいられるはずなのに、少しも落ち着かなかった。
◇
午前練習は、基礎のパス練習から始まった。
県大会まで、あと一か月以上ある。
登録メンバーが順次決まり始めたことで、部全体の空気も変わっている。
選ばれた選手は先発を争い、まだ決まっていない選手は最後の枠を狙う。
夏の日差しは、朝から強かった。
グラウンドの土が乾き、走るたびに細かな砂が舞う。
「二人一組。動きながら受けて」
倉橋監督の声が響く。
私は陽菜と組んだ。
五メートルほど離れ、短いパスを交換する。
「美緒、右」
陽菜が私の右側へ動く。
身体の向きを変え、足元へ出す。
「もう少し前」
「これくらい?」
「あと半歩」
次は少し前へ出す。
陽菜が走りながら受ける。
「そう、それ」
今度は私が動く。
陽菜からのパスを右足で止める。
タッチが少し大きくなった。
「ごめん」
「大丈夫」
少年は少し離れた場所に立っていた。
練習が始まってから、ほとんど話していない。
いつもなら、受ける前に見ろとか、もっと身体を開けとか、すぐに口を出す。
今日は何も言わない。
私のパスが少しずれても。
受ける位置が悪くても。
ただ見ている。
「今日も静かだね」
陽菜が言った。
「何が?」
「美緒」
「そう?」
「この前の試合から変」
「疲れてるだけ」
「またそれ?」
「本当に」
陽菜は疑うように私を見る。
「試合のこと?」
「違うよ」
「メンバーに入ったのに?」
「うん」
「じゃあ、お姉さん?」
「それも違う」
「恋?」
「違う!」
思わず大きな声が出た。
近くにいた部員がこちらを見る。
陽菜が目を丸くしたあと、笑い出した。
「何でそんなに慌てるの」
「慌ててない」
「声、大きかったよ」
「陽菜が変なこと言うからでしょう」
「別に普通じゃん。高校生なんだから」
「ないから」
「好きな人?」
「いない」
「本当に?」
「本当」
言い切った。
少年の方を見ないようにした。
なぜ見てはいけないと思ったのか、自分でも分からない。
陽菜はまだ何か言いたそうだったが、倉橋監督の笛が鳴った。
「次、四人組。中央に一人入れてパス回し」
話はそこで終わった。
四人組になり、相手を一人中央へ入れる。
狭い範囲でボールを回し、奪われた選手が守備へ入る。
私は外側に立った。
右からパスが来る。
受ける前に左を見る。
中央の選手がこちらへ寄っている。
ワンタッチで後ろへ落とす。
すぐに移動し、次の角度を作る。
またボールが来る。
今度は前を向ける。
陽菜が少し遠い場所で手を上げた。
出せる。
けれど、中央の選手の足が届くかもしれない。
一瞬迷う。
以前なら、少年が答えをくれたかもしれない。
今出せ。
まだ待て。
右を使え。
でも今日は何も言わない。
自分で決めなければならない。
私は陽菜ではなく、近い味方へ出した。
中央の選手がそちらへ動く。
その瞬間、陽菜へ向かう道が開いた。
返ってきたボールを、ワンタッチで陽菜へ通す。
「ナイス!」
陽菜が声を上げる。
中央の選手は届かなかった。
「今の、最初から狙ってた?」
「途中で見えた」
「いいじゃん」
胸の奥が少しだけ軽くなる。
少年を見る。
目が合った。
少年は何も言わなかった。
けれど、わずかに口元を緩めた。
それだけだった。
褒めてほしかったわけではない。
そう思うのに、その表情を見て安心した。
◇
練習の最後は、狭いコートでのミニゲームだった。
六人対六人。
ゴールは小さく、ゴールキーパーはいない。
ボールを持つ時間が短く、判断の速さが必要になる。
私は陽菜と同じチーム。
沙月は相手チームだった。
「藤崎、持ちすぎないで」
沙月が試合前に言う。
「分かってる」
「この前みたいに一人で抜こうとしないでね」
責める口調ではなかった。
それでも胸が痛む。
「しないよ」
「ならいい」
笛が鳴る。
相手ボールから始まった。
沙月が中央で受ける。
すぐに右へつなぎ、自分は前へ動く。
運動量が多い。
パスを出したあとも止まらない。
私は沙月の動きについていく。
相手がボールを戻す。
沙月が受けようとした瞬間、私は前へ出た。
パスカット。
ボールが足元へ転がる。
「美緒!」
陽菜が左へ走る。
右には別の味方。
中央には相手が一人。
陽菜へ直接出せば、相手に読まれるかもしれない。
右の味方を使えば、安全につなげられる。
私は一瞬、右を見た。
相手の身体がそちらへ傾く。
その瞬間、左足で陽菜へ縦パスを通した。
「来た!」
陽菜が受ける。
そのまま一歩運び、小さなゴールへ流し込んだ。
「一点!」
味方の声が上がる。
陽菜がこちらへ走ってくる。
「今の、よかった!」
「うん」
「右見るふりした?」
「見たら相手が動いたから」
「美緒っぽい」
その言葉に、胸が止まったような気がした。
「私っぽい?」
「うん」
「どういう意味?」
「自分で抜くより、相手を動かして誰かを使う感じ」
陽菜は何でもないことのように答えた。
「前からそうじゃん」
前から。
少年に憑依される前から。
私は、そういう選手だったのだろうか。
自分では、失敗を怖がって横へ逃げているだけだと思っていた。
でも陽菜には、別のものが見えていた。
「次、来るよ」
「うん」
試合が再開する。
今度は沙月が私へ寄せてくる。
足を出すタイミングが速い。
私は身体を入れて守ろうとする。
奪われる。
「切り替え!」
真帆先輩の声。
すぐに追いかける。
沙月は前へ運ぶ。
陽菜が戻ってコースを消す。
私は反対側から挟む。
ボールに触れた。
こぼれ球を味方が拾う。
また攻撃へ変わる。
完璧ではない。
失敗もする。
奪われる。
判断が遅れる。
それでも、自分の身体で、自分の考えで動いている。
少年は何も言わない。
けれど、見ている。
私が右を選ぶか。
左を選ぶか。
失敗したあと、どうするか。
答えを教えず、ただ見ている。
それが少し怖くて。
同時に、うれしかった。
ミニゲームは二対一で終わった。
私たちの勝ちだった。
私は二得点とも、その前のパスに関わった。
派手な突破はない。
相手を何人もかわしていない。
でも、この前の勝利よりも、自分の中に残るものがあった。
「集合」
倉橋監督が全員を集める。
「今日のミニゲーム、攻守の切り替えはよくなっていた」
選手たちが息を整えながら聞く。
「ただし、暑さで判断が遅くなっている。水分を取ること。県大会では、疲れた時間に何を選べるかが重要になる」
「はい」
倉橋監督の視線が私へ向いた。
「藤崎」
「はい」
「今日の二本目のパス、よかった」
「ありがとうございます」
「最初から陽菜へ出そうとしたのか?」
「最初は右も見ました」
「それで相手が動いた?」
「はい」
「なら、今のは再現できる判断だ」
再現できる。
その言葉が胸に残る。
この前の突破は、毎回できるとは限らない。
少年の感覚と技術がなければ、私はできない。
でも、今日のパスは違う。
相手を見る。
味方を見る。
空いた場所を選ぶ。
私が考えて、私が出した。
「続けろ」
「はい」
倉橋監督はそれ以上褒めなかった。
でも、それで十分だった。
◇
練習後、陽菜たちは先に帰った。
私は一人でグラウンドに残り、ボールを片づけていた。
少年はゴールの近くに立っている。
ここ数日、必要なこと以外はほとんど話していない。
最後のボールをネットへ入れ、倉庫の扉を閉める。
「帰りますか」
「ああ」
二人で校門へ向かう。
会話はない。
夏の空は高く、雲がゆっくり流れていた。
蝉の声がうるさい。
校門を出たところで、私は少年へ尋ねた。
「今日、どうして何も言わなかったんですか?」
少年がこちらを見る。
「何も?」
「練習中です。いつもなら、もっと見ろとか、そこへ出せとか言うでしょう」
「ああ」
「まだ怒っているんですか?」
「怒ってない」
「では、どうしてですか」
少年は少し考えてから答えた。
「俺が先に答えを言ったら、またお前が選べなくなると思った」
足が止まる。
「でも、間違っていたらどうするんですか?」
「間違えたあとに考えればいいだろ」
「簡単に言いますね」
「でも今日、自分で選べただろ」
「少しだけです」
「少しでもだ」
少年は前を向く。
「見えてないものなら教える。でも、どれを選ぶかまで俺が決めたら、また同じだろ」
「それで失点したら?」
「そのときは、そのあと考えろ」
「無責任ですね」
「でも、俺が全部決めるよりましだろ」
言い返そうとして、やめた。
少年なりに考えたのだ。
この前のことを。
自分が私の代わりになったことを。
同じことを繰り返さないために。
「今日のパス、よかった」
少年が言った。
「監督にも言われました」
「俺が言ったら駄目なのか?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、ありがとうって言えよ」
「ありがとうございます」
「素直じゃないな」
「蓮さんに言われたくありません」
「俺は素直だろ」
「どこがですか」
久しぶりに、いつもの言い合いになった。
少年が少し笑う。
私も、ほんの少しだけ笑った。
それだけで、ここ数日胸に詰まっていたものが軽くなる。
「河川敷、行くか?」
少年が聞いた。
「今からですか?」
「まだ昼だろ」
「暑いですよ」
「夕方まで休んでからでもいい」
「家に帰るんですか?」
「嫌なら、どこかで時間つぶしてもいい」
少年は少しだけ言いにくそうに続けた。
「この前のこと、ちゃんと話したい」
私は足を止める。
少年も止まった。
「私もです」
「じゃあ、夕方」
「はい」
◇
午後五時を過ぎてから、河川敷へ向かった。
昼間の暑さは少し和らいでいた。
それでも、歩くだけで額に汗が浮かぶ。
少年はいつもの制服姿だった。
暑さを感じないはずなのに、袖をまくった腕が夏の空気によく似合っている。
河川敷の公園には、何人かの子どもがいた。
古びたフェンス。
小さなゴール。
幼い頃、蓮さんと何度もボールを蹴った場所。
私はボールを地面へ置く。
「何から話しますか?」
「この前のこと」
「はい」
「俺も悪かった」
少年が先に言った。
「入らないって言ったのに、結局入った」
「私が頼んだからです」
「それだけじゃない」
「前にも言っていましたね」
「ああ」
少年はボールを見る。
「俺もサッカーしたかった」
静かな声だった。
「お前の身体だって分かってた。でも、相手の重心も、空いてる場所も見えた。俺なら行けるって思った」
「はい」
「だから入った」
「私も、結果が欲しかったです」
「分かってる」
「県大会で出たかった」
「ああ」
「沙月に負けたくなかった」
「ああ」
「自分で何もできないまま終わるのが怖かった」
口にすると、あの日の苦しさが戻ってきた。
「だから、蓮さんなら何とかしてくれると思いました」
「それが嫌だった」
「分かっています」
「俺が嫌だったのは、お前が頼ったことじゃない」
少年が私を見る。
「俺なら何とかできるって、お前が自分を諦めたことだ」
胸が痛む。
「諦めたつもりはありません」
「でも、あの瞬間は諦めただろ」
「……はい」
「俺も、お前ならできるって言いながら、結局自分がやった」
少年は自嘲するように笑う。
「それじゃ、言ってることと違うよな」
「そうですね」
「否定しろよ」
「できません」
「少しくらい気を使え」
「蓮さんが正直に話しているので、私も正直に答えました」
「本当に素直じゃない」
「お互いさまです」
少年が笑う。
私も笑った。
この前の口論とは違う。
どちらが正しいかを決めるためではなく、同じことを繰り返さないために話している。
「次からは」
私が言う。
「憑依に頼って、自分で選ぶことをやめません」
「分かった」
「蓮さんも、入りたいから入るのはやめてください」
「ああ」
「私が焦っていたら、止めてください」
「止めても聞かなかっただろ」
「次は聞きます」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは言い切れよ」
「そのときの状況によります」
「反省してるのか?」
「しています」
また二人で笑った。
風が吹く。
私の髪が頬にかかる。
草が同じ方向へ揺れる。
けれど、少年の髪も、制服の裾もほとんど揺れない。
その姿を見ていると、なぜか胸の奥が冷えた。
「美緒」
「何ですか?」
「蹴ろうぜ」
少年がボールを指す。
「でも、蓮さんは触れられませんよ」
「お前が触ってれば、少し分かる」
「少しだけでしょう」
「それでもいい」
少年は笑った。
「今日は、お前の練習じゃなくていい」
「どういう意味ですか?」
「ただ蹴りたい」
その表情は、試合のときとは違っていた。
勝つためでも。
評価されるためでも。
プロになるためでもない。
ただ、ボールを蹴りたい。
それだけだった。
「分かりました」
私はボールへ足を置く。
少年が隣に立つ。
「最初、右」
「はい」
「軽く触れ」
「これくらい?」
「もう少し外側」
「分かりません」
「感覚で」
「一番困る説明です」
「じゃあ、俺がやる」
「憑依はしませんよ」
「違う。お前が触った瞬間に、俺も合わせる」
私は右足の外側でボールへ触れた。
その瞬間、少年の足も同じ場所へ重なる。
少しだけ、ボールが少年の足を通ったように見えた。
少年の表情が明るくなる。
「今、分かった」
「本当ですか?」
「ああ。もう一回」
もう一度触れる。
少年も足を重ねる。
「少し強い」
「蓮さんが言った通りにしたんですけど」
「お前の足だからな」
「またそれですか」
「事実だろ」
「もう一回やります」
何度も繰り返す。
私はボールへ触れる。
少年も重ねる。
触れられるのは一瞬だけ。
それでも少年は楽しそうだった。
成功しても。
少しずれても。
ボールが思った方向へ転がらなくても。
少年は笑う。
「次、左」
「苦手です」
「だからやるんだよ」
「今日は練習じゃないと言ったでしょう」
「遊びでも左足は使う」
「結局、練習になってるじゃないですか」
「うまくなった方が楽しいだろ」
「厳しいですね」
「ほら」
左足で触れる。
うまくいかず、ボールが横へ転がる。
少年が笑う。
「下手だな」
「蓮さんが触ったからでしょう」
「俺は感触をもらってるだけだ」
「じゃあ、黙ってください」
「もう一回」
夕暮れの河川敷。
二人でボールを蹴る。
誰にも少年は見えない。
周囲から見れば、私が一人でボールを触っているだけだ。
それでも私には、隣に少年がいる。
一緒に笑っている。
失敗すればからかわれて。
言い返せば、また笑われて。
何でもない時間だった。
試合でもない。
練習でもない。
勝ち負けもない。
ただ二人でボールを蹴っている。
幼い頃にも似た時間があった。
蓮さんが高校生で、私がまだ小さかった頃。
でも、同じではない。
あの頃の私は、蓮さんの後ろを追いかけていただけだった。
けれど今は違う。
間違えて、言い合って、それでも隣に並んでいる。
「美緒」
「何ですか?」
「次、あそこを狙え」
少年がフェンスの近くを指す。
「遠いです」
「届く」
「無理です」
「いいから」
「外しても笑わないでください」
「笑う」
「やりません」
「冗談だよ」
「絶対笑いますよね」
「早く蹴れ」
私は少し助走を取る。
右足を振る。
ボールは狙った場所より少し左へ飛んだ。
フェンスに当たり、鈍い音が響く。
「惜しい」
「届きました」
「だから言っただろ」
少年がうれしそうに笑う。
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥が、強く動いた。
息が止まる。
今までにも、少年の笑顔を何度も見ている。
サッカーの映像を見ているとき。
私のプレーがうまくいったとき。
お姉ちゃんのことを話すとき。
でも今は、そのどれとも違って見えた。
夕日の中で笑っている少年。
私とボールを蹴ることを、心から楽しんでいる少年。
この人が隣にいることが、うれしい。
この人が笑っていると、私もうれしい。
この人と話せない時間が、寂しかった。
この人に認められると安心する。
この人がお姉ちゃんを好きだと言ったとき、胸が痛かった。
ずっと分からないふりをしていた。
考えれば、認めてしまう気がした。
だから考えなかった。
でも、もう分かってしまった。
私が好きなのは、現在の蓮さんではない。
変わってしまう前の、理想の蓮さんでもない。
高校時代の姿をしているからではない。
私が好きなのは。
今、ここにいる少年だ。
「美緒?」
少年が顔をのぞき込む。
私は慌てて視線を逸らした。
「何ですか?」
「それはこっちの台詞だ。急に黙って」
「疲れただけです」
「またそれか?」
「今日は練習もありましたから」
「顔、赤いぞ」
「暑いからです」
「もう夕方だぞ」
「夏ですから」
少年は不思議そうに私を見る。
これ以上見られたら、何かに気づかれそうだった。
私は転がっているボールを拾いに行く。
「帰ります」
「もう?」
「暗くなります」
「まだ蹴れるだろ」
「明日も練習があります」
「じゃあ、最後に一本」
「さっきも最後と言いました」
「本当に最後」
「信用できません」
いつものように言い返す。
けれど、胸の中はいつもと違っていた。
気づいてしまえば、もう以前と同じようには見られなかった。
声を聞くだけで。
名前を呼ばれるだけで。
胸の奥が落ち着かなくなる。
そして同時に、少年が遠く感じられた。
少年が好きなのは、お姉ちゃんだ。
最初から変わっていない。
少年は迷わず言った。
当たり前だろ。
俺は千春が好きだ。
その気持ちは、今も変わっていない。
私の恋が叶うことはない。
お姉ちゃんから奪いたいとも思わない。
現在の蓮さんには、お姉ちゃんのもとへ戻ってほしい。
少年にも、いつか現在の蓮さんと向き合ってほしい。
そうなれば、少年はどうなるのだろう。
考えたくなかった。
「美緒」
「何ですか?」
「本当に大丈夫か?」
少年の声が少し真剣になる。
「さっきから変だぞ」
「大丈夫です」
「この前のこと、まだ気にしてるのか?」
「違います」
「じゃあ、何だよ」
答えられない。
好きだと気づいたから。
あなたが好きだから。
言えるわけがない。
言えば、何かが変わってしまう。
少年は困る。
私を妹のように見ている。
お姉ちゃんを好きな少年に、答えを求めることはできない。
「何でもありません」
「何でもない顔じゃない」
私は笑う。
「本当に大丈夫です」
「でも」
「帰りましょう」
ボールを抱える。
少年はまだ私を見ていた。
いつものようにからかうのではなく、何かを確かめようとするような目だった。
少年は何か言いかけた。
けれど、結局その言葉を飲み込み、何も聞かずに私の隣へ並んだ。
◇
二人で河川敷を離れる。
夕日が背中側に沈んでいく。
地面には私の影が伸びている。
少年の影は薄い。
私の隣にいるのに、同じようには残らない。
それを見て、胸が痛んだ。
「美緒」
「何ですか?」
「明日も、ここ来るか?」
少年が前を向いたまま聞く。
「練習のあとですか?」
「ああ」
「暑いですよ」
「夕方ならいいだろ」
「疲れているかもしれません」
「来たくないならいいけど」
少し拗ねたような言い方だった。
私は笑いそうになる。
「来ます」
「本当か?」
「はい」
「じゃあ、今度は左足な」
「それなら行くのをやめます」
「何でだよ」
「遊びなのに厳しいからです」
「うまくなりたいんだろ」
「今日はただ蹴りたいと言っていました」
「蹴ってたら、うまくなった方がいい」
「勝手ですね」
「お前もだろ」
また言い合いながら歩く。
この時間が、ずっと続けばいいと思った。
その願いが叶わないことも、どこかで分かっていた。
だから私は、この気持ちを言わないと決めた。
少年が好きなのは、お姉ちゃん。
私はお姉ちゃんが大切。
現在の蓮さんにも、お姉ちゃんのもとへ戻ってほしい。
少年を困らせたくない。
今の関係を壊したくない。
だったら、隠せばいい。
好きだと気づいても、何も変えなければいい。
いつも通り話して。
いつも通り口論して。
一緒にサッカーをして。
少年が隣にいる時間を、大切にすればいい。
「美緒」
「何ですか?」
「また考え事してるだろ」
「してません」
「嘘つけ」
「していたとしても、蓮さんには関係ありません」
「何だよ、それ」
「何でもありません」
「さっきからそればっかりだな」
「そうですか?」
「絶対何かある」
少年が私の顔をのぞき込もうとする。
私はボールを抱えたまま、少し早足になる。
「帰りますよ」
「待てって」
少年が隣へ並ぶ。
十メートル以上離れられないのだから、置いていけるはずがない。
それでも少年は、自分から私の隣へ戻ってきた。
そのことが、うれしかった。
名前をつけられなかった胸の痛みは、もう痛みだけではない。
叶わないと分かっていても。
お姉ちゃんを好きな人だと知っていても。
私は、今ここにいる少年が好きだった。




