第23話 君が夢を忘れても
代表決定戦の翌日。
目を覚ましたとき、身体のあちこちが痛かった。
太もも。
ふくらはぎ。
背中。
肩。
右足首にも、わずかな張りが残っている。
それでも、不快な痛みではなかった。
昨日、自分の身体で最後まで走った証拠だった。
枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
画面には、部員たちからのメッセージが大量に届いていた。
『本当に全国行くんだよね?』
『朝起きても信じられない』
『美緒のゴール、何回見てもすごい!』
『陽菜の決勝点も!』
『集合写真送ります』
添付された写真を開く。
真帆先輩を中心に、部員全員が笑っている。
陽菜は両手を上げている。
沙月は大きく笑ってはいないけれど、いつもより表情が柔らかい。
倉橋先生は、泣いたあとのような目をしていた。
そして私は、十八番の胸元を握っている。
写真の端へ目を向ける。
そこには誰もいない。
当然だった。
蓮くんは写真には映らない。
それでも昨日、確かにその場所に立っていた。
「朝から写真を見てるのか?」
声がして、顔を上げる。
蓮くんは窓のそばに立っていた。
「思い出していたんです」
「昨日の試合を?」
「はい」
「自分のゴール?」
「違います」
「じゃあ、陽菜へのパス?」
「それもあります」
「結局、全部じゃないか」
蓮くんが笑う。
けれど、その姿は昨日よりさらに薄くなっていた。
制服の向こうに、カーテンの模様が見える。
顔や髪はまだはっきりしている。
声も聞こえる。
それでも。
残された時間が少ないことは、もう隠せなかった。
「蓮くん」
「何だ?」
「昨日の集合写真、見ますか?」
「見せてくれ」
私はスマートフォンを持ち上げる。
蓮くんがベッドの横へ来た。
私が触れているスマートフォンなら、蓮くんも画面へ触れられる。
指先を伸ばす。
けれど、今朝は画面が反応しなかった。
蓮くんがもう一度触れる。
何も起こらない。
「反応しないな」
「前は動かせたのに」
「薄くなってるからかもな」
蓮くんは、自分の手を見る。
指の輪郭がわずかに透けていた。
「怖くないんですか」
「何度も聞くな」
「答えてください」
蓮くんは少し考える。
「消えること自体は、やっぱり怖くない」
「本当に?」
「ああ」
「私は怖いです」
「知ってる」
簡単に答えられた。
「いつから知っていたんですか」
「ずっと前から」
「ずっと前?」
「お前、隠すの下手だから」
「そんなことありません」
「ある」
「ありません」
「俺の輪郭が揺れるたび、同じ顔をしてた」
「どんな顔ですか」
「今にも泣きそうな顔」
私はスマートフォンへ目を落とした。
画面の中では、昨日の私が笑っている。
「今日は泣きません」
「別に、泣いてもいいだろ」
「泣きません」
「頑固だな」
「蓮くんに言われたくありません」
言い返したあと、部屋が静かになる。
昨日までなら、この沈黙を埋めるようにサッカーの話を始めていた。
決勝点の場面。
相手の守備。
私のシュート。
陽菜の動き。
話したいことは、いくらでもある。
けれど、何を話しても最後の会話へ近づいてしまう気がした。
スマートフォンが震えた。
現在の蓮さんから、メッセージが届いている。
『昨日はおめでとう』
短い文章。
その下に、もう一つ。
『少し話したい。河川敷にいる』
河川敷。
幼い頃、私と蓮さんがよくボールを蹴った場所。
古いスパイクを譲ってもらった場所でもある。
「蓮さんからです」
「何だって?」
「河川敷にいるそうです」
「行くのか?」
胸が大きく鳴った。
「行きます」
「そうか」
蓮くんは窓の外を見る。
「たぶん、今日だな」
「何がですか」
「俺が戻る日」
「まだ決まっていません」
「あいつが何を言うかは分からない」
「だったら」
「でも、何かを選ぼうとしてる」
昨日の現在の蓮さん。
観客席で立ち上がり、試合から目を離さなかった。
あの姿を思い出す。
「着替えてきます」
「ああ」
私は棚の上へ手を伸ばした。
古いスパイクに触れる。
「戻って」
蓮くんの姿が、淡い光になってスパイクへ吸い込まれる。
最後になるかもしれない。
そう思った瞬間、手が震えた。
それでも、いつものように部屋を出た。
◇
河川敷へ着くと、秋の風が草を揺らしていた。
空は高く、雲は少ない。
小さなゴール。
古びたフェンス。
何度も見た場所だった。
幼い私が、ボールをうまく蹴れずに転んだ場所。
高校生だった蓮さんが、何度でも立ち上がらせてくれた場所。
そして。
蓮くんと、放課後に何度もボールを蹴った場所。
少し離れたところに、現在の蓮さんがいた。
黒いジャージ。
運動靴。
足元には、古いサッカーボール。
右足で軽く蹴る。
ボールが数メートル先へ転がる。
追いかける。
止める。
もう一度蹴る。
速くはない。
力強くもない。
昔のような鋭い動きではなかった。
それでも、何度もボールを追っている。
「蓮さん」
声をかける。
現在の蓮さんが振り返った。
「来たか」
「はい」
「足、大丈夫なのか」
「軽い張りだけです。先生にも無理をしないよう言われています」
「ならいい」
私は古いスパイクへ触れる。
「出てきて」
淡い光が広がる。
蓮くんが私の隣に現れた。
現在の蓮さんには見えない。
けれど、蓮くんはまっすぐ現在の自分を見ていた。
「本当にボールを蹴ってるな」
小さく呟く。
「昨日の試合、見ていたんですね」
私が尋ねると、現在の蓮さんはボールへ視線を落とした。
「ああ」
「途中で帰るかと思いました」
「俺も思った」
「どうして帰らなかったんですか」
「分からない」
蓮さんはボールを足の裏で止める。
「最初は、見るだけのつもりだった」
「はい」
「お前が何を言いたいのか、確かめてやろうと思った」
「ずいぶん偉そうですね」
「悪かったな」
わずかに口元が緩む。
以前なら、それだけでも安心していた。
昔の蓮さんに戻ったと思ったかもしれない。
けれど、今は違う。
目の前にいるのは、挫折した現在の蓮さんだ。
昔のように笑えなくても。
自信に満ちていなくても。
蓮さんは蓮さんだった。
「試合を見て、どう思いましたか」
「強い相手だった」
「それだけ?」
「公立のチームが勝つには、かなり厳しいと思った」
「それだけですか?」
「しつこいな」
「話したいと言ったのは蓮さんです」
蓮さんは少し困った顔をした。
「前半、お前はベンチだった」
「はい」
「ずっと試合を見てた」
「出ていないから当然です」
「そうじゃない」
蓮さんは首を振る。
「自分が出られないことを悔しがりながら、それでもピッチを見てた」
私は黙って続きを待つ。
「橘が何をしてるか、相手がどう守ってるか、ずっと考えてた」
「監督に言われたからです」
「言われただけで、あそこまで見られない」
蓮くんが隣で、少しだけ笑った。
「ちゃんと見てたんだな、あいつ」
「途中から出て」
現在の蓮さんが続ける。
「最初は安全なパスを出した」
「はい」
「でも、逃げてなかった」
「分かったんですか」
「分かる」
蓮さんは、少し悔しそうに答えた。
「サッカーを忘れたわけじゃない」
蓮くんの表情が変わる。
現在の蓮さんには聞こえない。
それでも、その言葉は蓮くんへ届いているように見えた。
「同点のシュートも見ましたか」
「ああ」
「私が決めました」
「見れば分かる」
「褒めてくれてもいいでしょう」
「いいシュートだった」
「素直ですね」
「今日は話をしに来たからな」
蓮さんは一度息を吐く。
「でも、一番覚えてるのは最後のパスだ」
胸が熱くなる。
「俺なら打ってた」
「蓮くんも同じことを言っていました」
「蓮くん?」
しまったと思った。
「……昔の蓮さんなら、という意味です」
「またそいつか」
現在の蓮さんは怪訝そうな顔をした。
「お前が言ってた、昔の俺みたいなやつ」
「はい」
「まだいるのか」
私はすぐには答えられなかった。
「います」
「ここに?」
「はい」
「見えないけどな」
「知っています」
蓮くんは、現在の自分の正面に立っている。
「お前の作り話だと思ってた」
「今もそう思っていますか」
「分からない」
蓮さんは正直に答えた。
「信じるには、変なことが多すぎる」
「そうですね」
「でも、お前が俺しか知らないことを言ったのも事実だ」
「はい」
「昔の俺に責められてるみたいな気分になったのも」
蓮さんは自分の胸元へ触れる。
「昨日、お前のプレーを見て、懐かしいと思ったのも」
「懐かしい?」
「お前なのに、知らないはずのものを知ってる気がした」
蓮くんが私を見る。
現在の蓮さんには、蓮くんとの具体的な記憶はない。
まだ戻ってもいない。
それでも、蓮くんから私が受け取ったものが、プレーの中に残っている。
「だから、ここに来たんですか」
「それだけじゃない」
蓮さんはボールを少し前へ転がした。
右足で止める。
「昨日の試合を見てたら、考えてしまった」
「何を?」
「何で俺は、サッカーをやってたのか」
蓮くんが息を止める。
「プロになるためじゃないんですか」
「ずっと、そうだと思ってた」
「違ったんですか」
「最初は違った」
蓮さんがボールを蹴る。
ゆっくりと、小さなゴールへ向かう。
ボールは枠の外へ転がった。
蓮さんは苦笑する。
「下手になったな」
「しばらく蹴っていなかったんだから、当然です」
「昔なら、こんなの外さなかった」
「昔と比べないでください」
私が言うと、蓮さんは少し驚いた顔をした。
「お前がそれを言うのか」
「私が言うから意味があるんです」
「最初は、昔の俺に戻れって言ってたのにな」
「間違っていました」
はっきり認める。
「昔の蓮さんに戻る必要はありません」
「でも、昔の俺に憧れてサッカーを始めたんだろ」
「はい」
「昨日は、昔の俺みたいなプレーをしてなかった」
「蓮さんにできなかったことをしました」
「言うようになったな」
「事実です」
現在の蓮さんが、小さく笑う。
蓮くんも隣で笑った。
同じような表情。
けれど、違う笑い方。
「蓮さん」
「何だ」
「プロになってなんて言いません」
蓮さんの笑みが消える。
「もう一度、昔のようになってとも言いません」
「美緒」
「レギュラーに戻ってとも、結果を出してとも言いません」
「じゃあ、何を言いに来たんだ」
私は蓮さんを見る。
今までずっと、私は蓮さんへ自分の理想を押しつけていた。
夢を諦めない人でいてほしい。
私が憧れたままの人でいてほしい。
お姉ちゃんを泣かせない人でいてほしい。
けれど。
蓮さんの人生は、私の憧れを守るためにあるわけではない。
「本当はまだ好きなら」
言葉を選ぶ。
「嫌いなふりをしないでください」
秋の風が吹く。
河川敷の草が揺れる。
蓮くんの髪と制服は、ほとんど動かなかった。
「好きじゃない」
現在の蓮さんが答える。
反射的な言葉だった。
「サッカーなんて、もう」
「だったら、どうしてボールを持ってきたんですか」
「それは」
「どうして昨日、最後まで試合を見ていたんですか」
「お前に呼ばれたからだ」
「どうして、私のプレーを覚えているんですか」
「サッカーをやってた人間なら」
「どうして、今もボールを蹴っているんですか」
蓮さんは答えられない。
「嫌いになったなら、辞めてもいいです」
私は続ける。
「サッカーを続けることだけが正しいとは思いません」
「なら」
「でも、好きなのに、できなくなった自分が怖いから嫌いなふりをするのは違います」
「簡単に言うな」
蓮さんの声が低くなる。
「簡単だと思っていません」
「お前は勝ったから言えるんだ」
「昨日、勝ったからではありません」
「全国に行ける。自分で点も取った。最後はアシストもした」
「それでも、次の試合で失敗するかもしれません」
「今のお前なら、またやれる」
「分かりません」
「分からないのか」
「分かりません」
私は迷わず答える。
「全国大会で何もできないかもしれません。先発にもなれないかもしれません。また怖くなって、安全なパスへ逃げるかもしれません」
「なら、どうして続ける」
「好きだからです」
自分でも驚くほど、自然に言えた。
「失敗しても」
一歩、蓮さんへ近づく。
「うまくできなくても」
蓮くんも、私の隣に立つ。
「誰かみたいになれなくても」
古いスパイクを抱える。
「私は、サッカーが好きです」
現在の蓮さんが目を伏せる。
「蓮さんは?」
すぐには答えない。
遠くで、子どもたちがボールを蹴っている。
楽しそうな声。
ボールが地面を跳ねる音。
蓮さんは、その音へ顔を向けた。
「怖いんだ」
小さな声だった。
「はい」
「もう一度戻っても、何もできないかもしれない」
「はい」
「佐伯には勝てないかもしれない」
「はい」
「控えのまま終わるかもしれない」
「はい」
「プロには、たぶんなれない」
「はい」
「全部、昔の俺が許さなかったことだ」
蓮くんが、現在の自分を見つめている。
以前なら、プロを諦めるなと叫んでいた。
頑張ればできると言っていた。
けれど今は、何も言わない。
「プロになれなくても」
現在の蓮さんが続ける。
「試合に出られなくても」
足元のボールを見つめる。
「俺は、サッカーをやっていいのか」
「私に許可を求めないでください」
「美緒」
「蓮さんが決めてください」
今まで、何度も同じことを伝えてきた。
お姉ちゃんも、きっと同じことを言った。
現在の蓮さんは、長い間黙っていた。
やがて、ゆっくりとボールへ足を乗せる。
「プロになれるかは分からない」
声が震えている。
「はい」
「レギュラーに戻れるかも分からない」
「はい」
「また逃げたくなるかもしれない」
「それでも、戻ればいいです」
「簡単に言うなよ」
「簡単ではありません」
「だったら」
「一人で戻らなくてもいいでしょう」
蓮さんが顔を上げる。
「チームメイトがいます」
「今さら、どんな顔をして戻ればいい」
「辞めようとしましたって顔で戻ればいいです」
「何だ、それ」
「本当のことでしょう」
「もっと言い方があるだろ」
「後輩にも謝ってください」
「佐伯に?」
「はい」
「何を謝るんだ」
「私には分かりません。本人に聞いてください」
現在の蓮さんが呆れたように息を吐く。
けれど、その顔は少しだけ軽くなっていた。
「俺は」
蓮さんがもう一度ボールを見る。
「まだ、サッカーが好きだ」
その瞬間。
隣にいた蓮くんの輪郭が、大きく揺れた。
「蓮くん」
私は振り向く。
身体の向こうに、河川敷の景色がはっきり見える。
足元から、淡い光がこぼれ始めていた。
「美緒?」
現在の蓮さんが私を見る。
私は答えられない。
蓮くんから目を離せなかった。
「まだ終わってない」
蓮くんが言う。
「何がですか」
「あいつの話」
私は現在の蓮さんへ顔を戻す。
「もう一度、やりたい」
現在の蓮さんが口にした。
「怖いけど」
ボールを右足で転がす。
「プロになるためじゃなくても」
もう一度、止める。
「俺は、まだサッカーをやりたい」
蓮くんの身体から、さらに強い光があふれた。
「待ってください」
私は蓮くんへ手を伸ばす。
触れられない。
いつもなら、私が触れているものを通して、少しだけ触れ合えた。
今は指先が、蓮くんの腕を通り抜ける。
「まだです」
声が震える。
「まだ、言っていません」
蓮くんは静かに笑った。
「分かってる」
「何も分かっていません」
「分かってるよ」
現在の蓮さんには、私が何を見ているのか分からない。
「美緒、どうした?」
「少しだけ」
私は現在の蓮さんへ言う。
「少しだけ、待ってください」
そのとき、蓮さんのスマートフォンが鳴った。
画面を確認した蓮さんが、小さく息を吐く。
「千春からだ。今日のことが決まったら連絡するって、昨日約束してた」
「出てください」
「でも」
「お願いします」
現在の蓮さんは、少し迷ったあと通話へ出た。
「もしもし」
お姉ちゃんの声は、ここからでは聞こえない。
「今、河川敷にいる」
蓮さんが少し離れる。
「美緒もいる。いや、呼んだのは俺だ」
声を聞きながら、ゆっくり歩いていく。
美緒から十メートル以上離れられない蓮くんは、その場に残った。
現在の蓮さんとの距離が開く。
けれど、蓮くんの身体は引っ張られない。
蓮くんは、現在の自分ではなく、今も私と結びついている。
「時間がないな」
蓮くんが言った。
「言わないでください」
「美緒」
「言わないで」
「今しかない」
私は唇をかむ。
ずっと隠してきた。
言っても、何も変わらない。
叶わないことは分かっている。
蓮くんが好きなのは、お姉ちゃんだ。
最初から。
最後まで。
それでも。
言わなければ、私はきっと後悔する。
お姉ちゃんに言われた。
言えなくても、好きだったことまでなくなるわけではない。
でも、美緒は言わなかったことをずっと考えるから。
「蓮くん」
「ああ」
「私」
喉が詰まる。
声が出ない。
「急がなくていい」
「時間がないって言ったでしょう」
「それでも、急がなくていい」
蓮くんは、私を待っている。
サッカーのときとは違う。
答えを急かさない。
代わりに言おうともしない。
私が自分で決めるのを待っている。
「私、あなたが好き」
口にした瞬間、涙があふれた。
「昔の蓮さんだからじゃない」
声が震える。
「サッカーが上手だったからでもない」
蓮くんは何も言わずに聞いている。
「私だけに見えるからでもない」
一歩、近づく。
触れられなくても。
もう抱きしめられなくても。
「ここにいる、蓮くんが好き」
言えた。
ずっと隠していた気持ち。
叶わないと分かっていた言葉。
それでも、私自身が選んで伝えた。
蓮くんはすぐには答えなかった。
目を逸らさず、私を見ている。
「気づいていたんですか」
「少し前から」
「いつから?」
「お前が俺を蓮くんって呼んだ頃」
「そんな前から?」
「確信したのは、もっとあとだ」
「だったら、言ってください」
「何を?」
「気づいているって」
「言えるわけないだろ」
「どうして」
「俺が先に言ったら、お前に答えを出させることになる」
蓮くんらしくないほど、静かな声だった。
「俺は千春が好きだ」
「知っています」
「今も変わらない」
「知っています」
「お前に、期待させる答えは言えない」
「知っています」
「それでも言ったのか」
「はい」
涙を拭う。
次々にあふれ、拭っても意味がない。
「言っておきたかったんです」
「どうして?」
「蓮くんがいなくなったあとで、言えばよかったと思いたくないから」
「そうか」
「断ってください」
「それを頼むのか?」
「曖昧にしないでください」
蓮くんは困ったように笑った。
「強くなったな」
「蓮くんに鍛えられました」
「サッカー以外まで鍛えた覚えはない」
「責任を持てと言ったでしょう」
「言ったな」
蓮くんは一度目を閉じる。
そして、まっすぐ私を見る。
「君と過ごした時間は、今ここにいる俺だけの記憶だ」
胸が締めつけられる。
「あいつが忘れても」
現在の蓮さんを見る。
少し離れた場所で、お姉ちゃんと電話をしている。
「今ここにいる俺にとって、全部本物だ」
「でも、戻ったら忘れるんですよね」
「ああ」
「口論したことも、一緒に試合を見たことも」
「ああ」
「私が好きだと言ったことも」
「たぶんな」
「だったら」
「忘れることと、なかったことになるのは違う」
蓮くんは静かに言った。
「美緒と口論したことも」
「蓮くんが悪いことが多かったです」
「お前も大概だった」
「私は悪くありません」
「そういうところだよ」
蓮くんが笑う。
「一緒に試合を見たことも」
「夜遅くまで解説されました」
「勉強になっただろ」
「翌日、寝不足になりました」
「俺は寝なくていいからな」
「ずるいです」
「放課後にボールを蹴ったことも」
河川敷を見る。
何度も二人で来た場所。
「お前が自分のサッカーを見つけたことも」
蓮くんの輪郭が、また薄くなる。
「全部、本当にあった」
「はい」
「でも」
蓮くんの声が少しだけ震えた。
「俺が帰りたい場所は、千春のところなんだ」
分かっていた。
何度も聞いた。
最初から変わらない答え。
それでも、実際に言われると胸が痛い。
呼吸がうまくできない。
「知ってる」
泣きながら答える。
「知っています」
「美緒」
「それでも、言っておきたかったの」
笑おうとする。
うまく笑えているかは分からない。
「蓮くんを好きだって」
「過去形にはしないんだな」
「好きです」
すぐに答える。
「今も好きです」
「そうか」
「でも、帰ってください」
言葉にした途端、涙がさらにあふれた。
「現在の蓮さんへ、帰ってください」
「いいのか?」
「よくありません」
正直に答える。
「行ってほしくないです」
「ああ」
「ずっと私だけに見えていてほしいです」
「ああ」
「明日も学校についてきて、授業中に話しかけてほしいです」
「迷惑がってたくせに」
「今は許します」
「上からだな」
「一緒にサッカーの話をしたいです」
「ああ」
「全国大会も見てほしい」
「見たいな」
「だったら」
言葉が止まる。
残ってほしい。
言えば、蓮くんは迷うかもしれない。
現在の蓮さんへ戻らない選択もできる。
けれど、それはできない。
蓮くんの気持ちを奪いたくない。
お姉ちゃんのところへ帰りたいという願いを、私のために曲げさせたくない。
「それでも」
声を絞り出す。
「現在の蓮さんへ戻って」
少し離れた場所にいる蓮さんを見る。
「今度こそ、お姉ちゃんのところへ帰ってください」
蓮くんは、現在の自分を見つめた。
その胸元からは、まだ淡い光がこぼれている。
しばらく黙ったあと、ゆっくりとうなずいた。
「ああ」
蓮くんが私を見る。
「俺も、戻るって決めた」
「自分で決めたんですか」
「ああ」
迷いのない声だった。
「美緒に言われたからじゃない」
「はい」
「あいつがもう一度サッカーを選んだからだけでもない」
蓮くんは、現在の自分へ視線を戻す。
「俺が、あいつのところへ戻りたいと思った」
胸が締めつけられる。
それでも、少しだけ安心した。
蓮くんは消されるのではない。
強制的に連れ戻されるのでもない。
自分で選び、帰るのだ。
「分かりました」
声が震える。
「行ってください」
蓮くんが静かに笑う。
「ありがとう」
「お礼を言わないでください」
「言わせてくれ」
蓮くんは私の前に立つ。
触れられない手を、私の頭へ伸ばす。
指は髪を通り抜ける。
それでも、昔のように頭を撫でられた気がした。
「美緒とサッカーができてよかった」
「私もです」
「最初は、何でお前にくっついてるのかと思った」
「私も、どうして蓮さんが出てきたのかと思いました」
「でも、お前だったからよかった」
「どうしてですか」
「俺の言うことを全部聞かなかったから」
「聞いていたら、もっと早くうまくなっていました」
「怪我も増えてただろ」
「それは蓮くんのせいです」
「そうだな」
蓮くんは、素直に認めた。
「君がいたから」
光が足元から胸元まで広がっていく。
「俺は、ただの夢の残骸じゃなくなった」
「残骸なんて言わないでください」
「最初はそうだった」
「違います」
「プロになりたいって願いと、サッカーが好きだって気持ちしかなかった」
「お姉ちゃんへの気持ちも」
「ああ」
「私との記憶も」
「ああ」
「それだけじゃありません」
私は涙を拭う。
「蓮くんは、出てきてから自分でたくさん選びました」
「美緒」
「私に謝ったことも」
「あったな」
「憑依を止めようとしたことも」
「ああ」
「私のサッカーを認めてくれたことも」
「ああ」
「現在の蓮さんへ戻ると決めたことも」
蓮くんの目にも、光が映っている。
「全部、蓮くん自身が選んだことです」
「そうか」
「だから、残骸なんかではありません」
私ははっきりと言った。
「蓮くんは、蓮くんです」
蓮くんはしばらく黙っていた。
そして、私が何度も見てきた笑顔を浮かべた。
自信にあふれた高校生の笑顔。
けれど、最初に現れたときとは少し違う。
失敗を知り。
誰かへ任せることを知り。
自分が何者なのかを知った人の笑顔だった。
「ありがとう、美緒」
「だから、お礼は」
「最後くらい言わせろ」
「最後なんて言わないでください」
「美緒」
蓮くんの声が、少しずつ遠くなる。
「今度は、俺のサッカーじゃなくて」
「はい」
「美緒のサッカーを見せてくれ」
「昨日、見せたでしょう」
「一試合で終わるなよ」
「終わりません」
「全国でも」
「はい」
「その先でも」
「はい」
「失敗しても、見なかったことにするな」
「分かっています」
「陽菜が走ったら?」
「出します」
「通らなかったら?」
「戻ります」
「ずれたら?」
「次に直します」
「俺がいなくても?」
声が詰まる。
それでも答える。
「私が決めます」
蓮くんがうなずいた。
「それでいい」
光が強くなる。
制服の輪郭が消えていく。
「蓮くん」
「ああ」
「好きです」
「ああ」
「大好きです」
「ありがとう」
「忘れたくありません」
「忘れなくていい」
「蓮くんは忘れてしまうのに?」
「忘れても、なかったことにはならない」
蓮くんの姿が、光に包まれる。
触れられない。
止められない。
それでも私は、両手を伸ばした。
「蓮くん」
「ああ」
言いたくなかった。
それでも、自分で選ばなければならない言葉だった。
「さようなら」
蓮くんは、最後まで笑っていた。
「頑張れ、美緒」
「はい」
「見てるから」
「どこで?」
「さあな」
「適当」
「でも、見てる」
その言葉を最後に。
蓮くんの姿は、光になった。
光は風に流されず、まっすぐ現在の蓮さんへ向かう。
胸元へ吸い込まれる。
現在の蓮さんが足を止めた。
スマートフォンを耳から離す。
「蓮?」
通話越しに、お姉ちゃんの声がかすかに聞こえた。
現在の蓮さんは、胸元を押さえる。
「どうしたんですか」
私は駆け寄る。
「分からない」
蓮さんが顔を上げる。
その目から、涙がこぼれた。
「蓮さん?」
「何だ、これ」
自分でも驚いたように、頬へ触れる。
「別に、悲しいわけじゃないのに」
もう一粒、涙が落ちる。
私は蓮さんの向こうを見る。
誰もいない。
さっきまで蓮くんが立っていた場所。
何度呼んでも、もう返事はない。
「美緒」
「はい」
「変なこと言うけど」
蓮さんが私を見る。
その目は、蓮くんと同じ色だった。
けれど。
そこに私との日々を覚えている光はない。
「ありがとう」
「何に対してですか」
「分からない」
蓮さんは困ったように笑う。
「でも、お前に言わないといけない気がする」
具体的な記憶は残っていない。
私と口論したことも。
一緒に映像を見たことも。
河川敷でボールを蹴ったことも。
私が蓮くんと呼んだことも。
告白したことも。
全部、現在の蓮さんは知らない。
それでも。
何かは残っている。
「どういたしまして」
私はそれだけ答えた。
泣きながら笑う。
「美緒、お前」
「何ですか」
「泣いてるのか」
「全国大会に出られるのがうれしいんです」
「今さら?」
「今、実感したんです」
「そうか」
蓮さんは深く追及しなかった。
スマートフォンをもう一度耳へ当てる。
「悪い、千春」
お姉ちゃんに謝る。
「このあと、大学へ行く」
胸が大きく鳴った。
「監督に話してくる」
お姉ちゃんの返事を聞き、蓮さんがうなずく。
「ああ」
短く答える。
「続けるかどうかじゃない」
一度、私を見る。
「続けたいって伝えてくる」
蓮くんが帰った場所。
蓮さんの胸の中。
そこに、夢が戻ったのかもしれない。
昔と同じ夢ではない。
プロになることだけを目指す夢でもない。
それでも。
もう一度、自分で選んだサッカー。
◇
その夜。
私は古いスパイクを机の上へ置いた。
部屋は静かだった。
「蓮くん」
呼んでみる。
返事はない。
「授業中に話しかけないでください」
誰も言い返さない。
「夜遅くまで解説しないでください」
声は聞こえない。
「勝手にスマートフォンを触らないでください」
画面は動かない。
「私の身体なんだから、無理をしないでください」
答えはない。
分かっていた。
それでも、何度も呼んだ。
「蓮くん」
古いスパイクへ触れる。
「出てきて」
何も起こらない。
「戻って」
淡い光も出ない。
「蓮くん」
声が震える。
私はスパイクを抱きしめた。
硬い革。
擦れた表面。
古い土の跡。
長い間、お守りとして飾っていたもの。
蓮くんが生まれた場所。
蓮くんが帰っていった場所。
「好きです」
もう届かない言葉を口にする。
「蓮くん」
そのとき。
小さな音がした。
机の上へスパイクを戻す。
靴底の端が、ゆっくりと剥がれていた。
長い間使われずに保管されていた接着面。
ひび割れていたゴム。
役目を終えたように、静かに外れていく。
「壊れちゃった」
手で押さえる。
戻らない。
無理に直そうとすれば、さらに崩れてしまいそうだった。
私はスパイクを両手で包んだ。
涙が革の上へ落ちる。
「お疲れさま」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
高校時代の蓮さんへ。
夢を抱えて現れた蓮くんへ。
それとも、ずっと二人をつないでくれた古いスパイクへ。
「ありがとう」
今度は、私から言った。
返事はない。
それでも。
聞こえている気がした。
私は壊れたスパイクを胸へ抱きしめる。
君が夢を忘れても。
私は、君が夢を語っていたことを覚えている。
君が挫折しても。
私は、君がもう一度好きだと言ったことを覚えている。
君が私との時間を忘れても。
私は、ここにいた君を忘れない。
涙を拭い、古いスパイクを机の上へ戻した。
蓮くんはいない。
それでも、また学校へ行く。
練習へ行く。
全国大会へ向けて、もう一度ボールを蹴る。
今度は。
誰かの夢を追いかけるためではなく。
私自身が選んだ夢のために。




