第24話 私の夢
河川敷で蓮くんと別れた日の夕方。
現在の蓮さんは、大学のサッカー部へ戻った。
私は、その場にはいなかった。
けれど、あとになって蓮さんは、監督や佐伯さんと交わした言葉を、少し照れながら私たちへ話してくれた。
だから私は、蓮さんがどんな顔で戻り、何を選んだのかを知っている。
◇
練習が終わりかけた大学のグラウンドへ、蓮さんは一人で現れた。
伸びた前髪。
黒いジャージ。
足元は、サッカー用ではない普通の運動靴。
しばらく来ていなかった場所へ戻るには、あまりにも頼りない格好だった。
グラウンドでは、部員たちが最後のメニューを行っていた。
その中に、佐伯さんもいた。
蓮さんからポジションを奪った後輩。
けれど、本当は奪ったわけではない。
毎日の練習で必要なことを積み重ね、監督から選ばれただけだ。
蓮さんは、その事実から目を逸らしていた。
監督はグラウンドの端に立つ蓮さんへ気づいた。
けれど、すぐには声をかけなかった。
練習が終わるまで待った。
部員たちが片づけを始めた頃、ようやく蓮さんの前へ歩いてきた。
「来たか」
「はい」
「答えは出たのか」
蓮さんは、鞄から一枚の紙を取り出した。
書き直した退部届。
監督から与えられた期限まで、何度も書いては消したものだった。
「もう一度、出すのか」
「そのつもりで来ました」
蓮さんは、手にした紙を見つめた。
長い沈黙のあと、退部届を二つに折る。
「でも、出しません」
折った紙を鞄へ戻した。
「続けさせてください」
監督は何も言わず、蓮さんを見ていた。
「プロになれるとは思っていません」
「ずいぶん変わったな」
「諦めたわけじゃありません」
蓮さんは少し間を置いた。
「でも、プロになれないならサッカーをする意味がないと思うのは、もうやめます」
「それで?」
「続けたいです」
「また試合に出たいのか」
「はい」
「レギュラーに戻りたい?」
「戻りたいです」
「エースに?」
蓮さんはすぐには答えなかった。
以前なら、迷わずうなずいていたはずだ。
「分かりません」
「何が?」
「今の俺が、チームに何をできるのか」
グラウンドの向こうでは、佐伯さんたちが片づけを続けている。
「自分一人で点を取ることしか考えてきませんでした」
「知ってる」
「守備も、連係も、必要だと言われていました」
「言ったな」
「でも、俺の長所を消そうとしていると思って、聞きませんでした」
蓮さんは監督から目を逸らさなかった。
「一から教えてください」
「一から?」
「控えからで構いません」
「試合に出られなくても?」
「出たいです」
蓮さんは、はっきり答えた。
「でも、出られないなら辞めるとは言いません」
監督はしばらく黙っていた。
やがて、グラウンドを指した。
「明日から走れるか」
「はい」
「足首は?」
「医者には、無理をしなければ問題ないと言われています」
「今まで無理をした結果が、今のお前だろ」
「はい」
「痛みが出たら?」
「言います」
「隠したら外す」
「分かりました」
「また一人で抱え込んだら?」
蓮さんは息を吸った。
「逃げる前に話します」
監督が小さく笑った。
「なら、明日から来い」
「はい」
「ただし、以前のお前の場所は残っていない」
蓮さんの視線が、佐伯さんへ向かう。
「分かっています」
「自分で取り戻せ」
「はい」
「昔と同じやり方では無理だぞ」
「それも、分かっています」
蓮さんは深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
◇
次の日から、蓮さんは大学の練習へ戻った。
いきなり全体練習には入れなかった。
基礎体力。
足首の状態確認。
短いパス。
守備の立ち位置。
ボールを持っていないときの動き。
高校時代の蓮さんなら、地味だと言って嫌がったかもしれない。
けれど、現在の蓮さんは一つずつ取り組んだ。
すべてを素直に受け入れられたわけではない。
練習でうまくいかず、途中で苛立つこともあった。
自分より年下の選手から指示を受け、表情を硬くすることもあった。
シュートを外したあと、何度も一人で蹴り続けようとしたこともある。
そのたびに、以前とは違うことをした。
誰にも言わずに抱え込まなかった。
監督へ聞いた。
チームメイトへ尋ねた。
痛みが出れば止まった。
そして、佐伯さんにも向き合った。
練習後。
ほかの部員たちがクラブハウスへ戻ったあと、蓮さんは佐伯さんを呼び止めた。
「佐伯」
「はい」
佐伯さんは少し緊張した顔で振り返った。
憧れていた先輩。
その先輩からポジションを奪い。
そのあと、蓮さんが練習へ来なくなった。
責任を感じていたのかもしれない。
「悪かった」
蓮さんが頭を下げた。
佐伯さんは驚いた。
「何がですか」
「お前のせいみたいに思ってた」
「俺のせい?」
「俺が試合に出られなくなったのは、お前が監督に気に入られたからだって」
「そんなこと」
「違うって分かってる」
蓮さんが顔を上げる。
「お前が必要なことをやったから、選ばれた」
「先輩」
「それを認めたくなかった」
佐伯さんは黙っていた。
「戻ってきたからって、ポジションを譲れとは言わない」
「譲りません」
「そこは少しくらい迷えよ」
「先輩が教えたんじゃないですか。試合に出たいなら、誰にも譲るなって」
蓮さんは一瞬、言葉を失った。
それから、少しだけ笑った。
「言ったかもな」
「言いました」
「なら、俺も取りに行く」
「はい」
「でも、その前に教えてくれ」
「何をですか」
「お前がやっている守備」
蓮さんは少し言いにくそうに続けた。
「正直、まだよく分からない」
佐伯さんは目を見開いた。
そして、笑った。
「先輩が俺に聞くんですか?」
「嫌ならいい」
「嫌じゃありません」
佐伯さんは、すぐに真剣な表情へ戻った。
「先輩」
「何だ」
「俺、先輩が嫌いでポジションを奪ったわけじゃありません」
「分かってる」
「分かってないと思います」
佐伯さんは一歩近づいた。
「俺は、先輩と一緒に試合に出たかったんです」
蓮さんは何も答えられなかった。
「高校時代の先輩を見て、この大学を選びました」
「俺を?」
「はい」
「でも、同じポジションだろ」
「だからです」
「普通は避けないか」
「勝って、一緒に出たかったんです」
佐伯さんはグラウンドを見る。
「先輩が前で点を取って、俺がその後ろで支える」
「お前が点を取る選手になっただろ」
「先輩がいなくなったからです」
責めるような言い方ではなかった。
ただ、事実を伝える声だった。
「戻ってきてくれて、よかったです」
蓮さんは目を伏せる。
「まだ何もできてない」
「これからやればいいじゃないですか」
「簡単に言うな」
「でも、そうするしかないでしょう」
佐伯さんがボールを足元へ置く。
「守備の立ち位置、やりますか?」
「ああ」
「先輩、ボールばかり見すぎです」
「それくらい分かってる」
「分かっていてできないなら、できるまでやりましょう」
「お前、意外と厳しいな」
「誰に憧れたと思ってるんですか」
夕暮れのグラウンドで、二人は何度も同じ動きを繰り返した。
蓮さんは、すぐに以前の自分を取り戻したわけではない。
以前の自分へ戻ることを、目指しもしなかった。
できないことを認め。
知らないことを聞き。
少しずつ、新しいサッカーを身につけていった。
◇
お姉ちゃんと蓮さんの関係も、すぐに元どおりになったわけではない。
二人は、何度も話をした。
蓮さんがサッカー部へ戻った日の夜。
お姉ちゃんは、蓮さんと駅の近くで会った。
私は一緒に行かなかった。
二人だけで話すべきだと思ったからだ。
あとになって、お姉ちゃんは、その日に交わした言葉を私へ話してくれた。
「部活へ戻った」
蓮さんが最初に言った。
「うん」
「止めないのか」
「どうして?」
「また怪我をするかもしれない」
「するかもしれないね」
「試合に出られないかもしれない」
「うん」
「プロにもなれないと思う」
「それも、蓮が決めたことなら」
お姉ちゃんは、そこで言葉を止めた。
「違う」
「何が?」
「私が言いたいのは、サッカーのことじゃない」
蓮さんは黙った。
「サッカーをやめたあなたが嫌なんじゃない」
以前、伝えられなかった言葉。
蓮さんが逃げ、最後まで聞かなかった言葉。
「苦しいことを何も話してくれないあなたのそばにいるのが、つらいの」
「千春」
「部活へ戻ったから、全部元どおりになるとは思ってない」
「ああ」
「また何も言わなくなるなら、一緒にはいられない」
お姉ちゃんは、ただ待たなかった。
蓮さんが変わることを信じ、我慢するだけの人にはならなかった。
「怖かった」
蓮さんは、ようやく口にした。
「何が?」
「失望されるのが」
「誰に?」
「千春に」
「どうして?」
「お前が好きなのは、高校時代の俺だと思ってた」
お姉ちゃんは、静かに蓮さんを見ていた。
「サッカーがうまくて、プロになるって言ってた俺」
「違うよ」
「今なら分かる」
「今まで、分からなかった?」
「分かろうとしなかった」
蓮さんは、自分の手を見る。
「話したら、本当に終わると思ってた」
「話さなかったから、終わりかけたんだよ」
「ああ」
「私は、何でも解決できるわけじゃない」
「分かってる」
「蓮が試合に出られるようにもできない」
「ああ」
「プロにすることもできない」
「ああ」
「でも、怖いって言われたら、一緒に怖がることはできる」
お姉ちゃんらしい言葉だった。
エースだった蓮さんではなく。
夢を失った蓮さんでもなく。
一人の人間として、隣に立つ言葉。
「これからは話す」
「全部?」
「全部は無理かもしれない」
「最初から逃げ道を作らないで」
「努力する」
「また黙ったら?」
「千春に怒られる前に、美緒に怒られそうだな」
「美緒は関係ないでしょう」
「あいつ、前より強くなったぞ」
「知ってる」
お姉ちゃんが少し笑う。
「私の妹だから」
「お前が育てたみたいに言うな」
「半分くらいは私が育てたよ」
「残り半分は?」
お姉ちゃんは少し考えた。
「誰か、かな」
蓮さんは、その言葉の意味を知らない。
それでも、なぜか胸の奥が痛んだらしい。
二人は、すぐに昔の関係へ戻ったわけではない。
けれど、もう一度、一緒に歩くことを選んだ。
昔と同じではなく。
今の二人として。
◇
蓮くんが消えて数日後。
私は、古いスパイクをきれいに拭いた。
底の剥がれた部分には触れすぎないようにした。
表面についたほこり。
革の隙間に残った土。
ひもの汚れ。
一つずつ、柔らかい布で落としていく。
蓮くんが戻ってくることはない。
それでも、捨てることはできなかった。
「何してるの?」
部屋の扉から、お姉ちゃんが顔を出した。
「スパイクを片づけています」
「飾らないの?」
「はい」
「大切にしてたのに」
「今も大切です」
私は手を止める。
「大切だから、しまうんです」
お姉ちゃんは不思議そうな顔をした。
けれど、詳しくは聞かなかった。
「箱、ある?」
「買ってきました」
机の横には、新しい箱を置いている。
中へ薄い紙を敷き、古いスパイクを置いた。
蓮さんから譲ってもらった、片方だけのスパイク。
長い間、私の部屋でお守りになり。
蓮くんが現れ、帰っていった場所。
私は形が崩れないよう、周囲へ丁寧に紙を詰めた。
箱のふたを閉じようとして、手が止まる。
「美緒?」
「少しだけ」
私は箱の中を見る。
「少しだけ、待ってください」
返事はない。
あの日と同じ言葉。
けれど、今度は光も現れない。
「ありがとう」
小さく伝える。
「見ていてください」
ふたを閉じた。
箱を、クローゼットの上へしまう。
忘れるためではない。
見なくても、忘れないと思えたからだ。
代わりに、机の近くへ自分のスパイクを置いた。
代表決定戦で履いたもの。
同点ゴールを決め。
陽菜へ決勝点のパスを出したスパイク。
まだ新しい傷しかない。
これから、もっと多くの傷が増えていく。
誰かから譲られたものではない。
自分で選び。
自分の足で履いたスパイクだった。
◇
全国大会で、私たちは初戦敗退した。
相手は、県大会決勝で戦った明成学園よりも強かった。
速さ。
判断。
技術。
すべてで上回られた。
私は後半から出場した。
陽菜の動きは見えた。
けれど、一度目のパスは相手に触られた。
二度目は、陽菜の足元から少しずれた。
三度目は通った。
けれど、陽菜のシュートはゴールキーパーに止められた。
得点できないまま、試合は終わった。
全国大会出場。
それだけで満足できると思っていた。
けれど、試合終了の笛を聞いた瞬間、悔しくて立てなかった。
「美緒」
陽菜が隣へ座る。
「ごめん」
「何が?」
「最後、決められなかった」
「私のパスも少しずれた」
「でも、触れた」
「決められた?」
「分かんない」
「だったら、次に直そう」
自分の口から出た言葉に、少し驚いた。
以前なら。
パスを出さなければよかったと思ったかもしれない。
失敗した自分を責め続けたかもしれない。
でも、今は違う。
通らなかった。
だから、次に直す。
ただ、それだけだった。
「来年も行こう」
陽菜が言う。
「全国?」
「うん」
「簡単に言わないで」
「美緒も言うようになったね」
「誰かに似たのかも」
「誰?」
「知らない」
私は少し笑った。
その後。
真帆先輩は卒業した。
沙月と私は、次のチームで同じポジションを争った。
私は十八番から八番へ変わった。
それでも、十八番だった頃を忘れなかった。
試合の流れを引き受け。
誰かから託された役割を果たす。
その意味を教えてくれた番号だった。
高校最後の大会。
私たちは、もう一度全国大会へ出場した。
今度は、一回戦を勝った。
次の試合で負けた。
私は先発でピッチへ立ち。
陽菜へ二本の決定的なパスを出した。
一本は外れ。
もう一本は得点になった。
沙月が前へ出たときは、その後ろを守った。
後輩が失敗したときは、次のプレーを指示した。
自分で打つべき場面では、シュートを打った。
誰かになるためではなく。
自分の選択として、サッカーをした。
◇
蓮さんは、すぐには試合へ戻れなかった。
最初はベンチにも入れず、ようやく選ばれても出場はなかった。
初めて与えられた時間は、わずか五分だった。
何もできなかったと落ち込んだ蓮さんは、それでも逃げず、佐伯さんへ尋ねた。
「最後、俺はどこへ動けばよかった?」
佐伯さんは答えた。
「俺が外へ流れたので、先輩は中央に残ってほしかったです」
「俺がボールを受けるために?」
「違います」
「じゃあ、何のためだ」
「相手のセンターバックを引きつけるためです」
「俺が受けないのに?」
「先輩がそこにいるから、サイドが空くんです」
蓮さんは不満そうな顔をした。
それでも、次の練習では同じ動きを試した。
少しずつ出場時間が増えた。
佐伯さんと同時にピッチへ立つ試合もあった。
蓮さんが相手を引きつけ。
佐伯さんが空いた場所へ入り。
別の選手が得点した。
得点にも、アシストにも記録されないプレー。
けれど、ベンチへ戻った蓮さんは笑っていた。
プロにはなれなかった。
大学卒業後、声をかけてくれたクラブもあった。
それでも、プロ契約には届かなかった。
蓮さんは悔しがった。
お姉ちゃんの前で、悔しいと言った。
無理に笑わなかった。
そして、自分で選手生活を終えた。
夢に敗れたから、逃げるように辞めたのではない。
最後までプレーし。
やり切った上で、次へ進んだ。
その後、蓮さんは指導者資格を取るための勉強を始めた。
「教える方が向いてるとは思えない」
私が言うと、蓮さんは不満そうな顔をした。
「お前にサッカーを教えたのは俺だろ」
「昔の話です」
「お前が始めたきっかけも俺だ」
「それは認めます」
「なら、向いてる」
「自分で言いますか」
「でも」
蓮さんは少し真剣な顔になった。
「失敗してる選手が、何を考えてるかは分かる」
うまくいかないこと。
周囲と比べられること。
自分の長所が通用しなくなること。
好きなものを嫌いだと言いたくなること。
全部、蓮さんが経験したことだった。
「夢を諦めるな、とは言わない」
「はい」
「でも、諦める前に、本当に自分で決めたのかは聞きたい」
「蓮さんらしくありませんね」
「何が?」
「昔なら、絶対に諦めるなって言っていました」
「昔の俺は、面倒だったからな」
「今も少し面倒です」
「少し?」
「かなり」
「お前、年上への態度を忘れてないか」
「蓮さんが教えたんでしょう。見えていることを、見なかったことにするなって」
蓮さんは一瞬、黙った。
「俺、そんなこと言ったか?」
「言いました」
言ったのは、蓮くんだ。
けれど私は、説明しなかった。
「そうだったか」
「はい」
「なら、覚えておく」
蓮さんは、その言葉の意味を知らない。
それでも。
どこか懐かしそうに笑った。
◇
数年後。
私は、大学女子サッカー部で競技を続けている。
プロ選手になれるかは、まだ分からない。
なりたいとは思っている。
けれど、それだけが私の夢ではない。
今日の試合で、自分の判断をすること。
仲間の動きを見ること。
見つけた場所へ、迷わずボールを出すこと。
一つずつ重ねた先に、どこまで行けるのかを確かめたい。
それが、今の私の夢だった。
試合当日の朝。
部屋でユニフォームへ着替える。
机の近くには、高校最後の大会で履いたスパイクを飾っている。
傷だらけだった。
つま先は擦れ。
ひもも少し色あせている。
クローゼットの上には、古いスパイクを入れた箱がある。
もう何年も開けていない。
忘れたわけではない。
開けなくても、思い出せるからだ。
蓮くんの声。
笑い方。
サッカーを見ているときの真剣な目。
私をからかう言葉。
最後に笑っていた顔。
すべて、今も覚えている。
「美緒、そろそろ出るよ」
お姉ちゃんの声がする。
「今行く」
鞄を持ち、部屋を出る。
玄関には、お姉ちゃんと蓮さんがいた。
お姉ちゃんの髪は、以前より少し短くなっている。
蓮さんも髪を整え、前髪が目にかからなくなっていた。
昔のような自信に満ちた顔ではない。
けれど、以前のように地面ばかり見てもいない。
「遅い」
蓮さんが言う。
「選手には準備があるんです」
「試合時間には間に合うだろ」
「観客が偉そうに言わないでください」
「応援に行ってやるんだぞ」
「お姉ちゃんに誘われたからでしょう」
「俺が行こうって言った」
「本当に?」
「本当だよ」
お姉ちゃんが笑う。
蓮さんは少し気まずそうに視線を逸らした。
「美緒の試合、楽しみにしてたから」
「千春」
「いいじゃない。本当のことなんだから」
「余計なことを言うな」
二人は、今も一緒にいる。
何も問題がないわけではない。
蓮さんが一人で抱え込み、お姉ちゃんが怒ることもある。
お姉ちゃんが遠慮しすぎて、蓮さんが気づかないこともある。
それでも。
二人は話すようになった。
何度でも向き合い直している。
「行くよ、美緒」
「はい」
三人で家を出る。
◇
大学のグラウンド。
観客席には、多くの人が集まっていた。
私はベンチの前でスパイクのひもを結ぶ。
今履いているのは、高校時代のものではない。
大学へ入ってから自分で選んだ、新しいスパイク。
自分の足に合うもの。
自分が走るためのもの。
「美緒」
観客席から、お姉ちゃんが手を振っている。
その隣には、蓮さんがいた。
首から小さな指導者用のホイッスルを下げている。
今日の午前中まで、子どもたちの練習を見ていたらしい。
「ちゃんと見てくださいね」
私が言う。
「そのつもりで来た」
「途中で帰らないでください」
「帰らない」
「本当に?」
「何年前の話をしてるんだ」
蓮さんが呆れたように言う。
私がベンチへ戻ろうとすると、蓮さんが呼び止めた。
「美緒」
「何ですか」
「昔より、ずっとうまくなったな」
少し驚いた。
蓮さんは褒めるとき、今でも照れたような顔をする。
「試合前に褒めると、調子に乗るかもしれませんよ」
「お前は少しくらい調子に乗った方がいい」
「指導者みたいなことを言いますね」
「指導者を目指してるからな」
「まだ資格を取っている途中でしょう」
「細かいな」
私は少し笑う。
「誰のおかげだと思ってるの?」
蓮さんは迷わず答えた。
「昔、俺が教えたからだろ」
きっと、蓮さんが覚えているのは、幼い私とボールを蹴った日々だけだ。
古いスパイクを譲ってくれたこと。
サッカーを始めるきっかけになったこと。
蓮くんが現れてからの時間は、知らない。
授業中に話しかけられたことも。
一緒に映像を見たことも。
憑依したことも。
河川敷で告白したことも。
何一つ覚えていない。
それでも。
蓮くんから受け取ったものは、私の中に残っている。
「半分だけね」
「残り半分は?」
「秘密です」
「何だ、それ」
「教えません」
試合開始を知らせるアナウンスが流れる。
私は蓮さんたちへ背を向けた。
ピッチへ向かう。
今も、試合前は少し怖い。
失敗するかもしれない。
見えている場所へ、正確に出せないかもしれない。
シュートを外すかもしれない。
何もできないまま、交代するかもしれない。
それでも。
怖くないふりはしない。
怖いまま、自分で選ぶ。
試合開始の笛が鳴った。
私は自分のスパイクで、ピッチへ走り出す。
味方がボールを持つ。
相手が寄せる。
私は周囲を見る。
一度。
二度。
右から味方が走る。
左では別の選手が相手を引きつけている。
中央に、わずかな場所が空く。
見えている。
パスを受ける。
前を向く。
相手が近づく。
以前なら、横へ逃がしたかもしれない。
けれど今は。
味方の走る先へ、右足を振る。
ボールが相手の間を通る。
味方へ届く。
そのまま、私は前へ走る。
ふと、青空を見上げた。
もう、声は聞こえない。
隣に立つ姿もない。
それでも、胸の中には言葉が残っている。
――今度は俺のサッカーじゃなくて、美緒のサッカーを見せてくれ。
私は小さく笑った。
見ててね。
今度は、私の夢だから。




