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夢を諦めた君のスパイクから、十七歳の君が現れた  作者: situ725


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24/24

第24話 私の夢

 河川敷で蓮くんと別れた日の夕方。


 現在の蓮さんは、大学のサッカー部へ戻った。


 私は、その場にはいなかった。


 けれど、あとになって蓮さんは、監督や佐伯さんと交わした言葉を、少し照れながら私たちへ話してくれた。


 だから私は、蓮さんがどんな顔で戻り、何を選んだのかを知っている。


     ◇


 練習が終わりかけた大学のグラウンドへ、蓮さんは一人で現れた。


 伸びた前髪。


 黒いジャージ。


 足元は、サッカー用ではない普通の運動靴。


 しばらく来ていなかった場所へ戻るには、あまりにも頼りない格好だった。


 グラウンドでは、部員たちが最後のメニューを行っていた。


 その中に、佐伯さんもいた。


 蓮さんからポジションを奪った後輩。


 けれど、本当は奪ったわけではない。


 毎日の練習で必要なことを積み重ね、監督から選ばれただけだ。


 蓮さんは、その事実から目を逸らしていた。


 監督はグラウンドの端に立つ蓮さんへ気づいた。


 けれど、すぐには声をかけなかった。


 練習が終わるまで待った。


 部員たちが片づけを始めた頃、ようやく蓮さんの前へ歩いてきた。


「来たか」


「はい」


「答えは出たのか」


 蓮さんは、鞄から一枚の紙を取り出した。


 書き直した退部届。


 監督から与えられた期限まで、何度も書いては消したものだった。


「もう一度、出すのか」


「そのつもりで来ました」


 蓮さんは、手にした紙を見つめた。


 長い沈黙のあと、退部届を二つに折る。


「でも、出しません」


 折った紙を鞄へ戻した。


「続けさせてください」


 監督は何も言わず、蓮さんを見ていた。


「プロになれるとは思っていません」


「ずいぶん変わったな」


「諦めたわけじゃありません」


 蓮さんは少し間を置いた。


「でも、プロになれないならサッカーをする意味がないと思うのは、もうやめます」


「それで?」


「続けたいです」


「また試合に出たいのか」


「はい」


「レギュラーに戻りたい?」


「戻りたいです」


「エースに?」


 蓮さんはすぐには答えなかった。


 以前なら、迷わずうなずいていたはずだ。


「分かりません」


「何が?」


「今の俺が、チームに何をできるのか」


 グラウンドの向こうでは、佐伯さんたちが片づけを続けている。


「自分一人で点を取ることしか考えてきませんでした」


「知ってる」


「守備も、連係も、必要だと言われていました」


「言ったな」


「でも、俺の長所を消そうとしていると思って、聞きませんでした」


 蓮さんは監督から目を逸らさなかった。


「一から教えてください」


「一から?」


「控えからで構いません」


「試合に出られなくても?」


「出たいです」


 蓮さんは、はっきり答えた。


「でも、出られないなら辞めるとは言いません」


 監督はしばらく黙っていた。


 やがて、グラウンドを指した。


「明日から走れるか」


「はい」


「足首は?」


「医者には、無理をしなければ問題ないと言われています」


「今まで無理をした結果が、今のお前だろ」


「はい」


「痛みが出たら?」


「言います」


「隠したら外す」


「分かりました」


「また一人で抱え込んだら?」


 蓮さんは息を吸った。


「逃げる前に話します」


 監督が小さく笑った。


「なら、明日から来い」


「はい」


「ただし、以前のお前の場所は残っていない」


 蓮さんの視線が、佐伯さんへ向かう。


「分かっています」


「自分で取り戻せ」


「はい」


「昔と同じやり方では無理だぞ」


「それも、分かっています」


 蓮さんは深く頭を下げた。


「よろしくお願いします」


     ◇


 次の日から、蓮さんは大学の練習へ戻った。


 いきなり全体練習には入れなかった。


 基礎体力。


 足首の状態確認。


 短いパス。


 守備の立ち位置。


 ボールを持っていないときの動き。


 高校時代の蓮さんなら、地味だと言って嫌がったかもしれない。


 けれど、現在の蓮さんは一つずつ取り組んだ。


 すべてを素直に受け入れられたわけではない。


 練習でうまくいかず、途中で苛立つこともあった。


 自分より年下の選手から指示を受け、表情を硬くすることもあった。


 シュートを外したあと、何度も一人で蹴り続けようとしたこともある。


 そのたびに、以前とは違うことをした。


 誰にも言わずに抱え込まなかった。


 監督へ聞いた。


 チームメイトへ尋ねた。


 痛みが出れば止まった。


 そして、佐伯さんにも向き合った。


 練習後。


 ほかの部員たちがクラブハウスへ戻ったあと、蓮さんは佐伯さんを呼び止めた。


「佐伯」


「はい」


 佐伯さんは少し緊張した顔で振り返った。


 憧れていた先輩。


 その先輩からポジションを奪い。


 そのあと、蓮さんが練習へ来なくなった。


 責任を感じていたのかもしれない。


「悪かった」


 蓮さんが頭を下げた。


 佐伯さんは驚いた。


「何がですか」


「お前のせいみたいに思ってた」


「俺のせい?」


「俺が試合に出られなくなったのは、お前が監督に気に入られたからだって」


「そんなこと」


「違うって分かってる」


 蓮さんが顔を上げる。


「お前が必要なことをやったから、選ばれた」


「先輩」


「それを認めたくなかった」


 佐伯さんは黙っていた。


「戻ってきたからって、ポジションを譲れとは言わない」


「譲りません」


「そこは少しくらい迷えよ」


「先輩が教えたんじゃないですか。試合に出たいなら、誰にも譲るなって」


 蓮さんは一瞬、言葉を失った。


 それから、少しだけ笑った。


「言ったかもな」


「言いました」


「なら、俺も取りに行く」


「はい」


「でも、その前に教えてくれ」


「何をですか」


「お前がやっている守備」


 蓮さんは少し言いにくそうに続けた。


「正直、まだよく分からない」


 佐伯さんは目を見開いた。


 そして、笑った。


「先輩が俺に聞くんですか?」


「嫌ならいい」


「嫌じゃありません」


 佐伯さんは、すぐに真剣な表情へ戻った。


「先輩」


「何だ」


「俺、先輩が嫌いでポジションを奪ったわけじゃありません」


「分かってる」


「分かってないと思います」


 佐伯さんは一歩近づいた。


「俺は、先輩と一緒に試合に出たかったんです」


 蓮さんは何も答えられなかった。


「高校時代の先輩を見て、この大学を選びました」


「俺を?」


「はい」


「でも、同じポジションだろ」


「だからです」


「普通は避けないか」


「勝って、一緒に出たかったんです」


 佐伯さんはグラウンドを見る。


「先輩が前で点を取って、俺がその後ろで支える」


「お前が点を取る選手になっただろ」


「先輩がいなくなったからです」


 責めるような言い方ではなかった。


 ただ、事実を伝える声だった。


「戻ってきてくれて、よかったです」


 蓮さんは目を伏せる。


「まだ何もできてない」


「これからやればいいじゃないですか」


「簡単に言うな」


「でも、そうするしかないでしょう」


 佐伯さんがボールを足元へ置く。


「守備の立ち位置、やりますか?」


「ああ」


「先輩、ボールばかり見すぎです」


「それくらい分かってる」


「分かっていてできないなら、できるまでやりましょう」


「お前、意外と厳しいな」


「誰に憧れたと思ってるんですか」


 夕暮れのグラウンドで、二人は何度も同じ動きを繰り返した。


 蓮さんは、すぐに以前の自分を取り戻したわけではない。


 以前の自分へ戻ることを、目指しもしなかった。


 できないことを認め。


 知らないことを聞き。


 少しずつ、新しいサッカーを身につけていった。


     ◇


 お姉ちゃんと蓮さんの関係も、すぐに元どおりになったわけではない。


 二人は、何度も話をした。


 蓮さんがサッカー部へ戻った日の夜。


 お姉ちゃんは、蓮さんと駅の近くで会った。


 私は一緒に行かなかった。


 二人だけで話すべきだと思ったからだ。


 あとになって、お姉ちゃんは、その日に交わした言葉を私へ話してくれた。


「部活へ戻った」


 蓮さんが最初に言った。


「うん」


「止めないのか」


「どうして?」


「また怪我をするかもしれない」


「するかもしれないね」


「試合に出られないかもしれない」


「うん」


「プロにもなれないと思う」


「それも、蓮が決めたことなら」


 お姉ちゃんは、そこで言葉を止めた。


「違う」


「何が?」


「私が言いたいのは、サッカーのことじゃない」


 蓮さんは黙った。


「サッカーをやめたあなたが嫌なんじゃない」


 以前、伝えられなかった言葉。


 蓮さんが逃げ、最後まで聞かなかった言葉。


「苦しいことを何も話してくれないあなたのそばにいるのが、つらいの」


「千春」


「部活へ戻ったから、全部元どおりになるとは思ってない」


「ああ」


「また何も言わなくなるなら、一緒にはいられない」


 お姉ちゃんは、ただ待たなかった。


 蓮さんが変わることを信じ、我慢するだけの人にはならなかった。


「怖かった」


 蓮さんは、ようやく口にした。


「何が?」


「失望されるのが」


「誰に?」


「千春に」


「どうして?」


「お前が好きなのは、高校時代の俺だと思ってた」


 お姉ちゃんは、静かに蓮さんを見ていた。


「サッカーがうまくて、プロになるって言ってた俺」


「違うよ」


「今なら分かる」


「今まで、分からなかった?」


「分かろうとしなかった」


 蓮さんは、自分の手を見る。


「話したら、本当に終わると思ってた」


「話さなかったから、終わりかけたんだよ」


「ああ」


「私は、何でも解決できるわけじゃない」


「分かってる」


「蓮が試合に出られるようにもできない」


「ああ」


「プロにすることもできない」


「ああ」


「でも、怖いって言われたら、一緒に怖がることはできる」


 お姉ちゃんらしい言葉だった。


 エースだった蓮さんではなく。


 夢を失った蓮さんでもなく。


 一人の人間として、隣に立つ言葉。


「これからは話す」


「全部?」


「全部は無理かもしれない」


「最初から逃げ道を作らないで」


「努力する」


「また黙ったら?」


「千春に怒られる前に、美緒に怒られそうだな」


「美緒は関係ないでしょう」


「あいつ、前より強くなったぞ」


「知ってる」


 お姉ちゃんが少し笑う。


「私の妹だから」


「お前が育てたみたいに言うな」


「半分くらいは私が育てたよ」


「残り半分は?」


 お姉ちゃんは少し考えた。


「誰か、かな」


 蓮さんは、その言葉の意味を知らない。


 それでも、なぜか胸の奥が痛んだらしい。


 二人は、すぐに昔の関係へ戻ったわけではない。


 けれど、もう一度、一緒に歩くことを選んだ。


 昔と同じではなく。


 今の二人として。


     ◇


 蓮くんが消えて数日後。


 私は、古いスパイクをきれいに拭いた。


 底の剥がれた部分には触れすぎないようにした。


 表面についたほこり。


 革の隙間に残った土。


 ひもの汚れ。


 一つずつ、柔らかい布で落としていく。


 蓮くんが戻ってくることはない。


 それでも、捨てることはできなかった。


「何してるの?」


 部屋の扉から、お姉ちゃんが顔を出した。


「スパイクを片づけています」


「飾らないの?」


「はい」


「大切にしてたのに」


「今も大切です」


 私は手を止める。


「大切だから、しまうんです」


 お姉ちゃんは不思議そうな顔をした。


 けれど、詳しくは聞かなかった。


「箱、ある?」


「買ってきました」


 机の横には、新しい箱を置いている。


 中へ薄い紙を敷き、古いスパイクを置いた。


 蓮さんから譲ってもらった、片方だけのスパイク。


 長い間、私の部屋でお守りになり。

 蓮くんが現れ、帰っていった場所。


 私は形が崩れないよう、周囲へ丁寧に紙を詰めた。


 箱のふたを閉じようとして、手が止まる。


「美緒?」


「少しだけ」


 私は箱の中を見る。


「少しだけ、待ってください」


 返事はない。


 あの日と同じ言葉。


 けれど、今度は光も現れない。


「ありがとう」


 小さく伝える。


「見ていてください」


 ふたを閉じた。


 箱を、クローゼットの上へしまう。


 忘れるためではない。


 見なくても、忘れないと思えたからだ。


 代わりに、机の近くへ自分のスパイクを置いた。


 代表決定戦で履いたもの。


 同点ゴールを決め。


 陽菜へ決勝点のパスを出したスパイク。


 まだ新しい傷しかない。


 これから、もっと多くの傷が増えていく。


 誰かから譲られたものではない。


 自分で選び。


 自分の足で履いたスパイクだった。


     ◇


 全国大会で、私たちは初戦敗退した。


 相手は、県大会決勝で戦った明成学園よりも強かった。


 速さ。


 判断。


 技術。


 すべてで上回られた。


 私は後半から出場した。


 陽菜の動きは見えた。


 けれど、一度目のパスは相手に触られた。


 二度目は、陽菜の足元から少しずれた。


 三度目は通った。


 けれど、陽菜のシュートはゴールキーパーに止められた。


 得点できないまま、試合は終わった。


 全国大会出場。


 それだけで満足できると思っていた。


 けれど、試合終了の笛を聞いた瞬間、悔しくて立てなかった。


「美緒」


 陽菜が隣へ座る。


「ごめん」


「何が?」


「最後、決められなかった」


「私のパスも少しずれた」


「でも、触れた」


「決められた?」


「分かんない」


「だったら、次に直そう」


 自分の口から出た言葉に、少し驚いた。


 以前なら。


 パスを出さなければよかったと思ったかもしれない。


 失敗した自分を責め続けたかもしれない。


 でも、今は違う。


 通らなかった。


 だから、次に直す。


 ただ、それだけだった。


「来年も行こう」


 陽菜が言う。


「全国?」


「うん」


「簡単に言わないで」


「美緒も言うようになったね」


「誰かに似たのかも」


「誰?」


「知らない」


 私は少し笑った。


 その後。


 真帆先輩は卒業した。


 沙月と私は、次のチームで同じポジションを争った。


 私は十八番から八番へ変わった。


 それでも、十八番だった頃を忘れなかった。


 試合の流れを引き受け。


 誰かから託された役割を果たす。


 その意味を教えてくれた番号だった。


 高校最後の大会。


 私たちは、もう一度全国大会へ出場した。


 今度は、一回戦を勝った。


 次の試合で負けた。


 私は先発でピッチへ立ち。


 陽菜へ二本の決定的なパスを出した。


 一本は外れ。


 もう一本は得点になった。


 沙月が前へ出たときは、その後ろを守った。


 後輩が失敗したときは、次のプレーを指示した。


 自分で打つべき場面では、シュートを打った。


 誰かになるためではなく。


 自分の選択として、サッカーをした。


     ◇


 蓮さんは、すぐには試合へ戻れなかった。


 最初はベンチにも入れず、ようやく選ばれても出場はなかった。


 初めて与えられた時間は、わずか五分だった。


 何もできなかったと落ち込んだ蓮さんは、それでも逃げず、佐伯さんへ尋ねた。


「最後、俺はどこへ動けばよかった?」


 佐伯さんは答えた。


「俺が外へ流れたので、先輩は中央に残ってほしかったです」


「俺がボールを受けるために?」


「違います」


「じゃあ、何のためだ」


「相手のセンターバックを引きつけるためです」


「俺が受けないのに?」


「先輩がそこにいるから、サイドが空くんです」


 蓮さんは不満そうな顔をした。


 それでも、次の練習では同じ動きを試した。


 少しずつ出場時間が増えた。


 佐伯さんと同時にピッチへ立つ試合もあった。


 蓮さんが相手を引きつけ。


 佐伯さんが空いた場所へ入り。


 別の選手が得点した。


 得点にも、アシストにも記録されないプレー。


 けれど、ベンチへ戻った蓮さんは笑っていた。


 プロにはなれなかった。


 大学卒業後、声をかけてくれたクラブもあった。


 それでも、プロ契約には届かなかった。


 蓮さんは悔しがった。


 お姉ちゃんの前で、悔しいと言った。


 無理に笑わなかった。


 そして、自分で選手生活を終えた。


 夢に敗れたから、逃げるように辞めたのではない。


 最後までプレーし。


 やり切った上で、次へ進んだ。


 その後、蓮さんは指導者資格を取るための勉強を始めた。


「教える方が向いてるとは思えない」


 私が言うと、蓮さんは不満そうな顔をした。


「お前にサッカーを教えたのは俺だろ」


「昔の話です」


「お前が始めたきっかけも俺だ」


「それは認めます」


「なら、向いてる」


「自分で言いますか」


「でも」


 蓮さんは少し真剣な顔になった。


「失敗してる選手が、何を考えてるかは分かる」


 うまくいかないこと。


 周囲と比べられること。


 自分の長所が通用しなくなること。


 好きなものを嫌いだと言いたくなること。


 全部、蓮さんが経験したことだった。


「夢を諦めるな、とは言わない」


「はい」


「でも、諦める前に、本当に自分で決めたのかは聞きたい」


「蓮さんらしくありませんね」


「何が?」


「昔なら、絶対に諦めるなって言っていました」


「昔の俺は、面倒だったからな」


「今も少し面倒です」


「少し?」


「かなり」


「お前、年上への態度を忘れてないか」


「蓮さんが教えたんでしょう。見えていることを、見なかったことにするなって」


 蓮さんは一瞬、黙った。


「俺、そんなこと言ったか?」


「言いました」


 言ったのは、蓮くんだ。


 けれど私は、説明しなかった。


「そうだったか」


「はい」


「なら、覚えておく」


 蓮さんは、その言葉の意味を知らない。


 それでも。


 どこか懐かしそうに笑った。


     ◇


 数年後。


 私は、大学女子サッカー部で競技を続けている。


 プロ選手になれるかは、まだ分からない。


 なりたいとは思っている。


 けれど、それだけが私の夢ではない。


 今日の試合で、自分の判断をすること。


 仲間の動きを見ること。


 見つけた場所へ、迷わずボールを出すこと。


 一つずつ重ねた先に、どこまで行けるのかを確かめたい。


 それが、今の私の夢だった。


 試合当日の朝。


 部屋でユニフォームへ着替える。


 机の近くには、高校最後の大会で履いたスパイクを飾っている。


 傷だらけだった。


 つま先は擦れ。


 ひもも少し色あせている。


 クローゼットの上には、古いスパイクを入れた箱がある。


 もう何年も開けていない。


 忘れたわけではない。


 開けなくても、思い出せるからだ。


 蓮くんの声。


 笑い方。


 サッカーを見ているときの真剣な目。


 私をからかう言葉。


 最後に笑っていた顔。


 すべて、今も覚えている。


「美緒、そろそろ出るよ」


 お姉ちゃんの声がする。


「今行く」


 鞄を持ち、部屋を出る。


 玄関には、お姉ちゃんと蓮さんがいた。


 お姉ちゃんの髪は、以前より少し短くなっている。


 蓮さんも髪を整え、前髪が目にかからなくなっていた。


 昔のような自信に満ちた顔ではない。


 けれど、以前のように地面ばかり見てもいない。


「遅い」


 蓮さんが言う。


「選手には準備があるんです」


「試合時間には間に合うだろ」


「観客が偉そうに言わないでください」


「応援に行ってやるんだぞ」


「お姉ちゃんに誘われたからでしょう」


「俺が行こうって言った」


「本当に?」


「本当だよ」


 お姉ちゃんが笑う。


 蓮さんは少し気まずそうに視線を逸らした。


「美緒の試合、楽しみにしてたから」


「千春」


「いいじゃない。本当のことなんだから」


「余計なことを言うな」


 二人は、今も一緒にいる。


 何も問題がないわけではない。


 蓮さんが一人で抱え込み、お姉ちゃんが怒ることもある。


 お姉ちゃんが遠慮しすぎて、蓮さんが気づかないこともある。


 それでも。


 二人は話すようになった。


 何度でも向き合い直している。


「行くよ、美緒」


「はい」


 三人で家を出る。


     ◇


 大学のグラウンド。


 観客席には、多くの人が集まっていた。


 私はベンチの前でスパイクのひもを結ぶ。


 今履いているのは、高校時代のものではない。


 大学へ入ってから自分で選んだ、新しいスパイク。


 自分の足に合うもの。


 自分が走るためのもの。


「美緒」


 観客席から、お姉ちゃんが手を振っている。


 その隣には、蓮さんがいた。


 首から小さな指導者用のホイッスルを下げている。


 今日の午前中まで、子どもたちの練習を見ていたらしい。


「ちゃんと見てくださいね」


 私が言う。


「そのつもりで来た」


「途中で帰らないでください」


「帰らない」


「本当に?」


「何年前の話をしてるんだ」


 蓮さんが呆れたように言う。


 私がベンチへ戻ろうとすると、蓮さんが呼び止めた。


「美緒」


「何ですか」


「昔より、ずっとうまくなったな」


 少し驚いた。


 蓮さんは褒めるとき、今でも照れたような顔をする。


「試合前に褒めると、調子に乗るかもしれませんよ」


「お前は少しくらい調子に乗った方がいい」


「指導者みたいなことを言いますね」


「指導者を目指してるからな」


「まだ資格を取っている途中でしょう」


「細かいな」


 私は少し笑う。


「誰のおかげだと思ってるの?」


 蓮さんは迷わず答えた。


「昔、俺が教えたからだろ」


 きっと、蓮さんが覚えているのは、幼い私とボールを蹴った日々だけだ。


 古いスパイクを譲ってくれたこと。


 サッカーを始めるきっかけになったこと。


 蓮くんが現れてからの時間は、知らない。


 授業中に話しかけられたことも。


 一緒に映像を見たことも。


 憑依したことも。


 河川敷で告白したことも。


 何一つ覚えていない。


 それでも。


 蓮くんから受け取ったものは、私の中に残っている。


「半分だけね」


「残り半分は?」


「秘密です」


「何だ、それ」


「教えません」


 試合開始を知らせるアナウンスが流れる。


 私は蓮さんたちへ背を向けた。


 ピッチへ向かう。


 今も、試合前は少し怖い。


 失敗するかもしれない。


 見えている場所へ、正確に出せないかもしれない。


 シュートを外すかもしれない。


 何もできないまま、交代するかもしれない。


 それでも。


 怖くないふりはしない。


 怖いまま、自分で選ぶ。


 試合開始の笛が鳴った。


 私は自分のスパイクで、ピッチへ走り出す。


 味方がボールを持つ。


 相手が寄せる。


 私は周囲を見る。


 一度。


 二度。


 右から味方が走る。


 左では別の選手が相手を引きつけている。


 中央に、わずかな場所が空く。


 見えている。


 パスを受ける。


 前を向く。


 相手が近づく。


 以前なら、横へ逃がしたかもしれない。


 けれど今は。


 味方の走る先へ、右足を振る。


 ボールが相手の間を通る。


 味方へ届く。


 そのまま、私は前へ走る。


 ふと、青空を見上げた。


 もう、声は聞こえない。


 隣に立つ姿もない。


 それでも、胸の中には言葉が残っている。


 ――今度は俺のサッカーじゃなくて、美緒のサッカーを見せてくれ。


 私は小さく笑った。


 見ててね。


 今度は、私の夢だから。


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