第21話 託される背番号
代表決定戦の前日。
右足首に巻かれていたテーピングを外すと、皮膚に白い跡が残っていた。
「ゆっくり曲げてみて」
倉橋先生に言われ、私は足首を動かす。
つま先を伸ばす。
内側へ倒す。
外側へ倒す。
痛みはない。
準決勝の翌日は、歩くだけでも鈍い痛みがあった。
練習には参加せず、冷却と安静を続けた。
それから数日。
軽いジョギング。
直線での加速。
短いパス。
少しずつ負荷を上げ、今日ようやくボールを使った練習へ戻った。
「違和感は?」
「ありません」
「本当に?」
「少し張っている感じはあります。でも、痛みではありません」
先生は私の返事だけでは判断せず、もう一度右足首へ触れた。
「片足で立って」
「はい」
右足だけで身体を支える。
「そのまま膝を曲げる」
ゆっくり腰を落とす。
足首は痛まない。
姿勢も崩れなかった。
「軽く跳んで」
その場で小さく跳ぶ。
一度。
二度。
三度。
着地のたびに、右足首の感覚を確かめる。
「大丈夫です」
「出場可能とは判断する」
胸の奥が大きく鳴った。
「ただし、完全に元どおりとは考えないこと」
「はい」
「明日もテーピングをする。痛みが出たら、すぐに伝えなさい」
「分かりました」
「隠したら下げる。前にも言ったわね」
「覚えています」
倉橋先生はうなずき、立ち上がった。
少し離れた場所で、蓮くんが腕を組んでいる。
「よかったな」
「はい」
「でも、無理はするなよ」
「先生と同じことを言わないでください」
「大事だから言ってる」
「分かっています」
「本当に?」
「蓮くんまで疑わないでください」
準決勝で無理な切り返しをしたのは、蓮くんだった。
けれど、それを頼んだのは私だ。
二人で同じ間違いをした。
だから、どちらか一人が注意するだけでは足りないのかもしれない。
「無理はしません」
今度は、はっきりと言う。
「明日は、私の身体で最後まで判断します」
蓮くんは少し黙ったあと、うなずいた。
「ああ」
◇
最後の練習は、普段より短かった。
身体へ疲労を残さないため、激しい対人練習は行わない。
パスの確認。
守備の立ち位置。
セットプレー。
対戦相手を想定した攻撃の形。
明日の相手は、全国大会への出場経験が何度もある私立高校だった。
部員の多くがスポーツ推薦で入学している。
専用の人工芝グラウンド。
常駐するトレーナー。
県外から集められた選手。
控えにも、ほかの学校なら先発に入れる選手がそろっている。
対する青葉高校は、公立高校だ。
専用グラウンドもない。
練習時間も、男子サッカー部と分けている。
大会が始まる前なら、同じ舞台に立てるとは思わなかったかもしれない。
けれど、私たちは準決勝を勝った。
失点しても。
失敗しても。
全員で取り返して、ここまで来た。
「一度止める!」
倉橋先生の笛が鳴る。
選手たちが動きを止めた。
「今の形、相手のサイドバックがもっと高い位置まで来ると思って」
先生が磁石の置かれた作戦ボードを指す。
「奪ったあとは、空いた外側を使う。ただし、最初から外だけを見ると中央を消される」
沙月が中央に立っている。
相手役の選手を引きつけ、右へ短く出す。
陽菜は前線から一度下がった。
相手のセンターバック役がついてくる。
その背後へ、別の選手が走り込む。
「今の動き」
蓮くんが隣で言った。
「見えていました」
「何も言ってないだろ」
「背後が空いたと言いたかったんでしょう」
「分かってるじゃないか」
私は出場組の外で、その動きを見ていた。
足首の状態を確認するため、練習の一部には参加した。
しかし、今行われている戦術確認に私は入っていない。
中央には沙月。
陽菜の後ろへ走る役目も、別の選手が務めている。
胸の奥がざわつく。
出場可能と言われた。
それでも、先発とは限らない。
分かっていたことだった。
「集合」
練習終了後、倉橋先生が部員全員を呼んだ。
明日の登録選手が前へ並ぶ。
先生は手元の用紙へ視線を落とした。
「先発を発表する」
空気が変わった。
一人ずつ名前が呼ばれる。
ゴールキーパー。
ディフェンダー。
真帆先輩の名前。
ボランチ。
サイドハーフ。
「攻撃的ミッドフィルダー、橘」
「はい」
沙月が短く答えた。
胸の奥が沈む。
予想していた。
準決勝でも沙月が先発だった。
私は足首を痛めたばかりだ。
相手は全国大会常連の強豪校。
守備や運動量を考えれば、沙月を先に使うのは当然だった。
それでも。
名前を呼ばれないことが、悔しかった。
「フォワード、小野寺」
「はい!」
陽菜の声が響く。
先発十一人の発表が終わった。
私の名前はなかった。
「藤崎」
「はい」
呼ばれ、顔を上げる。
「ベンチから試合を見なさい」
「はい」
返事をする。
声は震えなかった。
「足首を理由に外したわけではない」
先生が続けた。
「橘の守備と運動量を使い、前半は相手の攻撃を抑える」
「はい」
「ただし、守るだけで勝てる相手ではない」
先生の視線が、私へ向けられる。
「試合の流れを変える必要が出たとき、あなたを使う」
胸の奥がもう一度鳴った。
「最初から出る選手と、途中から入る選手に上下はない」
先生は全員を見渡す。
「それぞれに役割がある。先発は、途中から入る選手へ試合をつなぐ。控えは、いつ呼ばれても役割を果たせるよう準備する」
「はい」
全員の声が重なった。
「明日は、これまでで一番苦しい試合になる」
先生の声は落ち着いていた。
「一人で勝とうとしないこと。一人の失敗で終わったと思わないこと」
準決勝で言われた言葉がよみがえる。
失敗した選手を、残りの十人で助ける。
「青葉高校の全員で、全国への切符を取りに行く」
「はい!」
今度の返事は、さっきより大きかった。
◇
部室へ戻ると、机の上に明日のユニフォームが並べられていた。
白いシャツ。
青いライン。
背中に印刷された数字。
十一。
陽菜の番号。
四。
真帆先輩の番号。
少し離れた場所には、私の番号もあった。
十八。
今までの私は、この番号を控えに近い自分の印だと思っていた。
先発に定着しているわけでもない。
チームの中心でもない。
いつか別の番号をもらって。
もっと中心の選手になって。
蓮さんのように、チームを勝たせられるようになって。
そうなって初めて、本当の選手になれると思っていた。
私は十八番のシャツへ手を伸ばした。
「藤崎」
背後から真帆先輩に呼ばれる。
「はい」
振り向くと、先輩は自分の四番のユニフォームを持っていた。
「足は?」
「出場可能だと言われました」
「そうじゃなくて、今どうなの」
「痛みはありません」
「ならいい」
真帆先輩は私の隣へ立ち、机の上の十八番を見る。
「先発じゃなくて、悔しい?」
隠しても意味がないと思った。
「悔しいです」
「そう」
「でも、沙月が先発なのは納得しています」
「納得してても、悔しいものは悔しいでしょ」
「はい」
先輩が私のユニフォームを持ち上げた。
背中の十八番がこちらへ向けられる。
「これを、控えの番号だと思ってる?」
「少し前までは」
「今は?」
すぐには答えられなかった。
「まだ、分かりません」
「明日、分かればいい」
先輩はユニフォームを私へ差し出した。
受け取る。
布越しに、先輩の指が一瞬触れた。
「先発が試合を作る」
真帆先輩が言う。
「でも、同じ十一人だけで最後まで戦えるとは限らない」
「はい」
「苦しくなったとき、流れを変える選手が必要になる」
「先生にも言われました」
「先生に言われたから信じるの?」
真帆先輩の鋭い目が、私を見る。
「違います」
「だったら、自分で信じなさい」
十八番を握る。
「藤崎にしか見えない場所がある」
「でも、見えても失敗するかもしれません」
「失敗してもいい」
思わず顔を上げた。
先輩は冗談を言っている顔ではなかった。
「いいんですか?」
「失敗することと、適当にプレーすることは違う」
「はい」
「見えているのに逃げたら、私は怒る」
「……はい」
「でも、見えたものを信じて選んだなら、失敗してもいい」
先輩の声は厳しい。
それでも、拒絶する厳しさではなかった。
「判断したなら、最後まで責任を持ちなさい」
「責任を」
「ボールを出して終わりじゃない。取られたら戻る。ずれたら次に直す。味方が拾ったら、もう一度受けられる場所へ動く」
準決勝の同点ゴールを思い出す。
私のパスは陽菜へ通らなかった。
相手に触られた。
それでも沙月が拾い、別の選手がクロスを上げ、陽菜が決めた。
「一つのプレーだけで、自分の判断を正解か失敗かに決めつけないこと」
「はい」
「明日、私たちが苦しくなったら」
先輩は十八番を握る私の手を軽く叩いた。
「その番号に託すから」
胸が熱くなった。
私の番号。
控えの自分を示す印ではない。
誰かの代わりに着る番号でもない。
チームが苦しくなったとき、流れを変える役割を託された番号。
「はい」
今度は迷わなかった。
「必ず準備しておきます」
「必ず出るとは限らないけどね」
「そこは言わなくてもいいでしょう」
「出ないで勝てるなら、それが一番だから」
「分かっています」
真帆先輩は少しだけ笑った。
「でも、出たときは頼むよ」
「はい」
◇
部室を出ると、陽菜が廊下で待っていた。
「遅い」
「先輩と話してたの」
「何を?」
「内緒」
「私にも?」
「陽菜は何でも聞こうとしすぎ」
「親友だから」
「理由になってない」
陽菜は不満そうに頬を膨らませた。
その横を、沙月が通り過ぎようとする。
「沙月」
私が呼ぶと、足を止めた。
「何?」
「明日、よろしく」
「うん」
「先発、頑張って」
「言われなくても」
沙月らしい返事だった。
少し間を置き、沙月が私の右足を見る。
「足は?」
「大丈夫」
「本当に?」
「みんな同じことを聞くね」
「準決勝で痛めた選手が言うことじゃない」
「出場可能だって」
「そう」
沙月はそれだけ答え、前を向く。
「前半で終わらせるつもりだから」
「私の出番をなくすつもり?」
「勝てるなら、その方がいいでしょ」
「それはそうだけど」
「でも」
沙月が振り返る。
「たぶん、そんな簡単な相手じゃない」
全国大会常連の私立強豪校。
こちらの弱点も、きっと調べられている。
陽菜への縦パス。
沙月の運動量。
真帆先輩を中心とした守備。
私が途中から入る可能性も、映像を見れば分かる。
「私が走れなくなったら、代わって」
沙月が言った。
「まだ決まってないよ」
「先生の考えなら、たぶんそうなる」
「自分が交代する前提で話していいの?」
「最後まで走れるように準備する。でも、明日は守備で走らされる」
沙月は自分の役割を理解している。
だから、途中で出る私の役割も考えている。
「私が相手を動かす」
沙月が続ける。
「相手の中盤を走らせて、少しでも疲れさせる」
「うん」
「藤崎が入る頃には、最初より場所が空いてるはず」
「そこを使えってこと?」
「見えてるなら」
沙月の切れ長の目が、少しだけ柔らかくなる。
「今度は見なかったことにしないで」
最初の頃から、沙月は同じことを言っていた。
見えているなら出せばいい。
外すのが怖いからと、見なかったことにしないで。
「うん」
私は十八番の入った鞄を握る。
「今度は出す」
沙月は短くうなずいた。
「なら、任せる」
そのまま廊下を歩いていく。
私より先にピッチへ立つ選手から。
試合の途中を、託された。
「私も任せる」
陽菜が言った。
「何を?」
「ゴール」
「それは自分の役割でしょう」
「美緒が出したら、私が決める」
陽菜は当たり前のように言った。
「外すかもしれないよ」
「外したら、次も走る」
「次のパスが来ないかもしれない」
「来るまで走る」
「相手に読まれるかも」
「じゃあ、違う走り方をする」
何を言っても、陽菜は止まらない。
「美緒が迷っても、私は走るから」
「迷わないようにする」
「迷ってもいいよ」
「いいの?」
「迷っても、最後に出してくれたらいい」
陽菜が小指を差し出す。
「またそれ?」
「約束」
「子どもみたい」
「いいから」
私は小指を絡めた。
「美緒が出したら、私が決める」
「外したら?」
「二人で取り返す」
「ほかのみんなもいるよ」
「じゃあ、全員で」
陽菜が笑う。
その笑顔を見ていると、明日の相手がどれほど強くても、少しだけ進める気がした。
◇
家に帰ると、お姉ちゃんが台所に立っていた。
「ただいま」
「おかえり。足はどうだった?」
「出てもいいって」
「本当に?」
「お姉ちゃんまで疑うの?」
「だって、準決勝のあと、まともに歩けてなかったでしょう」
「軽い捻挫だったから。もう痛くないよ」
「無理はしないでね」
「分かってる」
今日だけで、何度同じことを言われただろう。
それだけ、みんなが心配してくれている。
「明日、見に来る?」
「もちろん」
お姉ちゃんは鍋の火を弱めた。
「先発?」
「ベンチ」
「そっか」
励まそうとするでも、残念そうにするでもなかった。
ただ、私の返事を受け止めている。
「悔しい?」
「少し」
「少しだけ?」
「かなり」
正直に言うと、お姉ちゃんが笑った。
「それなら安心した」
「どうして?」
「悔しいって言えるくらい、出たいんでしょう」
「うん」
「前は、失敗したくない気持ちの方が強そうだったから」
お姉ちゃんにも分かっていたらしい。
「今も失敗は怖いよ」
「それでも出たい?」
「出たい」
「なら、大丈夫」
「何が?」
「分からない」
「適当だね」
「陽菜ちゃんみたいなこと言っちゃった」
お姉ちゃんが笑う。
その横で、蓮くんが静かに立っていた。
今日の蓮くんは、朝から何度か輪郭が揺れている。
強い光の中だけではない。
廊下を歩いているとき。
グラウンドの端に立っているとき。
何でもない瞬間に、制服の袖が透けた。
今も、台所の明かりが蓮くんの身体を通り抜けている。
向こう側にある食器棚の輪郭が、かすかに見えた。
どうして薄くなっているのかは分からない。
古いスパイクが限界へ近づいているからなのか。
それとも、現在の蓮さんの心が変わり始めているからなのか。
どちらにしても。
蓮くんと過ごせる時間が、長くないことだけは分かった。
「美緒?」
お姉ちゃんに呼ばれる。
「何?」
「最近、よく同じところを見るね」
「そうかな」
「何もないところ」
「考え事してるだけ」
「試合のこと?」
「……それもある」
お姉ちゃんは火を止め、私へ向き直った。
「美緒、最近ずっと、誰かと別れようとしてるみたいな顔してる」
息が止まった。
蓮くんも、お姉ちゃんを見る。
「別れようとしてる?」
「うん」
「誰と?」
「それを聞いてるの」
お姉ちゃんは少し困ったように笑う。
「無理に話さなくてもいいけど」
「何もないよ」
「美緒」
優しい声だった。
責めていない。
ただ、見ないふりをしてくれない声。
「試合の前だから不安なだけ」
「それだけじゃないでしょう」
答えられない。
蓮くんの輪郭が、また一瞬揺れた。
私は目を逸らした。
認めたくなかった。
明日の試合が終われば、何かが変わる。
現在の蓮さんが、もう一度サッカーを選ぶかもしれない。
そうなれば、蓮くんは戻る。
それが必要なことだと分かっている。
蓮くん自身も、受け入れようとしている。
それでも。
明日の試合を勝ちたいと思うほど、その先にある別れが近づいてくる。
「昔好きだった人に」
声が小さくなった。
お姉ちゃんが黙って待つ。
「ちゃんと、さよならしないといけないの」
蓮くんが私を見る。
「昔好きだった人?」
お姉ちゃんが聞き返す。
「うん」
「同じ学校の人?」
「違う」
「今も好きなの?」
すぐには答えられなかった。
「分からない」
嘘だった。
好きだ。
今も。
けれど、言葉にした瞬間、蓮くんへ届いてしまう気がした。
「その人とは、もう会えないの?」
「たぶん」
声が震える。
「でも、ちゃんと伝えたいことがある」
「好きだったって?」
「それも」
お姉ちゃんは少し考えたあと、私の頭へ手を置いた。
子ども扱いするような触れ方ではなかった。
ただ、ここにいると伝えるような手だった。
「言えるといいね」
「……うん」
「言えなくても、好きだったことまでなくなるわけじゃないけど」
胸の奥が締めつけられる。
「でも、美緒は言わなかったことをずっと考えるから」
「そうかな」
「妹だから分かるよ」
お姉ちゃんが笑う。
私は泣きそうになるのを堪えた。
「明日は試合に集中する」
「うん」
「終わってから、ちゃんと話す」
「その人と?」
「うん」
蓮くんは何も言わなかった。
◇
夕食のあと、自分の部屋へ戻った。
十八番のユニフォームを、椅子の背へ掛ける。
古いスパイクは、棚の上に置いたままだ。
蓮くんは窓の前に立っている。
夜の窓ガラスには、私の姿が映っていた。
蓮くんの姿も映っている。
けれど、以前より薄い。
「さっきの話」
蓮くんが口を開く。
「聞かないでください」
「まだ何も聞いてない」
「聞こうとしているでしょう」
「昔好きだった人って、誰だ?」
「言いません」
「俺の知ってる相手か?」
「言いたくありません」
蓮くんが黙る。
私は鞄からスマートフォンを取り出した。
現在の蓮さんとのメッセージ画面を開く。
準々決勝の映像を送ってから、返事は来ていない。
既読はついていた。
大学サッカー部の監督から示された期限は、今日だった。
蓮さんが何を選んだのか、私は知らない。
送る文章を打つ。
『明日、県大会の決勝です』
一度止まる。
『全国大会への出場が懸かっています』
それだけでは、試合の報告だ。
私は続きを打った。
『見に来てください』
送信する前に、指が止まる。
「呼ぶのか?」
蓮くんが聞く。
「はい」
「あいつを?」
「はい」
「来ると思うか?」
「分かりません」
「退部届は?」
「分かりません」
分からないことばかりだった。
それでも、送らなければ来る可能性もない。
『昔の蓮さんではなく、今の蓮さんに見てほしいです』
そこまで打ち、読み返す。
押しつけていないだろうか。
試合を見れば、サッカーへ戻りたくなる。
そう期待しているだけではないのか。
私は最後に一文を加えた。
『見たあとで何を選ぶかは、蓮さんが決めてください』
送信する。
画面にメッセージが表示された。
「美緒」
「何ですか」
「俺は、明日あいつが来たら」
蓮くんの言葉が止まる。
「戻ると思いますか?」
「分からない」
「怖くないんですか」
「何が?」
「消えることが」
蓮くんは自分の手を見る。
指の向こうに、机の端が透けている。
「消えるとは思ってない」
「でも、蓮くんとしては」
「今のまま残れないことは分かってる」
「それを消えると言うんです」
「俺は、もともとあいつからなくなったものだ」
蓮くんの声は落ち着いていた。
「戻れるなら、それでいい」
「私とのことは、蓮さんには残りません」
「ああ」
「蓮くんが覚えていることも」
「ああ」
「それでもいいんですか」
「よくはない」
初めて、蓮くんがはっきり否定した。
私は顔を上げる。
「美緒といたことが、誰にも残らないのは嫌だ」
「だったら」
「でも、そのためにあいつをこのままにはできない」
蓮くんの輪郭が揺れる。
窓から吹き込む風に、カーテンが動いた。
蓮くんの髪はほとんど揺れない。
「俺が持ってる夢は、あいつのものだった」
「今は蓮くんのものでもあります」
「そうだな」
蓮くんが少し笑う。
「でも、あいつがもう一度サッカーを選ぶなら、返さないといけない」
「返さなくても、蓮さんは自分で始められるかもしれません」
「夢がなくても?」
「蓮くんは夢だけではありません」
「美緒がそうしてくれた」
胸が痛む。
「だから、俺が決める」
「何を?」
「戻るかどうか」
少年が現在の蓮へ戻る条件。
現在の蓮さんが、自分の意思でサッカーを選ぶこと。
そして、蓮くん自身が戻ることを受け入れること。
「まだ決めたわけじゃない」
蓮くんが言う。
「あいつが何を言うかも分からない」
「はい」
「明日は、お前の試合だ」
「分かっています」
「俺のことばかり考えるな」
「考えていません」
「嘘だ」
「少ししか考えていません」
「それを考えてるって言うんだよ」
蓮くんが椅子へ近づく。
十八番のユニフォームを見る。
「先発じゃないんだな」
「聞いていたでしょう」
「ああ」
「悔しいです」
「それも聞いた」
「でも、出番は来ます」
「言い切るのか?」
「来なくても準備します」
十八番を手に取る。
「先発のみんなが苦しくなったとき、この番号に託すと言われました」
「責任重大だな」
「怖がらせないでください」
「怖いのか?」
「怖いです」
隠さず答えた。
「全国大会が懸かっています。私の判断で負けるかもしれない」
「ああ」
「でも、見なかったことにはしません」
ユニフォームの数字を指でなぞる。
「陽菜が走ったら、出します」
「通ると思うか?」
「分かりません」
「取られたら?」
「戻ります」
「ずれたら?」
「次に直します」
「陽菜が外したら?」
「全員で取り返します」
真帆先輩に言われたこと。
陽菜と約束したこと。
沙月から託されたこと。
それを一つずつ、口にする。
「憑依は?」
「使いません」
「俺が頼んでも?」
「使いません」
「負けそうでも?」
胸が揺れる。
それでも答える。
「使いません」
「本当に?」
「私がやります」
蓮くんはしばらく私を見つめていた。
やがて、少しだけ笑う。
「それなら、俺は見てる」
「助言はしてもいいですよ」
「聞くのか?」
「参考にはします」
「まだ信用されてないな」
「準決勝で無理な突破をした人ですから」
「それを言われると何も返せない」
蓮くんは窓の外へ目を向ける。
「美緒」
「何ですか」
「明日、俺のサッカーをするなよ」
意外な言葉だった。
「蓮くんの?」
「一人で相手を抜いて、自分で決めるサッカー」
「はい」
「お前は、みんなを見ろ」
「はい」
「俺には見えなかったものを見つけろ」
胸の奥に、言葉が残る。
「それが、お前の背番号でやるサッカーだろ」
私は十八番を抱きしめた。
「はい」
◇
同じ頃。
現在の蓮は、大学サッカー部の部室前に立っていた。
鞄の中には、書き直した退部届が入っている。
監督から言われた期限は今日だった。
一週間後も同じ気持ちなら、もう一度持ってこい。
そう言われた。
名前も日付も書いた。
提出するだけだった。
扉の向こうから、声が聞こえる。
練習を終えた部員たちの笑い声。
スパイクが床を踏む音。
聞き慣れていたはずの音が、ひどく遠く感じた。
蓮は鞄へ手を入れた。
退部届の端へ指が触れる。
そのとき、スマートフォンが震えた。
美緒からのメッセージだった。
『明日、県大会の決勝です』
『全国大会への出場が懸かっています』
『見に来てください』
『昔の蓮さんではなく、今の蓮さんに見てほしいです』
『見たあとで何を選ぶかは、蓮さんが決めてください』
蓮は画面を見つめた。
戻ってきてほしいとは書かれていない。
昔のようになってほしいとも。
ただ、今の自分に見てほしいと書かれていた。
「蓮?」
背後から声がした。
振り返る。
千春が立っていた。
「どうしてここに」
「今日が期限だって、前に聞いてたから」
「でも、俺がここにいるとは限らないだろ」
「連絡したよ。返事がなかったから、練習が終わる時間に来たの」
スマートフォンを確認する。
千春からのメッセージが届いていた。
画面を見る余裕がなく、気づいていなかった。
「悪い」
「ううん」
千春は蓮の鞄を見る。
「出すの?」
「そのつもりで来た」
「そっか」
止めなかった。
責めることもしない。
それが、かえって苦しかった。
「何も言わないのか」
「私が決めることじゃないから」
「続けてほしくないのか」
「そういう聞き方、ずるいよ」
千春の声は静かだった。
「続けてって言ったら、私のために無理をするの?」
「それは」
「辞めていいって言ったら、私のせいにしない?」
答えられない。
「私、サッカーを辞めた蓮が嫌なんじゃない」
千春がまっすぐ蓮を見る。
「苦しいことを何も話してくれない蓮のそばにいるのが、つらかった」
「……悪かった」
「謝って終わりにしないで」
蓮は目を伏せる。
「俺は、サッカーをしてない自分を見られたくなかった」
「うん」
「お前が好きだったのは、高校の頃の俺だと思ってた」
「どうして私の気持ちを、蓮が決めるの?」
以前、美緒にも同じようなことを言われた。
自分で決めてください。
昔の夢でも。
千春の期待でも。
美緒の憧れでもなく。
今の自分がどうしたいのかを。
「美緒から来た?」
千春がスマートフォンへ目を向ける。
「明日の試合を見に来いって」
「私にも来たよ」
「行くのか」
「もちろん」
「俺も行った方がいいと思うか?」
「それも自分で決めて」
「何でも俺に決めさせるんだな」
「今まで蓮が、勝手に私の分まで決めてたから」
千春は少しだけ笑った。
蓮も、わずかに口元を緩める。
「美緒は、昔の蓮に戻ってほしいから呼んだんじゃないと思う」
「分かってる」
「本当に?」
「あいつは、今の俺に見ろって書いてる」
もう一度メッセージを見る。
見たあとで何を選ぶかは、自分で決めろ。
「明日の試合を見ても、何も変わらないかもしれない」
「うん」
「サッカーが怖いままかもしれない」
「うん」
「戻りたいと思わないかもしれない」
「それでもいいんじゃない?」
千春は急かさなかった。
次は大丈夫とも言わない。
高校時代、決定機を外した自分へしてくれたように。
今の気持ちを、なかったことにしない。
「今日は、退部届を出さない」
口にすると、胸の奥が震えた。
続けると決めたわけではない。
戻ると決めたわけでもない。
ただ。
逃げる勢いで書いた紙を、このまま黙って提出することはやめる。
「明日の試合を見てから決める」
千春がうなずく。
「うん」
蓮は鞄から退部届を取り出した。
紙を握ったまま、部室の扉へ向き直る。
「監督に話してくる」
「何て?」
「期限を延ばしてほしいって」
「怒られるかもよ」
「分かってる」
それでも、何も言わずに帰るよりはよかった。
蓮は部室の扉を開けた。
笑い声が止まる。
何人かの部員がこちらを見る。
その奥に、監督がいた。
「瀬川」
監督の視線が、蓮の手にある紙へ向けられる。
「期限は今日だったな」
「はい」
蓮は退部届を握り直した。
「でも、今日は出しません」
部室が静かになる。
監督は表情を変えなかった。
「理由は?」
「明日、見たい試合があります」
「見たあとで、答えが変わるのか」
「分かりません」
「分からないから期限を延ばせと?」
「はい」
監督の目が鋭くなる。
「一週間与えた」
「分かっています」
「その一週間で決められなかったのか」
「決めようとはしました」
「結果は?」
「辞めるつもりで、ここまで来ました」
蓮は退部届へ目を落とした。
「でも、このまま出したら、また逃げたことになる気がします」
「辞めることが逃げだと言っているのか」
「違います」
すぐに否定した。
「何も見ずに、怖いから辞めることがです」
監督はしばらく黙っていた。
「明日の試合を見てから決めたいです」
「約束の期限は今日だ」
「分かっています」
蓮は頭を下げた。
「それでも、もう一日だけ待ってください」
監督は蓮を見つめる。
逃げ道を探すような目ではなかった。
試すような目だった。
「自分で考えるための一日なら待つ」
監督が言う。
「逃げるためなら待たない」
「逃げません」
「明後日、必ず来い」
「はい」
「続けるにしても、辞めるにしても、自分の口で伝えろ」
「分かりました」
監督がうなずく。
「今日は帰れ」
「はい」
蓮は退部届を二つに折った。
破りはしなかった。
鞄の奥へしまい直す。
部室を出ると、千春が廊下で待っていた。
「怒られた?」
「少し」
「待ってもらえた?」
「ああ」
蓮は部室の扉を見る。
扉を開けただけで、サッカーへ戻ったわけではない。
退部届を捨てたわけでもない。
それでも。
自分の答えから逃げずに、もう一日だけ向き合うことを選んだ。
「明日、美緒の試合を見る」
千春がうなずく。
「うん」
「そのあとで決める」
「分かった」
二人は並んで歩き出す。
明日。
美緒が、自分の背番号で戦う試合を見る。
昔の自分ではなく。
今の自分の目で。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
それでも蓮は、足を止めなかった。




