第19話 最後の一週間
県大会初戦の朝。
私は、机の上に置いた古いスパイクを見つめていた。
革に入ったひびは、縫い目の近くまで伸びている。
一晩で急に広がったわけではない。
それでも、見るたびに長くなっているような気がした。
「持っていくのか?」
背後から声がする。
「はい」
「試合で履けないのに?」
「分かっています」
私は古いスパイクを布製の袋へ入れた。
その上から、普段使っている自分のスパイクを鞄へ収める。
「お守りです」
「お前、本番で緊張すると、昔からすぐ何かに頼るよな」
「このスパイクをお守りにしたのは、高校時代の蓮さんのせいです」
「俺じゃないんだな」
「蓮くんが、蓮さんとは違う人だと言ったでしょう」
「そうだけど」
蓮くんは少しだけ不満そうな顔をした。
「それでも、このスパイクに残っていたものが、蓮くんになったのかもしれません」
「結局、俺にも責任があるって言いたいのか?」
「そこまでは言っていません」
「言ってる顔だろ、それ」
自分が高校時代の蓮さん本人ではないと知ってから、蓮くんが現在の蓮さんを「あいつ」と呼ぶ声は、以前とは少し違って聞こえるようになった。
今は明確に、自分とは違う人間として呼んでいる。
「まだ、その呼び方に慣れない」
「慣れてください」
「それ、もう何度も聞いた」
蓮くんは呆れたように笑った。
輪郭はまだ薄い。
朝の光の中では、制服の向こうにカーテンの模様がかすかに透けて見える。
それでも、昨日のように輪郭が途切れたり、急に姿が揺れたりはしていなかった。
「身体は大丈夫なのか?」
「大丈夫です」
「一昨日は学校を休んだだろ。昨日だって練習を見てただけじゃないか」
「頭痛はなくなりました。足にも痛みはありません」
「本当に?」
「本当です」
念を押され、私は右足首を回してみせた。
痛みはない。
倉橋先生にも状態を確認してもらい、今日の試合には出場できることになった。
ただし、先発ではない。
予定どおり、攻撃的ミッドフィルダーには沙月が入る。
私はベンチから試合を見て、必要になったときに呼ばれる。
「今日は俺を使うなよ」
蓮くんが言った。
私は鞄を閉じる手を止めた。
「どうしてですか」
「あいつと話したとき、無理をしたばかりだろ」
「あれは試合ではありません」
「身体を使うことは同じだ」
「短時間なら問題ありません」
「美緒」
「使うと決めたわけではありません」
私は鞄を肩へ掛ける。
「必要になったときに考えます」
「その『必要』を決めるのは誰だよ」
「私です」
答えると、蓮くんは黙った。
以前なら、俺に任せろと言ったはずだ。
勝つためなら、自分の判断を使えと勧めただろう。
けれど今は、私の身体を借りることへ慎重になっている。
私を傷つけたから。
そして、自分が本当の蓮さんではないと知ったから。
「行ってきます」
部屋の扉へ向かう。
蓮くんも隣へ並ぶ。
「美緒」
「何ですか」
「今日は、お前の試合だからな」
「分かっています」
そう答えた。
けれど、鞄の中にある古いスパイクの存在を、強く意識していた。
◇
試合会場は、市内にある陸上競技場だった。
青葉高校は前回大会の成績でシードに入っている。
今日の初戦は準々決勝。
勝てば、過去最高成績に並ぶベスト四へ進める。
普段使っている学校のグラウンドとは違い、芝は短く整えられている。
白線も鮮明だった。
観客席には、選手の家族や他校の部員が集まり始めている。
「美緒、顔固いよ」
アップ前、陽菜が私の頬を両手で挟んだ。
「痛い」
「緊張をほぐしてあげてる」
「余計に緊張するから離して」
陽菜の手を押し返す。
明るい茶色の短いポニーテールが、動きに合わせて揺れた。
「足、本当に大丈夫?」
「大丈夫。昨日も確認してもらったから」
「急に学校を休んだから心配したんだよ」
「ごめん」
「謝らなくていいけど、無理は駄目だからね」
「うん」
陽菜は私の足元を確認したあと、少し安心したように笑った。
「今日は先に走ってるから」
「いつも走ってるでしょう」
「いつもより走る」
「それは守備へ戻れなくなりませんか?」
「そこは気合いで」
「倉橋先生に怒られますよ」
「美緒がいいパス出してくれたら、怒られる前に点を取れるから」
簡単に言い切る。
昔から、陽菜は私のパスが届くと信じている。
私自身よりも、ずっと。
「見えたら出してね」
「……うん」
「間があった」
「分かっています」
「じゃあ、約束」
陽菜が小指を差し出す。
「子どもですか」
「いいから」
私は仕方なく小指を絡めた。
「私が走ったら、見なかったことにしない」
「はい」
「失敗しても、私のせいにしていい」
「それはしません」
「じゃあ、美緒のせい」
「嫌です」
「なら、二人のせいで」
陽菜は楽しそうに笑い、アップの列へ走っていった。
その背中を見送りながら、自分の右手を見る。
小指に、まだ陽菜の温度が残っている。
「いい友達だな」
蓮くんが隣で言った。
「知っています」
「だったら信じろよ」
「簡単に言わないでください」
「簡単じゃないから、あいつは何度も言ってるんだろ」
返す言葉がなかった。
「集合!」
真帆先輩の声が響く。
私は蓮くんから視線を外し、チームの輪へ加わった。
倉橋先生がメンバーを見渡す。
「初戦だからといって、様子を見る必要はない。相手より先に、自分たちの形を出す」
選手たちがうなずく。
「守備は前から。ボールを奪ったら、最初の選択肢は縦。無理ならやり直す。ただし、怖がって横へ逃げるな」
先生の目が、ほんの一瞬だけ私へ向いた。
私にだけ言った言葉ではない。
それでも、胸に刺さった。
「先発は伝えたとおり。橘を中央に置く。藤崎はベンチから見て、相手の守備がどこでずれるか考えておけ」
「はい」
「呼ばれたとき、何を変えるべきか答えられるように」
「分かりました」
沙月は私の隣に立っていた。
黒髪のボブは、アップを終えてもほとんど乱れていない。
「先に行く」
「うん」
「見てて」
短い言葉だった。
「何を?」
「相手のボランチ。私が動かしたとき、誰についてくるか」
「分かった」
沙月はそれだけ言い、先発選手の列へ移った。
競争相手。
それでも、互いに隠し合うつもりはない。
沙月は自分が作ったずれを、私に見ておけと言っている。
私が途中から入ったとき、同じ場所を利用できるように。
「お前のチーム、いいな」
蓮くんが小さく言った。
「急にどうしたんですか」
「高校の頃の俺は、ポジションを奪われる相手に、そんなこと言えなかった」
現在の蓮さんも、同じだったのだろうか。
佐伯さんを、競争相手としか見られなかった。
一緒に試合へ出る可能性を考えられなかった。
以前なら、そのことを蓮くんへ伝えたかもしれない。
けれど今日は、考えるだけにした。
これは、私たちの試合だ。
試合開始の笛が鳴った。
◇
青葉高校は、開始直後から前へ出た。
陽菜が相手センターバックへ走る。
外側の選手がパスコースを切り、後ろから沙月が連動する。
相手は一度後方へ戻したあと、苦し紛れにロングボールを蹴った。
「真帆先輩!」
私はベンチから声を上げる。
真帆先輩はすでに落下地点へ入っていた。
相手フォワードに競り勝ち、頭でボールを味方へ落とす。
そのボールを沙月が受ける。
受ける前に一度、右を見る。
相手のボランチが、沙月の身体の向きにつられて動いた。
その瞬間、沙月は左へターンする。
「今」
蓮くんが呟く。
私にも見えていた。
相手ボランチの背後。
陽菜が右から中央へ入っている。
沙月は迷わず縦パスを送った。
陽菜が触れる。
けれど、相手センターバックが身体を寄せ、シュートまでは行けなかった。
「惜しい!」
ベンチから声が上がる。
陽菜が親指を立てた。
沙月はすぐに守備位置へ戻っている。
「橘は安定してるな」
蓮くんが言う。
「知っています」
「嫌そうだな」
「嫌ではありません」
「先発を取られてるのに?」
「悔しいです。でも、沙月が悪いわけではありません」
沙月は、自分にできることをしている。
迷わず判断し、攻撃が終われば守備へ戻る。
派手な突破はない。
それでもチームの流れを止めない。
前半十五分。
相手が守備の位置を少し下げた。
中央を締め、青葉高校に外側でボールを持たせようとしている。
沙月がボールを受けるたび、相手ボランチが正面へ立つ。
陽菜への縦パスは消され始めた。
「外から崩すしかないか」
ベンチの選手が呟く。
「違う」
蓮くんが言った。
「何がですか」
「沙月に相手が集まってる。逆側のハーフスペースが空いてる」
私にも見えていた。
沙月が中央でボールを受けると、相手のボランチとサイドの選手が内側へ寄る。
そのぶん、逆サイドの選手とサイドバックの間に隙間ができる。
けれど、青葉高校の選手はそこへ走れていない。
ベンチの端で、倉橋先生が腕を組んでいた。
「藤崎」
「はい」
「何が見える」
突然尋ねられる。
「沙月に相手が二人寄っています。その反対側のサイドバックとセンターバックの間が空いています」
「どう使う?」
「逆側のサイドが幅を取って、私たちのサイドバックが内側へ入れば、相手のサイドハーフを迷わせられます」
「それだけ?」
先生の視線が鋭くなる。
もう一度、ピッチを見る。
陽菜は中央で相手センターバック二人に挟まれている。
でも、完全に動けないわけではない。
「陽菜が一度下がれば、センターバックがついてくるかもしれません。空いた後ろへ、逆サイドから走り込めます」
「分かった」
先生はタッチライン際へ進んだ。
「小野寺! 一度受けに下がれ! 逆サイド、背後を狙え!」
指示が飛ぶ。
数分後、狙いどおりの場面が生まれた。
陽菜が中央から下がる。
相手センターバックの一人がついてくる。
沙月が陽菜へパスを出す。
陽菜はワンタッチで逆サイドへ落とした。
空いた場所へ走り込んだ選手がシュートを放つ。
ボールはゴールの外へ外れた。
それでも、相手守備は明らかに動揺した。
「今のは美緒が見つけたの?」
ベンチの隣にいた一年生が尋ねる。
「見えていただけです」
「それを見つけたって言うんじゃない?」
返答に困る。
見えていた。
でも、自分がピッチへ立ったとき、同じように選べるかは分からない。
外からなら、いくらでも分かる。
時間も、距離もある。
失敗する責任を負わずに考えられるから。
「お前が入ったらできる」
蓮くんが言った。
「分かりません」
「見えてるんだろ」
「見えることと、出せることは違います」
「違わない」
「違います」
「じゃあ、俺が――」
蓮くんが言葉を止めた。
私を見る。
憑依を提案しかけたのだと分かった。
「何ですか」
「いや」
「途中でやめないでください」
「自分でやれ」
蓮くんは、それだけ言った。
前半は、両チーム無得点のまま終わった。
◇
ハーフタイム。
選手たちがベンチへ戻ってくる。
陽菜は息を切らしながら、水を飲んでいた。
「相手、私が下がるとついてくる」
「見てた」
「後ろ、空くよね」
「うん」
「美緒が入ったら、あそこへ出して」
当然のように言う。
「私が入るとは決まってないよ」
「入るでしょ」
「どうして」
「先生がずっと美緒に聞いてたから」
陽菜はタオルで汗を拭う。
「それに、沙月も結構走ってる」
隣を見る。
沙月は膝へ手をつき、呼吸を整えていた。
前半、攻守の両方で動き続けていた。
疲れてはいる。
それでも、交代を求める様子はない。
倉橋先生が作戦ボードを置く。
「狙いは悪くない。ただし、相手が中央を閉じたあと、ボールを外へ逃がすだけになっている」
磁石を動かしながら説明する。
「外へ出したら終わりではない。もう一度中央へ入れるために使え」
選手たちがうなずく。
「橘。後半十分まで行けるか」
「行けます」
「無理はするな。運動量が落ちたら藤崎と替える」
「はい」
沙月の返事に迷いはない。
私はビブスを脱ぎ、アップの準備を始めた。
「藤崎」
「はい」
「入ったら、前半に自分で見つけた場所を使え」
「分かりました」
「私が教えた場所ではない。自分で見えた場所だ」
先生は私の目を見る。
「選ぶのも、自分でやれ」
蓮くんの言葉と重なった。
私は強くうなずく。
「はい」
後半が始まった。
青葉高校が再び前へ出る。
けれど、相手も動き方を変えていた。
陽菜が下がっても、センターバックは深追いしない。
代わりにボランチが対応する。
前半に空いていた背後が消えている。
「修正してきたな」
蓮くんが言う。
「はい」
「だったら、今度は陽菜が下がったところへ直接入れられる」
「でも、相手のボランチがいます」
「背負わせるんじゃない。その手前に落とす」
私はピッチを見る。
陽菜が下がる。
相手ボランチがついてくる。
その後ろで、沙月が空いた場所へ移動している。
けれど味方のパスは外へ流れた。
「藤崎、準備!」
先生の声が飛ぶ。
「はい!」
ビブスを脱ぐ。
心臓が大きく鳴った。
交代するのは沙月だと思っていた。
けれど、先生が呼んだ番号は別の選手だった。
「予定を変える。藤崎は右のハーフへ入れ。橘と並べる」
「沙月と?」
「二人とも見えているものが違う。使い分けろ」
「はい」
タッチラインへ立つ。
陽菜がこちらを見る。
笑いながら、手を上げた。
真帆先輩も一度だけうなずく。
沙月は、自分の位置を指さしてから、右側へ手を振った。
私はピッチへ入った。
芝を踏んだ瞬間、身体の重さが消えた気がした。
ボールの位置。
味方の距離。
相手の立ち位置。
一度に視界へ入ってくる。
「右、幅取って!」
真帆先輩の指示が聞こえる。
私は右サイドへ開く。
味方からパスが来た。
受ける前に中央を見る。
陽菜が下がる。
相手ボランチがついていく。
その奥へ沙月が走った。
見えた。
けれど、パスコースには相手の足がある。
少しでもずれれば奪われる。
私は一度、後ろへ戻した。
「美緒!」
陽菜の声。
責めてはいない。
でも、また同じことをした。
「次でいい」
蓮くんが隣で言う。
私は返事をしなかった。
数分後、再びボールが来る。
今度は相手サイドバックが早く寄せてきた。
私は中央へ切り返す。
正面に相手選手。
外には味方。
その奥で陽菜が走っている。
縦へ出せる。
でも、距離が長い。
相手センターバックに読まれているかもしれない。
「出せ」
蓮くんの声。
足を振る。
けれど、直前で角度を変えた。
近くの沙月へ短いパスを出す。
沙月はワンタッチで、私が出せなかった場所へ縦パスを通した。
陽菜が追いつく。
シュート。
相手ゴールキーパーに弾かれた。
「惜しい!」
観客席から声が上がる。
陽菜が私を見る。
その表情は、いつもと少し違っていた。
どうして自分で出さなかったのか。
そう聞かれている気がした。
「今の、見えてただろ」
蓮くんが言う。
「はい」
「何で出さなかった」
「沙月の方が確実でした」
「それは本当に判断したのか?」
「どういう意味ですか」
「失敗したくなかっただけじゃないのか」
答えられない。
試合中なのに、胸の奥がざわつく。
私は自分でやると言った。
蓮くんの力を借りずに、自分で判断する。
けれど、実際にピッチへ立つと怖かった。
これまでと何も変わっていない。
相手は攻撃へ出る人数を減らし、まず失点しない守り方へ変わり始めた。
このまま延長まで持ち込むつもりなのかもしれない。
青葉高校が押し込む時間は続いた。
それでも、最後の一本が通らない。
後半三十分。
残り時間は、あと五分だった。
私のところへボールが来る。
中央へ運ぶ。
相手が一人、正面に立つ。
沙月は左へ。
陽菜は最終ラインの間。
右サイドバックが外を追い越していく。
三つの選択肢。
全部見える。
どれを選んでも、失敗する可能性がある。
足が止まった。
相手が距離を詰める。
「美緒!」
陽菜が走る。
「藤崎、早く!」
沙月の声。
私は右サイドバックへボールを戻した。
相手に触れられ、ボールはタッチラインの外へ出る。
味方のスローインになった。
一瞬だけ、プレーが止まる。
「蓮くん」
私は息を整えるふりをしながら、周囲に聞こえない声で呼んだ。
「何だ」
蓮くんがすぐそばへ来る。
「少しだけ、借りてもいいですか」
「自分でやるんじゃなかったのか」
「必要なときだけです」
「今が必要なのか?」
「このままでは、何も変えられません」
「俺に変えてもらうのか?」
「違います」
「何が違う」
「最初から全部任せるわけではありません」
味方がボールを拾い、スローインの位置へ向かう。
時間はない。
「最後の数分だけです」
「どうしても、俺じゃないと駄目なのか」
答えられなかった。
自分で失敗するのが怖い。
その言葉だけは、口にできなかった。
「……お願いします」
蓮くんは私の顔を見つめる。
「断ったら、お前はまた近くへ戻すんだろ」
否定できなかった。
「今回だけだ」
「はい」
「無理はしない」
「分かっています」
「身体に違和感があったら、すぐ戻る」
「はい」
「俺の判断を、そのまま正しいと思うな」
「はい」
「最後に選ぶのは、お前だ」
味方がボールを頭上へ持ち上げる。
私は小さく息を吸った。
「お願いします」
スローインのボールが投げられる。
それと同時に、視界が変わった。
身体の奥へ、別の意識が入ってくる。
背筋が伸びる。
重心が前へ移る。
同じピッチなのに、相手の立ち位置がさっきよりはっきり見えた。
ボールが来る。
蓮くんは受ける前に、左へ視線を向けた。
相手もつられる。
次の瞬間、右足の外側で逆方向へボールを運ぶ。
一人目をかわす。
観客席から声が上がった。
相手のセンターバックが前へ出る。
陽菜がその背後へ走る。
『今です』
『分かってる』
蓮くんがパスを出す。
私なら選ばない速さ。
相手二人の間を通る、鋭い縦パス。
陽菜が追いついた。
ゴールキーパーが前へ出る。
陽菜はシュートを打たず、中央へ折り返した。
逆サイドから走り込んだ選手が合わせる。
ボールがゴールネットを揺らした。
「よし!」
歓声が上がる。
ベンチの選手たちが立ち上がる。
得点した選手へ、みんなが駆け寄る。
陽菜も笑っている。
私はその輪へ向かおうとした。
『もう戻る』
『まだ残り時間があります』
『約束だ』
『でも』
『仕事は終わった』
身体から力が抜ける。
主導権が私へ戻った。
一瞬、足元が揺れる。
それでも転ばずに済んだ。
私は得点を喜ぶ仲間の輪へ入った。
「美緒!」
陽菜が抱きついてくる。
「今のパス、すごかった!」
「苦しい」
「ごめん!」
陽菜が離れる。
笑顔だった。
けれど、私の顔を見た瞬間、わずかに表情を曇らせた。
「どうしたの?」
「何が?」
「ううん」
陽菜は首を振った。
試合は、その一点を守り切って終わった。
青葉高校は準々決勝を突破した。
この勝利で、過去最高成績に並ぶベスト四へ進んだ。
次は、全国への挑戦をつなぐ準決勝だった。
◇
試合後の控室は、勝利の余韻に包まれていた。
選手たちは互いのプレーを話し、次の試合のことを確認している。
「藤崎」
沙月に呼ばれた。
「何?」
「最後のパス、よかった」
「ありがとう」
「その前までとは、全然違った」
胸が小さく跳ねる。
「そうかな」
「そう」
沙月はタオルで首元の汗を拭う。
「入ってすぐは、見えてるのに出せてなかった」
「……うん」
「最後だけ、急に迷わなくなった」
「勝たないといけなかったから」
「それまでだって同じでしょ」
沙月は私をまっすぐ見る。
「何か変えた?」
「別に」
「そう」
沙月はそれ以上追及しなかった。
けれど、納得していないことは分かった。
「この前も思ったけど」
「何?」
「あのプレーをしてるときの藤崎、藤崎じゃないみたい」
以前にも言われた言葉。
うまかった。
でも、藤崎らしくなかった。
「変ですか?」
「変というより」
沙月が少し考える。
「怖い」
「怖い?」
「何をしてくるか分からないからじゃない」
沙月は首を振る。
「普段の藤崎が、急にいなくなる感じがする」
言葉が胸へ刺さった。
私は返事をできなかった。
「でも、勝てたから」
沙月は自分の鞄を持ち上げる。
「今日はそれでいい」
今日は。
その言葉を残して、沙月は控室を出ていった。
「美緒」
今度は陽菜が近づいてくる。
「帰り、一緒に行ける?」
「うん」
「ちょっと話したい」
「ここでは駄目なの?」
「二人で話したい」
陽菜の表情は、試合中のように明るくなかった。
◇
会場から駅へ向かう道。
陽菜はしばらく何も言わなかった。
いつもなら試合の話を止めない。
自分の動きがどうだったか。
次はどうすれば点を取れるか。
電車へ乗るまで話し続ける。
今日は、隣を歩くだけだった。
「話したいことは?」
私から尋ねる。
「さっきのパス、すごかった」
「それは聞いた」
「多分、今までで一番速かった」
「そうかも」
「受ける前から、私が走る場所を分かってたみたいだった」
「見えていたから」
「美緒なら見えるよね」
陽菜が立ち止まった。
私も足を止める。
「でも、あれを出した美緒、少し怖かった」
沙月と同じ言葉だった。
「どうして?」
「分からない」
「分からないのに怖いの?」
「うん」
陽菜は困ったように眉を下げる。
「目が違った」
「目?」
「いつもの美緒は、パスを出す前にちょっとだけ迷うでしょう」
「それは褒めてないよね」
「褒めてない」
陽菜は正直に答えた。
「でも、私が走ったとき、追いつけるか考えてくれてるのも分かる」
「迷っているだけだよ」
「最後の美緒は、私が追いつけなかったときのことを、何も考えてないみたいだった」
胸が痛んだ。
それは、蓮くんの判断だった。
陽菜なら追いつく。
追いつかなければ仕方がない。
迷うより先に、最も得点へつながる場所へ蹴った。
「結果的には追いつけたよ」
「うん。だからアシストできた」
「なら」
「でも、あのときの美緒は、私を信じて出したのかな」
返事ができなかった。
蓮くんは陽菜の速さを計算していた。
動きを見ていた。
それを信頼と呼べるのかは分からない。
「私、美緒のパスが好きだよ」
陽菜が言った。
「急に何?」
「美緒は、私が走るより前に見つけてくれるから」
「いつも出せてない」
「それでも、見てくれてる」
陽菜は自分の胸元で拳を握る。
「今日の最後のパスもすごかった。あれが駄目だって言いたいわけじゃない」
「じゃあ、何?」
「美緒が出したんだよね?」
喉が詰まる。
嘘をつけばいい。
私の身体から出たパスなのだから、私が出したと言っても完全な嘘ではない。
私は憑依を許可した。
蓮くんの判断を借りると、自分で決めた。
「私が出したよ」
答えた。
陽菜は少しだけ安心したように笑った。
「そっか」
その笑顔を見て、胸がさらに痛んだ。
「でも、必要なときだけならいいと思う」
自分でも、何を言っているのか分からないまま続ける。
「何が?」
「いつも同じようにできるわけじゃないから」
「最後のパス?」
「うん」
「どうして?」
「身体の調子とか、試合の流れとか」
言葉を探す。
「必要なときだけ、ああいうプレーができればいいと思う」
「必要なときだけ?」
「試合を変えないといけないときに」
これは言い訳だ。
分かっている。
憑依を使う自分を正当化しようとしている。
すべてを任せるわけではない。
出場直後は自分でプレーした。
最後の数分だけ借りた。
だから問題はない。
そう思いたかった。
「美緒」
「何?」
「無理してない?」
「してない」
「本当に?」
「本当」
「ならいいけど」
陽菜は歩き始める。
私は隣へ並んだ。
蓮くんは、少し離れた位置を歩いている。
何も言わない。
駅が見えてきたところで、陽菜が前を向いたまま話した。
「次は、美緒のいつものパスも欲しい」
「いつもの?」
「私が走り始める前に出てくるやつ」
「そんなパス、出したことあった?」
「練習ではあるよ」
陽菜が笑う。
「美緒は忘れてるだけ」
私は答えられなかった。
◇
陽菜と別れたあと、蓮くんと二人で家へ向かった。
「何か言いたいことがあるんでしょう」
「別に」
「ずっと黙っています」
「陽菜が全部言ったから」
「何をですか」
「必要なときだけ借りればいいって、本当に思ってるのか?」
足を止める。
「それの何が悪いんですか」
「悪いとは言ってない」
「試合の最初から最後まで任せたわけではありません」
「ああ」
「自分で相手を見ました。空いている場所も考えました」
「分かってる」
「最後に一度だけ、蓮くんの判断を借りた。それで勝てました」
「ああ」
「なら、問題ありません」
言い切った。
蓮くんは、まっすぐ私を見る。
「どうして勝てたことを、自分の手柄みたいに言わないんだ?」
「言っているでしょう」
「言ってない」
「私は自分で憑依を選びました」
「それは、俺に身体を貸したことを選んだだけだ」
「同じです」
「違う」
蓮くんの声が強くなる。
「パスを選んだのは俺だ」
「私も見ていました」
「だったら、何で入る前に出さなかった」
返事ができない。
「見えてたんだろ」
「相手がいました」
「憑依したあともいた」
「パスコースが少し変わりました」
「俺が相手をかわしたからだ」
「だから、必要だったんです」
「必要にしたのは、お前だろ」
胸が熱くなる。
「私が何をしたと言うんですか」
「自分で出せなかったことを、必要だったって言い換えてる」
「違います」
「本当に?」
「チームが勝つためです」
「お前が失敗しないためじゃなくて?」
「違う!」
声が大きくなった。
通行人がこちらを見る。
私は口を閉じ、歩き始める。
蓮くんもついてくる。
「美緒」
「今は話したくありません」
「俺も、使われたことを怒ってるわけじゃない」
「なら何ですか」
「俺が怖いんだよ」
足が止まった。
「何が?」
「俺が出したパスを、お前の友達が怖いって言った」
蓮くんは、自分の手を見る。
「あのとき、お前がいなくなったように見えたって」
「それは、陽菜たちが慣れていないだけです」
「俺が入るたびに、お前が消えて見えるなら」
蓮くんが顔を上げる。
「それでも使うのか?」
「私は消えていません」
「身体の中にいるって話じゃない」
「では何ですか」
「お前が、自分で決めるのをやめてる」
昨日、蓮くんを一人の存在だと認めた。
現在の蓮さんとは違う。
過去の記憶だけでもない。
蓮くん自身の判断がある。
だからこそ。
その判断を借りれば、それは私のものではなくなる。
「でも、今日は勝てました」
私は言った。
「それじゃ駄目なんですか」
蓮くんはすぐには答えなかった。
「勝つことは大事だ」
「なら」
「でも、お前が何のためにサッカーをしてるかは、それより大事だ」
「勝つためです」
「本当に?」
「全国へ行くためです」
「それだけか?」
「チームのみんなと一緒に――」
「あいつを立ち直らせるためじゃないのか」
言葉を失う。
「何を言っているんですか」
「俺が現れてから、お前はずっとあいつを見てた」
「それは」
「あいつをサッカーへ戻したい。昔みたいに笑わせたい。夢を思い出させたい」
「蓮くんだって、そうしたいと言っていたでしょう」
「ああ」
「なら、同じです」
「違う」
蓮くんが首を振る。
「俺は、あいつが戻れば自分が正しかったことになると思ってた」
現在の蓮さんに言われた言葉がよみがえる。
『自分が正しかったことにしたいだけだろ』
蓮くんは、あの言葉を認め始めている。
「お前まで、あいつのためにサッカーをする必要はない」
「私は蓮さんのためだけにやっているわけではありません」
「でも、試合を見せれば変わると思ってるだろ」
否定できない。
私の試合を見てほしい。
サッカーをしている私を見れば、何かを思い出してくれるかもしれない。
もう一度、好きだと気づいてくれるかもしれない。
ずっと、そう願っていた。
「蓮さんを変えるためだけに、私はサッカーをしてるんじゃない」
口に出した瞬間、自分の胸へも刺さった。
蓮くんは黙っている。
「私は、私のチームで全国へ行きたい」
「うん」
「陽菜へパスを出したい。沙月から先発を奪いたい。真帆先輩たちと、もっと試合をしたい」
一つずつ言葉にする。
「蓮さんが戻らなくても?」
蓮くんが尋ねる。
答えるのが怖かった。
現在の蓮さんがサッカーへ戻らなくても。
昔のように笑わなくても。
プロになる夢を二度と追わなくても。
私は、自分のサッカーを続けるのか。
「続けます」
声は震えた。
それでも、はっきり答えた。
「蓮さんがどうするかは、蓮さんが決めることです」
「そうか」
「蓮くんが戻るかどうかも、蓮くんが決めることです」
「ああ」
「私がどうプレーするかは、私が決めます」
蓮くんは少しだけ笑った。
「だったら、次は自分で決めろ」
「憑依を絶対に使わないとは言っていません」
「分かってる」
「必要だと思ったら、また頼むかもしれません」
「それも、お前が決めればいい」
予想していなかった返事だった。
「止めないんですか」
「止めたい」
「では」
「でも、お前の身体だからな」
蓮くんは自分の手を見る。
「俺が決めることじゃない」
現在の蓮さんとぶつかったあの日、私が二人へ伝えた言葉だった。
「ただし」
「何ですか」
「次に頼むなら、今日みたいな言い訳はするな」
「言い訳?」
「勝つために必要だから、じゃない」
蓮くんが私を見る。
「自分では怖くて決められないから、俺に決めてほしいって言え」
「そんなことは――」
「言えないなら、自分でやれ」
腹が立った。
それでも、反論できなかった。
蓮くんは私の表情を見て笑う。
「怒った?」
「怒っています」
「最近ずっと怒ってるな」
「誰のせいですか」
「俺だな」
素直に認められ、余計に言葉がなくなった。
家の近くまで来たところで、蓮くんが空を見上げた。
「あと何日だ?」
「何がですか」
「あいつが退部届を出し直すまで」
監督から与えられた一週間。
すでに半分以上が過ぎている。
「三日です」
「三日か」
「会いに行くつもりですか?」
「分からない」
「前なら、すぐ行くと言ったでしょう」
「俺が何を言っても、あいつには聞こえない」
「蓮さんと話すための憑依は、もうしません」
「ああ」
蓮くんは反対しなかった。
「それに」
「何ですか」
「あいつを戻すことだけが、俺の役目じゃないのかもしれない」
「どういう意味ですか」
「まだ分からない」
「何でも分からないですね」
「お前に言われたくない」
蓮くんは小さく笑った。
◇
その夜。
私は今日の試合映像を切り取り、現在の蓮さんへ送った。
前半に相手守備のずれを使った場面。
沙月が陽菜へ通した縦パス。
私が途中出場してから、何度も判断をためらった場面。
そして、最後の得点につながったパス。
送信する前に、何度も指が止まった。
試合を見てほしい。
でも、それは蓮さんを変えるためではない。
そう言ったばかりだった。
「送らないのか?」
蓮くんがベッドの横に立っている。
「迷っています」
「見てほしいんだろ」
「はい」
「だったら送ればいい」
「蓮さんを変えようとしていることになりませんか」
「変わるかどうかを決めるのは、あいつだ」
「……そうですね」
メッセージを入力する。
『今日、県大会の初戦でした。勝ちました』
それだけでは、何を送ったのか分からない。
『前に、映像を見たら助言してくれたので、今回も送ります』
少し考え、続ける。
『返事はいりません』
動画を添付して送信した。
既読はつかない。
「これでいいのか?」
「分かりません」
「何でも分かりませんだな」
「真似しないでください」
蓮くんが笑った。
私はスマートフォンを机へ置く。
鞄から古いスパイクを取り出した。
ひびは、朝と変わっていないように見える。
少なくとも、今日の憑依で急に広がった様子はなかった。
「戻りますか?」
「ああ」
「今日はありがとうございました」
「礼を言うのか」
「勝てたのは、蓮くんのパスのおかげです」
「その前に相手のずれを見つけたのは、お前だ」
「でも、最後に出したのは蓮くんです」
「次はお前が出せ」
「簡単に言わないでください」
「簡単じゃないから言ってる」
蓮くんは古いスパイクの前へ立つ。
「美緒」
「何ですか」
「今日、楽しかったか?」
答えに迷った。
勝てたことはうれしい。
相手の守備を見て、空いている場所を見つけられた。
先生へ説明し、チームの攻撃を変えることもできた。
ピッチへ入ったときも、たくさんのものが見えていた。
それなのに。
最後に残っているのは、憑依中のパスだった。
自分で選べなかった場面ばかりが浮かぶ。
「分かりません」
「そっか」
「でも」
蓮くんを見る。
「次の試合では、楽しかったと言えるようにしたいです」
「うん」
「自分で決めて」
「ああ」
蓮くんの身体が、淡い光へ変わる。
「おやすみ、美緒」
「おやすみなさい、蓮くん」
光が古いスパイクへ吸い込まれた。
部屋が静かになる。
私はもう一度、スマートフォンを確認した。
蓮さんへ送ったメッセージには、まだ既読がついていなかった。
◇
深夜。
現在の蓮は、ベッドの上でスマートフォンを見ていた。
美緒から届いたメッセージは、通知の画面に残ったままだった。
『今日、県大会の初戦でした。勝ちました』
『前に、映像を見たら助言してくれたので、今回も送ります』
『返事はいりません』
返事がいらないなら、見る必要もない。
そう思い、画面を伏せる。
数分後、再び手に取った。
大学サッカー部の監督から言われた期限まで、あと三日。
机の上には、書き直した退部届が置かれている。
名前も、日付も記入してある。
あとは提出するだけだった。
蓮は動画を開いた。
最初に映ったのは、前半の試合だった。
橘沙月が中央でボールを受ける。
相手ボランチを引きつけ、逆側へ展開する。
「首を振るのが遅い」
無意識に呟いた。
次の場面。
小野寺陽菜が一度下がり、相手センターバックを引き出す。
空いた場所へ別の選手が走る。
「今のは悪くない」
誰に聞かせるでもなく評価する。
映像が進む。
後半、途中出場した美緒がボールを受ける。
陽菜が走る。
美緒には見えているはずだった。
けれど短いパスを選んだ。
「そこは出せよ」
昔にも、同じことを言った気がした。
いつの記憶かは分からない。
幼い美緒へ教えていた頃か。
以前見せられた試合映像か。
それとも。
あの日、美緒の身体を通して責めてきた、昔の自分の言葉なのか。
動画の終盤。
美緒の動きが急に変わった。
受ける前に相手を見て、視線で重心を動かす。
一人をかわし、鋭い縦パスを通した。
蓮の指が、画面の上で止まる。
自分なら、同じ場所へ出した。
そう思った。
高校時代の自分なら。
迷わず。
味方が追いつくと信じて。
いや。
追いつかなければ仕方がないと思って。
「……違う」
蓮は映像を少し戻した。
美緒が相手をかわす。
陽菜が走る。
パスが通る。
得点が決まる。
確かにうまい。
けれど、その前までの美緒とは違う。
蓮はもう一度、動画を最初から見た。
前半。
沙月が相手を動かす。
陽菜が下がる。
逆サイドの選手が走る。
美緒はベンチにいる。
それでも、タッチライン際の監督へ何かを話していた。
直後、チームの動きが変わる。
「これ、美緒が見つけたのか」
最後のパスだけではない。
ピッチへ入る前から、美緒は試合を見ていた。
自分にはなかったものを使っていた。
全員の位置を見る目。
一人で抜かなくても、試合を動かす方法。
蓮は動画を停止した。
机の上の退部届へ目を向ける。
美緒のプレーを見て、戻りたいと思ったわけではない。
これだけで、怖さが消えるわけでもない。
佐伯からポジションを奪い返せるわけでもない。
プロになれるわけでもない。
それでも。
映像を見ている間、一度も退屈しなかった。
相手の守備がどう動くのか。
次にどこが空くのか。
美緒が何を選ぶのか。
気づけば、すべてを考えていた。
蓮はスマートフォンを置く。
退部届を裏返した。
捨てたわけではない。
提出をやめたわけでもない。
ただ。
今夜は、文字を見たくなかった。




