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夢を諦めた君のスパイクから、十七歳の君が現れた  作者: situ725


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19/22

第19話 最後の一週間

 県大会初戦の朝。


 私は、机の上に置いた古いスパイクを見つめていた。


 革に入ったひびは、縫い目の近くまで伸びている。


 一晩で急に広がったわけではない。


 それでも、見るたびに長くなっているような気がした。


「持っていくのか?」


 背後から声がする。


「はい」


「試合で履けないのに?」


「分かっています」


 私は古いスパイクを布製の袋へ入れた。


 その上から、普段使っている自分のスパイクを鞄へ収める。


「お守りです」


「お前、本番で緊張すると、昔からすぐ何かに頼るよな」


「このスパイクをお守りにしたのは、高校時代の蓮さんのせいです」


「俺じゃないんだな」


「蓮くんが、蓮さんとは違う人だと言ったでしょう」


「そうだけど」


 蓮くんは少しだけ不満そうな顔をした。


「それでも、このスパイクに残っていたものが、蓮くんになったのかもしれません」


「結局、俺にも責任があるって言いたいのか?」


「そこまでは言っていません」


「言ってる顔だろ、それ」


 自分が高校時代の蓮さん本人ではないと知ってから、蓮くんが現在の蓮さんを「あいつ」と呼ぶ声は、以前とは少し違って聞こえるようになった。


 今は明確に、自分とは違う人間として呼んでいる。


「まだ、その呼び方に慣れない」


「慣れてください」


「それ、もう何度も聞いた」


 蓮くんは呆れたように笑った。


 輪郭はまだ薄い。


 朝の光の中では、制服の向こうにカーテンの模様がかすかに透けて見える。


 それでも、昨日のように輪郭が途切れたり、急に姿が揺れたりはしていなかった。


「身体は大丈夫なのか?」


「大丈夫です」


「一昨日は学校を休んだだろ。昨日だって練習を見てただけじゃないか」


「頭痛はなくなりました。足にも痛みはありません」


「本当に?」


「本当です」


 念を押され、私は右足首を回してみせた。


 痛みはない。


 倉橋先生にも状態を確認してもらい、今日の試合には出場できることになった。


 ただし、先発ではない。


 予定どおり、攻撃的ミッドフィルダーには沙月が入る。


 私はベンチから試合を見て、必要になったときに呼ばれる。


「今日は俺を使うなよ」


 蓮くんが言った。


 私は鞄を閉じる手を止めた。


「どうしてですか」


「あいつと話したとき、無理をしたばかりだろ」


「あれは試合ではありません」


「身体を使うことは同じだ」


「短時間なら問題ありません」


「美緒」


「使うと決めたわけではありません」


 私は鞄を肩へ掛ける。


「必要になったときに考えます」


「その『必要』を決めるのは誰だよ」


「私です」


 答えると、蓮くんは黙った。


 以前なら、俺に任せろと言ったはずだ。


 勝つためなら、自分の判断を使えと勧めただろう。


 けれど今は、私の身体を借りることへ慎重になっている。


 私を傷つけたから。


 そして、自分が本当の蓮さんではないと知ったから。


「行ってきます」


 部屋の扉へ向かう。


 蓮くんも隣へ並ぶ。


「美緒」


「何ですか」


「今日は、お前の試合だからな」


「分かっています」


 そう答えた。


 けれど、鞄の中にある古いスパイクの存在を、強く意識していた。


     ◇


 試合会場は、市内にある陸上競技場だった。


 青葉高校は前回大会の成績でシードに入っている。


 今日の初戦は準々決勝。


 勝てば、過去最高成績に並ぶベスト四へ進める。


 普段使っている学校のグラウンドとは違い、芝は短く整えられている。


 白線も鮮明だった。


 観客席には、選手の家族や他校の部員が集まり始めている。


「美緒、顔固いよ」


 アップ前、陽菜が私の頬を両手で挟んだ。


「痛い」


「緊張をほぐしてあげてる」


「余計に緊張するから離して」


 陽菜の手を押し返す。


 明るい茶色の短いポニーテールが、動きに合わせて揺れた。


「足、本当に大丈夫?」


「大丈夫。昨日も確認してもらったから」


「急に学校を休んだから心配したんだよ」


「ごめん」


「謝らなくていいけど、無理は駄目だからね」


「うん」


 陽菜は私の足元を確認したあと、少し安心したように笑った。


「今日は先に走ってるから」


「いつも走ってるでしょう」


「いつもより走る」


「それは守備へ戻れなくなりませんか?」


「そこは気合いで」


「倉橋先生に怒られますよ」


「美緒がいいパス出してくれたら、怒られる前に点を取れるから」


 簡単に言い切る。


 昔から、陽菜は私のパスが届くと信じている。


 私自身よりも、ずっと。


「見えたら出してね」


「……うん」


「間があった」


「分かっています」


「じゃあ、約束」


 陽菜が小指を差し出す。


「子どもですか」


「いいから」


 私は仕方なく小指を絡めた。


「私が走ったら、見なかったことにしない」


「はい」


「失敗しても、私のせいにしていい」


「それはしません」


「じゃあ、美緒のせい」


「嫌です」


「なら、二人のせいで」


 陽菜は楽しそうに笑い、アップの列へ走っていった。


 その背中を見送りながら、自分の右手を見る。


 小指に、まだ陽菜の温度が残っている。


「いい友達だな」


 蓮くんが隣で言った。


「知っています」


「だったら信じろよ」


「簡単に言わないでください」


「簡単じゃないから、あいつは何度も言ってるんだろ」


 返す言葉がなかった。


「集合!」


 真帆先輩の声が響く。


 私は蓮くんから視線を外し、チームの輪へ加わった。


 倉橋先生がメンバーを見渡す。


「初戦だからといって、様子を見る必要はない。相手より先に、自分たちの形を出す」


 選手たちがうなずく。


「守備は前から。ボールを奪ったら、最初の選択肢は縦。無理ならやり直す。ただし、怖がって横へ逃げるな」


 先生の目が、ほんの一瞬だけ私へ向いた。


 私にだけ言った言葉ではない。


 それでも、胸に刺さった。


「先発は伝えたとおり。橘を中央に置く。藤崎はベンチから見て、相手の守備がどこでずれるか考えておけ」


「はい」


「呼ばれたとき、何を変えるべきか答えられるように」


「分かりました」


 沙月は私の隣に立っていた。


 黒髪のボブは、アップを終えてもほとんど乱れていない。


「先に行く」


「うん」


「見てて」


 短い言葉だった。


「何を?」


「相手のボランチ。私が動かしたとき、誰についてくるか」


「分かった」


 沙月はそれだけ言い、先発選手の列へ移った。


 競争相手。


 それでも、互いに隠し合うつもりはない。


 沙月は自分が作ったずれを、私に見ておけと言っている。


 私が途中から入ったとき、同じ場所を利用できるように。


「お前のチーム、いいな」


 蓮くんが小さく言った。


「急にどうしたんですか」


「高校の頃の俺は、ポジションを奪われる相手に、そんなこと言えなかった」


 現在の蓮さんも、同じだったのだろうか。


 佐伯さんを、競争相手としか見られなかった。


 一緒に試合へ出る可能性を考えられなかった。


 以前なら、そのことを蓮くんへ伝えたかもしれない。


 けれど今日は、考えるだけにした。


 これは、私たちの試合だ。


 試合開始の笛が鳴った。


     ◇


 青葉高校は、開始直後から前へ出た。


 陽菜が相手センターバックへ走る。


 外側の選手がパスコースを切り、後ろから沙月が連動する。


 相手は一度後方へ戻したあと、苦し紛れにロングボールを蹴った。


「真帆先輩!」


 私はベンチから声を上げる。


 真帆先輩はすでに落下地点へ入っていた。


 相手フォワードに競り勝ち、頭でボールを味方へ落とす。


 そのボールを沙月が受ける。


 受ける前に一度、右を見る。


 相手のボランチが、沙月の身体の向きにつられて動いた。


 その瞬間、沙月は左へターンする。


「今」


 蓮くんが呟く。


 私にも見えていた。


 相手ボランチの背後。


 陽菜が右から中央へ入っている。


 沙月は迷わず縦パスを送った。


 陽菜が触れる。


 けれど、相手センターバックが身体を寄せ、シュートまでは行けなかった。


「惜しい!」


 ベンチから声が上がる。


 陽菜が親指を立てた。


 沙月はすぐに守備位置へ戻っている。


「橘は安定してるな」


 蓮くんが言う。


「知っています」


「嫌そうだな」


「嫌ではありません」


「先発を取られてるのに?」


「悔しいです。でも、沙月が悪いわけではありません」


 沙月は、自分にできることをしている。


 迷わず判断し、攻撃が終われば守備へ戻る。


 派手な突破はない。


 それでもチームの流れを止めない。


 前半十五分。


 相手が守備の位置を少し下げた。


 中央を締め、青葉高校に外側でボールを持たせようとしている。


 沙月がボールを受けるたび、相手ボランチが正面へ立つ。


 陽菜への縦パスは消され始めた。


「外から崩すしかないか」


 ベンチの選手が呟く。


「違う」


 蓮くんが言った。


「何がですか」


「沙月に相手が集まってる。逆側のハーフスペースが空いてる」


 私にも見えていた。


 沙月が中央でボールを受けると、相手のボランチとサイドの選手が内側へ寄る。


 そのぶん、逆サイドの選手とサイドバックの間に隙間ができる。


 けれど、青葉高校の選手はそこへ走れていない。


 ベンチの端で、倉橋先生が腕を組んでいた。


「藤崎」


「はい」


「何が見える」


 突然尋ねられる。


「沙月に相手が二人寄っています。その反対側のサイドバックとセンターバックの間が空いています」


「どう使う?」


「逆側のサイドが幅を取って、私たちのサイドバックが内側へ入れば、相手のサイドハーフを迷わせられます」


「それだけ?」


 先生の視線が鋭くなる。


 もう一度、ピッチを見る。


 陽菜は中央で相手センターバック二人に挟まれている。


 でも、完全に動けないわけではない。


「陽菜が一度下がれば、センターバックがついてくるかもしれません。空いた後ろへ、逆サイドから走り込めます」


「分かった」


 先生はタッチライン際へ進んだ。


「小野寺! 一度受けに下がれ! 逆サイド、背後を狙え!」


 指示が飛ぶ。


 数分後、狙いどおりの場面が生まれた。


 陽菜が中央から下がる。


 相手センターバックの一人がついてくる。


 沙月が陽菜へパスを出す。


 陽菜はワンタッチで逆サイドへ落とした。


 空いた場所へ走り込んだ選手がシュートを放つ。


 ボールはゴールの外へ外れた。


 それでも、相手守備は明らかに動揺した。


「今のは美緒が見つけたの?」


 ベンチの隣にいた一年生が尋ねる。


「見えていただけです」


「それを見つけたって言うんじゃない?」


 返答に困る。


 見えていた。


 でも、自分がピッチへ立ったとき、同じように選べるかは分からない。


 外からなら、いくらでも分かる。


 時間も、距離もある。


 失敗する責任を負わずに考えられるから。


「お前が入ったらできる」


 蓮くんが言った。


「分かりません」


「見えてるんだろ」


「見えることと、出せることは違います」


「違わない」


「違います」


「じゃあ、俺が――」


 蓮くんが言葉を止めた。


 私を見る。


 憑依を提案しかけたのだと分かった。


「何ですか」


「いや」


「途中でやめないでください」


「自分でやれ」


 蓮くんは、それだけ言った。


 前半は、両チーム無得点のまま終わった。


     ◇


 ハーフタイム。


 選手たちがベンチへ戻ってくる。


 陽菜は息を切らしながら、水を飲んでいた。


「相手、私が下がるとついてくる」


「見てた」


「後ろ、空くよね」


「うん」


「美緒が入ったら、あそこへ出して」


 当然のように言う。


「私が入るとは決まってないよ」


「入るでしょ」


「どうして」


「先生がずっと美緒に聞いてたから」


 陽菜はタオルで汗を拭う。


「それに、沙月も結構走ってる」


 隣を見る。


 沙月は膝へ手をつき、呼吸を整えていた。


 前半、攻守の両方で動き続けていた。


 疲れてはいる。


 それでも、交代を求める様子はない。


 倉橋先生が作戦ボードを置く。


「狙いは悪くない。ただし、相手が中央を閉じたあと、ボールを外へ逃がすだけになっている」


 磁石を動かしながら説明する。


「外へ出したら終わりではない。もう一度中央へ入れるために使え」


 選手たちがうなずく。


「橘。後半十分まで行けるか」


「行けます」


「無理はするな。運動量が落ちたら藤崎と替える」


「はい」


 沙月の返事に迷いはない。


 私はビブスを脱ぎ、アップの準備を始めた。


「藤崎」


「はい」


「入ったら、前半に自分で見つけた場所を使え」


「分かりました」


「私が教えた場所ではない。自分で見えた場所だ」


 先生は私の目を見る。


「選ぶのも、自分でやれ」


 蓮くんの言葉と重なった。


 私は強くうなずく。


「はい」


 後半が始まった。


 青葉高校が再び前へ出る。


 けれど、相手も動き方を変えていた。


 陽菜が下がっても、センターバックは深追いしない。


 代わりにボランチが対応する。


 前半に空いていた背後が消えている。


「修正してきたな」


 蓮くんが言う。


「はい」


「だったら、今度は陽菜が下がったところへ直接入れられる」


「でも、相手のボランチがいます」


「背負わせるんじゃない。その手前に落とす」


 私はピッチを見る。


 陽菜が下がる。


 相手ボランチがついてくる。


 その後ろで、沙月が空いた場所へ移動している。


 けれど味方のパスは外へ流れた。


「藤崎、準備!」


 先生の声が飛ぶ。


「はい!」


 ビブスを脱ぐ。


 心臓が大きく鳴った。


 交代するのは沙月だと思っていた。


 けれど、先生が呼んだ番号は別の選手だった。


「予定を変える。藤崎は右のハーフへ入れ。橘と並べる」


「沙月と?」


「二人とも見えているものが違う。使い分けろ」


「はい」


 タッチラインへ立つ。


 陽菜がこちらを見る。


 笑いながら、手を上げた。


 真帆先輩も一度だけうなずく。


 沙月は、自分の位置を指さしてから、右側へ手を振った。


 私はピッチへ入った。


 芝を踏んだ瞬間、身体の重さが消えた気がした。


 ボールの位置。


 味方の距離。


 相手の立ち位置。


 一度に視界へ入ってくる。


「右、幅取って!」


 真帆先輩の指示が聞こえる。


 私は右サイドへ開く。


 味方からパスが来た。


 受ける前に中央を見る。


 陽菜が下がる。


 相手ボランチがついていく。


 その奥へ沙月が走った。


 見えた。


 けれど、パスコースには相手の足がある。


 少しでもずれれば奪われる。


 私は一度、後ろへ戻した。


「美緒!」


 陽菜の声。


 責めてはいない。


 でも、また同じことをした。


「次でいい」


 蓮くんが隣で言う。


 私は返事をしなかった。


 数分後、再びボールが来る。


 今度は相手サイドバックが早く寄せてきた。


 私は中央へ切り返す。


 正面に相手選手。


 外には味方。


 その奥で陽菜が走っている。


 縦へ出せる。


 でも、距離が長い。


 相手センターバックに読まれているかもしれない。


「出せ」


 蓮くんの声。


 足を振る。


 けれど、直前で角度を変えた。


 近くの沙月へ短いパスを出す。


 沙月はワンタッチで、私が出せなかった場所へ縦パスを通した。


 陽菜が追いつく。


 シュート。


 相手ゴールキーパーに弾かれた。


「惜しい!」


 観客席から声が上がる。


 陽菜が私を見る。


 その表情は、いつもと少し違っていた。


 どうして自分で出さなかったのか。


 そう聞かれている気がした。


「今の、見えてただろ」


 蓮くんが言う。


「はい」


「何で出さなかった」


「沙月の方が確実でした」


「それは本当に判断したのか?」


「どういう意味ですか」


「失敗したくなかっただけじゃないのか」


 答えられない。


 試合中なのに、胸の奥がざわつく。


 私は自分でやると言った。


 蓮くんの力を借りずに、自分で判断する。


 けれど、実際にピッチへ立つと怖かった。


 これまでと何も変わっていない。


 相手は攻撃へ出る人数を減らし、まず失点しない守り方へ変わり始めた。


 このまま延長まで持ち込むつもりなのかもしれない。


 青葉高校が押し込む時間は続いた。


 それでも、最後の一本が通らない。


 後半三十分。


 残り時間は、あと五分だった。


 私のところへボールが来る。


 中央へ運ぶ。


 相手が一人、正面に立つ。


 沙月は左へ。


 陽菜は最終ラインの間。


 右サイドバックが外を追い越していく。


 三つの選択肢。


 全部見える。


 どれを選んでも、失敗する可能性がある。


 足が止まった。


 相手が距離を詰める。


「美緒!」


 陽菜が走る。


「藤崎、早く!」


 沙月の声。


 私は右サイドバックへボールを戻した。


 相手に触れられ、ボールはタッチラインの外へ出る。


 味方のスローインになった。


 一瞬だけ、プレーが止まる。


「蓮くん」


 私は息を整えるふりをしながら、周囲に聞こえない声で呼んだ。


「何だ」


 蓮くんがすぐそばへ来る。


「少しだけ、借りてもいいですか」


「自分でやるんじゃなかったのか」


「必要なときだけです」


「今が必要なのか?」


「このままでは、何も変えられません」


「俺に変えてもらうのか?」


「違います」


「何が違う」


「最初から全部任せるわけではありません」


 味方がボールを拾い、スローインの位置へ向かう。


 時間はない。


「最後の数分だけです」


「どうしても、俺じゃないと駄目なのか」


 答えられなかった。


 自分で失敗するのが怖い。


 その言葉だけは、口にできなかった。


「……お願いします」


 蓮くんは私の顔を見つめる。


「断ったら、お前はまた近くへ戻すんだろ」


 否定できなかった。


「今回だけだ」


「はい」


「無理はしない」


「分かっています」


「身体に違和感があったら、すぐ戻る」


「はい」


「俺の判断を、そのまま正しいと思うな」


「はい」


「最後に選ぶのは、お前だ」


 味方がボールを頭上へ持ち上げる。


 私は小さく息を吸った。


「お願いします」


 スローインのボールが投げられる。


 それと同時に、視界が変わった。


 身体の奥へ、別の意識が入ってくる。


 背筋が伸びる。


 重心が前へ移る。


 同じピッチなのに、相手の立ち位置がさっきよりはっきり見えた。


 ボールが来る。


 蓮くんは受ける前に、左へ視線を向けた。


 相手もつられる。


 次の瞬間、右足の外側で逆方向へボールを運ぶ。


 一人目をかわす。


 観客席から声が上がった。


 相手のセンターバックが前へ出る。


 陽菜がその背後へ走る。


『今です』


『分かってる』


 蓮くんがパスを出す。


 私なら選ばない速さ。


 相手二人の間を通る、鋭い縦パス。


 陽菜が追いついた。


 ゴールキーパーが前へ出る。


 陽菜はシュートを打たず、中央へ折り返した。


 逆サイドから走り込んだ選手が合わせる。


 ボールがゴールネットを揺らした。


「よし!」


 歓声が上がる。


 ベンチの選手たちが立ち上がる。


 得点した選手へ、みんなが駆け寄る。


 陽菜も笑っている。


 私はその輪へ向かおうとした。


『もう戻る』


『まだ残り時間があります』


『約束だ』


『でも』


『仕事は終わった』


 身体から力が抜ける。


 主導権が私へ戻った。


 一瞬、足元が揺れる。


 それでも転ばずに済んだ。


 私は得点を喜ぶ仲間の輪へ入った。


「美緒!」


 陽菜が抱きついてくる。


「今のパス、すごかった!」


「苦しい」


「ごめん!」


 陽菜が離れる。


 笑顔だった。


 けれど、私の顔を見た瞬間、わずかに表情を曇らせた。


「どうしたの?」


「何が?」


「ううん」


 陽菜は首を振った。


 試合は、その一点を守り切って終わった。


 青葉高校は準々決勝を突破した。


 この勝利で、過去最高成績に並ぶベスト四へ進んだ。


 次は、全国への挑戦をつなぐ準決勝だった。


     ◇


 試合後の控室は、勝利の余韻に包まれていた。


 選手たちは互いのプレーを話し、次の試合のことを確認している。


「藤崎」


 沙月に呼ばれた。


「何?」


「最後のパス、よかった」


「ありがとう」


「その前までとは、全然違った」


 胸が小さく跳ねる。


「そうかな」


「そう」


 沙月はタオルで首元の汗を拭う。


「入ってすぐは、見えてるのに出せてなかった」


「……うん」


「最後だけ、急に迷わなくなった」


「勝たないといけなかったから」


「それまでだって同じでしょ」


 沙月は私をまっすぐ見る。


「何か変えた?」


「別に」


「そう」


 沙月はそれ以上追及しなかった。


 けれど、納得していないことは分かった。


「この前も思ったけど」


「何?」


「あのプレーをしてるときの藤崎、藤崎じゃないみたい」


 以前にも言われた言葉。


 うまかった。


 でも、藤崎らしくなかった。


「変ですか?」


「変というより」


 沙月が少し考える。


「怖い」


「怖い?」


「何をしてくるか分からないからじゃない」


 沙月は首を振る。


「普段の藤崎が、急にいなくなる感じがする」


 言葉が胸へ刺さった。


 私は返事をできなかった。


「でも、勝てたから」


 沙月は自分の鞄を持ち上げる。


「今日はそれでいい」


 今日は。


 その言葉を残して、沙月は控室を出ていった。


「美緒」


 今度は陽菜が近づいてくる。


「帰り、一緒に行ける?」


「うん」


「ちょっと話したい」


「ここでは駄目なの?」


「二人で話したい」


 陽菜の表情は、試合中のように明るくなかった。


     ◇


 会場から駅へ向かう道。


 陽菜はしばらく何も言わなかった。


 いつもなら試合の話を止めない。


 自分の動きがどうだったか。


 次はどうすれば点を取れるか。


 電車へ乗るまで話し続ける。


 今日は、隣を歩くだけだった。


「話したいことは?」


 私から尋ねる。


「さっきのパス、すごかった」


「それは聞いた」


「多分、今までで一番速かった」


「そうかも」


「受ける前から、私が走る場所を分かってたみたいだった」


「見えていたから」


「美緒なら見えるよね」


 陽菜が立ち止まった。


 私も足を止める。


「でも、あれを出した美緒、少し怖かった」


 沙月と同じ言葉だった。


「どうして?」


「分からない」


「分からないのに怖いの?」


「うん」


 陽菜は困ったように眉を下げる。


「目が違った」


「目?」


「いつもの美緒は、パスを出す前にちょっとだけ迷うでしょう」


「それは褒めてないよね」


「褒めてない」


 陽菜は正直に答えた。


「でも、私が走ったとき、追いつけるか考えてくれてるのも分かる」


「迷っているだけだよ」


「最後の美緒は、私が追いつけなかったときのことを、何も考えてないみたいだった」


 胸が痛んだ。


 それは、蓮くんの判断だった。


 陽菜なら追いつく。


 追いつかなければ仕方がない。


 迷うより先に、最も得点へつながる場所へ蹴った。


「結果的には追いつけたよ」


「うん。だからアシストできた」


「なら」


「でも、あのときの美緒は、私を信じて出したのかな」


 返事ができなかった。


 蓮くんは陽菜の速さを計算していた。


 動きを見ていた。


 それを信頼と呼べるのかは分からない。


「私、美緒のパスが好きだよ」


 陽菜が言った。


「急に何?」


「美緒は、私が走るより前に見つけてくれるから」


「いつも出せてない」


「それでも、見てくれてる」


 陽菜は自分の胸元で拳を握る。


「今日の最後のパスもすごかった。あれが駄目だって言いたいわけじゃない」


「じゃあ、何?」


「美緒が出したんだよね?」


 喉が詰まる。


 嘘をつけばいい。


 私の身体から出たパスなのだから、私が出したと言っても完全な嘘ではない。


 私は憑依を許可した。


 蓮くんの判断を借りると、自分で決めた。


「私が出したよ」


 答えた。


 陽菜は少しだけ安心したように笑った。


「そっか」


 その笑顔を見て、胸がさらに痛んだ。


「でも、必要なときだけならいいと思う」


 自分でも、何を言っているのか分からないまま続ける。


「何が?」


「いつも同じようにできるわけじゃないから」


「最後のパス?」


「うん」


「どうして?」


「身体の調子とか、試合の流れとか」


 言葉を探す。


「必要なときだけ、ああいうプレーができればいいと思う」


「必要なときだけ?」


「試合を変えないといけないときに」


 これは言い訳だ。


 分かっている。


 憑依を使う自分を正当化しようとしている。


 すべてを任せるわけではない。


 出場直後は自分でプレーした。


 最後の数分だけ借りた。


 だから問題はない。


 そう思いたかった。


「美緒」


「何?」


「無理してない?」


「してない」


「本当に?」


「本当」


「ならいいけど」


 陽菜は歩き始める。


 私は隣へ並んだ。


 蓮くんは、少し離れた位置を歩いている。


 何も言わない。


 駅が見えてきたところで、陽菜が前を向いたまま話した。


「次は、美緒のいつものパスも欲しい」


「いつもの?」


「私が走り始める前に出てくるやつ」


「そんなパス、出したことあった?」


「練習ではあるよ」


 陽菜が笑う。


「美緒は忘れてるだけ」


 私は答えられなかった。


     ◇


 陽菜と別れたあと、蓮くんと二人で家へ向かった。


「何か言いたいことがあるんでしょう」


「別に」


「ずっと黙っています」


「陽菜が全部言ったから」


「何をですか」


「必要なときだけ借りればいいって、本当に思ってるのか?」


 足を止める。


「それの何が悪いんですか」


「悪いとは言ってない」


「試合の最初から最後まで任せたわけではありません」


「ああ」


「自分で相手を見ました。空いている場所も考えました」


「分かってる」


「最後に一度だけ、蓮くんの判断を借りた。それで勝てました」


「ああ」


「なら、問題ありません」


 言い切った。


 蓮くんは、まっすぐ私を見る。


「どうして勝てたことを、自分の手柄みたいに言わないんだ?」


「言っているでしょう」


「言ってない」


「私は自分で憑依を選びました」


「それは、俺に身体を貸したことを選んだだけだ」


「同じです」


「違う」


 蓮くんの声が強くなる。


「パスを選んだのは俺だ」


「私も見ていました」


「だったら、何で入る前に出さなかった」


 返事ができない。


「見えてたんだろ」


「相手がいました」


「憑依したあともいた」


「パスコースが少し変わりました」


「俺が相手をかわしたからだ」


「だから、必要だったんです」


「必要にしたのは、お前だろ」


 胸が熱くなる。


「私が何をしたと言うんですか」


「自分で出せなかったことを、必要だったって言い換えてる」


「違います」


「本当に?」


「チームが勝つためです」


「お前が失敗しないためじゃなくて?」


「違う!」


 声が大きくなった。


 通行人がこちらを見る。


 私は口を閉じ、歩き始める。


 蓮くんもついてくる。


「美緒」


「今は話したくありません」


「俺も、使われたことを怒ってるわけじゃない」


「なら何ですか」


「俺が怖いんだよ」


 足が止まった。


「何が?」


「俺が出したパスを、お前の友達が怖いって言った」


 蓮くんは、自分の手を見る。


「あのとき、お前がいなくなったように見えたって」


「それは、陽菜たちが慣れていないだけです」


「俺が入るたびに、お前が消えて見えるなら」


 蓮くんが顔を上げる。


「それでも使うのか?」


「私は消えていません」


「身体の中にいるって話じゃない」


「では何ですか」


「お前が、自分で決めるのをやめてる」


 昨日、蓮くんを一人の存在だと認めた。


 現在の蓮さんとは違う。


 過去の記憶だけでもない。


 蓮くん自身の判断がある。


 だからこそ。


 その判断を借りれば、それは私のものではなくなる。


「でも、今日は勝てました」


 私は言った。


「それじゃ駄目なんですか」


 蓮くんはすぐには答えなかった。


「勝つことは大事だ」


「なら」


「でも、お前が何のためにサッカーをしてるかは、それより大事だ」


「勝つためです」


「本当に?」


「全国へ行くためです」


「それだけか?」


「チームのみんなと一緒に――」


「あいつを立ち直らせるためじゃないのか」


 言葉を失う。


「何を言っているんですか」


「俺が現れてから、お前はずっとあいつを見てた」


「それは」


「あいつをサッカーへ戻したい。昔みたいに笑わせたい。夢を思い出させたい」


「蓮くんだって、そうしたいと言っていたでしょう」


「ああ」


「なら、同じです」


「違う」


 蓮くんが首を振る。


「俺は、あいつが戻れば自分が正しかったことになると思ってた」


 現在の蓮さんに言われた言葉がよみがえる。


『自分が正しかったことにしたいだけだろ』


 蓮くんは、あの言葉を認め始めている。


「お前まで、あいつのためにサッカーをする必要はない」


「私は蓮さんのためだけにやっているわけではありません」


「でも、試合を見せれば変わると思ってるだろ」


 否定できない。


 私の試合を見てほしい。


 サッカーをしている私を見れば、何かを思い出してくれるかもしれない。


 もう一度、好きだと気づいてくれるかもしれない。


 ずっと、そう願っていた。


「蓮さんを変えるためだけに、私はサッカーをしてるんじゃない」


 口に出した瞬間、自分の胸へも刺さった。


 蓮くんは黙っている。


「私は、私のチームで全国へ行きたい」


「うん」


「陽菜へパスを出したい。沙月から先発を奪いたい。真帆先輩たちと、もっと試合をしたい」


 一つずつ言葉にする。


「蓮さんが戻らなくても?」


 蓮くんが尋ねる。


 答えるのが怖かった。


 現在の蓮さんがサッカーへ戻らなくても。


 昔のように笑わなくても。


 プロになる夢を二度と追わなくても。


 私は、自分のサッカーを続けるのか。


「続けます」


 声は震えた。


 それでも、はっきり答えた。


「蓮さんがどうするかは、蓮さんが決めることです」


「そうか」


「蓮くんが戻るかどうかも、蓮くんが決めることです」


「ああ」


「私がどうプレーするかは、私が決めます」


 蓮くんは少しだけ笑った。


「だったら、次は自分で決めろ」


「憑依を絶対に使わないとは言っていません」


「分かってる」


「必要だと思ったら、また頼むかもしれません」


「それも、お前が決めればいい」


 予想していなかった返事だった。


「止めないんですか」


「止めたい」


「では」


「でも、お前の身体だからな」


 蓮くんは自分の手を見る。


「俺が決めることじゃない」


 現在の蓮さんとぶつかったあの日、私が二人へ伝えた言葉だった。


「ただし」


「何ですか」


「次に頼むなら、今日みたいな言い訳はするな」


「言い訳?」


「勝つために必要だから、じゃない」


 蓮くんが私を見る。


「自分では怖くて決められないから、俺に決めてほしいって言え」


「そんなことは――」


「言えないなら、自分でやれ」


 腹が立った。


 それでも、反論できなかった。


 蓮くんは私の表情を見て笑う。


「怒った?」


「怒っています」


「最近ずっと怒ってるな」


「誰のせいですか」


「俺だな」


 素直に認められ、余計に言葉がなくなった。


 家の近くまで来たところで、蓮くんが空を見上げた。


「あと何日だ?」


「何がですか」


「あいつが退部届を出し直すまで」


 監督から与えられた一週間。


 すでに半分以上が過ぎている。


「三日です」


「三日か」


「会いに行くつもりですか?」


「分からない」


「前なら、すぐ行くと言ったでしょう」


「俺が何を言っても、あいつには聞こえない」


「蓮さんと話すための憑依は、もうしません」


「ああ」


 蓮くんは反対しなかった。


「それに」


「何ですか」


「あいつを戻すことだけが、俺の役目じゃないのかもしれない」


「どういう意味ですか」


「まだ分からない」


「何でも分からないですね」


「お前に言われたくない」


 蓮くんは小さく笑った。


     ◇


 その夜。


 私は今日の試合映像を切り取り、現在の蓮さんへ送った。


 前半に相手守備のずれを使った場面。


 沙月が陽菜へ通した縦パス。


 私が途中出場してから、何度も判断をためらった場面。


 そして、最後の得点につながったパス。


 送信する前に、何度も指が止まった。


 試合を見てほしい。


 でも、それは蓮さんを変えるためではない。


 そう言ったばかりだった。


「送らないのか?」


 蓮くんがベッドの横に立っている。


「迷っています」


「見てほしいんだろ」


「はい」


「だったら送ればいい」


「蓮さんを変えようとしていることになりませんか」


「変わるかどうかを決めるのは、あいつだ」


「……そうですね」


 メッセージを入力する。


『今日、県大会の初戦でした。勝ちました』


 それだけでは、何を送ったのか分からない。


『前に、映像を見たら助言してくれたので、今回も送ります』


 少し考え、続ける。


『返事はいりません』


 動画を添付して送信した。


 既読はつかない。


「これでいいのか?」


「分かりません」


「何でも分かりませんだな」


「真似しないでください」


 蓮くんが笑った。


 私はスマートフォンを机へ置く。


 鞄から古いスパイクを取り出した。


 ひびは、朝と変わっていないように見える。


 少なくとも、今日の憑依で急に広がった様子はなかった。


「戻りますか?」


「ああ」


「今日はありがとうございました」


「礼を言うのか」


「勝てたのは、蓮くんのパスのおかげです」


「その前に相手のずれを見つけたのは、お前だ」


「でも、最後に出したのは蓮くんです」


「次はお前が出せ」


「簡単に言わないでください」


「簡単じゃないから言ってる」


 蓮くんは古いスパイクの前へ立つ。


「美緒」


「何ですか」


「今日、楽しかったか?」


 答えに迷った。


 勝てたことはうれしい。


 相手の守備を見て、空いている場所を見つけられた。


 先生へ説明し、チームの攻撃を変えることもできた。


 ピッチへ入ったときも、たくさんのものが見えていた。


 それなのに。


 最後に残っているのは、憑依中のパスだった。


 自分で選べなかった場面ばかりが浮かぶ。


「分かりません」


「そっか」


「でも」


 蓮くんを見る。


「次の試合では、楽しかったと言えるようにしたいです」


「うん」


「自分で決めて」


「ああ」


 蓮くんの身体が、淡い光へ変わる。


「おやすみ、美緒」


「おやすみなさい、蓮くん」


 光が古いスパイクへ吸い込まれた。


 部屋が静かになる。


 私はもう一度、スマートフォンを確認した。


 蓮さんへ送ったメッセージには、まだ既読がついていなかった。


     ◇


 深夜。


 現在の蓮は、ベッドの上でスマートフォンを見ていた。


 美緒から届いたメッセージは、通知の画面に残ったままだった。


『今日、県大会の初戦でした。勝ちました』


『前に、映像を見たら助言してくれたので、今回も送ります』


『返事はいりません』


 返事がいらないなら、見る必要もない。


 そう思い、画面を伏せる。


 数分後、再び手に取った。


 大学サッカー部の監督から言われた期限まで、あと三日。


 机の上には、書き直した退部届が置かれている。


 名前も、日付も記入してある。


 あとは提出するだけだった。


 蓮は動画を開いた。


 最初に映ったのは、前半の試合だった。


 橘沙月が中央でボールを受ける。


 相手ボランチを引きつけ、逆側へ展開する。


「首を振るのが遅い」


 無意識に呟いた。


 次の場面。


 小野寺陽菜が一度下がり、相手センターバックを引き出す。


 空いた場所へ別の選手が走る。


「今のは悪くない」


 誰に聞かせるでもなく評価する。


 映像が進む。


 後半、途中出場した美緒がボールを受ける。


 陽菜が走る。


 美緒には見えているはずだった。


 けれど短いパスを選んだ。


「そこは出せよ」


 昔にも、同じことを言った気がした。


 いつの記憶かは分からない。


 幼い美緒へ教えていた頃か。


 以前見せられた試合映像か。


 それとも。


 あの日、美緒の身体を通して責めてきた、昔の自分の言葉なのか。


 動画の終盤。


 美緒の動きが急に変わった。


 受ける前に相手を見て、視線で重心を動かす。


 一人をかわし、鋭い縦パスを通した。


 蓮の指が、画面の上で止まる。


 自分なら、同じ場所へ出した。


 そう思った。


 高校時代の自分なら。


 迷わず。


 味方が追いつくと信じて。


 いや。


 追いつかなければ仕方がないと思って。


「……違う」


 蓮は映像を少し戻した。


 美緒が相手をかわす。


 陽菜が走る。


 パスが通る。


 得点が決まる。


 確かにうまい。


 けれど、その前までの美緒とは違う。


 蓮はもう一度、動画を最初から見た。


 前半。


 沙月が相手を動かす。


 陽菜が下がる。


 逆サイドの選手が走る。


 美緒はベンチにいる。


 それでも、タッチライン際の監督へ何かを話していた。


 直後、チームの動きが変わる。


「これ、美緒が見つけたのか」


 最後のパスだけではない。


 ピッチへ入る前から、美緒は試合を見ていた。


 自分にはなかったものを使っていた。


 全員の位置を見る目。


 一人で抜かなくても、試合を動かす方法。


 蓮は動画を停止した。


 机の上の退部届へ目を向ける。


 美緒のプレーを見て、戻りたいと思ったわけではない。


 これだけで、怖さが消えるわけでもない。


 佐伯からポジションを奪い返せるわけでもない。


 プロになれるわけでもない。


 それでも。


 映像を見ている間、一度も退屈しなかった。


 相手の守備がどう動くのか。


 次にどこが空くのか。


 美緒が何を選ぶのか。


 気づけば、すべてを考えていた。


 蓮はスマートフォンを置く。


 退部届を裏返した。


 捨てたわけではない。


 提出をやめたわけでもない。


 ただ。


 今夜は、文字を見たくなかった。


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