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夢を諦めた君のスパイクから、十七歳の君が現れた  作者: situ725


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18/20

第18話 夢の残骸

 目を覚ますと、身体中が重かった。


 起き上がろうとしただけで、こめかみの奥が鈍く痛む。


「……痛い」


 思わず声が漏れた。


 昨日、長い時間、少年へ身体を貸した。


 最後には、自分の意思で無理やり憑依を解除した。


 その代償が、まだ身体に残っている。


 両足をベッドから下ろす。


 床へ足をついた瞬間、膝がわずかに震えた。


 歩けないほどではない。


 けれど、この状態で学校へ行くのは無理だった。


 机の上を見る。


 布製の袋に入れた古いスパイクが置いてある。


 昨夜、帰宅してから一度も少年を呼び出していない。


 少年も、スパイクの中から出ようとはしなかった。


「蓮さん」


 呼びかけてから、少し待つ。


 返事はない。


 私はベッドから立ち上がり、机までゆっくり歩いた。


 袋からスパイクを取り出す。


 外側の革に入った細いひびは、昨日よりも明らかに長くなっていた。


 つま先の近くから側面へ伸び、縫い目の手前まで届いている。


「蓮さん」


 もう一度呼ぶ。


 スパイクは何も答えない。


 胸の奥がざわついた。


「戻ってこられないんですか?」


 両手でスパイクを持つ。


 革は冷たい。


 昨日、少年が戻った直後には、わずかに熱を持っていた。


「怒っているなら、出てきてください」


 返事はない。


「私も怒っています。でも、話さないままでは何も分かりません」


 指でひびへ触れた。


 その瞬間、スパイクがわずかに震えた。


 淡い光が縫い目から漏れる。


 光はすぐに消えた。


 代わりに、私の背後から声がした。


「怒ってるわけじゃない」


 振り返る。


 少年が窓の前に立っていた。


 制服姿。


 少し跳ねた黒髪。


 いつもと同じ姿に見える。


 けれど、輪郭は以前よりも薄かった。


 朝の光が、肩の向こう側まで透けている。


「出られたんですね」


「ああ」


「すぐに返事をしてください」


「何て言えばいいか分からなかった」


 少年は私と目を合わせなかった。


「身体は?」


「まだ痛いです」


「ごめん」


「昨日も聞きました」


「何度でも謝る」


「謝れば、なかったことになるわけではありません」


「分かってる」


 少年は静かに答えた。


 言い返してこない。


 それが、いつもの少年らしくなかった。


「今日は学校を休みます」


「部活だけじゃなくて?」


「この状態で授業を受けるのも無理です」


「病院へ行った方がいいんじゃないか」


「歩けます。少し休めば大丈夫だと思います」


「でも――」


「悪化したら行きます」


 少年は納得していないようだった。


 それでも、それ以上は言わなかった。


 私は学校へ欠席の連絡を入れ、陽菜にも体調不良で休むとメッセージを送った。


 すぐに陽菜から返信が来た。


『大丈夫? 昨日まで普通だったよね?』


『熱はない。少し休めば大丈夫』


『絶対無理しないで。必要なものあったら持っていくから』


 短く礼を返し、スマートフォンを机へ置く。


 少年は古いスパイクを見つめていた。


「ひび、広がってるな」


「はい」


「昨日のせいか?」


「分かりません」


「俺が無理に身体を使ったから」


「それだけではないかもしれません」


「じゃあ、何だよ」


 少年がこちらを見る。


 私はスパイクの横へ椅子を寄せた。


「昨日、言っていましたよね」


「何を」


「自分にないのは、大学へ入ってからの記憶だけなのかって」


 少年の表情が固くなる。


「ああ」


「確かめましょう」


「どうやって?」


「覚えていることを整理します」


「何のために」


「本当に大学へ入ってからのことだけが欠けているのか、確かめるためです」


 少年はすぐには答えなかった。


 窓の外へ顔を向ける。


 朝の光の中で、その輪郭が揺れた。


「怖いですか?」


「怖くない」


「昨日もそう言って、無理をしました」


「……少しだけ」


 少年は認めた。


「何もなかったら、どうすればいい」


「何もないとは決まっていません」


「家族の顔も、家の場所も思い出せなかった」


「だから確かめるんです」


「本当に俺があいつじゃなかったら?」


 その問いに、すぐには答えられなかった。


 私も怖かった。


 少年が高校時代の蓮さん本人ではないと分かったとき、この関係がどう変わるのか。


 少年自身が、何を支えにここへいられるのか。


 そして。


 彼が蓮さんではないなら、私は誰を好きになったのか。


「それも、分かってから考えます」


「またそれか」


「今は、まだ答えを決められません」


「正直だな」


「分かったふりをして、勝手に答えを決めたくないんです」


 昨日の二人と同じことはしたくなかった。


 少年は小さく息を吐く。


「分かった」


 私の向かいへ腰を下ろすような姿勢を取った。


 椅子には触れられない。


 それでも、座っているように見える高さで宙に留まる。


「何から聞く?」


「両親の名前は?」


 少年の表情が止まった。


「……分からない」


「顔は?」


「分からない」


「声は覚えていますか?」


「いや」


「兄弟は?」


「いたかどうかも分からない」


 私はノートを開き、書き込んだ。


 家族の名前。


 顔。


 声。


 兄弟。


 すべて、記憶なし。


「何で書くんだよ」


「あとで整理するためです」


「自分が空っぽだって、紙に残されてるみたいだ」


 ペンが止まる。


「嫌なら、やめますか?」


「いや。続けてくれ」


 私はうなずいた。


「小学生の頃の、一番古い記憶は?」


「サッカーをしてた」


「どこの小学校ですか?」


「……分からない」


「担任の先生は?」


「覚えてない」


「同級生は?」


「名前は出てこない」


「サッカーチームの名前は?」


 少年は目を閉じた。


「ユニフォームは青だった気がする」


「チーム名は?」


「分からない」


「初めて公式戦に出たのは?」


「小学生のとき」


「何年生ですか?」


「分からない」


「相手は?」


「覚えてない」


「試合の結果は?」


 少年が眉を寄せる。


「勝ったと思う」


「どうしてですか?」


「俺が点を取って、周りのやつらが喜んでる場面は浮かぶ」


「最終的な点数は?」


「……分からない」


「そのあと、誰と帰りましたか?」


「覚えてない」


 覚えているようで、何もつながっていない。


 サッカーをしていた感覚だけがあり、場所も、相手も、一緒にいた人も欠けている。


 私はノートへ書き込む。


「中学校は?」


「サッカー部だった」


「学校名は?」


「分からない」


「友達や顧問の先生は?」


「誰も思い出せない」


 小学校と同じだった。


 サッカーをしていた感覚だけがあり、その隣にいたはずの人たちが抜け落ちている。


 少年は苛立ったように髪へ手をやる。


 けれど指は髪をすり抜ける。


「何なんだよ、これ」


「高校のことを聞きます」


「高校なら覚えてる」


 少年の声が少し強くなった。


「学校名は?」


 答えが返ってくる。


 高校の場所。


 校舎の形。


 部室の位置。


 グラウンドの広さ。


 サッカー部の監督。


 チームメイト。


 大会の結果。


 どれも、さっきまでより明確だった。


「高校一年生の最初の試合は?」


「春の練習試合。後半から出た」


「相手校は?」


 少年が答える。


「どんなプレーをしましたか?」


「左から来たクロスを、右足で合わせた。キーパーに弾かれたけど、こぼれ球を押し込んだ」


「誰がクロスを上げたんですか?」


 少年はチームメイトの名前を挙げる。


 迷いはなかった。


 話すほど、表情が生き生きしていく。


 試合のことなら、細部まで覚えている。


 ピッチの状態。


 天気。


 相手選手の特徴。


 ゴールを決めた位置。


 監督から言われた言葉。


「その日の朝、何を食べましたか?」


 少年の口が止まった。


「……何だって?」


「試合の日の朝食です」


「覚えてない」


「家から誰と出ましたか?」


「分からない」


「会場まで、どうやって行きましたか?」


「多分、電車」


「誰と一緒でしたか?」


「チームのやつらだろ」


「集合場所は?」


「……分からない」


「試合が終わったあと、家で何をしましたか?」


「覚えてない」


 さっきまでの勢いが消える。


 試合の中だけは鮮明なのに、その前後がない。


 ピッチを離れた瞬間、記憶が途切れている。


「次は、お姉ちゃんとの記憶です」


 少年が顔を上げた。


「初めて話した場所は?」


「校舎裏の自動販売機の前」


 答えは早かった。


「千春が小銭を落として、俺が拾った」


「その日は何月でしたか?」


「六月」


「何日のことですか?」


「そこまでは覚えてない」


「その前の授業は?」


「……分からない」


「何を飲もうとしていたんですか?」


「千春はミルクティー」


「蓮さんは?」


「スポーツドリンク」


「そのあと、どこへ行きましたか?」


「俺は練習。千春は教室に戻った」


「次に話したのは?」


 少年は少し考える。


「試合を見に来てくれた日」


「その間に学校で会わなかったんですか?」


「会ってたと思う」


「何を話しましたか?」


「……分からない」


 お姉ちゃんに関する記憶も、すべてがあるわけではない。


 少年にとって大切だった瞬間だけが、切り取られたように残っている。


 初めて出会った日。


 交際を始めた日。


 決定機を外して、お姉ちゃんの前で泣いた日。


 そこだけは、映像のように鮮明だった。


「蓮さんが現れる前日に外したシュートは、お姉ちゃんの前で泣いたときの試合ですか?」


 少年は首を振った。


「違う。もっとあとの試合だ」


「相手は覚えていますか?」


「……そこまでは思い出せない」


「試合の結果は?」


「分からない」


「何を覚えているんですか?」


「ゴール前で外したこと」


 少年が右足を見る。


「キーパーの位置を見て、左へ打った。少し巻きすぎて、外へ行った」


「それで、次の日に練習し直そうとした?」


「ああ」


「シュート以外の場面は?」


「浮かばない」


 試合全体ではない。


 失敗したシュートの感覚だけが、強く残っている。


「私とのことは?」


 少年が私を見る。


「何を聞くんだよ」


「最初に会った日のことです」


「お前が小学生のとき」


「何年生ですか?」


「……低学年」


「どこで会いましたか?」


「河川敷」


「どうして私がいたんですか?」


「千春についてきた」


「その日、私はどんな服を着ていましたか?」


「黄色いシャツ」


「本当に?」


「多分」


「私は何を話しましたか?」


「サッカーを教えてって言った」


「最初から?」


「最初からだったと思う」


 私は、その日のことを覚えている。


 お姉ちゃんと蓮さんがボールを蹴っているところへ、私が勝手に混ざった。


 最初に言ったのは、「私にも貸して」だった。


 サッカーを教えてほしいと言ったのは、少し後だ。


「違います」


「え?」


「最初に私は、ボールを貸してと言いました」


「そうだったか?」


「はい」


「でも、俺はお前にサッカーを教えた」


「それは覚えているんですね」


「ああ」


「私が初めてリフティングを三回できた日も?」


「覚えてる」


「何月でしたか?」


「夏」


「何歳のとき?」


「……分からない」


「その日に、お姉ちゃんはいましたか?」


 少年が黙る。


「いたと思う」


「何をしていましたか?」


「見てた」


「どこから?」


「分からない」


 少年の記憶にあるのは、私とボールを蹴ったこと。


 私ができるようになったこと。


 私が喜んだ顔。


 その周囲にあるものは、曖昧だった。


「もういい」


 少年が言った。


「まだ途中です」


「十分だろ」


「蓮さん」


「俺に記憶がないことは分かった」


 少年が立ち上がる。


「家族も、学校も、サッカー以外のことも覚えてない」


「それだけではありません」


「まだ何がある」


「覚えていることにも、偏りがあります」


「偏り?」


 私はノートを少年へ向けた。


 触れることはできなくても、文字は見える。


「蓮さんが細かく覚えているのは、サッカーの試合や練習です」


「サッカーをずっとやってたんだから、当たり前だろ」


「それから、お姉ちゃんを好きになったこと」


 少年が黙る。


「私とボールを蹴ったこと」


「それが何だ」


「それ以外が、ほとんどありません」


「たまたまだ」


「たまたまで、家族の顔を全員忘れますか?」


「俺だって分からない」


「高校の教室も、サッカー部に関係する場所は覚えているのに、授業の内容はほとんど覚えていない」


「勉強が嫌いだっただけだ」


「文化祭は?」


 少年が止まる。


「……覚えてない」


「去年の体育祭は?」


「覚えてない」


「入学式の日は?」


「分からない」


「家族と出かけた記憶は?」


「ない」


「誕生日は?」


「分からない」


「自分の誕生日もですか?」


 少年の目が揺れた。


「瀬川蓮の誕生日は知ってる」


「その日に何をしたか覚えていますか?」


 答えは返ってこなかった。


 少年が持っているのは、蓮さんの人生そのものではない。


 夢に関係するもの。


 サッカーに関する技術と自信。


 プロになりたいという強い願い。


 お姉ちゃんへの恋心。


 私とサッカーをした記憶。


 そうしたものだけが、不自然なほど鮮明に残っている。


「俺は」


 少年が呟く。


「本当に、あいつじゃないのか」


 私は答えられなかった。


 どれだけ記憶が欠けていても、それだけで別人だと断定はできない。


 突然この時代へ来た影響で、記憶が失われた可能性もある。


 けれど。


 少年が過去から来た蓮さんなら、どうして私のそばから離れられないのか。


 どうして古いスパイクから現れたのか。


 どうして私が眠ると、少年の意識まで薄れるのか。


 過去から来た本人だと考えるよりも、別の理由があると考えた方が、これまでのことを説明できる。


「最初の日のことを覚えていますか?」


「俺が現れた日か?」


「はい。学校を出たところまでは覚えていると言っていましたよね」


「ああ。前日の試合で外したシュートを練習し直すつもりだった」


「そのあと、どこへ向かったんですか?」


「グラウンドだと思う」


「思う?」


「行くつもりだったのは覚えてる。でも、学校を出たあとの道が思い出せない」


「誰かと話しましたか?」


「分からない」


「グラウンドへ着いた記憶は?」


「ない」


「歩いていた記憶も?」


「ない」


「次に覚えているのが、私の部屋ですか?」


 少年はしばらく黙っていた。


「……ああ」


「学校を出るところまでは覚えている。でも、その先がないんですね」


 少年が頭を抱える。


「学校を出たあとの俺が、どこにもいない」


「蓮さん」


「グラウンドへ向かうつもりだった。でも、着いた記憶も、歩いた記憶もない」


 少年は自分の胸へ手を当てる。


「気づいたら、お前の部屋にいた」


 私も覚えている。


 現在の蓮さんと会った夜。


 夢を否定されたことが悲しくて、古いスパイクへ問いかけた。


『あんなに楽しそうだったのに』


『どうして、こんなふうになっちゃったの?』


『私が憧れてた蓮さんは、どこに行ったの?』


 そして、最後に願った。


『戻ってきてよ』


『夢を諦めてない蓮さんに、もう一度会いたい』


 その直後、少年は現れた。


 私は、昔の蓮さんに戻ってほしいと願った。


 今の蓮さんではなく。


 私の記憶の中で笑っていた、夢を諦めない蓮さんを求めた。


「私の願いが関係しているのかもしれません」


 少年が顔を上げる。


「何を言ってる?」


「蓮さんが現れた夜、私はこのスパイクへ話しかけました」


 机の上の古いスパイクを見る。


「昔の蓮さんに戻ってきてほしいって」


「それで俺が出てきた?」


「分かりません」


「お前が、昔の俺に戻ってほしいって願ったから?」


「それだけで人が現れるとは思えません。でも、偶然とも思えません」


「だったら、俺はお前が作ったのか?」


「私だけではないと思います」


「じゃあ、何なんだよ」


 少年の声が震える。


 私は古いスパイクを両手で持つ。


「このスパイクに、高校時代の蓮さんの気持ちが残っていたのかもしれません」


「気持ち?」


「プロになりたいという願いや、サッカーを好きだった気持ちです」


「物に、そんなものが残るのか?」


「普通なら残らないと思います」


「じゃあ」


「でも、蓮さんはここにいます」


 少年は答えなかった。


「確かなことは分かりません。でも、そう考えれば、蓮さんの記憶が偏っていることも説明できます」


「サッカーのことばかり覚えてるから?」


「はい。それに、お姉ちゃんへの気持ちや、私とボールを蹴った記憶も」


「それと、お前の願いが重なった?」


「多分」


 私はスパイクを見つめる。


「このスパイクに残っていたものと、私の願いが重なって、蓮さんが現れたのかもしれません」


「確かめる方法は?」


「分かりません」


「結局、想像じゃないか」


「はい」


「認めるんだな」


「分からないことを、分かったとは言えません」


 少年が古いスパイクへ目を向ける。


「触ったら、何か分かると思うか?」


「分かりません」


「何でも分かりませんだな」


「では、やめますか?」


「いや」


 少年はスパイクへ近づく。


「触ってみる」


「私が持っておきます」


 少年は基本的に物へ触れられない。


 けれど、私が触れているものなら、一時的に感触を得られる。


 私は両手でスパイクを持ち直した。


 少年が迷いながら手を伸ばす。


 私が触れている革の上へ、指先を重ねた。


 その瞬間。


 淡い光が弾けた。


 これまで何度も触れてきたはずのスパイクだった。


 それなのに今だけ、ひびの奥から何かが漏れ出すように、光が広がった。


「っ……!」


 目の前が白くなる。


 音が聞こえた。


 ボールを蹴る音。


 雨に濡れた土。


 荒い呼吸。


 歓声。


 誰かの笑い声。


『絶対、プロになる』


 少年と同じ声。


 まだ迷いのなかった蓮さんの声。


 何度もボールを蹴る足。


 泥で汚れたスパイク。


 ほどけた靴紐。


 ゴールを決めた瞬間の高揚。


 お姉ちゃんへ向けた笑顔。


 幼い私がボールを追う姿。


 映像はどれも短かった。


 場面と場面の間はつながっていない。


 誰の視点なのかも分からない。


 ただ、強く残った感情だけが流れ込んでくる。


 走りたい。


 もっと上手くなりたい。


 絶対に負けたくない。


 プロになりたい。


 そのあと。


 長い暗闇があった。


 誰にも履かれず、棚に置かれていた時間。


 暗闇の向こうから、私の声が聞こえる。


『戻ってきてよ』


 胸を締めつけるような悲しみ。


『夢を諦めてない蓮さんに、もう一度会いたい』


 その声へ向かって、散らばっていた熱が動いた。


 わずかな光が集まる。


 けれど、そこから先は見えなかった。


 少年が生まれた瞬間も。


 どうして人の形になったのかも。


 分からない。


 光が消えた。


 私は椅子から転げ落ちそうになり、机へ手をついた。


 少年も、スパイクから手を離す。


「今のは……」


 少年の顔から血の気が引いたように見えた。


「見えましたか?」


「ああ」


「私もです」


「俺の記憶じゃない」


 少年はスパイクを見つめる。


「俺が覚えてない場面ばかりだった」


「スパイクに残っていたものかもしれません」


「それも想像か?」


「はい」


「でも、お前の声は聞こえた」


「私も聞こえました」


「戻ってきてほしいって」


「……はい」


「その声に、何かが集まってた」


 少年が自分の手を見る。


「サッカー」


 一つずつ、確かめるように呟く。


「プロになりたいっていう夢」


「お姉ちゃんへの気持ち」


「お前とボールを蹴った記憶」


 少年の輪郭が揺れる。


「そういうものが、このスパイクに残っていたのかもしれません」


「それに、お前の願いが重なった」


「多分」


「それで、俺が現れた」


「そう考えれば、これまでのことは説明できます」


 少年は答えなかった。


「でも、断定はできません」


「十分だろ」


 少年が自嘲するように笑う。


「俺は、高校時代の瀬川蓮じゃない」


 胸が痛んだ。


「あいつが抱えきれなくなったものだけで、できてるのかもしれない」


「まだ、そうだと決まったわけではありません」


「でも、そう考えれば全部つながる」


「蓮さん」


「プロになりたいっていう夢。サッカーが好きだった気持ち。諦めないっていう自信」


 少年が笑う。


 けれど、その顔に楽しさはなかった。


「痛い記憶は、あいつの中に残った」


 怪我への恐怖。


 努力しても届かなかった経験。


 佐伯さんにポジションを奪われた悔しさ。


 過去と比べられ続けた苦しみ。


「俺には、何もなかった」


 少年が続ける。


「負けたことも、届かなかったことも、怪我が怖かったことも知らない」


「だから昨日、現在の蓮さんを理解できなかった」


「理解できるわけないよな」


 少年は乾いた声で笑った。


「俺は、都合のいい夢だけでできてたんだな」


「違います」


「違わない」


「違います」


 私は言い切った。


「何が違うんだよ」


「蓮さんが最初に何から生まれたかと、今の蓮さんが何者なのかは同じではありません」


「意味が分からない」


「最初は、現在の蓮さんが抱えきれなくなった夢や情熱から生まれたのかもしれません」


 少年の前へ立つ。


「でも、私と喧嘩したことも、一緒に練習したことも、今の蓮さんが選んだことでしょう」


 少年が私を見る。


「憑依で無理をして、私を怒らせたことも」


「それは忘れてくれ」


「自分の力で戦えと言ってくれたことも」


「それは……」


「私のプレーを見て、私にしかできないことがあると言ってくれたことも」


 少年は黙っている。


「現在の蓮さんに会いに行きたいと言ったのも、昨日、約束を破ったのも、そのあと私に謝ったのも」


 一つずつ。


 私と少年が過ごした時間を、言葉にする。


「全部、スパイクに残っていた記憶ですか?」


「違う」


「現在の蓮さんの記憶ですか?」


「違う」


「私が決めたことですか?」


「……違う」


「なら、蓮さんが選んだことです」


 少年が唇を噛む。


「でも、最初から偽物だった」


「偽物ではありません」


「俺は瀬川蓮じゃない」


「はい」


 少年の目が見開かれた。


 自分でも、言ったあとに胸が痛んだ。


 けれど、ここで否定してはいけない。


 彼を現在の蓮さんと同じだと言えば、また一部分として扱うことになる。


「認めるんだな」


「あなたは、現在の蓮さんではありません」


「高校時代のあいつでもない」


「はい」


「だったら、俺は誰なんだよ」


 少年の声が震えた。


 私は彼を見る。


 制服姿の少年。


 現在の蓮さんと同じ顔。


 同じ声。


 同じ癖。


 けれど、今の彼には、現在の蓮さんが知らない時間がある。


 私と一緒に試合映像を見た。


 授業中に一方的に話しかけてきた。


 放課後にボールを蹴った。


 喧嘩をした。


 私の身体を傷つけたことを後悔した。


 自分の答えを押しつけず、私自身のサッカーを見つけようとしてくれた。


 現在の蓮さんとは違う。


 十七歳だった蓮さんとも違う。


 目の前にいる、この人だけの記憶だった。


「蓮くん」


 口から、自然にその名前が出た。


 少年が瞬きをする。


「……何だよ、それ」


「名前です」


「それは分かる」


「なら、返事をしてください」


「何で急に君付けなんだよ」


「蓮さんと区別するためです」


「俺も今まで蓮さんだっただろ」


「今までは、あなたを昔の蓮さんだと思っていました」


「今は違うのか」


「はい」


 胸が痛い。


 それでも、目を逸らさなかった。


「蓮さんと、あなたは違う人だから」


 少年は何も言わなかった。


「同じ顔で、同じ記憶を持っていても、今は違います」


「俺は、あいつの一部だ」


「最初はそうだったかもしれません」


「今もそうだろ」


「現在の蓮さんは、私と一緒に夜中まで試合映像を見ていません」


 少年の目が動く。


「私の授業中に、ずっと退屈だと話しかけてもいません」


「それは悪かったと思ってる」


「河川敷で一緒に練習したことも、私と喧嘩したことも知りません」


「……ああ」


「その記憶を持っているのは、蓮くんだけです」


 もう一度、その名前を呼ぶ。


 少年は少し困ったように眉を寄せた。


「変な感じだ」


「慣れてください」


「簡単に言うなよ」


「嫌ですか?」


「嫌じゃない」


 少年が小さく答える。


「ただ、俺じゃないみたいだ」


「あなたの名前でしょう」


「瀬川蓮は、あいつの名前だ」


「でも、あなたも最初から自分を瀬川蓮だと思っていたでしょう」


「それは、あいつの記憶があったからだ」


「それでも、今までその名前で私と過ごしてきました」


「でも」


「別の名前がいいですか?」


 少年はしばらく考えた。


 やがて、首を振る。


「蓮でいい」


「なら、蓮くんです」


「お前に君付けされると、年下になったみたいで落ち着かない」


「見た目は十七歳です。私は高校二年生なので、ほとんど同い年です」


「俺の方が誕生日は早いかもしれない」


「自分の誕生日に何をしたか覚えていなかったでしょう」


「それを言うな」


 少しだけ、いつもの調子が戻った。


 けれど笑いは長く続かなかった。


 蓮くんは古いスパイクを見る。


「俺は、夢の残骸なんだな」


「残骸なんて言わないでください」


「でも、あいつが抱えきれなくなったあとに残ったものだ」


「抱えきれなくなったものと、いらなくなったものは違います」


「同じだろ」


「違います」


「何が」


「いらないものなら、あんなに苦しまないと思います」


 私はスパイクへ触れる。


「現在の蓮さんは、夢を捨てられなくて苦しんでいました」


「夢のせいでな」


「夢を持ったことではなく、夢を叶えられない自分を認められなかったことで苦しんでいたんです」


 蓮くんは答えない。


「サッカーを好きだった気持ちまで、なくしたいとは言っていませんでした」


「でも、退部届を出した」


「だからといって、嫌いになったとは言いませんでした」


 昨日、インターホン越しに尋ねた。


『サッカーが嫌いになったんですか?』


 現在の蓮さんは答えなかった。


 好きだとも、嫌いだとも言わなかった。


「俺が戻れば、あいつは変わるのか」


 蓮くんが呟いた。


「戻る?」


「俺は、あいつから離れた部分なんだろ」


「そうかもしれません」


「だったら、元に戻ることもあるんじゃないか」


 胸が冷たくなった。


 考えたことがなかったわけではない。


 少年が現れた理由が、現在の蓮さんが抱えきれなくなった夢にあるのなら。


 現在の蓮さんが再び夢を受け入れたとき、少年はどうなるのか。


「分かりません」


「また、それか」


「分からないものは、分かりません」


「俺が消えるかもしれないのに?」


 言葉が出なかった。


 蓮くんがこちらを見る。


「怖いのか?」


「当たり前です」


 声が震えた。


「蓮くんは怖くないんですか?」


「分からない」


「昨日、自分が何者なのか分からなくて怖いと言いました」


「それとは違う」


「何が違うんですか」


「俺が最初からあいつ本人じゃなかったなら、消えるのは元に戻るだけかもしれない」


「そんな言い方をしないでください」


「だって、そうだろ」


「違います」


「どうして言い切れる」


「私が嫌だからです」


 蓮くんが目を見開く。


 言ってから、胸の奥が熱くなった。


 それ以上の言葉が口から出そうになる。


 好きだから。


 消えてほしくないから。


 現在の蓮さんへ戻れば、お姉ちゃんのところへ帰れると分かっていても。


 私は、ここにいる蓮くんを失いたくない。


 けれど、今は言えなかった。


 告白しても、蓮くんを困らせるだけだ。


「随分、自分勝手だな」


 蓮くんが言った。


「はい」


「否定しないのか」


「消えてほしくないと思うことまで、嘘にしたくありません」


 蓮くんは私から目を逸らす。


「千春には、あいつが戻った方がいい」


「はい」


「あいつがサッカーを好きだった気持ちを取り戻すなら、それもいいことだ」


「はい」


「でも、お前は俺に消えてほしくない」


「はい」


「全部は無理だろ」


「分かっています」


「分かってて言うのか」


「分かっているから、今は決めません」


「何を?」


「蓮くんがどうするべきかです」


 現在の蓮さんへ戻るべきだとも。


 戻らないでほしいとも。


 私が代わりに決めることではない。


「昨日、私は二人へ言いました」


「自分で決めろって?」


「はい」


「俺にも同じことを言うのか」


「蓮くんのことは、蓮くんが決めてください」


「俺に選べるのか?」


「選んでください」


 蓮くんは苦しそうに笑う。


「お前、昨日から強くなったな」


「誰かさんが、何でも代わりに決めようとしたからです」


「まだ怒ってる?」


「怒っています」


「いつまで?」


「私が決めます」


「そうかよ」


 今度の笑みは、ほんの少しだけ自然だった。


 私はノートを閉じる。


 書かれているのは、蓮くんにない記憶ばかりだった。


 けれど、それだけでは彼のすべてを表せない。


 新しいページを開く。


「何を書いてる?」


「蓮くんの記憶です」


「さっき書いただろ」


「今度は、ここへ来てからのことです」


 日付を書く。


 少年が現れた夜。


 初めて学校へついてきた日。


 初めて憑依した日。


 河川敷でボールを蹴った日。


 一緒に試合映像を見た日。


 喧嘩した日。


 私のサッカーを認めてくれた日。


「そんなことまで書くのか?」


「忘れないためです」


「俺が忘れると思ってる?」


「私が忘れないためです」


 蓮くんは黙った。


「現在の蓮さんにはない記憶です」


 一行ずつ、書き残す。


「これは、全部、蓮くんのものです」


 蓮くんはノートを見つめていた。


 やがて、私の横へ近づく。


 私がペンを握っている手へ、自分の手を重ねた。


 触れているペンを通して、わずかな感触が伝わる。


「一つ抜けてる」


「何がですか?」


「昨日、お前に追い出されたこと」


「残したいんですか?」


「俺の記憶なんだろ」


「では、書きます」


「『約束を破って、美緒に怒られた』って」


「『身体を返さなかったため、美緒に強制的に追い出された』と書きます」


「長い」


「正確です」


 ノートへ書き込む。


 蓮くんは、少しだけ笑った。


 窓から風が入る。


 カーテンが揺れた。


 蓮くんの髪と制服は、風を受けてもほとんど動かない。


 影も薄い。


 人ではない。


 高校時代の蓮さん本人でもない。


 それでも。


 今、私の隣で笑ったのは、過去の記憶ではなかった。


 目の前にいる蓮くんが、自分で作った表情だった。


「蓮くん」


「何だよ」


「これからも、そう呼びます」


「好きにしろ」


「返事はしてください」


「分かったよ、美緒」


 初めて呼ばれたわけではない。


 それなのに、今までとは違って聞こえた。


 瀬川蓮の一部分としてではなく。


 ここにいる一人の少年から、名前を呼ばれた気がした。


 机の上では、古いスパイクのひびが、縫い目の近くまで伸びていた。


 いつまで、この時間が続くのかは分からない。


 それでも今だけは。


 彼を、失われた夢の残骸として見たくなかった。


 蓮さんではない。


 夢だけでもない。


 私と出会い、自分で選び、自分の記憶を作った人。


 私にとって、たった一人の蓮くんだった。


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