第17話 俺はお前の夢に潰された
「夢を諦める前の、お前だ!」
私の口から、少年の叫びが飛び出した。
現在の蓮さんは、しばらく何も言わなかった。
伸びた前髪の奥から、私を見つめている。
いや。
見ているのは、私ではない。
私の身体を使って、自分を名乗る少年を見ている。
「……ふざけるな」
低い声だった。
「ふざけてない」
「千春から何を聞いた」
「千春は関係ない」
「だったら、どうして美緒がそんなことを知ってる」
「俺が覚えてるからだ」
「俺?」
蓮さんの眉が動く。
「さっきから何なんだよ、その言い方」
「言っただろ。俺はお前だ」
「美緒は女だろ」
「美緒の身体を借りてる」
少年が私の手を持ち上げようとする。
『無理に動かさないでください』
内側から止めると、腕は途中で下がった。
「でも、今話してるのは俺だ」
蓮さんが顔をしかめる。
「気味の悪いことを言うな」
「気味が悪くても、本当だ」
「本当なわけないだろ」
「じゃあ、何で俺しか知らないことを美緒が知ってる」
「昔の俺の真似をして、何がしたい」
「真似じゃない」
少年の声が強くなる。
「お前を戻しに来た」
「戻す?」
「サッカーへ戻す」
現在の蓮さんの表情から、困惑が消えた。
代わりに、冷たい怒りが浮かぶ。
「余計なことをするな」
「余計じゃない」
「俺が何をしようと、お前には関係ない」
「関係ある」
「ない」
「ある!」
少年の声が響いた。
胸が詰まる。
大声を出しただけなのに、息を吸い込みにくくなった。
憑依が始まってから、もう何分たったのだろう。
約束した五分は、まだ過ぎていないはずだ。
それでも、いつもの憑依より長く感じた。
「お前は何のために、あれだけ練習したんだ」
少年は続ける。
「雨の日も走った。朝早くからボールを蹴った。みんなが帰ったあとも、一人で残った」
「やめろ」
「試合で外したら、次は絶対決めるって練習した」
「黙れ」
「プロになるって言っただろ」
「黙れって言ってる!」
蓮さんが一歩踏み出した。
少年も反射的に前へ出ようとする。
『動かないでください』
『こいつは逃げようとしてる』
『約束しました』
足が止まる。
けれど、身体の力は抜けなかった。
肩が張り、拳が固く握られている。
私の身体なのに、私の意思では緩められない。
「努力すれば戻れる」
少年が言った。
「怪我が治ったなら、また練習すればいい」
現在の蓮さんの唇が震えた。
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。俺はずっとやってきた」
「高校までの話だろ」
「大学でも同じだ」
「同じじゃない」
「何が違うんだよ」
「全部だよ!」
蓮さんの声が、アパートの前に響いた。
通行人が振り返る。
近くに止められた自転車の横で、親子が足を止めた。
それでも、二人は周囲を見なかった。
「大学に、俺よりうまいやつがどれだけいたか知ってるか?」
蓮さんが私を睨む。
「……知らない」
「ほらな」
「そんなの、関係ない」
「関係あるんだよ」
「負けたなら、勝てるまで練習すればいい」
「やった」
短い答えだった。
少年の口が止まる。
「朝も、授業のあとも、全体練習が終わったあともやった」
蓮さんは、握った拳を見下ろした。
「高校でやってた倍は練習した」
「だったら――」
「それでも追いつかなかった」
少年の言葉が遮られる。
「俺と同じポジションに、俺より速いやつがいた。俺よりうまいやつもいた。俺より身体が強くて、俺より周りを見られるやつもいた」
「だからって、諦めるのか」
「まだ分からないのか?」
蓮さんが顔を上げる。
「努力すれば勝てるなんて、そんな単純な場所じゃなかったんだよ」
「努力が足りなかっただけだ」
少年が言った瞬間。
現在の蓮さんの表情が消えた。
怒りも、苛立ちも見えなくなる。
ただ、私の顔を見つめていた。
『蓮さん』
胸の奥がざわつく。
今の言葉は違う。
そう伝えようとしたとき、蓮さんが笑った。
乾いた笑いだった。
「そうだよな」
少年が眉を寄せる。
「何がだ」
「お前なら、そう言う」
「だったら――」
「俺も言ってたからな」
蓮さんの笑顔が消える。
「試合に出られないやつを見て、努力が足りないって思ってた」
少年は答えなかった。
「怪我をしたやつには、治ったらまた頑張ればいいって言った。夢を諦めた先輩には、根性がないって思った」
「俺は、そんなこと……」
「思ってたよ」
蓮さんは言い切った。
「だって俺だから分かる」
少年が使った言葉を、そのまま返す。
胸の奥で、少年の感情が大きく揺れた。
「俺なら絶対に諦めない」
蓮さんが言う。
「努力すれば必ずプロになれる」
「そうだ」
「本気で信じてた」
「今だって――」
「信じられるわけないだろ!」
蓮さんが叫ぶ。
胸を強く押されたように、呼吸が止まった。
「結果を出さないといけなかった」
蓮さんの声が震える。
「高校では、俺がボールを持てばみんな期待した。多少強引に行っても、点を取れば認められた」
少年の記憶の中にある蓮さん。
自分一人で相手を抜き、ゴールを決めるエース。
私が憧れていた姿。
「大学でも同じようにやろうとした。でも、抜けなかった。ボールを取られた。守備へ戻れって言われた。もっと周りを使えって言われた」
「直せばいい」
「直そうとした!」
少年の返事はすぐに返ってこなかった。
「でも、試合に出れば結果が欲しくなった。少ない時間で点を取らないと、次は使ってもらえないと思った」
蓮さんが右足へ目を落とす。
「無理に仕掛けた。相手に引っかけられた。倒れたとき、足首が変な方向に曲がった」
私の足首に、鈍い痛みが走った気がした。
蓮さんの怪我を、身体が知っているはずはない。
それでも、少年が強く意識したせいか、古傷のない場所が疼いた。
「治ったんだろ」
少年が言う。
さっきよりも声が小さい。
「医者には治ったって言われた」
「だったら」
「怖かったんだよ」
少年が黙る。
「同じように踏み込んだら、また壊れる気がした。切り返すたびに思い出した。痛くなくても、足首が固まった」
蓮さんは、自分のスニーカーを見つめたまま続ける。
「それでも戻らないと、佐伯に全部取られると思った」
「佐伯に?」
「あいつは派手な選手じゃない。俺みたいに一人で抜けるわけでもない。シュートだって、俺の方がうまかった」
少年の拳に力が入る。
「だったら、どうして負けた」
「守備をしたからだ」
「それだけか?」
「味方がボールを持ったら走った。自分が点を取れなくても、周りを生かした。監督に言われたことを、一つずつ直した」
蓮さんの口元が歪む。
「俺が、自分はエースだって思ってる間にな」
「そんなの、俺だってできる」
少年が言った。
「練習すれば――」
「またそれかよ」
蓮さんが顔を上げた。
「練習すればできる。努力すれば戻れる。諦めなければ夢は叶う」
「間違ってない」
「間違ってる!」
頭の奥に、鋭い痛みが走った。
視界が白く瞬く。
『蓮さん、少し落ち着いてください』
『今やめたら、何も聞けない』
『身体が苦しいです』
『あと少しだけ』
約束の五分は、もう過ぎている。
そう思った。
けれど、時間を確認することはできなかった。
少年が握っている私の手を、私の意思では開けない。
「周りはずっと言ってた」
現在の蓮さんが続ける。
「高校では有名だったんだろって。高校時代はエースだったのにって」
「それが何だよ」
「お前ならできるって言われるたびに、できない俺が間違ってる気がした」
「できなくても、また――」
「休むこともできなかった」
少年の声が止まる。
「プロになるって、俺が言ったからだ」
蓮さんの目が赤くなっていた。
「何度も言った。家族にも、千春にも、チームメイトにも」
少年の記憶の中で、蓮さんは笑っていた。
『俺は絶対、プロになる』
幼い私も、その言葉を信じていた。
疑ったことはなかった。
「だから、諦められなかった」
蓮さんの声が掠れる。
「苦しくても、まだ努力が足りないって思った。休んだら逃げだって思った。辞めたいと思うたびに、高校時代の俺が頭の中で言うんだよ」
蓮さんが、私を指さした。
「お前なら諦めないって」
少年の身体が、私の内側で固まった。
「頑張れば何でもできると思ってたお前に、俺の何が分かる」
「俺は……」
「分かるわけないだろ」
「俺はお前だ」
「違う」
蓮さんは迷わず否定した。
「お前は、失敗する前の俺だ」
少年の呼吸が止まる。
私の呼吸も浅くなる。
「自分よりうまいやつに負けたこともない。練習しても届かないって知ったこともない。怪我をして、戻る場所を失ったこともない」
「それでも、夢を捨てる理由にはならない」
「まだ言うのか」
「夢を持ったことまで否定するな」
少年の声が震える。
「俺が信じたことを、間違いだったみたいに言うな!」
「間違いじゃない」
現在の蓮さんが答えた。
少年が言葉を止める。
「夢を持ったことは、間違いじゃなかった」
蓮さんは苦しそうに息を吐く。
「でも、絶対に叶えなきゃいけないと思った」
「叶えようとするのは悪いことじゃない」
「叶えられない自分を、許せなくなったんだよ」
少年は何も言わなかった。
「サッカーが好きだった」
蓮さんの声が、わずかに弱くなる。
「だからプロになりたかった」
胸の奥で、少年がその言葉に反応した。
「でも、いつからか逆になった」
「逆?」
「プロになるために、サッカーをしなきゃいけなくなった」
その言葉が、重く残った。
好きだから追いかけた夢。
けれど、その夢に追い立てられ、好きだったものまで見えなくなった。
「試合に出ても楽しくなかった。練習へ行く前は吐きそうになった。佐伯が褒められるたびに、あいつが失敗すればいいって思った」
蓮さんが自嘲するように笑う。
「最低だろ」
「それは……」
「千春にも会えなくなった」
「何でだよ」
「千春が知ってるのは、お前だからだ」
少年の声が止まる。
「サッカーが好きで、プロになるって笑ってた俺」
「千春は、そんな理由でお前を好きになったんじゃない」
「分かってるよ」
蓮さんの返事に、少年が戸惑う。
「頭では分かってる」
蓮さんが顔を背ける。
「でも、あいつに会うと、高校時代の自分を思い出す」
「だから逃げたのか」
「ああ」
「千春を泣かせてまで?」
「分かってる!」
また頭痛が走った。
膝が震える。
身体が前へ傾きかける。
少年が踏ん張ったことで、かろうじて倒れずに済んだ。
『もう限界です』
『まだ終わってない』
『終わりにしてください』
『こいつに言わないと――』
「お前は逃げてる」
少年が言った。
現在の蓮さんが顔を上げる。
「苦しいからって、サッカーからも千春からも逃げてるだけだ」
「……そうかもな」
「認めるのかよ」
「だから何だ」
「逃げたままでいいのか」
「お前には関係ない」
「ある!」
少年が声を張る。
肺の中の空気が、一気に押し出された。
息を吸おうとしても、喉が狭くなったように入ってこない。
『やめてください』
『あと少しだ』
『約束を守ってください』
『今やめたら、こいつはまた逃げる』
「練習すれば戻れる」
少年が言う。
「足りないところがあるなら直せばいい」
「もう聞きたくない」
「佐伯に負けたなら、奪い返せばいい」
「黙れ」
「プロになるって言った言葉を守れ!」
「黙れ!」
「お前が諦めたら、俺がやってきたことは何だったんだよ!」
その言葉に、現在の蓮さんが動きを止めた。
少年自身も、息を止める。
今の言葉は、現在の蓮さんを責めるためだけのものではなかった。
少年は怖いのだ。
現在の蓮さんが夢を諦めれば、自分の努力も、願いも、存在そのものも無意味になる気がしている。
「結局、自分のためじゃないか」
蓮さんが言った。
「違う」
「俺を戻したいんじゃない」
「違う!」
「自分が正しかったことにしたいだけだろ」
「違う!」
「お前の夢が失敗だったって、認めたくないだけだ」
「違うって言ってるだろ!」
少年の感情が、身体の中で膨れ上がる。
怒り。
恐怖。
焦り。
全部が私の胸を内側から押していた。
視界の端が暗くなる。
足の震えを止められない。
「俺は、お前の夢に潰されたんだ」
現在の蓮さんが言った。
少年の感情が止まる。
「……何だよ、それ」
「絶対にプロになるなんて言ったせいで、諦めることもできなかった」
蓮さんの声は、もう怒鳴っていなかった。
その静かさの方が、ずっと痛かった。
「苦しくても、怪我をしても、まだやらなきゃいけないと思った」
「夢は、そんなものじゃない」
「お前が決めるな」
「俺の夢だ!」
「今は俺の人生だ!」
二人の声がぶつかる。
頭の中で大きな音が鳴った。
膝から力が抜ける。
少年が身体を支えようとする。
けれど足が動かない。
『美緒?』
ようやく少年が私の異変に気づく。
『身体を返してください』
『分かった。今――』
そのとき、現在の蓮さんが続けた。
「お前みたいな俺がいたから、辞めることさえ逃げだと思った」
少年の意識が、再び蓮さんへ向く。
「俺がいたから?」
「そうだ」
「俺のせいで、お前がこうなったって言うのか」
「そう言ってる」
『蓮さん』
返事がない。
『もうやめてください』
身体は返ってこない。
少年は現在の蓮さんを見たままだった。
「だったら、俺が消えれば満足かよ」
「知らない」
「夢も、サッカーも、全部忘れれば楽になるのか」
「知らないって言ってるだろ!」
息ができない。
足が震える。
こめかみの奥が、脈に合わせて強く痛む。
私は内側から手を伸ばした。
自分の身体なのに、遠くにある。
少年の怒りと悲しみが、厚い壁のように私を押し返す。
これまで私は、少年へ身体を貸してきた。
助けてほしいと願った。
勝たせてほしいと思った。
自分では決められないことを、代わりに決めてもらった。
けれど、今は違う。
これは少年の身体ではない。
現在の蓮さんと少年が、互いを傷つけるために使っていい身体でもない。
『返してください』
もう一度伝える。
少年は聞いていない。
いや。
聞こえているのに、止まれないのだ。
「逃げるな!」
少年が叫ぶ。
「俺を否定して終わらせるな!」
「否定してるのはお前だろ!」
現在の蓮さんも叫び返す。
「失敗した俺も、苦しんだ俺も認めないで、昔に戻れって言ってるのはお前だ!」
胸の奥で、何かが切れた。
私は強く願った。
返してほしい、ではない。
返せ。
これは私の身体だ。
「もうやめて!」
声が出た。
少年のものではない。
私の声だった。
身体の奥から、無理やり手を伸ばす。
指先が動いた。
握りしめられていた拳が、ゆっくりと開く。
『美緒』
『出てください』
『でも――』
『出て!』
全身から熱が抜けた。
目の前が大きく揺れる。
身体の中から何かが引き剝がされるような感覚。
次の瞬間、私は膝から崩れ落ちた。
「美緒!」
現在の蓮さんが腕を伸ばす。
地面へ倒れる前に、肩を支えられた。
荒い呼吸を繰り返す。
視界がぼやけていた。
少年は、私の隣に立っていた。
憑依から追い出された少年の輪郭が、激しく揺れている。
「美緒、大丈夫か」
現在の蓮さんの声が聞こえる。
私は肩を支える手を振り払えなかった。
地面に片膝をついたまま、どうにか顔を上げる。
「大丈夫じゃありません」
「病院に――」
「二人とも、自分のことしか見てない!」
現在の蓮さんが目を見開く。
少年も動きを止めた。
「美緒?」
「さっきまでとは違います」
呼吸を整えようとしても、胸が痛い。
「今は、私自身が話しています」
現在の蓮さんは、困惑した表情で私を見る。
それでも、私は二人から目を逸らさなかった。
「蓮さんは、昔の自分に責められていると思ってる」
現在の蓮さんを見る。
「あなたは、今の蓮さんに自分まで否定されたと思ってる」
隣に立つ少年へ視線を向ける。
「でも二人とも、相手の話を聞かずに、自分の苦しさをぶつけてるだけです」
「俺は――」
「今の蓮さんが何に苦しんでいたのか、聞きたいと言ったのはあなたでしょう」
少年が口を閉じる。
「逃げたままでいいとは思いません。でも、立ち止まることまで否定しないでください」
「立ち止まったまま、戻らなかったら?」
「それを決めるのは蓮さんです」
「俺は、そんな未来を認められない」
「だからって、あなたが代わりに決めることではありません」
少年が何かを言おうとして、口を閉じた。
現在の蓮さんは、黙って私を見ている。
少年との会話は、蓮さんには私が一人で話しているようにしか聞こえない。
それでも構わなかった。
「蓮さんもです」
現在の蓮さんへ向き直る。
「苦しかったことを、ずっと誰にも話さなかった」
「美緒には関係ない」
「またそれですか」
蓮さんの眉が動く。
「お姉ちゃんにも同じことを言ったでしょう」
「千春から聞いたのか」
「お姉ちゃんは、サッカーを続けてほしいわけじゃありません」
「分かってる」
「分かっていません」
私は言い切った。
「分かっていたら、自分がサッカーをしていないと嫌われるなんて思いません」
蓮さんが目を逸らす。
「お姉ちゃんが好きだったのは、エースの蓮さんだけじゃない」
「美緒に何が分かる」
「全部は分かりません」
さっき、少年へ伝えた言葉。
今度は自分の口で言う。
「蓮さんが大学でどれだけ苦しんだのか、私は知りません。怪我の怖さも、佐伯さんに負けた悔しさも、全部は分かりません」
「だったら――」
「でも、お姉ちゃんが蓮さんを好きになった理由は知っています」
蓮さんの目が、私へ戻る。
「決定機を外した日。みんなが次は決められるって言う中で、お姉ちゃんだけが、悔しかったと言っていいって言った」
現在の蓮さんの顔が固まった。
その話は、お姉ちゃんではなく少年から聞いた。
「お姉ちゃんの前では、エースじゃなくてもよかったんでしょう」
蓮さんは何も言わない。
「サッカーができなくても、自分でいられると思ったんでしょう」
「誰から聞いた」
掠れた声だった。
「それは、今は関係ありません」
「千春は、そんなことまで話したのか」
「お姉ちゃんは、蓮さんがサッカーを辞めることより、苦しいことを何も話してくれない方がつらいと言っています」
蓮さんが唇を噛む。
「昔の自分に責められているからって、お姉ちゃんまで遠ざけないでください」
「簡単に言うな」
「簡単だなんて思っていません」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
「知りません」
蓮さんが顔を上げた。
少年も私を見る。
「私は、蓮さんの答えを決めるために来たんじゃありません」
退部するのか。
サッカーを続けるのか。
少年のように夢を追い直すのか。
すべてを捨てて、別の道へ進むのか。
「自分で決めてください」
「……自分で?」
「あなたの昔の夢でも、お姉ちゃんの期待でも、私の憧れでもなくて」
私はまっすぐ蓮さんを見る。
「今の蓮さんが、どうしたいのかを決めてください」
それ以上、声を出すことができなかった。
息を吐くと、肩から力が抜ける。
私は地面へ手をついた。
蓮さんは何も言わず、私の肩を支え続けていた。
しばらくして、少年が小さく口を開く。
「美緒」
「もう終わりです」
少年はそれ以上、何も言わなかった。
「立てるか」
現在の蓮さんが尋ねる。
「……少し待ってください」
何度か深呼吸を繰り返す。
胸の痛みがわずかに落ち着いてから、地面へ手をついた。
けれど、足に力が入らない。
蓮さんの手を借りなければ、立ち上がることもできなかった。
「病院へ行くか」
「大丈夫です。少し休めば帰れます」
「大丈夫じゃないって言っただろ」
「今すぐ病院へ行くほどではありません」
「何なんだよ、お前」
蓮さんは困惑したまま私を見ていた。
当然だと思う。
私が何をしたのか。
誰と話していたのか。
蓮さんには説明できない。
「今日はもう、帰ってくれ」
さっきまでとは違う声だった。
怒鳴ってはいない。
ただ、ひどく疲れていた。
「分かりました」
少年が口を開く。
「まだ話は――」
「帰りましょう」
私は少年を遮った。
「でも」
「もう終わりです」
少年は現在の蓮さんを見た。
蓮さんには、その視線も姿も届かない。
それでも少年は、何かを待つように立っていた。
現在の蓮さんは、私たちへ背中を向ける。
「最後に一つだけ」
私は声をかけた。
蓮さんの足が止まる。
「お姉ちゃんに連絡してください」
「……考える」
それだけ答えて、蓮さんはアパートへ戻っていった。
入口の扉が閉まる。
少年は、その扉を見つめ続けていた。
◇
駅へ向かう途中、少年は一度も口を開かなかった。
私も話しかけなかった。
身体が重い。
足はまだ震えている。
一歩進むたびに、頭の奥が鈍く痛んだ。
憑依を無理に解除した影響なのか。
長い時間、身体を貸したせいなのか。
どちらかは分からなかった。
しばらく歩いたところで、少年が立ち止まった。
私も足を止める。
「美緒」
「何ですか」
「ごめん」
少年は俯いていた。
「約束を破った」
「はい」
「身体が苦しいって言われたのに、やめなかった」
「はい」
「怒ってるか?」
「怒っています」
「そうだよな」
少年はそれ以上、言い訳をしなかった。
私は鞄の中のスパイクへ触れる。
「今日はもう、戻っていてください」
「分かった」
「家へ着いたら呼びます」
「ああ」
少年が古いスパイクの前へ立つ。
けれど、すぐには戻らなかった。
「美緒」
「まだ何かありますか?」
「あいつの言ったこと、正しいと思うか?」
「どの言葉ですか」
「俺の夢に潰されたって」
答えに迷った。
現在の蓮さんは、本気で苦しんでいた。
かつての夢が、今の蓮さんを励ますものではなく、追い詰めるものになっていた。
それは事実なのだと思う。
けれど、目の前の彼だけが悪いとは言えない。
「あなた一人が悪いとは思いません」
「じゃあ、あいつが悪いのか?」
「そういう話ではありません」
「分からない」
少年が拳を握る。
「あいつは俺だと思ってた」
私は黙って聞いた。
「四年後の俺が、少し疲れてるだけだと思ってた。俺が言えば、思い出すと思ってた」
「何をですか」
「サッカーが好きだったこと」
少年の声が揺れる。
「でも、あいつは全部覚えてた」
夢も。
努力も。
サッカーが好きだった気持ちも。
忘れていたわけではない。
覚えているからこそ、苦しんでいた。
「俺が知らなかっただけだった」
少年が自分の手を見る。
「大学で何があったのかも、怪我が怖かったことも、佐伯に負けたことも」
「少なくとも、大学へ入ってからのことは知らないんでしょう」
「本当に、それだけなのか?」
少年が顔を上げた。
夕暮れの中で、その輪郭が一瞬だけ透ける。
「俺にないのは、大学に入ってからの記憶だけなのか?」
答えられなかった。
少年の家の記憶はない。
家族の顔も思い出せない。
中学以前のことも曖昧だ。
持っているのは、サッカーと、お姉ちゃんと、私に関係する記憶ばかり。
大学以降を知らないだけでは説明できない。
けれど、今はまだ確かなことは分からない。
「そのことは、私の身体が落ち着いてから考えましょう」
「美緒の身体だろ」
「そうです」
私は少年を見る。
「でも、今のあなたも疲れているように見えます」
「俺は疲れない」
「今は、そう見えません」
少年は少しだけ笑った。
けれど、いつもの明るい笑顔ではなかった。
「戻ってください」
「ああ」
少年の身体が、淡い光へ変わる。
光がスパイクへ吸い込まれる直前、少年が呟いた。
「俺は、誰なんだろうな」
答える間もなく、姿が消えた。
手の中のスパイクが、わずかに熱を持つ。
革に入った細いひびが、以前よりも長くなっていた。




