第16話 過去の俺
家へ帰ると、リビングからお姉ちゃんの声が聞こえた。
「どうして、そんな大事なことを今まで黙ってたの?」
玄関で靴を脱ぐ手が止まる。
電話をしているらしい。
穏やかなお姉ちゃんが、あれほど強い声を出すことは珍しかった。
「辞めるなって言ってるんじゃない」
短い沈黙。
「蓮がサッカーを続けるかどうかは、蓮が決めることだよ。でも、退部届を出したことまで、どうして私には何も言ってくれないの?」
胸の奥が冷たくなった。
退部届。
その言葉を聞いた瞬間、隣にいた少年の表情が変わった。
「今、何て言った?」
私は唇の前へ人差し指を立てた。
少年は黙らなかった。
「退部届って聞こえたぞ」
「静かにしてください」
「今の俺が、部を辞めるのか?」
少年の声はお姉ちゃんには聞こえない。
それでも、私は反射的に周囲を見た。
お姉ちゃんはリビングにいる。
玄関から姿は見えない。
「美緒?」
お姉ちゃんの声がした。
「帰ってきたの?」
「うん。ただいま」
「おかえり。ごめん、今電話してるから」
「分かった」
鞄を持ち直し、階段へ向かう。
少年はその場に立ったまま動かなかった。
「蓮さん」
「何で上へ行くんだよ」
「お姉ちゃんが話している途中です」
「だったら、ここで聞けばいいだろ」
「盗み聞きになります」
「俺の話だ」
「今の蓮さんと、お姉ちゃんの話です」
「俺だって蓮だ」
少年が強く言う。
私は何も答えず、階段を上った。
少年も私から離れられず、後ろをついてくる。
部屋へ入り、扉を閉めた。
「美緒」
「まだ確かなことは分かりません」
「退部届って言ってただろ」
「聞こえました」
「だったら確かだ」
「監督に受け取られたとは限りません」
「それでも、もう辞めるつもりなんだろ」
少年が机へ手をつこうとする。
手のひらは木の表面を通り抜けた。
行き場をなくした手を強く握る。
「何でだよ」
少年の声が震える。
「怪我は治ったんだろ」
「はい」
「だったら練習へ行けばいい」
「それができないから苦しんでいるんです」
「辞めたら終わる」
「続けることが、もっと苦しい場合もあります」
「だからって逃げるのかよ」
「逃げているかどうかは、蓮さん本人にしか分かりません」
「俺には分かる」
少年が胸を張る。
「俺なら辞めない」
迷いのない言葉だった。
以前なら、その言葉を聞くだけで心が動いた。
何があっても諦めない。
失敗しても、もう一度前を向く。
私がずっと憧れてきた蓮さんだった。
けれど今は、その真っすぐさが怖かった。
決定機を外した日の話が、頭に浮かんだ。
周囲が「次は決められる」と励ます中、お姉ちゃんだけが、悔しかったと言っていいのだと認めた。
少年は、そんなお姉ちゃんの前だから泣くことができた。
それなのに、今の少年は、現在の自分へ「次も頑張れ」と言おうとしている。
「美緒」
「何ですか」
「会いに行く」
「今からですか?」
「ああ」
「住所を知っていますか?」
少年が言葉を止める。
昨日、自分の家を思い出せなかった。
現在の蓮さんが住むアパートなら、私が一度案内している。
けれど、私が連れていかなければ少年はたどり着けない。
「場所は、お前が知ってる」
「行きません」
「何でだよ」
「今の蓮さんは、お姉ちゃんと話しています」
「電話が終わってからでいい」
「会って、何をするんですか?」
「辞めるなって言う」
「聞こえません」
「お前が伝えればいい」
「嫌です」
「美緒」
「前にも私を使って伝えようとしたでしょう」
少年は黙った。
初めて現在の蓮さんへ近づいたとき。
少年の言葉を代わりに伝えた私は、蓮さんを怒らせただけだった。
今度は退部届まで出している。
さらに追い詰めれば、何を言われるか分からない。
「今は会わない方がいいです」
「このまま何もしないつもりか?」
「無理に何かをすれば、もっと苦しませるかもしれません」
「それでも、放っておけない」
「蓮さん本人が望んでいなくても?」
少年は答えなかった。
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「美緒、入っていい?」
「ちょっと待って」
私は古いスパイクへ手を伸ばす。
「戻ってください」
「嫌だ」
「お姉ちゃんが来ます」
「話を聞く」
「蓮さん」
「俺のことなんだから、聞く権利がある」
「お姉ちゃんには見えません。それでも、そこに立っていられると話しにくいんです」
「俺は何も言わない」
「信用できません」
「言わないって」
もう一度、扉が叩かれた。
「美緒?」
「今開ける」
少年をスパイクへ戻す時間はなかった。
私は扉を開けた。
お姉ちゃんが立っていた。
淡い青色のカーディガンの袖を、片方の手で握っている。
目元が少し赤かった。
「電話、蓮さん?」
「うん」
お姉ちゃんは一度だけ少年のいる方へ視線を向けた。
もちろん、見えてはいない。
「入ってもいい?」
「うん」
お姉ちゃんが部屋へ入る。
私はベッドへ腰を下ろした。
お姉ちゃんはその隣へ座らず、机の前の椅子を引いた。
少年は窓際に立っている。
黙るという約束を守っていた。
「聞こえてたよね」
「少しだけ」
「退部届のこと?」
「うん」
お姉ちゃんは膝の上で手を組んだ。
「今日、蓮が大学のサッカー部へ退部届を出したんだって」
少年の拳が強く握られる。
「監督には受け取ってもらえなかったみたい」
「受け取られなかった?」
「一週間後も同じ気持ちなら、もう一度持ってこいって返されたって」
少年が息を吐く。
安心ではなかった。
猶予が残っていると知り、今ならまだ止められると考えた顔だった。
「どうして、お姉ちゃんに話したの?」
「私が電話したの」
「蓮さんからじゃないんだ」
「佐伯君から連絡が来たから」
「佐伯さん?」
「蓮と同じ部の後輩。高校の頃から蓮に憧れていて、何度か私たちとも会ったことがあるの。連絡先も、その頃に交換してたから」
少年が顔を上げる。
「佐伯?」
現在の蓮さんからポジションを奪った後輩。
少年も、名前だけは聞いている。
「今日、蓮が部棟へ来たって教えてくれたの。何か様子がおかしかったから、私から連絡してほしいって」
「余計なことをしたって、蓮さんは怒らなかった?」
「怒ってた」
お姉ちゃんは小さく笑った。
笑顔には見えなかった。
「自分のことを勝手に話すなって」
「お姉ちゃんは?」
「退部届を出したことを、どうして黙っていたのか聞いた」
「それで?」
「サッカーのことは、もう私には関係ないって」
少年が一歩前へ出る。
「そんなわけないだろ」
お姉ちゃんには届かない。
私は少年を見ないようにした。
「私、続けてほしいなんて言ってないのにね」
お姉ちゃんが俯く。
「辞めたいなら、辞めてもいいと思ってる」
「本当に?」
「うん」
少年が信じられないように首を振る。
「辞めていいわけないだろ」
「でも、何も話してもらえないのはつらい」
お姉ちゃんの声が小さくなる。
「怪我をしたときも、試合に出られなくなったときも、私はあとから聞いた。今回も、佐伯君から聞かなかったら知らないままだった」
「……うん」
「蓮は、自分がサッカーをしていないと私に嫌われると思ってるみたい」
「そんなこと、お姉ちゃんは一度も言ってない」
「言ってないよ」
お姉ちゃんが顔を上げた。
「でも、そう思わせる何かがあったのかもしれない」
「お姉ちゃんのせいじゃないよ」
「ありがとう」
お姉ちゃんは少しだけ笑った。
「一週間後、本当に辞めるのかな」
「分からない」
「そうだよね」
部屋に沈黙が落ちる。
少年は窓際からお姉ちゃんを見つめていた。
お姉ちゃんが蓮さんにサッカーを続けてほしいわけではないこと。
ただ苦しみを話してほしいだけだということ。
何度も聞いてきたはずなのに、少年は今も納得していないようだった。
「美緒」
「何?」
「最近、蓮と何か話した?」
「少しだけ」
「サッカーのこと?」
「うん」
「そっか」
お姉ちゃんはそれ以上聞かなかった。
私が少年を通して現在の蓮さんへ関わっていることなど、知るはずもない。
「ごめんね。急にこんな話して」
「大丈夫」
「夕飯まで少し休むね」
「うん」
お姉ちゃんが立ち上がる。
扉の前で足を止めた。
「美緒」
「何?」
「無理に蓮を元へ戻そうとしなくていいからね」
胸が跳ねた。
「どうして、私に言うの?」
「前に、昔の蓮に戻ってほしいって言ってたから」
「それは……」
「昔みたいになってほしいって思う気持ちは、私にもあるよ」
お姉ちゃんは静かに続ける。
「でも、今の蓮を否定してまで戻ってほしいとは思わない」
少年の表情がわずかに歪んだ。
「蓮がサッカーを辞めても、昔の蓮がいなくなるわけじゃない。私たちが一緒に過ごした時間まで、なくなるわけじゃないから」
「……うん」
「それだけ」
お姉ちゃんは部屋を出ていった。
扉が閉まる。
私はしばらく動けなかった。
少年も黙っていた。
「聞きましたか?」
「ああ」
「お姉ちゃんは、辞めることを止めていません」
「でも、あいつはまだサッカーが好きだ」
「どうして分かるんですか?」
「俺だからだ」
「それだけですか?」
「それで十分だろ」
「十分ではありません」
少年が私を見る。
「退部届を出したんだぞ」
「聞きました」
「このままなら、一週間後に辞める」
「まだ決まっていません」
「だから、今止めるんだ」
「何を言っても聞かないと思います」
「お前の言葉なら聞くかもしれない」
「私の言葉ではありません」
「だったら、俺が話す」
少年が迷いなく言った。
「聞こえないでしょう」
「お前に入ればいい」
胸の奥が冷たくなる。
「憑依して、蓮さんと話すつもりですか?」
「ああ」
「駄目です」
「何で」
「前に約束しました。憑依を便利な力として使わないって」
「試合に勝つためじゃない」
「同じです」
「同じじゃない」
少年が近づく。
「俺の言葉を、俺の声で伝えるためだ」
「私の声です」
「でも、中に入れば俺が話せる」
「身体も私のものです」
「分かってる」
「分かっていません」
私は立ち上がった。
「長く憑依すれば、どうなるか覚えているでしょう」
「無理はさせない」
「前もそう言いました」
「今回は走らない。ボールも蹴らない。ただ話すだけだ」
「感情的になれば、身体に負担がかかります」
「ならない」
「今の蓮さんを見たら、絶対になります」
少年は否定できなかった。
強く握られた拳。
硬くなった表情。
もうすでに冷静ではない。
「美緒」
「嫌です」
「このまま何もしなければ、あいつは辞める」
「それを決めるのは、現在の蓮さんです」
「逃げてるだけだ」
「逃げることが必要なときもあります」
「そんなこと言ってたら、何も変わらない」
「無理に変えれば壊れます」
「もう壊れてるだろ!」
少年の声が部屋に響いた。
私は息を止める。
「サッカーを見ない。練習にも行かない。千春から逃げて、最後には退部届まで出した」
少年は現在の自分へ言うように続ける。
「これ以上、何が壊れるんだよ」
「蓮さん」
「俺は、あんなふうになるために練習してたんじゃない」
「分かっています」
「分かってない」
「分かりませんよ」
私の声も強くなる。
「私は蓮さんではありません。少年のあなたでも、今の蓮さんでもない。二人がどんな気持ちなのか、全部分かるわけではありません」
「だったら、確かめさせてくれ」
「……何をですか」
「あいつが、本当にサッカーを嫌いになったのか」
少年の声が少しだけ弱くなる。
「嫌いになったなら、俺も諦める」
「本当に?」
「ああ」
「辞めるなと押しつけませんか?」
「話を聞く」
「今の蓮さんが話したくないと言ったら?」
少年はすぐには答えなかった。
「それでも、一度だけ聞きたい」
私は少年を見る。
目の前にいるのは、十七歳の蓮さんではないかもしれない。
サッカーへの情熱。
プロになりたいという夢。
諦めない強さ。
現在の蓮さんが失ったものだけを抱えて生まれた存在。
だからこそ、現在の蓮さんの痛みを理解できない可能性がある。
それでも、このまま一週間が過ぎれば、蓮さんは退部届を出し直すかもしれない。
お姉ちゃんとの関係も、戻れないところまで離れてしまうかもしれない。
「一度だけです」
口にした瞬間、少年の目が見開かれた。
「いいのか?」
「条件があります」
「何だ?」
「私がやめてと言ったら、すぐに身体を返してください」
「ああ」
「無理に歩いたり、走ったりしない」
「分かった」
「蓮さんを傷つけるための言葉は使わない」
少年が少し迷う。
「約束してください」
「……約束する」
「長くても五分です」
「短くないか?」
「嫌なら、やめます」
「分かった。五分でいい」
「今日ではありません」
「何でだよ」
「今、お姉ちゃんと電話した直後です。押しかけたら、お姉ちゃんに言われて来たと思われます」
「じゃあ、いつ?」
「明日、連絡します」
「返事がなかったら?」
「一度だけ、アパートへ行きます」
少年は不満そうだった。
それでも、最後にはうなずいた。
「分かった」
胸の奥に、不安が残った。
この判断が正しいのかは分からない。
ただ私は、少年に現在の蓮さんを変えてほしいのではなかった。
二人に、お互いの存在を知ってほしかった。
過去の夢だけを見ている少年と。
過去の夢から逃げ続けている現在の蓮さん。
二人が一度だけ、本当の意味で向き合えば、何かが変わるかもしれないと思った。
◇
翌日の夕方。
私は現在の蓮さんが住むアパートの前に立っていた。
学校から一度帰り、制服から私服へ着替えてきた。
紺色のパーカーに、黒いパンツ。
古いスパイクは布製の袋へ入れ、鞄の中にしまってある。
少年を連れていくためではない。
何かあったとき、すぐに戻ってもらえるように持ってきた。
少年は隣に立っていた。
「返事は?」
「ありません」
昼休みに送ったメッセージは、既読になっていた。
けれど返信はない。
『少しだけ話したいことがあります。今日、家にいますか』
理由までは書かなかった。
「行くぞ」
「待ってください」
「まだ何かあるのか?」
「確認します」
私は少年を見る。
「約束を覚えていますか?」
「五分。無理に動かない。お前がやめろと言ったら返す」
「傷つける言葉を使わない」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって」
少年は苛立っていた。
不安が強くなる。
「やっぱり、今日はやめませんか」
「ここまで来て何言ってるんだよ」
「冷静ではないでしょう」
「冷静だ」
「そう見えません」
「美緒」
「何ですか」
「俺も怖いんだよ」
少年が小さく言った。
思いがけない言葉だった。
「何がですか?」
「今の俺が、本当にサッカーを嫌いになってたら」
少年はアパートを見上げる。
「俺が覚えてることも、信じてることも、全部ただの昔話になる」
「そんなことは」
「あるだろ」
少年は自分の身体を見る。
「家の場所も、親の顔も思い出せない。俺に残ってるのは、サッカーと千春と、お前のことばかりだ」
昨日と同じ言葉。
それでも、今は少し違って聞こえた。
「サッカーまでなくなったら、俺には何が残るんだよ」
答えられなかった。
少年にとって、現在の蓮さんがサッカーを嫌いになったと認めることは、自分の存在を否定されることに近い。
だから、どうしても確かめたいのだ。
「五分です」
私はもう一度言った。
「ああ」
「絶対に守ってください」
「分かった」
インターホンを押す。
返事はなかった。
もう一度押す。
しばらくして、スピーカーから低い声がした。
『誰』
「美緒です」
短い沈黙。
『何しに来た』
「少し話したくて」
『千春に言われたのか』
「違います」
『帰って』
通話が切れる。
少年が顔を歪めた。
「開けろって言え」
「言いません」
「ここまで来たんだぞ」
「話したくないと言っています」
「まだ何も話してない」
「蓮さん」
そのとき、アパートの入口が開いた。
住人らしい女性が買い物袋を持って出てくる。
私は反射的に道を空けた。
自動扉が閉まり始める。
「美緒」
「勝手には入りません」
「じゃあ、また呼べ」
少年の声に押されるように、もう一度インターホンを押した。
『しつこい』
「退部届のことを聞きました」
スピーカーの向こうが静かになる。
「お姉ちゃんから行けと言われたわけではありません。私が自分で来ました」
『聞いて、どうする』
「少しだけ話をしてください」
『話すことはない』
「一週間後に、もう一度出すんですか?」
『美緒には関係ない』
「あります」
前にも同じことを言った。
喫茶店で。
あのときは、憧れてきた夢を否定されたことが許せず、自分の気持ちを押しつけただけだった。
今度は違う。
「聞きたいことがあります」
『何』
「サッカーが嫌いになったんですか?」
返事はなかった。
少年が私を見る。
私もスピーカーを見つめた。
『帰って』
それだけ言って、再び通話が切れた。
「答えなかった」
少年が言う。
「帰りましょう」
「嫌いだって言わなかった」
「それでも、話したくないんです」
「俺は話したい」
「蓮さん本人と向き合えないまま、憑依するつもりはありません」
「一度だけって約束しただろ」
「話せる状況になったら、です」
少年の目は真っすぐだった。
迷っていない。
そのとき、建物の入口が開いた。
現在の蓮さんが出てきた。
黒いパーカー。
伸びた前髪。
足元は黒いスニーカー。
私を見ると、露骨に顔をしかめた。
「帰れって言っただろ」
「すみません」
「千春に頼まれたんじゃないなら、何で来た」
「聞きたいことがあったからです」
「答えたくない」
蓮さんが私の横を通り過ぎようとする。
少年が前へ立った。
現在の蓮さんは、その身体を認識せずに通り抜ける。
少年の輪郭が大きく揺れた。
「待てよ」
声は届かない。
「俺から逃げるな」
蓮さんは歩き続ける。
少年が私を見る。
「美緒」
私は動けなかった。
「今しかない」
蓮さんは、話したくないとはっきり言った。
ここで少年へ身体を貸せば、その意思を無視することになる。
それでも、このまま背中を見送れば、二人は二度と向き合わない気がした。
正しいとは思えない。
ただ、何もしないことも正しいとは思えなかった。
「お願いします」
気づけば、現在の蓮さんの背中へ声をかけていた。
蓮さんが足を止める。
「五分だけ、話をしてください」
「もう話した」
「まだです」
「美緒」
「私ではなくて」
言葉が止まる。
蓮さんが怪訝そうに振り返った。
「何を言ってる?」
私は少年を見る。
少年は静かに待っていた。
「五分だけです」
小さく言う。
「約束してください」
「ああ」
「入ってください」
少年が私へ近づく。
胸元へ手を伸ばす。
指先が身体の中へ沈んだ。
熱が広がる。
視界が一度揺れた。
身体の内側から、少年の声が聞こえる。
『聞こえるか?』
『聞こえます』
『少し借りる』
『無理はしないでください』
『分かってる』
背筋が伸びた。
重心が少し前へ移る。
私の意思ではなく、右手が持ち上がる。
蓮さんの目が細くなった。
「美緒?」
少年が私の口を使って答える。
「やっと話せるな」
自分の声なのに、自分のものではなかった。
低い言い方。
まっすぐ相手を見る目。
現在の蓮さんの顔から、苛立ちが消える。
代わりに困惑が浮かんだ。
「何だ、その話し方」
「分からないか?」
「何が」
少年は一歩前へ出ようとした。
『動かない約束です』
『一歩だけだ』
『駄目です』
足が止まる。
「千春から昔の俺の話を聞いたのか」
「千春から聞かなくても知ってる」
「何を」
「シュートを打つ前、右肩を一度落とす癖」
蓮さんの眉が動く。
「相手を抜いたあとは、最初の二歩だけ歩幅が広くなる」
「……映像でも見たのか」
「緊張すると、右の親指で人差し指の爪を押す」
蓮さんが手を隠すように握った。
少年は続ける。
「試合前、左のスパイクから紐を結ぶ」
「美緒」
「ポストに当てて外した夜、眠れなかった」
蓮さんの顔が固まる。
「最後まで、キーパーの右じゃなく左を狙えばよかったって考えてた」
「誰から聞いた」
「誰にも言ってないだろ」
「千春には話したかもしれない」
「千春の前で泣いたことは話した。でも、シュートコースのことまでは言ってない」
「……何なんだよ」
蓮さんの声が低くなる。
「その話し方も、目つきも」
蓮さんが私を見る。
いや、私の身体を使っている少年を見る。
「昔の俺みたいなことを言うな」
「みたいじゃない」
「やめろ」
「お前は何のために、あれだけ練習したんだ」
「黙れ」
「雨の日も走った。誰もいなくなったあとも、一人でシュートを打った」
「美緒、もう帰れ」
「プロになるって言っただろ」
蓮さんの目に怒りが浮かぶ。
「何も知らないくせに」
「知ってる」
「お前に何が分かる」
「全部分かる」
違う。
少年は、現在の蓮さんが過ごした四年間を知らない。
『全部は分からないでしょう』
少年は一度だけ息を詰まらせた。
「それでも、俺はお前がどれだけサッカーを好きだったか知ってる」
「昔の俺みたいな言葉を並べるな!」
蓮さんの声が響く。
通行人がこちらを見る。
胸の奥が少し苦しくなった。
まだ数分しかたっていない。
それでも、呼吸が浅くなり始めている。
「お前は俺じゃない」
現在の蓮さんが吐き捨てる。
「昔の話を聞いて、俺を責めたいだけだろ」
「違う」
「だったら何なんだよ!」
少年が私の手を強く握る。
爪が手のひらへ食い込んだ。
その手は、わずかに震えていた。
「俺はお前だ!」
自分の喉から、少年の叫びが飛び出した。
現在の蓮さんが、息を止める。
少年は、未来の自分をまっすぐ見つめた。
「夢を諦める前の、お前だ!」




