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夢を諦めた君のスパイクから、十七歳の君が現れた  作者: situ725


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16/18

第16話 過去の俺

 家へ帰ると、リビングからお姉ちゃんの声が聞こえた。


「どうして、そんな大事なことを今まで黙ってたの?」


 玄関で靴を脱ぐ手が止まる。


 電話をしているらしい。


 穏やかなお姉ちゃんが、あれほど強い声を出すことは珍しかった。


「辞めるなって言ってるんじゃない」


 短い沈黙。


「蓮がサッカーを続けるかどうかは、蓮が決めることだよ。でも、退部届を出したことまで、どうして私には何も言ってくれないの?」


 胸の奥が冷たくなった。


 退部届。


 その言葉を聞いた瞬間、隣にいた少年の表情が変わった。


「今、何て言った?」


 私は唇の前へ人差し指を立てた。


 少年は黙らなかった。


「退部届って聞こえたぞ」


「静かにしてください」


「今の俺が、部を辞めるのか?」


 少年の声はお姉ちゃんには聞こえない。


 それでも、私は反射的に周囲を見た。


 お姉ちゃんはリビングにいる。


 玄関から姿は見えない。


「美緒?」


 お姉ちゃんの声がした。


「帰ってきたの?」


「うん。ただいま」


「おかえり。ごめん、今電話してるから」


「分かった」


 鞄を持ち直し、階段へ向かう。


 少年はその場に立ったまま動かなかった。


「蓮さん」


「何で上へ行くんだよ」


「お姉ちゃんが話している途中です」


「だったら、ここで聞けばいいだろ」


「盗み聞きになります」


「俺の話だ」


「今の蓮さんと、お姉ちゃんの話です」


「俺だって蓮だ」


 少年が強く言う。


 私は何も答えず、階段を上った。


 少年も私から離れられず、後ろをついてくる。


 部屋へ入り、扉を閉めた。


「美緒」


「まだ確かなことは分かりません」


「退部届って言ってただろ」


「聞こえました」


「だったら確かだ」


「監督に受け取られたとは限りません」


「それでも、もう辞めるつもりなんだろ」


 少年が机へ手をつこうとする。


 手のひらは木の表面を通り抜けた。


 行き場をなくした手を強く握る。


「何でだよ」


 少年の声が震える。


「怪我は治ったんだろ」


「はい」


「だったら練習へ行けばいい」


「それができないから苦しんでいるんです」


「辞めたら終わる」


「続けることが、もっと苦しい場合もあります」


「だからって逃げるのかよ」


「逃げているかどうかは、蓮さん本人にしか分かりません」


「俺には分かる」


 少年が胸を張る。


「俺なら辞めない」


 迷いのない言葉だった。


 以前なら、その言葉を聞くだけで心が動いた。


 何があっても諦めない。


 失敗しても、もう一度前を向く。


 私がずっと憧れてきた蓮さんだった。


 けれど今は、その真っすぐさが怖かった。


 決定機を外した日の話が、頭に浮かんだ。


 周囲が「次は決められる」と励ます中、お姉ちゃんだけが、悔しかったと言っていいのだと認めた。


 少年は、そんなお姉ちゃんの前だから泣くことができた。


 それなのに、今の少年は、現在の自分へ「次も頑張れ」と言おうとしている。


「美緒」


「何ですか」


「会いに行く」


「今からですか?」


「ああ」


「住所を知っていますか?」


 少年が言葉を止める。


 昨日、自分の家を思い出せなかった。


 現在の蓮さんが住むアパートなら、私が一度案内している。


 けれど、私が連れていかなければ少年はたどり着けない。


「場所は、お前が知ってる」


「行きません」


「何でだよ」


「今の蓮さんは、お姉ちゃんと話しています」


「電話が終わってからでいい」


「会って、何をするんですか?」


「辞めるなって言う」


「聞こえません」


「お前が伝えればいい」


「嫌です」


「美緒」


「前にも私を使って伝えようとしたでしょう」


 少年は黙った。


 初めて現在の蓮さんへ近づいたとき。


 少年の言葉を代わりに伝えた私は、蓮さんを怒らせただけだった。


 今度は退部届まで出している。


 さらに追い詰めれば、何を言われるか分からない。


「今は会わない方がいいです」


「このまま何もしないつもりか?」


「無理に何かをすれば、もっと苦しませるかもしれません」


「それでも、放っておけない」


「蓮さん本人が望んでいなくても?」


 少年は答えなかった。


 そのとき、扉が軽く叩かれた。


「美緒、入っていい?」


「ちょっと待って」


 私は古いスパイクへ手を伸ばす。


「戻ってください」


「嫌だ」


「お姉ちゃんが来ます」


「話を聞く」


「蓮さん」


「俺のことなんだから、聞く権利がある」


「お姉ちゃんには見えません。それでも、そこに立っていられると話しにくいんです」


「俺は何も言わない」


「信用できません」


「言わないって」


 もう一度、扉が叩かれた。


「美緒?」


「今開ける」


 少年をスパイクへ戻す時間はなかった。


 私は扉を開けた。


 お姉ちゃんが立っていた。


 淡い青色のカーディガンの袖を、片方の手で握っている。


 目元が少し赤かった。


「電話、蓮さん?」


「うん」


 お姉ちゃんは一度だけ少年のいる方へ視線を向けた。


 もちろん、見えてはいない。


「入ってもいい?」


「うん」


 お姉ちゃんが部屋へ入る。


 私はベッドへ腰を下ろした。


 お姉ちゃんはその隣へ座らず、机の前の椅子を引いた。


 少年は窓際に立っている。


 黙るという約束を守っていた。


「聞こえてたよね」


「少しだけ」


「退部届のこと?」


「うん」


 お姉ちゃんは膝の上で手を組んだ。


「今日、蓮が大学のサッカー部へ退部届を出したんだって」


 少年の拳が強く握られる。


「監督には受け取ってもらえなかったみたい」


「受け取られなかった?」


「一週間後も同じ気持ちなら、もう一度持ってこいって返されたって」


 少年が息を吐く。


 安心ではなかった。


 猶予が残っていると知り、今ならまだ止められると考えた顔だった。


「どうして、お姉ちゃんに話したの?」


「私が電話したの」


「蓮さんからじゃないんだ」


「佐伯君から連絡が来たから」


「佐伯さん?」


「蓮と同じ部の後輩。高校の頃から蓮に憧れていて、何度か私たちとも会ったことがあるの。連絡先も、その頃に交換してたから」


 少年が顔を上げる。


「佐伯?」


 現在の蓮さんからポジションを奪った後輩。


 少年も、名前だけは聞いている。


「今日、蓮が部棟へ来たって教えてくれたの。何か様子がおかしかったから、私から連絡してほしいって」


「余計なことをしたって、蓮さんは怒らなかった?」


「怒ってた」


 お姉ちゃんは小さく笑った。


 笑顔には見えなかった。


「自分のことを勝手に話すなって」


「お姉ちゃんは?」


「退部届を出したことを、どうして黙っていたのか聞いた」


「それで?」


「サッカーのことは、もう私には関係ないって」


 少年が一歩前へ出る。


「そんなわけないだろ」


 お姉ちゃんには届かない。


 私は少年を見ないようにした。


「私、続けてほしいなんて言ってないのにね」


 お姉ちゃんが俯く。


「辞めたいなら、辞めてもいいと思ってる」


「本当に?」


「うん」


 少年が信じられないように首を振る。


「辞めていいわけないだろ」


「でも、何も話してもらえないのはつらい」


 お姉ちゃんの声が小さくなる。


「怪我をしたときも、試合に出られなくなったときも、私はあとから聞いた。今回も、佐伯君から聞かなかったら知らないままだった」


「……うん」


「蓮は、自分がサッカーをしていないと私に嫌われると思ってるみたい」


「そんなこと、お姉ちゃんは一度も言ってない」


「言ってないよ」


 お姉ちゃんが顔を上げた。


「でも、そう思わせる何かがあったのかもしれない」


「お姉ちゃんのせいじゃないよ」


「ありがとう」


 お姉ちゃんは少しだけ笑った。


「一週間後、本当に辞めるのかな」


「分からない」


「そうだよね」


 部屋に沈黙が落ちる。


 少年は窓際からお姉ちゃんを見つめていた。


 お姉ちゃんが蓮さんにサッカーを続けてほしいわけではないこと。


 ただ苦しみを話してほしいだけだということ。


 何度も聞いてきたはずなのに、少年は今も納得していないようだった。


「美緒」


「何?」


「最近、蓮と何か話した?」


「少しだけ」


「サッカーのこと?」


「うん」


「そっか」


 お姉ちゃんはそれ以上聞かなかった。


 私が少年を通して現在の蓮さんへ関わっていることなど、知るはずもない。


「ごめんね。急にこんな話して」


「大丈夫」


「夕飯まで少し休むね」


「うん」


 お姉ちゃんが立ち上がる。


 扉の前で足を止めた。


「美緒」


「何?」


「無理に蓮を元へ戻そうとしなくていいからね」


 胸が跳ねた。


「どうして、私に言うの?」


「前に、昔の蓮に戻ってほしいって言ってたから」


「それは……」


「昔みたいになってほしいって思う気持ちは、私にもあるよ」


 お姉ちゃんは静かに続ける。


「でも、今の蓮を否定してまで戻ってほしいとは思わない」


 少年の表情がわずかに歪んだ。


「蓮がサッカーを辞めても、昔の蓮がいなくなるわけじゃない。私たちが一緒に過ごした時間まで、なくなるわけじゃないから」


「……うん」


「それだけ」


 お姉ちゃんは部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 私はしばらく動けなかった。


 少年も黙っていた。


「聞きましたか?」


「ああ」


「お姉ちゃんは、辞めることを止めていません」


「でも、あいつはまだサッカーが好きだ」


「どうして分かるんですか?」


「俺だからだ」


「それだけですか?」


「それで十分だろ」


「十分ではありません」


 少年が私を見る。


「退部届を出したんだぞ」


「聞きました」


「このままなら、一週間後に辞める」


「まだ決まっていません」


「だから、今止めるんだ」


「何を言っても聞かないと思います」


「お前の言葉なら聞くかもしれない」


「私の言葉ではありません」


「だったら、俺が話す」


 少年が迷いなく言った。


「聞こえないでしょう」


「お前に入ればいい」


 胸の奥が冷たくなる。


「憑依して、蓮さんと話すつもりですか?」


「ああ」


「駄目です」


「何で」


「前に約束しました。憑依を便利な力として使わないって」


「試合に勝つためじゃない」


「同じです」


「同じじゃない」


 少年が近づく。


「俺の言葉を、俺の声で伝えるためだ」


「私の声です」


「でも、中に入れば俺が話せる」


「身体も私のものです」


「分かってる」


「分かっていません」


 私は立ち上がった。


「長く憑依すれば、どうなるか覚えているでしょう」


「無理はさせない」


「前もそう言いました」


「今回は走らない。ボールも蹴らない。ただ話すだけだ」


「感情的になれば、身体に負担がかかります」


「ならない」


「今の蓮さんを見たら、絶対になります」


 少年は否定できなかった。


 強く握られた拳。


 硬くなった表情。


 もうすでに冷静ではない。


「美緒」


「嫌です」


「このまま何もしなければ、あいつは辞める」


「それを決めるのは、現在の蓮さんです」


「逃げてるだけだ」


「逃げることが必要なときもあります」


「そんなこと言ってたら、何も変わらない」


「無理に変えれば壊れます」


「もう壊れてるだろ!」


 少年の声が部屋に響いた。


 私は息を止める。


「サッカーを見ない。練習にも行かない。千春から逃げて、最後には退部届まで出した」


 少年は現在の自分へ言うように続ける。


「これ以上、何が壊れるんだよ」


「蓮さん」


「俺は、あんなふうになるために練習してたんじゃない」


「分かっています」


「分かってない」


「分かりませんよ」


 私の声も強くなる。


「私は蓮さんではありません。少年のあなたでも、今の蓮さんでもない。二人がどんな気持ちなのか、全部分かるわけではありません」


「だったら、確かめさせてくれ」


「……何をですか」


「あいつが、本当にサッカーを嫌いになったのか」


 少年の声が少しだけ弱くなる。


「嫌いになったなら、俺も諦める」


「本当に?」


「ああ」


「辞めるなと押しつけませんか?」


「話を聞く」


「今の蓮さんが話したくないと言ったら?」


 少年はすぐには答えなかった。


「それでも、一度だけ聞きたい」


 私は少年を見る。


 目の前にいるのは、十七歳の蓮さんではないかもしれない。


 サッカーへの情熱。


 プロになりたいという夢。


 諦めない強さ。


 現在の蓮さんが失ったものだけを抱えて生まれた存在。


 だからこそ、現在の蓮さんの痛みを理解できない可能性がある。


 それでも、このまま一週間が過ぎれば、蓮さんは退部届を出し直すかもしれない。


 お姉ちゃんとの関係も、戻れないところまで離れてしまうかもしれない。


「一度だけです」


 口にした瞬間、少年の目が見開かれた。


「いいのか?」


「条件があります」


「何だ?」


「私がやめてと言ったら、すぐに身体を返してください」


「ああ」


「無理に歩いたり、走ったりしない」


「分かった」


「蓮さんを傷つけるための言葉は使わない」


 少年が少し迷う。


「約束してください」


「……約束する」


「長くても五分です」


「短くないか?」


「嫌なら、やめます」


「分かった。五分でいい」


「今日ではありません」


「何でだよ」


「今、お姉ちゃんと電話した直後です。押しかけたら、お姉ちゃんに言われて来たと思われます」


「じゃあ、いつ?」


「明日、連絡します」


「返事がなかったら?」


「一度だけ、アパートへ行きます」


 少年は不満そうだった。


 それでも、最後にはうなずいた。


「分かった」


 胸の奥に、不安が残った。


 この判断が正しいのかは分からない。


 ただ私は、少年に現在の蓮さんを変えてほしいのではなかった。


 二人に、お互いの存在を知ってほしかった。


 過去の夢だけを見ている少年と。


 過去の夢から逃げ続けている現在の蓮さん。


 二人が一度だけ、本当の意味で向き合えば、何かが変わるかもしれないと思った。


     ◇


 翌日の夕方。


 私は現在の蓮さんが住むアパートの前に立っていた。


 学校から一度帰り、制服から私服へ着替えてきた。


 紺色のパーカーに、黒いパンツ。


 古いスパイクは布製の袋へ入れ、鞄の中にしまってある。


 少年を連れていくためではない。


 何かあったとき、すぐに戻ってもらえるように持ってきた。


 少年は隣に立っていた。


「返事は?」


「ありません」


 昼休みに送ったメッセージは、既読になっていた。


 けれど返信はない。


『少しだけ話したいことがあります。今日、家にいますか』


 理由までは書かなかった。


「行くぞ」


「待ってください」


「まだ何かあるのか?」


「確認します」


 私は少年を見る。


「約束を覚えていますか?」


「五分。無理に動かない。お前がやめろと言ったら返す」


「傷つける言葉を使わない」


「分かってる」


「本当に?」


「分かってるって」


 少年は苛立っていた。


 不安が強くなる。


「やっぱり、今日はやめませんか」


「ここまで来て何言ってるんだよ」


「冷静ではないでしょう」


「冷静だ」


「そう見えません」


「美緒」


「何ですか」


「俺も怖いんだよ」


 少年が小さく言った。


 思いがけない言葉だった。


「何がですか?」


「今の俺が、本当にサッカーを嫌いになってたら」


 少年はアパートを見上げる。


「俺が覚えてることも、信じてることも、全部ただの昔話になる」


「そんなことは」


「あるだろ」


 少年は自分の身体を見る。


「家の場所も、親の顔も思い出せない。俺に残ってるのは、サッカーと千春と、お前のことばかりだ」


 昨日と同じ言葉。


 それでも、今は少し違って聞こえた。


「サッカーまでなくなったら、俺には何が残るんだよ」


 答えられなかった。


 少年にとって、現在の蓮さんがサッカーを嫌いになったと認めることは、自分の存在を否定されることに近い。


 だから、どうしても確かめたいのだ。


「五分です」


 私はもう一度言った。


「ああ」


「絶対に守ってください」


「分かった」


 インターホンを押す。


 返事はなかった。


 もう一度押す。


 しばらくして、スピーカーから低い声がした。


『誰』


「美緒です」


 短い沈黙。


『何しに来た』


「少し話したくて」


『千春に言われたのか』


「違います」


『帰って』


 通話が切れる。


 少年が顔を歪めた。


「開けろって言え」


「言いません」


「ここまで来たんだぞ」


「話したくないと言っています」


「まだ何も話してない」


「蓮さん」


 そのとき、アパートの入口が開いた。


 住人らしい女性が買い物袋を持って出てくる。


 私は反射的に道を空けた。


 自動扉が閉まり始める。


「美緒」


「勝手には入りません」


「じゃあ、また呼べ」


 少年の声に押されるように、もう一度インターホンを押した。


『しつこい』


「退部届のことを聞きました」


 スピーカーの向こうが静かになる。


「お姉ちゃんから行けと言われたわけではありません。私が自分で来ました」


『聞いて、どうする』


「少しだけ話をしてください」


『話すことはない』


「一週間後に、もう一度出すんですか?」


『美緒には関係ない』


「あります」


 前にも同じことを言った。


 喫茶店で。


 あのときは、憧れてきた夢を否定されたことが許せず、自分の気持ちを押しつけただけだった。


 今度は違う。


「聞きたいことがあります」


『何』


「サッカーが嫌いになったんですか?」


 返事はなかった。


 少年が私を見る。


 私もスピーカーを見つめた。


『帰って』


 それだけ言って、再び通話が切れた。


「答えなかった」


 少年が言う。


「帰りましょう」


「嫌いだって言わなかった」


「それでも、話したくないんです」


「俺は話したい」


「蓮さん本人と向き合えないまま、憑依するつもりはありません」


「一度だけって約束しただろ」


「話せる状況になったら、です」


 少年の目は真っすぐだった。


 迷っていない。


 そのとき、建物の入口が開いた。


 現在の蓮さんが出てきた。


 黒いパーカー。


 伸びた前髪。


 足元は黒いスニーカー。


 私を見ると、露骨に顔をしかめた。


「帰れって言っただろ」


「すみません」


「千春に頼まれたんじゃないなら、何で来た」


「聞きたいことがあったからです」


「答えたくない」


 蓮さんが私の横を通り過ぎようとする。


 少年が前へ立った。


 現在の蓮さんは、その身体を認識せずに通り抜ける。


 少年の輪郭が大きく揺れた。


「待てよ」


 声は届かない。


「俺から逃げるな」


 蓮さんは歩き続ける。


 少年が私を見る。


「美緒」


 私は動けなかった。


「今しかない」


 蓮さんは、話したくないとはっきり言った。


 ここで少年へ身体を貸せば、その意思を無視することになる。


 それでも、このまま背中を見送れば、二人は二度と向き合わない気がした。


 正しいとは思えない。


 ただ、何もしないことも正しいとは思えなかった。


「お願いします」


 気づけば、現在の蓮さんの背中へ声をかけていた。


 蓮さんが足を止める。


「五分だけ、話をしてください」


「もう話した」


「まだです」


「美緒」


「私ではなくて」


 言葉が止まる。


 蓮さんが怪訝そうに振り返った。


「何を言ってる?」


 私は少年を見る。


 少年は静かに待っていた。


「五分だけです」


 小さく言う。


「約束してください」


「ああ」


「入ってください」


 少年が私へ近づく。


 胸元へ手を伸ばす。


 指先が身体の中へ沈んだ。


 熱が広がる。


 視界が一度揺れた。


 身体の内側から、少年の声が聞こえる。


『聞こえるか?』


『聞こえます』


『少し借りる』


『無理はしないでください』


『分かってる』


 背筋が伸びた。


 重心が少し前へ移る。


 私の意思ではなく、右手が持ち上がる。


 蓮さんの目が細くなった。


「美緒?」


 少年が私の口を使って答える。


「やっと話せるな」


 自分の声なのに、自分のものではなかった。


 低い言い方。


 まっすぐ相手を見る目。


 現在の蓮さんの顔から、苛立ちが消える。


 代わりに困惑が浮かんだ。


「何だ、その話し方」


「分からないか?」


「何が」


 少年は一歩前へ出ようとした。


『動かない約束です』


『一歩だけだ』


『駄目です』


 足が止まる。


「千春から昔の俺の話を聞いたのか」


「千春から聞かなくても知ってる」


「何を」


「シュートを打つ前、右肩を一度落とす癖」


 蓮さんの眉が動く。


「相手を抜いたあとは、最初の二歩だけ歩幅が広くなる」


「……映像でも見たのか」


「緊張すると、右の親指で人差し指の爪を押す」


 蓮さんが手を隠すように握った。


 少年は続ける。


「試合前、左のスパイクから紐を結ぶ」


「美緒」


「ポストに当てて外した夜、眠れなかった」


 蓮さんの顔が固まる。


「最後まで、キーパーの右じゃなく左を狙えばよかったって考えてた」


「誰から聞いた」


「誰にも言ってないだろ」


「千春には話したかもしれない」


「千春の前で泣いたことは話した。でも、シュートコースのことまでは言ってない」


「……何なんだよ」


 蓮さんの声が低くなる。


「その話し方も、目つきも」


 蓮さんが私を見る。


 いや、私の身体を使っている少年を見る。


「昔の俺みたいなことを言うな」


「みたいじゃない」


「やめろ」


「お前は何のために、あれだけ練習したんだ」


「黙れ」


「雨の日も走った。誰もいなくなったあとも、一人でシュートを打った」


「美緒、もう帰れ」


「プロになるって言っただろ」


 蓮さんの目に怒りが浮かぶ。


「何も知らないくせに」


「知ってる」


「お前に何が分かる」


「全部分かる」


 違う。


 少年は、現在の蓮さんが過ごした四年間を知らない。


『全部は分からないでしょう』


 少年は一度だけ息を詰まらせた。


「それでも、俺はお前がどれだけサッカーを好きだったか知ってる」


「昔の俺みたいな言葉を並べるな!」


 蓮さんの声が響く。


 通行人がこちらを見る。


 胸の奥が少し苦しくなった。


 まだ数分しかたっていない。


 それでも、呼吸が浅くなり始めている。


「お前は俺じゃない」


 現在の蓮さんが吐き捨てる。


「昔の話を聞いて、俺を責めたいだけだろ」


「違う」


「だったら何なんだよ!」


 少年が私の手を強く握る。


 爪が手のひらへ食い込んだ。


 その手は、わずかに震えていた。


「俺はお前だ!」


 自分の喉から、少年の叫びが飛び出した。


 現在の蓮さんが、息を止める。


 少年は、未来の自分をまっすぐ見つめた。


「夢を諦める前の、お前だ!」


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