角灯の下で
黒翼便の格納庫は、潮と油と、竜の体臭が染みついた、傾きかけた木造の倉庫だ。リンがヴェルを滑り込ませると、帳場の奥から角灯の明かりが揺れた。
「ずいぶん遅かったな」
親方のガロが、煙管を咥えたまま顔を上げた。竜乗りだった頃に潰した右脚を引きずって歩く、黒翼便の主だ。
「丘の連中、薬は受け取るくせに、あたしの手にも触りたがらない」リンは飛行手袋を、放るように外した。「命を運んでも、礼は影でこそこそ。いつまで、これを続けるの」
ガロは、ゆっくりと煙を吐いた。
帳場の隅から、空の薬瓶をひとつ、つまみ上げた。底に、帝国製を示す小さな刻印がある。
「お前が今夜、命をつないだその薬だ。これを山ほど作ってるのは、海の向こうの、その帝国の工場さ」
「……っ」
「鉄の道が穀物を運ぶようになって、この国から飢え死にがほとんど消えた。夜に電灯が灯って、暗がりの糸紡ぎで目を痛める娘も減った。竜が空を支配してた時代は、村のひとつが一晩で灰になったんだぞ、リン。誇りじゃあ、子どもの熱は下がらん」
「……わかってるよ。そんなこと、とっくに」
リンは瓶を奪い取りかけて、途中で手を止めた。床に叩きつけりゃ、少しは胸がすく。けど、割ったって、次の赤子には何も届かない。竜を狩って、竜乗りを殺して回ったこの世界は、心底、呪わしい。その同じ世界の薬が、今夜ひとりの赤子の熱を下げた。――どっちも本当だってことが、いちばん、腹が立つ。
ガロは煙管をしまうと、声をひとつ落とした。
「……それより、嫌な噂がある。軍が、竜乗りの名簿を集めて回ってるらしい」
「名簿?」
「さあな。負け戦のときに、国がいちばん最初に思い出すのが、いつもは厄介者扱いしてる連中だ。――まあ、噂だ。今夜のところは、忘れて寝ろ」
噂だ、とガロは言った。リンも、そう思おうとした。
格納庫の奥で、ヴェルが低く喉を鳴らした。世話をしているのはノエルだ。竜の腹の下に潜り込み、剥げかけた鱗の継ぎ目に、丁寧に膏薬を塗り込んでいる。
「また海に潜ったろ」ノエルは振り向きもせずに言った。「ヴェルの腹、塩でやられてる。こいつ、痛いって言わないからな。お前に似て」
「言ったら、運べないでしょ」
「……そういうとこだよ」
ノエルは手を止めて、ようやくリンを見た。何か言いかけて、やめる。竜の世話なら何時間でも語る男が、リンに向ける言葉だけは、いつも途中で錆びつく。
「危ない便ばっかり、お前が引き受けることないだろ。検問の海域なんて、いつか――」
「いつか、何?」
ノエルは答えず、膏薬の缶に蓋をした。
「もう、それ。十年くらい言いかけてる気がするけど」リンは茶化す。けど、ノエルは笑わなかった。ヴェルが、慰めるようにノエルの肩へ鼻面を寄せる。竜と、竜飼いと、竜乗り。この格納庫のなかだけは、誰もリンの手を、汚れ物のように引っ込めたりしない。リンはふと、自分の腹のあたりを押さえた。痛むのはヴェルの傷のはずなのに、なぜか、自分のどこかが疼いた。
「英雄の娘が、また密輸で稼いできたわけ」
入口に、テッサが寄りかかっていた。一族でいちばんの腕。そして、リンのただ一人の好敵手。その肩には、見慣れない革具があった。竜の胸当てを、配達用から戦闘用に締め直した跡だ。
「あんたにだけは、言われたくないけど」リンは肩をすくめた。「空の腕なら、まだあたしのほうが上でしょ」
「どうだか。今度、賭ける?」テッサが、ニッと笑う。昔から、この応酬だけは、軽い。
ふと、リンはテッサの肩の革具に気づいた。「……その竜具、どうしたの」
「備えてるだけ。減るもんじゃなし」テッサは肩をすくめ、西の空を顎でしゃくった。砲火の明滅は、昨日より確かに近い。「あの灯りが港まで届く頃、あんた、運び屋のままでいられると思う?」
答えは、出なかった。テッサはそれ以上は言わず、ふっと笑って夜のなかへ消えた。歩くたび、胸当ての金具が小さく鳴る。配達用の革では、あんな音はしない。
リンは、その背を見送った。腹の底で、また何かがぎりと鳴った。今度は、誰に向ければいいのかも、分からなかった。
その夜、リンは格納庫の屋根にのぼり、眠る竜と、眠る街を見下ろした。
ガロのしわがれた声。ノエルの錆びついた言葉。テッサの背中。丘の赤子の泣き声。差し出すたび引っ込められた、誰かの指。そのどれもが、いまここに、確かにある。
守りたい、と思った。誰にも誇れない、それでも確かに息づいているこの場所を。竜乗りでも人を救えるのだと、いつか証明してやる。それまでは、何度でも飲み込む。
「あたしたちは、運ぶだけ」
もう一度、誰にともなく呟いた。返事は、なかった。
リンは、自分の手を見下ろした。薬箱を渡し、手綱を握り、差し出すたびに引っ込められてきた手。今はまだ、何かを運ぶための手だ。そう信じたかった。
その夜更け。黒翼便の扉が、無遠慮に三度、叩かれた。革帯を鳴らす、軍靴の足音。封蝋を捺した一通の通達が、ガロの帳場に置かれる。
――平穏は、いつか終わる。




