第三話 君は僕だけのお人形
フォンテーヌ男爵家の廊下には、僕の硬いブーツの足音と、引きずられるシャルロットの微かな衣擦れの音だけが響いていた。
「お、お嬢様……」
「ヴァルデマール殿下……っ」
壁際に追いやられた使用人たちが慌てふためき、青ざめた顔でこちらを窺っている。しかし、公爵令息である僕を止めようと前に出る者など、このちっぽけな屋敷には一人としていなかった。
圧倒的な身分差。そして、僕から発せられる隠しようのないどす黒い怒りと冷たい威圧感の前に、彼らはただ震えながら道を譲り、目を伏せることしかできない。誰一人として、僕が強引に引いている男爵令嬢を助けようとする者はいなかった。
「やめ……テオ、どこへ……っ」
恐怖からか、抵抗しようと体重を後ろにかけるシャルロット。けれど、剣術で鍛え上げられた僕の歩みが揺れることは少しも無い。僕は彼女の細い腕を、絶対に逃がさないようしっかりと掴んだまま迷いなく歩みを進める。
昔は彼女と同じくらいの大きさだったはずの僕の手は、今では彼女の手首をすっぽりと包み込めてしまう。少し力を込めれば容易くへし折れてしまいそうなほど、彼女の骨格はひどく華奢に感じられた。
バンッ、と乱暴に扉を開け、見慣れた彼女の私室へと足を踏み入れる。
ふわりと、彼女が好む甘い花の香りが鼻腔をくすぐった。僕が何度も『可愛いテオ』として通い詰めた、あのお人形遊びの空間だ。しかし今のこの部屋は、かつての長閑な雰囲気とは全く異なっていた。部屋の中央や壁際には、先ほど僕が馬車で持ち込んだ大量のドレスの箱が、すでに天井に届くほどの山になって積み上げられている。色とりどりの美しいリボンがかけられた最高級の化粧箱の群れは、まるで彼女をこの部屋から一歩も外へ逃がさないための、美しくも異様な『壁』のようだった。
「テ、テオ……痛いわ、離して……!」
部屋の中央、高く積まれた箱の山に囲まれた場所まで来たところで、シャルロットがついに耐えきれなくなったように涙声で訴えた。僕の足が止まる。振り返ると、彼女の透き通るような水色の瞳には、明らかな恐怖の涙が浮かんでいた。その怯えた表情を見た瞬間、僕の胸の奥で、ゾクゾクとするような暗い愉悦が弾けた。あんなに僕を意のままに操っていた無邪気な彼女が、今は僕の男としての力に怯え、痛みに顔を歪ませている。しかし、僕は腹の底で渦巻く興奮を完璧な微笑みの裏に隠し、わざとらしく大げさに息を呑んでみせた。
「……ああ!ごめんよ、シャル。君があんまりにも逃げようとするから、つい力が入ってしまった」
パッと手を離すと、極上の陶器のように白い彼女の腕には、僕の指の形をした赤い痕が僅かに残っていた。
「痛かっただろう?僕の大切なお人形に、傷をつけてはいけないね」
白雪のような肌に残った僕の指の痕。それはまるで、彼女が僕の所有物であると証明する『刻印』のようで、心の奥底がじわりと甘く痺れた。僕は柔らかな声音を作って微笑みかけるが、シャルロットの顔色は青ざめたままだ。
「……お人形だなんて、冗談はやめてちょうだい。貴方、少しおかしいわよ」
気丈に振る舞おうとしているのだろうが、紡がれた声はひどく震えていた。シャルロットは震える手で、僕に掴まれていた自身の腕を庇うようにさすりながら、後ずさる。じり、じり、と擦れる黄緑色のドレスの衣擦れが、静まり返った部屋に虚しく響く。逃げようとしても、背後には僕が持ち込んだ箱の山がそびえ立っており、退路などとうに塞がれているというのに。
彼女が僕を見上げるその水色の瞳には、明らかな恐怖と困惑が浮かんでいた。
――ああ、たまらないな。
昔はあんなに無邪気に、僕を自身の思い通りに動くおもちゃとして、きらきらと輝く瞳で見つめていたのに。今の彼女の目には、得体の知れない恐ろしい男として僕が映っているのだ。かつての『可愛いテオ』の面影を探して怯える彼女の姿は、どうしようもなく僕の胸をぞくぞくとさせ、腹の底から湧き上がる昏い支配欲を極限まで刺激した。
「おかしい?僕は至って正気だよ」
僕はゆっくりと一歩、彼女へ歩み寄る。彼女が息を呑んで肩を跳ねさせるのを楽しみながら、僕はひどく優しく、あやすように首を傾げた。
「ただ、君と『お人形遊び』の続きがしたいだけだ。……さあ、どれから着てみようか」
そう言って彼女から視線を外し、僕は積み上げられた箱の山へと向き直った。丁寧に結ばれた絹のリボンを指先で解き、蓋を開ける。薄紙を退けると、そこにはあの日、王都の仕立て屋で見つけた極上の純白のドレスが眠っていた。
ふんだんにあしらわれた繊細なレース。幾重にも重なる柔らかなフリル。箱からふわりと持ち上げると、上質な布地が滝のように滑らかに零れ落ちる。
これを君が着たら、どんなに可憐だろうか。他の男の影など一切感じさせない、何にも染まっていない純白。それを着せて、僕の好みのリボンで縛り上げ、僕だけのお人形として完成させる。その光景を想像しただけで、口の中がひどく渇いた。
「ほら、おいで、シャル」
「嫌……っ!私、着替える気なんてありませんわ!」
箱の山から目を離した隙を突いて、シャルロットが弾かれたように駆け出した。しかし、ドレスの長い裾が邪魔をして、その足取りはお世辞にも速いとは言えない。僕は焦ることもなく、ゆっくりと彼女の背中を追った。
扉に手をかけようとした彼女の背後から、僕はその細い腰をあっさりと抱きすくめる。ビクンッ、とシャルロットの体が跳ねた。
「っ、やめて、離して……!」
僕の腕の中で、彼女は必死に身を捩り、僕の胸を小さな拳で叩く。けれど、幼い頃から厳しい剣術の鍛錬を積んできた僕の腕に閉じ込められれば、彼女の抵抗など小鳥の羽ばたきのように頼りなく、そして無力だ。むしろ、僕の腕の中で暴れるその柔らかな感触は、僕の征服欲を心地よく満たしてくれた。
「暴れないで。可愛いドレスが破れてしまうだろう?」
「いやっ、テオ、お願い……!」
僕は彼女の耳元に顔を寄せ、その震える声ごと飲み込むように甘く囁いた。恐怖で強張った彼女の体を片腕で容易く押さえつけながら、もう片方の手を彼女の背中へと滑らせる。
今着ている黄緑色のドレス。その背中に並んだ小さなボタンに指をかけ、一つ、また一つと器用に外していく。
「や、やめ……っ!」
「しーっ。静かに」
懇願する彼女の声を無視し、最後に背中のリボンをゆっくりと解き放つ。ふわりと緊張が解けた布地を、指先で摘んで肩からゆっくりと引き下げた。
さらり、と衣擦れの音が空気を撫でる。
彼女の身体を覆っていた上質なシルクのドレスが、重力に従って華奢な肩から滑り落ち、足元へと無残に崩れ落ちた。
その瞬間――僕の指先は、まるで魔法にでもかけられたかのように空中でピタリと硬直した。
部屋の薄明かりの中に露わになった彼女の背中。それは、透き通るように白く、目を奪われるほど極上の陶器のように滑らかだった。呼吸に合わせて震える華奢な肩甲骨はまるで羽を休める蝶のようで、そこから細くくびれた美しい腰のラインへと続く柔らかな曲線は、あまりにも完全で、暴力的だ。ほんの数年前まで、彼女の身体は僕と同じように子供らしく平坦で、どこか中性的なお人形そのものだったはずだ。それなのに、僕が目を離していた間に、彼女の身体は甘い丸みを帯び、指で触れれば溶けてしまいそうなほどの柔らかさを孕んでいた。紛れもなく、一人の美しい『女性』として花開いていたのだ。
「……っ」
あまりの美しさに、僕は無意識のうちに言葉を失い、喉を鳴らした。
今まで完璧に保っていた『余裕のある狂気』が、一瞬にして頭の中から白く消え去っていく。どくどくと、警鐘のように心臓が耳障りなほど大きく脈打ち、血液が一気に沸騰したかのような錯覚に陥る。同時に、焼け付くような熱いものが下腹部へと急激に集まっていくのを感じた。はあ、と、自分でも信じられないほど荒く、熱を帯びた息が、震える唇から無防備にこぼれ落ちる。
僕がどうしようもなく骨格の張った『男』に成長してしまったように、彼女もまた、僕の与り知らないところで、こんなにも狂おしいほど美しく成長していたのだ。
他の誰にも、絶対に見せたくない。あの白銀の髪の執事の少年にすら、指先一つ、一目たりとも触れさせたくない。この無垢で美しい肌を、すべて僕の赤い痕と歯型だけでめちゃくちゃに塗り潰してしまいたい。その圧倒的な成長の事実は、僕の中で燻っていたただの『お人形への執着』という泥のような独占欲に、さらに黒くねっとりとした、逃れようのない情欲の業火を放った。
「や、やめ……テオ、見ないで……お願い……っ」
半裸にされた恥辱と、目の前の男から放たれるあからさまな熱にあてられ、シャルロットは自分の胸元を細い両腕で隠すようにして身を竦ませた。水色の瞳から大粒の涙がぼろぼろと零れ落ち、白い肌を濡らしていく。
――今すぐこの場で彼女を押し倒し、めちゃくちゃに貪ってしまいたい。
そんな獣のような本能が暴れ出しそうになるのを、僕はギリッと奥歯を噛み締めてどうにか押し殺した。駄目だ。今はまだ、その時じゃない。まずは彼女に、自分が僕の完全な『お人形』であることを分からせなければ。
「……見ないで、なんて言わないでよ」
僕はひどく甘く、だがどこか掠れた声で囁きながら、用意していた純白のドレスをふわりと持ち上げた。震える彼女の頭上から、上質なシルクとたっぷりのレースを被せる。
「君は僕を、たくさん見てくれたじゃないか。僕に可愛いドレスを着せて、隅々まで……ね」
「ひぐっ、ぁ……」
「さあ、腕を通して。いい子だ」
抵抗する力すら失った彼女の腕を掬い上げ、滑らかな袖を通させる。そして僕は彼女の背後に回り、きゅっと編み上げの紐を握った。
――ギッ、と音が鳴るほど強く、ドレスの編み上げを限界まで引き絞る。
「あっ、苦し……っ、テオ、きつい……!」
「我慢して。綺麗なくびれを作るためだよ。昔、君が僕によく言っていた言葉だろう?」
彼女の悲鳴を無視して、さらに強く紐を結び上げる。彼女の美しい女性らしいラインが、僕の手によって、僕の最も好む形へと強制的に作り変えられていく。この手の中の感触が、どうしようもなく僕の支配欲を満たした。最後に、ふんわりと巻かれた彼女の桃色のツインテールを指先で優しく解き、僕が特別に用意した真っ白なシルクのリボンで丁寧に結び直す。
すべてが終わる頃には、シャルロットは完全に心を折られ、ただ操り糸を切られた人形のように、力なく立ち尽くしていた。
「……完成だよ。見て、シャル」
僕はぐったりとした彼女の華奢な肩を抱き、部屋の隅にある大きなアンティークの姿見の前へと連れて行った。鏡の中に映っているのは、涙で瞳と頬を濡らし、純白のフリルドレスに身を包んだ、恐ろしいほどに愛らしく、そして無防備な少女。そしてその背後には、彼女の逃げ場を完全に塞ぐようにすっぽりと腕の中に閉じ込め、暗く熱を帯びた瞳で見下ろす長身で黒髪の男――僕の姿があった。
僕たちは今、完璧に、あの頃とは立場を逆転させている。
「可愛い……。世界で一番可愛いよ、僕のシャルロット♡」
かつて、初めて出会ったあの日に。
無邪気な彼女が、幼い僕の心を永遠に縛り付けたあの言葉を。今度は僕が、狂おしいほどの愛と執着を込めて、そっくりそのままお返しする。
「……もう、充分ですわ。貴方も満足したでしょう?」
静まり返った部屋に、シャルロットの震える声が響いた。鏡越しに目が合う。水色の瞳にはまだ大粒の涙が溜まっていたが、彼女はそれを必死に堪え、気丈に振る舞おうとするように僕を睨みつけていた。
「終わりになさって」
それは、男爵令嬢としての精一杯の虚勢。あるいは、恐怖に震えながらの悲痛な懇願だったのかもしれない。けれど、僕の心に浮かんだのは同情でも罪悪感でもなく――どうしようもないほどの、暗く甘い愉悦だった。
「ふ、くくっ……あははっ」
僕は思わず喉の奥でくつくつと笑い声を漏らし、やがてそれは堪えきれないような笑いへと変わった。僕が笑い出したことで、シャルロットの肩がびくりと跳ねる。
「終わり?何を言っているんだい、シャル」
僕は笑いを収めると、彼女の背後からすっぽりとその身を包み込むように抱きすくめ、耳元へと口唇を寄せた。
「僕たちのお人形遊びは、まだ『始まったばかり』じゃないか」
「っ……!?」
僕は彼女の柔らかい頬に、自身の頬をすり寄せるように密着させた。ひんやりとした鏡の表面に、純白のドレスを着せられた無力な少女と、彼女に絡みつく黒い影のような僕の姿が映し出されている。僕は鏡越しに、怯える彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「ねえ、シャル。君ももう、大人になったんだ。あのフィンとかいう安っぽいおもちゃで遊ぶのは、もうおしまいにしよう?」
「…………」
「これからは僕が、君に似合う最高のドレスを毎日選んであげる。君は何もしなくていい。ただ僕の腕の中で、世界で一番可愛いお人形として愛されていればいいんだよ」
まるで子供を寝かしつけるような、ひどく甘く、優しい声音で囁いた。それは僕からの、最大限の譲歩であり、愛の告白であり――絶対に逃れられない呪いの言葉だった。
鏡越しに見つめ合っていた彼女の瞳から、すっと光が失われるのが見えた。ピシ、ピシと。彼女の中でギリギリまで保たれていた虚勢の欠片が、音を立てて砕け散っていく。僕が言っているのは決して冗談などではない。この僕は、本当に一生涯、彼女から意志を奪い、自分だけの鳥籠に閉じ込めるつもりなのだと、彼女の防衛本能が完全に理解してしまったのだろう。
ヒュッ、と喉の奥で引き攣ったような悲鳴が鳴り、彼女の小さな肩が大きく波打つ。過呼吸気味に荒い息を吸い込んだ彼女は、恐怖に精神の限界を迎えたように瞳孔を開き――。
「い、いやっ……!フィン!フィン!!」
彼女は半ば錯乱したように首を振り、僕の腕の中でもがきながら、閉ざされた扉の方へ向かって悲痛な声を上げた。
――僕の腕の中にいながら。
僕がこんなにも君を愛し、君の世界のすべてを与えようとしているのに。あんな、どこぞの馬の骨とも知れない安っぽい代用品に助けを求めたのだ。
パチン。
僕の脳内で、理性を繋ぎ止めていた細い糸が、あっけなく弾け飛ぶ音がした。
どす黒い嫉妬と、視界が朱に染まるほどの怒りが、一瞬にして脳髄を焼き尽くす。
許さない。絶対に許さない。
あんな気弱そうな白髪の少年が、公爵令息である僕から君を奪い返せるはずがない。もし万が一、あの扉を開けてこの部屋に入ってきたとしても、僕の腰の剣の錆にしてやるだけだ。
「んっ……!? んんっ!!」
僕は彼女がさらにその忌まわしい名前を呼ぶ悲鳴を遮るように、無理やり彼女の顎を掴んで振り向かせ、その小さな唇を乱暴に塞いだ。
「んっ、ぁ……!むっ、や……!」
嫌がって僕の胸を叩く華奢な両手を、僕は片手で軽々と押さえつけ、背中を腕で囲い込んで逃げ場を完全に奪う。牙を剥くように深く、彼女の息継ぎすら許さないほどに執拗に口付ける。抵抗して閉じようとする唇を無理やりこじ開け、舌を絡ませて、彼女の甘い吐息を根こそぎ奪い取った。
甘い、砂糖菓子のような味がした。昔からよく知っている、僕だけの、僕だけのお姫様の味。
反論は、もう二度と許さない。もし少しでも僕から逃げようとするなら、あるいは再び他の男の名前を呼ぶようなら。
フォンテーヌ男爵家などというちっぽけな家ごと跡形もなく潰してでも、君をヴァルデマール公爵邸の、陽の当たらない一番奥深くに永遠に閉じ込めるだけだ。
「はあ……っ♡」
「っは、はあ……」
ゆっくりと唇を離すと、銀の糸が艶かしく引いた。酸素を根こそぎ奪われたシャルロットは、崩れ落ちそうになる身体を僕の腕に支えられながら、ヒュッ、ヒュッと浅い呼吸を繰り返している。無理やりこじ開けられ、蹂躙された小さな唇は痛ましげに赤く腫れ上がっていた。
僕を見上げる水色の瞳からは、先程までの気丈な光は完全に失われている。底なしの絶望だけに染め上げられたその瞳から、またひとすじ、大粒の涙がツーッと白い頬を伝ってこぼれ落ちた。
僕はその涙を、親指の腹で慈しむように優しく拭い取った。
つい先程までの獣のような暴力が嘘のように、ひどく穏やかで、甘やかな手つきで。怯えて身をすくませる彼女の背中を、まるで怯える小鳥をあやすようにゆっくりと撫でる。
「呼んでも無駄だよ、シャル」
泣きじゃくる彼女の耳元に唇を寄せ、もう一度、今度はとろけるように甘く囁きかけた。
「あの安っぽい執事も、君の父親も、誰も君を助けには来ない。……君の居場所は、もうここしかないんだから」
もう二度と、僕から逃げられないように。僕以外の男の名前を呼べないように。僕の腕の中で震えるこの美しい純白のお人形を、僕だけのどす黒い愛で、頭の先からつま先まで余すところなく塗り潰してあげよう。
静まり返った部屋の中、絶望に咽び泣く彼女の声だけが、いつまでも甘く響いていた。
つづく




