第8話 元カノ聖女が、現婚約者の目の前で世界ごと俺を独占したがる件について
ふと、リアナが鼻先を俺の鎖骨に寄せてきた。
「……カイトの匂い、好きかも」
「ちょ、昨日お風呂入ってないから。ちょっと離れて」
鼻先がちょん、と触れる。冷たい感触が、俺のオーバーヒートした体温との温度差で余計に刺激的だった。
「そうなんだ? もっと確かめさせて……?」
小さな鼻先がちょんちょんと動き、細い指が服の隙間から忍び込んでくる。
「っふ。おとといも入ってないからまじやめて。」
「本当?」リアナの目が細く、しかし輝いた。「……じゃあ、もっと深く確かめさせて?」
俺の口から、嬉しいのか情けないのか分からない吐息が漏れた。
言うほどに、リアナの指先が這う距離が伸びていく。
「……っ、このままじゃ領地が持たない!」
俺が絶叫した瞬間、心拍数が閾値を超えた。
【カイトの脳内ログ:緊急警告】
[心拍数] 187BPM 過負荷領域突入
[感情バッファ] リアナ・好意パケット 82%溢れ
[警告] ミサ同期回線が太化中 危険水位突破
上空の紫雲が爆発的に膨張し、真っ赤な雹が質量弾へと姿を変えた。
怖くなったのか、そっとだがきつく、リアナが俺の胸に豊かな曲線を押し付けてくる。
先端の硬い感触が、服越しに明確に伝わってきた。気がした。思わず腕に力が入る。
その直後、巨大な赤い雹がバルコニーに激突した。
「カ、カイト……!」
「ごめん、リアナ。ちょっと離れて」
初めて呼び捨てにした瞬間、リアナが名残惜しそうに腕を離す。背中に残った体温の喪失ログが、妙に寂しいエラーを吐いた。
しかし今はそれどころじゃない。
「リアナ、西に何がある?」
「ダムよ! あそこがやられたら領地全体が水不足に……!」
言いかけて「きゃあ、カイト!」とリアナが俺の前に飛び出して盾になる。
俺は彼女を押し戻し、外へ飛び出した。
「ミサ! 俺が見えるか? 俺はここだ!」
嵐の中、叫びが空間に響いた瞬間——すべてが止まった。
真っ赤な雹が空中で静止。紫雲が弾け、純白の光が降り注ぐ。
【カイトの脳内ログ:同期完了】
[外部接続] ミサ・エンティティ 完全リンク確立
[罪悪感キャッシュ] 98%解放
[システムメッセージ] 「強制終了コマンド」受付完了
光の柱の中から、ミサが舞い降りてきた。神々しい法衣と光輪を背負った姿は、領民たちに聖女として映った。
<<……カイトくん>>
ミサが俺の前に立つと、周囲の空間が歪んだ。
次の瞬間、俺たちはリアナや領民の視線から隔離された、完全なプライベート・ルームの中にいた。
<<やっと……二人きりになれた>>
ミサが聖女の仮面を脱ぎ捨て、俺の胸に飛び込んでくる。ぎゅううっと、魂ごと包み込むような力で抱きついてきた。
【カイトの脳内ログ:感情オーバーフロー】
[安心感] 最大値突破
[心拍数] 安定→即再加速 ミサ専用ゾーンでサーマルスロットリング発生
[理性コア] 「ごめん、もうこんな想いさせない」ループ 実行優先度9999に強制昇格
<<カイトくんあったかい……あっちの世界で、毎晩この温もりを思い出してたんだよ?
寂しくて、寒くて、ベッドの中で一人で丸まって……カイトくんの温もりが欲しくて、欲しくて、たまらなくて……だからちょっと、世界を壊しちゃおうかなって思っちゃったの>>
俺は苦笑しながら彼女の髪を撫でた。
その瞬間、俺の視界の端に——外の光景がくっきりと透けて見えた。
リアナが唇を強く噛みしめ、こちらに向かって手を伸ばしている。
領民たちも聖女様と英雄様の姿を求めてざわつき、祈るように手を合わせ、名前を呼びかけている者までいる。
みんな必死に俺たちを見ようとしている。
なのに——
向こう側からは、俺とミサの姿は一切見えない。
ただ眩い光の柱がそびえ立っているだけだ。
(……やばい。みんなが見てる前なのに……)
このプライベート・ルームは完全な一方通行。
俺たちは外を丸見えにしながら、誰にも見られていないという、背徳的な密室の中にいた。
ミサは、鼻を俺の鼻とくっつけた。恥ずかしそうに乾いた唇をぺろりとピンク色の舌で舐めた。思わず、自分の唇を突き出しそうになった。
<<ねえ、カイトくん……さっきの女の子、あの子、カイトくんの右腕をずっと抱きしめてたよね?私、上から全部見てたんだよ? ……すごく、ヤキモチ妬いちゃった>>
「あ、あれはビジネスで……」
<<ふーん……。じゃあ、今は『ビジネス』じゃないよね?>>
ミサが上目遣いに俺を見つめてくる。瞳がきゅるんと潤んだ。
<<あのね、待ってた分の『延滞利息』……たっぷり、たっぷり払って>>
もちろん俺は彼女の身体の重みを覚えている。俺らは3年越しのつきあいだ。彼女の指の動き、短い吐息、腰のカーブ、柔らかい場所、固い場所、すべて記憶に蘇った。
冷や汗なのか熱い汗なのか流れてきた。思わず外の世界を見る。向こうは見えないかもしれないが、俺らはすぐここにいる。
<<さっきあの子が触ったところ……全部、私で上書きしたい。カイトくん、この世界ごと、私のものにしてあげるね?>>
ミサの体温と甘い香りが、俺の全身を優しく、けれど執拗に包み込む。
外ではリアナが必死に光の柱を見つめ、領民たちが祈りを捧げているのがはっきりと見えているというのに、こちら側ではミサが、ため息をつきながら、両腕を後ろについて、首を傾げた。そして待っている。
そのギャップが、胸の奥に熱い罪悪感と、奇妙な高揚感を同時に呼び起こす。
(みんなが見てる前で……こんな……)
【カイトの脳内ログ:クリティカル警告】
[愛情負荷] 限界突破 バッファオーバーフロー
[背徳指数] 急上昇中
[状態] 完全降伏 抵抗意思 0.00%
[今後の予定] 元カノによる甘い愛の無限ラブ・デッドロック 永久継続確定
ミサは俺をじっと見つめながら、長く伸びた脚をこちらに揺らし、両腕は後ろについて上半身をこちらに向けながら静かに行った。
「……カイトくん、キスして? 待ってた分の、全部……今から、返してもらえる?」
俺の異世界エンジニアライフは、国家規模の危機を解決したご褒美として、元カノによる「甘くて重くて、逃げられない愛の永久ループ」に、完全に沈没した。




