第70話 平楽寺
伊賀の山々に、白々と夜明けの光が差し始めていた。
谷間を這う朝霧は、昨夜の火薬の煙と混じり合い、濁った灰色となって木々を濡らしている。
「……ちっ、仕損じた。あと一歩で、あの鯰尾兜の主の首に手が届いたものを」
巨躯を揺らし、吐き捨てるように言ったのは石川五右衛門であった。鎖帷子の隙間から覗く肌には煤がこびりつき、夜襲の激しさを物語っている。
昨夜、蒲生賦秀の首を獲るべく陣幕へ躍り込んだ仲間は、あと一歩というところで町野幸仍に阻まれた。闇を切り裂いた小太刀の銀光が、今も五右衛門の瞼に焼き付いている。
「そう悔しがるな、五右衛門。信長の娘婿の肝を冷やしたのだ。それだけでも充分な戦果であろう」
傍らで岩に背を預けていた小川新左衛門が、静かに応じた。その左肩の衣には一筋の裂け目が走り、鮮血が滲んでいる。
「……新左衛門、お主、傷を負ったのか」
「ああ。あの赤髪の南蛮人だ」
新左衛門は傷口を指でなぞり、不敵な笑みを浮かべた。
「闇を透かすような緑の眼で、私の姿を捉えおった。身を伏せるのが一瞬でも遅れていれば、首を撃ち抜かれていたであろうな」
「南蛮人が種子島を使うか」
「見事な腕だ。南蛮人が、あれほど自在に種子島を使いこなすとは。天下は広い」
そのとき、物見に出ていた若者が山中を駆け戻り、二人の前に膝をついた。
「申し上げます! 笠間口より攻め入った筒井順慶勢に対し、我らが夜討ちを敢行。敵陣は大いに乱れ、討ち取った兵は千に及ぶとのこと!」
「ほう、千!」
五右衛門の顔に、獰猛な歓喜が広がった。
「ははっ、さすがは伊賀の者よ。三介や蒲生には仕損じたが、筒井の坊主には一泡吹かせてやったか。これで織田の連中も、伊賀の恐ろしさを思い知ったであろう」
「千とは、いささか勇ましすぎる報せだな」
新左衛門は冷静に言った。
「まことの数は、戦が終わらねば分からぬ。だが、筒井勢に痛手を与えたことは間違いあるまい」
満足げだったその瞳が、すぐに冷徹な光を取り戻した。
「されど、手負いの獣ほど激しく牙を剥く。蒲生も滝川も、次は容赦すまい。……伊賀の山中が血の海になるぞ」
一方、蒲生の陣には、重苦しい空気が垂れ込めていた。
「不覚であった……」
蒲生忠三郎賦秀は陣頭に立ち、集まった将兵を凍り付かせるような眼光で射抜いた。その端正な顔は怒りに朱を帯び、握りしめた拳が微かに震えている。
「上様の軍に連なる我らが、地の利を恃む伊賀者に夜襲を許し、あまつさえ本陣まで脅かされるとは。これはひとえに、私の慢心が招いた恥辱である!」
賦秀は一歩踏み出し、大地を強く踏みしめた。
「伊賀の者どもは、もはや人と思うな。我らの喉笛を狙い、闇より襲い来る野獣と心得よ。油断した者は、その瞬間に命を失う!」
将兵たちの顔に緊張が走った。
「汚名を雪ぐ道はただ一つ。これより平楽寺を攻める。抗う者は一人たりとも生かして返すな。根切りにせよ! 蒲生の武者の意地、今こそ見せてくれようぞ!」
「応ッ!」
烈火のごとき檄を受け、家臣たちの闘志が一斉に燃え上がった。昨夜の失態に歯噛みしていた武士たちは、狂気にも似た殺気を放ちながら武器を取った。
山科勝成もまた、その熱狂の中にいた。
(我がトノに刃を向けた伊賀者ども。断じて許さぬ)
勝成は日野鉄砲を強く握りしめた。
胸中でデウスに祈りを捧げる。だが、彼が願ったのは敵の魂の救いではなかった。主君の勝利と、自らの放つ弾丸が狙いを違えぬことだけだった。
我がアウグストゥスの危機を、自分の手で払い除けられなかった。その悔恨が全身を焼き、勝成を一挺の冷たい鉄砲へと変えつつあった。
ふと視線を横に走らせた勝成は、思わず立ちすくんだ。
喧騒の只中にあって、町野左近将監幸仍だけが、凪いだ水面のような静けさを纏っていた。
幸仍は愛刀に付着した血を丁寧に拭い、静かに鞘へ収めた。そして、遠く比自山の尾根を見つめている。
その顔には、賦秀のような怒りも、勝成のような興奮もない。その静けさが祈りを終えた者の清らかさなのか、幾人斬ろうと心を動かさぬ冷たさなのか、勝成には見分けられなかった。
(何故だ……)
主君の危機を救ったというのに、誇る色も、敵を憎む様子もない。
勝成は幸仍に対し、再び言いようのない敗北感と、形容しがたい嫉妬を覚えた。
自分が必死になって侍であろうと心を削っているのに対し、幸仍は、ただそこに在るだけで武士という完成された姿を示しているように思えた。
幸仍が勝成の視線に気づき、静かに会釈した。
「山科殿」
「……何だ」
「間もなく、あの寺は阿鼻叫喚の巷となりましょう」
幸仍は平楽寺の方角へ目を向けた。
「神仏の慈悲も、あの場所までは届きますまい」
その声は、秋の夜風のように冷ややかだった。
蒲生軍は、伊賀衆が立て籠もる平楽寺へ進軍を開始した。
平楽寺は伊賀における仏法の一大拠点であると同時に、土塁と堀、柵を巡らせた砦でもあった。境内には土豪、地侍、僧兵、百姓兵が詰めかけ、退路が断たれたことを悟っている。
「撃てッ! 一歩も近づけるな!」
銃狭間から、火縄銃が次々と火を噴いた。
轟音が山野を揺るがし、蒲生勢の先陣を進んでいた長槍隊が血煙を上げて倒れていく。
「ひるむな! 竹束を押し立てろ!」
勝成は声を張り上げ、鉄砲隊を率いて応戦した。
だが、伊賀衆の抵抗は凄まじかった。
彼らは土塁の陰から銃撃を浴びせると、伽藍の狭い通路を伝って素早く退く。倒れた味方へ近づいた蒲生兵を、堂の陰に潜んでいた別の兵が槍で突く。屋根の上、崩れた築地塀、木立の陰から、絶え間なく矢と弾丸が飛来した。
「くそっ、どこに潜んでいる!」
横内喜内が大弓を引き絞り、屋根の上に現れた影を射落とした。だが、その直後には、硝煙の向こうから別の伊賀者が斬り込んでくる。
怒号と悲鳴が入り交じり、仏法の道場であった平楽寺は、瞬く間に血と硝煙の臭いに塗り潰されていった。
(これが……伊賀の最後の足掻きか)
勝成は、銃身越しに伽藍を睨んだ。
あそこに救いを説くホトケなどいない。いるのは侵略者を呪い、一人でも多く道連れにしようと牙を剥く、怨念の塊だけだ。
勝成は、そう自分に言い聞かせた。
そうでも思わなければ、同じ人間に狙いを定め、引き金を引くことなどできなかった。
霧の切れ間から、伊賀者が一人、崩れた塀の上に姿を現した。煤と血に汚れた顔は、まだ若い。その手にした火縄銃が、最前線で揺れる賦秀の銀鯰尾兜へ向けられた。
勝成の身体が、思考より先に動いた。
銃声が鳴り響いた。
若い伊賀者の胸から血が噴き、その身体が塀の向こうへ崩れ落ちる。
「新助!」
伽藍の奥から、誰かの悲痛な叫びが聞こえた。
勝成は新たな弾丸を銃口へ落とした。
敵にも名がある。
その当たり前の事実が、銃床の反動よりも鋭く胸を打った。
(奴らは野獣だ。我がトノの命を狙う、野獣なのだ)
勝成は再び自分に言い聞かせ、火皿へ火薬を注いだ。
だが同じ言葉を繰り返すたび、その響きは少しずつ力を失




