第69話 町野幸仍
比自山城の陥落を目前に控えた蒲生陣営は、勝利への予感という甘い毒に侵されていた。重臣達がいくら警戒を説こうとも、圧倒的な兵力差と容易い勝利の連続が、武士たちの足元を緩ませていたのだ。
突如、闇が爆発した。
凄まじい轟音と共に、陣屋のあちこちで紅蓮の火柱が上がる。石川五右衛門が放った「埋火」と閃光粉が、漆黒の森を白昼の如く照らし出した。
「夜襲だ! 出会え、出会えッ!」
悲鳴に近い怒号が飛び交う。だが、その混乱を嘲笑うかのように、霧の深淵から死の礫が飛来した。小川新左衛門の狙撃である。正確無比な一弾が、哨戒に立っていた蒲生家臣の喉笛を粉砕した。
(見事な腕だ。シノビにもこのような狙撃の名手がいるのか)
弾道から狙撃手が潜んでいるあろう場所を一瞬で察知した勝成はその緑の瞳を鷹の眼に変え、愛用の日野鉄砲を構え、撃った。
(命中したか?)
しかし今はそのことを確認する暇はない。
「トノをお守りせねば!」
勝成は主君・蒲生賦秀の寝所へと駆けた。だが、行く手を阻むように影が躍り出る。鎖帷子に身を包んだ伊賀忍びたちが、蝙蝠のごときしなやかさと速さで殺到してきたのだ。勝成は銃身を盾にして刃を弾き、腰の太刀を抜いて応戦するが、闇に紛れることに特化した敵の動きを捉えることが出来ない。
その時、賦秀の陣幕を切り裂いて、一人の刺客が飛び込んだ。
刺客の瞳には、国を焼かれた者の、侵略者への底知れぬ瞋恚と憎悪が宿っている。賦秀は咄嗟に脇差を掴むが、不意を突かれた体勢では防ぎきれない。刺客の凶刃が、賦秀の胸元へと一直線に突き出された。
「トノーー!」
勝成の絶叫が夜気を震わせる。間に合わない。そう確信した刹那だった。
銀色の閃光が、刺客の腕を、そして喉元を、一瞬にして断ち割った。
あまりの神速。刃が空を切る音さえ遅れて聞こえるほどの円転滑脱な剣技。
そこに立っていたのは、町野幸仍であった。
幸仍は、賦秀が最も信頼を置く側近の一人であり、中条流の太刀と小太刀の極意を修めた家中きっての剣の達人である。彼は返り血を浴びた小太刀を、まるで呼吸を整えるかのような自然さで鞘に収めた。その立ち姿には、戦場の狂乱とは無縁の、透徹した静寂が漂っていた。
「……助かったぞ、左近」
賦秀が短く息を吐く。幸仍は主君に向かって静かに一礼すると、懐から古びた守り袋を取り出し、それを押し頂いた。
勝成はその光景を、激しい動悸と共に凝視していた。
幸仍が奉じているのは、武門の守護神・八幡大菩薩である。彼はかつて山城国の石清水八幡宮に百日の間参籠し、神人から秘法を授かった程の人物であった。
(まただ……また、あの奇妙な神への祈りか)
勝成の胸の内に、怒りと嫌悪の感情が鎌首をもたげた。
幸仍は陣中にあっても欠かさず、八幡菩薩への経文を唱え、戦場での心得を説く秘伝の巻物を聖典のごとく大切に扱っている。
多神崇拝への嫌悪が少しは和らいで来たとは言え未だ唯一絶対のデウスを奉ずる勝成にとって、それは唾棄すべき「偶像崇拝」であり、迷信に囚われた異教徒の蛮行に他ならなかった。
(デウスよ。何故、あのような偶像崇拝の徒に、これほどの力を与えたもうのですか)
勝成は心の中で毒づいた。
聖ヨハネ騎士団の騎士として、彼は「正義」のために剣を振るってきた。だが、目の前の町野幸仍という男は、勝成が「悪魔の教え」としか思えない信仰を糧にして、勝成が到底及びもつかない神妙の武に達している。
幸仍が再び戦場に目を向け、次々と迫りくる忍びを、舞うような体捌きと精妙無類な小太刀の操作で確実に屠っていく。その動きには、一切の迷いがない。
己の五体に八幡菩薩の神聖な力が満ちているという確信を得ているようであった。
勝成は、その鮮やかな戦いぶりに目を奪われながら、同時に激しい嫉妬に震えた。
それは、己が剣技を苦手とするが故だけではない。
この日の本の土に深く根を張り、八幡という神と一体となって、揺るぎない「自己」を確立している幸仍の精神への嫉妬であった。
勝成は、聖ヨハネ騎士として輝かしい武勲を立てたという過去を捨てきれず、かといって完全な侍にもなりきれない。ブルトゥスとしてカエサル、ノブナガへの殺意と、騎士としての倫理の間で常に引き裂かれている。
それに引き換え、幸仍はどうだ。彼は偶像を拝みながらも、その精神は金剛石のごとく一貫している。この国における武士の一つの完成した姿を、その身一つで体現しているのだ。
(俺には、あの『迷い』の無さがない……)
幸仍の背中に向けて、勝成は日野鉄砲を構え直した。
忍びたちは幸仍の神がかり的な武勇に鼓舞された蒲生武士に押され、奇襲の失敗を悟って徐々に霧の中へと退いていく。
戦火が収まりつつある静寂の中、幸仍が再び低い声で祈りを捧げ始めた。
「南無、八幡大菩薩……」
その声が、勝成の耳には鋭い棘となって刺さった。
勝成は、己の首にかけられた十字架を握りしめた。だが、その指先は冷たく、幸仍が放つような熱を帯びることはなかった。
「山科殿……。無事か」
幸仍が、まるで激しい戦いなど無かったかのような沈毅な表情で勝成に声をかけてきた。
その声と表情には勝成を同輩と認める感情と得体の知れない南蛮の神を信仰する胡乱な者への警戒の念が混在しているようであった。
老成しているようだが、まだ若い。主君と同年代、二十代半ばであろう
「……ああ。トノをお守りいただき、感謝する。見事な御働きであった」
言葉とは裏腹に、勝成の心は嵐のように荒れていた。
伊賀の夜霧が、再び陣営を包み込む。
勝成は、八幡菩薩を信じるこの男を「地獄に落ちるべき異教徒」と蔑もうとした。だが、その実、幸仍の持つ揺るぎない武神への信仰と剣術の奥義を極めたことによって完成された姿に惹かれ、打ちのめされている自分を認めざるを得なかった。
赤い髪を夜風に揺らしながら、勝成は暗闇の中でただ一人、孤独な十字を切った。その祈りは、燃え盛る村々の煙に巻かれ、天に届くことなく消えていくようであった。




