第71話 平楽寺炎上
勝成の放った弾丸が若い伊賀者を倒しても、平楽寺の抵抗は衰えなかった。
銃狭間から火縄銃が交互に火を噴き、土塁へ取りついた蒲生兵には、屋根や築地塀の陰から矢と石が降り注ぐ。堂と堂を結ぶ狭い通路へ踏み込んだ者は、槍で突かれ、あるいは床下に潜んでいた伊賀者に足を斬られた。
「退くな! あと一押しだ!」
蒲生賦秀は銀鯰尾兜を鈍い光で輝かせ、最前線で兵を叱咤した。
だが、攻め寄せる蒲生勢の足元には、すでに幾重もの屍が横たわっている。
「殿」
町野幸仍が、矢を小太刀で払いながら賦秀の前へ進み出た。
「このままでは敵を破る前に、味方が尽きまする」
「ここで退けば、奴らを増長させる!」
「退くのではございませぬ。攻め直すのでございます」
賦秀は唇を噛んだ。
平楽寺の土塁には、勝ち誇る伊賀衆の鬨の声が響いている。昨夜の夜襲に続き、再び不覚を取ったことになる。だが、怒りに任せて兵を死なせることが大将の務めではないことも、賦秀には分かっていた。
「……鉦を鳴らせ。一度退く」
蒲生勢が後退すると、平楽寺から歓声が上がった。
その声を吞み込むように、北の街道から夥しい軍勢が姿を現した。先頭には、三つ串団子の馬印が掲げられている。
「滝川左近将監一益殿の軍勢!」
賦秀は馬を進め、黒鹿毛に跨った一益を迎えた。
「忠三郎殿。随分と手荒い歓迎を受けたようだな」
一益は、土塁の前に積み重なった死骸を眺めた。
「面目もござらぬ」
「恥じることはない。狭き口に大勢で押し寄せれば、どれほど勇猛な兵もただの的となる」
甲賀忍びの出で伊賀者の恐ろしさをよく知る一益は賦秀を嘲笑する気にはなれなかったのだろう。平楽寺を見渡し、静かに軍配を上げた。
「蒲生勢は正面より敵を引きつけられよ。我が鉄砲衆は北の土塁を撃つ。敵の目と耳を二つに割れば、いずれかに隙が生まれよう」
賦秀の目に、再び闘志が燃え上がった。
「承知した。今度こそ、あの寺を落としてみせる」
束の間の静寂が訪れた平楽寺では、抗戦を続けるか、退くかを巡って怒号が飛び交っていた。
「滝川勢まで来たのだぞ! もはや寺を守りきることはできぬ!」
「だからこそ、ここを死に場所と定めるのだ!」
「我らが全滅すれば、誰が伊賀の仇を討つ!」
その争いを、石川五右衛門は奥歯を噛みしめながら聞いていた。
「ええい、俺は残るぞ。織田の侍共を一人でも多く道連れにしてくれる!」
「ならぬ」
小川新左衛門が、静かな威を秘めながら言った。
「百地丹波殿より、何を命じられたか忘れたか」
「忘れてなどおらぬ!」
「ならば行け。伊賀の里が焼けようとも、我らの術と志まで焼かせてはならぬ。それがお主に託された役目であろう」
五右衛門は新左衛門を睨みつけた。
「お主はどうする」
「私は残る」
「言っていることが違うではないか」
「私には、お主のように伊賀の技を後へ伝える才はない。だが、まだ狙うべき首が残っている」
「蒲生か」
新左衛門は答えず、遠く安土の方角へ目を向けた。
その眼差しを見て、五右衛門は相手の胸中を悟った。
「……まさか、信長を狙うつもりか」
「この国を焼く炎は、あの男の天下布武などという下らぬ野心から放たれたものだ。ならば、その根を断たねばならぬ」
「死ぬぞ」
「とうに死んだも同じだ」
五右衛門はしばらく黙っていたが、やがて新左衛門の肩を強くつかんだ。
「勝手に死ぬことは許さぬ。必ず生きて、もう一度俺に顔を見せろ」
「お主こそな」
二人は短く笑った。
やがて五右衛門は、若い忍びと負傷者を連れ、裏山の間道へ姿を消した。新左衛門はその背中を見送ると、再び燃え始めた戦場へ向き直った。
滝川勢の鉄砲が一斉に轟いた。
北側の土塁へ銃弾が集中すると、伊賀衆は守りをそちらへ移した。その隙を逃さず、蒲生勢が正面から押し寄せる。
「今だ! 柵を倒せ!」
長槍を差し込み、何人もの兵が力を合わせて柵を引き倒した。生じた裂け目から蒲生兵が殺到し、ついに境内へ雪崩れ込む。
勝成も日野鉄砲を抱え、煙と炎の中を猛然と進んだ。
薬師堂の脇で、老僧が倒れた兵の傍らに膝をついているのが見えた。その手には、血に染まった小刀が握られていた。
「その者から離れろ!」
勝成が銃口を向ける。
「撃つな……」
倒れていた蒲生兵が、かすれた声を上げた。
「この坊主が……俺の傷を縛ってくれたのだ」
見ると、老僧は自らの袈裟を裂き、兵の腿から流れる血を止めていた。傍らには、同じように手当てを受けた伊賀者も横たわっている。
「何故、敵を助ける」
勝成が尋ねると、老僧は手を休めずに答えた。
「苦しむ者を前にして、敵味方を問う暇はござらぬ」
老僧は蒲生兵の傷を固く縛ると、今度は倒れた伊賀者のもとへ移った。
勝成は、その小さな背中を見つめた。
(異教徒にも、これほど慈悲深い者がいるのか)
一瞬生じた驚きを、すぐに打ち消した。
(いや、憐れみの心はデウスがすべての人に授けたもの。それをあの坊主は、虚しきホトケの教えによるものと信じているのだ。慈悲深くはある。だが、間違った信仰に一生を捧げた、哀れな男に過ぎぬ)
「その兵を後ろへ運べ」
勝成は味方にだけそう命じ、老僧には背を向けた。
やがて、境内の一角から声が上がった。
「敵が堂へ立て籠もったぞ!」
「火を放て! 燻り出せ!」
勝成は傍らの兵から松明を受け取った。
目の前には、古びた仏堂がある。堂内からは読経と、負傷者の呻き声が聞こえていた。
(ここは神の家ではない。敵が立て籠もる砦であり、偽りの偶像を祀る場所だ)
勝成は自分にそう言い聞かせると、松明を堂の縁へ投げ込んだ。
乾いた板に火が移り、瞬く間に柱を這い上がった。炎は金色の仏像を包み、その穏やかな顔を赤く染めていく。
それでも読経は止まらなかった。
先ほどの老僧の声なのか、勝成には分からなかった。
やがて平楽寺全体が巨大な炎に包まれた。逃げる伊賀者を追う兵、首を求めて走り回る者、仏具を奪おうとする雑兵。勝利の雄叫びと断末魔が、燃え落ちる伽藍の音に入り交じった。
「勝ったぞ! 平楽寺は落ちた!」
蒲生兵たちが歓声を上げる。
勝成も鉄砲を掲げようとした。
だが、その腕は途中で止まった。
胸元から銀の十字架を取り出す。煤に汚れた表面には、誰のものとも知れぬ血が付着していた。
勝成は十字架を強く握りしめた。
唯一絶対のデウスに勝利を感謝するはずだった。
しかし、炎の中から響く読経が耳に残り、祈るべき言葉がどうしても浮かんでこなかった。




