↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/30

第9話

 その店の前まで来ると、煮込んだ肉と香草の匂いがいっそう濃くなった。開け放たれた窓から人々の話し声が漏れ、食器の触れ合う音に混じって、誰かの大きな笑い声が聞こえてくる。


「シロ、ここ! 絶対ここだよ!」

「うん。いい匂いだね」


 アカが先に扉を押した。中は思ったより広く、木の卓がいくつも並んでいる。夕食時らしく席の大半が埋まり、仕事帰りらしい人たちが湯気の立つ皿を囲んでいた。


「いらっしゃい! 二人かい?」


 厨房の奥から、よく通る声が飛んできた。前掛け姿の女性が鍋の蓋を戻し、こちらへ歩いてくる。忙しいはずなのに、その顔には気持ちのいい笑みがあった。


「はい。まだ食べられますか?」

「もちろんさ。ちょうど奥の卓が空いたところだよ。メル、二人をご案内しておくれ!」

「はーい!」


 返事をして現れたのは、わたしより少し幼く見える女の子だった。両手に空の皿を抱えていたけれど、棚へ置くとすぐにこちらへ来て、窓際の席を示してくれた。


「こちらへどうぞ。お荷物、足元に置けますよ」

「ありがとう」

「お水を持ってきますね。今日はお肉の煮込みがおすすめです」


 女の子はそう言って、また厨房へ小走りに戻っていった。アカは椅子に座るなり、近くの卓へ運ばれていく皿を目で追っている。


「シロ、あれにしよう!」

「まだ何か分からないよ?」

「いい匂いだから、きっとおいしい!」


 確かに、言い返しにくかった。わたしも、香りに誘われてここまで来たのだから。


 やがて運ばれてきたのは、大きめに切った肉と根菜の煮込みだった。深い皿の中で飴色の汁が揺れ、柔らかな湯気に香草の匂いが混じる。横には焼きたてのパンが添えられていた。


「熱いから気をつけてね」


 皿を置いてくれた女の子に礼を言い、わたしは匙で肉を一切れすくった。口へ運ぶと、ほとんど噛まずにほどけるほど柔らかい。肉の旨味が染みた汁には野菜の甘さが溶けていて、飲み込んだあとにも香草のいい香りが残った。


「……おいしい」


 思わず声が漏れた。パンをちぎって汁につけると、今度は焼けた小麦の香りがふわりと広がる。長旅の終わりに食べる温かい料理は、それだけでも嬉しいものだけれど、これは少し違った。


 向かいを見ると、アカが匙を持ったまま固まっていた。


「アカ?」

「……シロ」

「うん」

「これ、すっごくおいしい!」


 ようやく動き出したアカは、夢中で煮込みを食べ始めた。あまりの勢いに止めようかと思ったけれど、熱さだけはきちんと確かめているらしい。ひと口ごとに頬が緩むので、見ているわたしまで笑ってしまった。


 料理が半分ほど減った頃、厨房の女性が水差しを持って通りかかった。


「どうだい、口に合ったかい?」

「すごくおいしいです!」

「アカ、こんなの初めて食べた!」


 アカが身を乗り出して答えると、女性は豪快に笑った。


「そりゃよかった! お代わりもあるからね」

「ほんと!?」

「もちろん。ただし、ちゃんと食べきるんだよ」


 アカは力いっぱい頷いた。わたしも遠慮せず、パンをもう一つお願いしてしまった。


 そのあともしばらく、二人とも食べるのに夢中だった。隣の卓では仕事帰りの男たちが明日の天気を話し、厨房では鍋をかき混ぜる音が続いている。女の子が空いた皿を下げに来ると、何人ものお客さんが名前を呼んで礼を言った。


「エライザさん、こっちにもパンを二つ!」

「はいよ、すぐ持ってくよ!」


 厨房の女性が威勢よく返事をする。エライザというらしい。こんなに賑やかな店なのに、誰の声も聞き落とさず、次々と料理を送り出していた。


 最後のひと口を食べ終えたアカが、深く息を吐いた。


「……シロ」

「なあに?」

「アカ、明日もこれ食べたい」

「うん。わたしも」

「明後日も。その次の日も!」


 わたしは思わず笑った。けれど、不思議なことに、冗談だとは思わなかった。街道の宿で食べたものとは違う、誰かが家で待っていて作ってくれたような味が、まだ口の中に残っていた。


「じゃあ、毎日来ようか」

「……それだと、遠くへお仕事に行った日は食べられないよ?」

「そうだね」


 アカはしばらく真剣な顔で考えていた。それから、何か素晴らしいことを思いついたように手を叩いた。


「分かった! ここに住めばいいんだ!」


 ちょうど厨房から出てきた女性が、足を止めた。


「……何だって?」

「アカたち、ここに住みたい!」


 女性は目を丸くしたあと、腹を抱えて笑い始めた。近くの卓のお客さんまでこちらを見ている。わたしも慌ててアカの袖を引いたけれど、アカはいたって真剣だった。


「毎日ご飯が食べたいの! アカ、お皿も運ぶし、お掃除もするよ!」

「ちょっと待ちな。うちは宿屋じゃないよ」

「じゃあ、お手伝いするところに住むの!」

「そんな簡単に決められるもんじゃないだろう!」


 女性はまだ笑っていたけれど、だんだん困った顔になってきた。アカがわたしの方を見る。どうやら、助けを求めているらしい。


「……すみません。急に変なことを言って」

「姉さんの方は分別がありそうだね。ちゃんと止めておくれ」

「それが……わたしも、毎日ここの料理が食べたいです」


 女性は口を開けたまま、わたしを見た。


「……あんたまで?」

「はい。もちろん、ただで泊めてほしいわけじゃありません。わたしは冒険者なので、働いてお金も払えますし、店の手伝いもできます」

「そういう問題じゃないよ!」


 ぴしゃりと言われ、わたしは背筋を伸ばした。女性は腰に手を当て、わたしたちを交互に見る。


「名前も知らない子たちを、今日会ったばかりで家に住まわせられるわけないだろう。まして、こんな小さい妹まで連れて。あんたたち、家の人はどうしてるんだい?」

「ええと……わたしたちは二人で旅をしていて……」

「旅をしてるからって、寝る場所まで勢いで決めるんじゃないよ。ちゃんと宿を取ったのかい?」

「はい。荷物も宿に置いてきました」

「だったら、今夜はそこへ帰るんだ」


 返す言葉がなくなった。言われてみれば、女性の言うことはもっともだった。けれど、この味を諦めきれないアカが、隣で小さく首を振っている。


「でも、明日も食べたい……」

「食べに来るのは止めてないよ!」


 近くのお客さんが吹き出し、女性は呆れたように額を押さえた。


「あの、お母さん」


 先ほどの女の子が、空の皿を抱えてやってきた。どうやら、厨房の女性の娘らしい。


「二人とも、お料理が大好きになったんだよね?」

「うん!」

「はい。本当においしかったです」

「ありがとう。お母さん、そんなに怖い顔しなくてもいいんじゃないかな」


 女の子は穏やかに笑い、わたしたちの空いた皿を見た。


「今すぐ住むかどうか決めなくても、またお店に来てもらえばいいと思うの。ね?」

「メル、あたしは最初からそう言ってるんだよ」

「そうだった?」

「まったく、誰に似たんだか」


 母娘のやり取りに、わたしの肩から少し力が抜けた。アカもようやく笑ったけれど、まだ諦めた顔ではない。どう頼めば住ませてもらえるのか、きっと今も考えている。


 そのとき、店の奥へ通じる戸が開いた。


「……どうしたの?」


 小さな男の子が、こちらを見ていた。


「お母さん、何かあったの? 声が聞こえたよ」


 その足元に、一匹の黒猫がいた。


 長い黒い毛。ゆっくり揺れる尻尾。こちらを見上げる金色の瞳に、わたしは息を呑んだ。


 クロ。


 何十年も一人で探し続けて、ようやく会えたと聞いた。そのクロが今、男の子のすぐそばにいる。わたしの手は、膝の上で動かなくなっていた。


 隣でアカも静かになった。いつもなら何か言わずにいられないのに、ただ黒猫を見つめている。


「ミナト、あんたは奥にいたんじゃなかったのかい」

「うん。でも、お母さんの声がしたから」


 エライザがそう呼んだ名前を、わたしは胸の中でそっと繰り返した。


 ミナト。


 男の子は母親とわたしたちを見比べ、それから首を傾げた。


「おねえちゃんたち、何か困ってるの?」

「困ってるっていうかね……」


 女性が苦笑すると、メルが代わりに答えた。


「お母さんのご飯がとってもおいしかったから、ここに住みたいんだって」

「えっ、そうなの?」


 ミナトの顔が明るくなった。


「うん! お母さんのご飯、おいしいもんね!」

「でしょ!」


 アカが勢いよく頷いた。今度はミナトが嬉しそうに笑い、二人は初めて会ったばかりだというのに、すっかり意気投合したようだった。


「ほら、ミナトまで変な気を起こさせないでおくれ」

「変なの?」

「今日来たお客さんを、いきなり家に住ませるわけにはいかないって話さ」

「じゃあ、明日も食べに来たらいいよ!」


 あまりにあっさりした答えに、また笑いが起こった。わたしもつられて笑いかけ、けれど、その目が足元の黒猫へ向いたところで止まった。


 クロはこちらへ歩いてきた。卓の近くで足を止め、わたしとアカを順に見上げる。ほんの一瞬、金色の目が細くなった。


 それだけだった。


 けれど、胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりほどけていくのを感じた。


「おねえちゃん?」


 ミナトがわたしを見上げていた。


「どうしたの? 泣いてる?」

「……ううん。大丈夫」


 慌てて目元を押さえると、アカがわたしの手をそっと握った。わたしはその手を握り返し、ミナトへ笑いかける。


「わたしはシロ。こっちはアカ。おいしいご飯をごちそうになったところなんだ」

「ぼく、ミナト!」


 男の子は誇らしそうに名乗り、足元へ手を伸ばした。黒猫は慣れた様子で、その手に頬を擦りつける。


「それから、この子はクロ。ぼくの友達なんだよ」


 クロは短く鳴いた。


「にゃあ」


 わたしは、もう一度笑った。


「……うん。よろしくね、ミナト。クロも」


 アカも隣で大きく頷く。いつもなら真っ先に駆け寄っていただろうに、その日はわたしと手をつないだまま、少しだけ目を潤ませていた。


「アカも、よろしく!」


 厨房から鍋の煮える音が聞こえ、誰かがお代わりを頼む声が飛んできた。エライザは「はいはい、今行くよ!」と答え、わたしたちへ向き直る。


「住み込みの話は、今夜はおしまい。まずは食べに来るところからだよ。いいね?」

「……はい!」

「はーい!」


 返事をすると、エライザは呆れたように笑った。メルもほっとした顔で厨房へ戻り、ミナトはクロを連れてその後を追っていく。


 去り際に、ミナトがこちらを振り返った。


「シロ、アカ! また来てね!」


 知らないはずの声で名前を呼ばれたのに、こんなに嬉しいなんて思わなかった。


「うん。また来るよ」


 わたしが答えると、ミナトは笑って手を振った。クロはその足元から離れず、二人で店の奥へ消えていく。


 わたしとアカはしばらく、その戸口を見つめていた。


 今夜、ここへ来たのは、おいしそうな匂いに誘われたからだった。その料理にすっかり心を奪われて、勢いで住みたいとまで言ってしまった。


 けれど、明日もこの店に来たい理由が、もう一つ増えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。