第9話
その店の前まで来ると、煮込んだ肉と香草の匂いがいっそう濃くなった。開け放たれた窓から人々の話し声が漏れ、食器の触れ合う音に混じって、誰かの大きな笑い声が聞こえてくる。
「シロ、ここ! 絶対ここだよ!」
「うん。いい匂いだね」
アカが先に扉を押した。中は思ったより広く、木の卓がいくつも並んでいる。夕食時らしく席の大半が埋まり、仕事帰りらしい人たちが湯気の立つ皿を囲んでいた。
「いらっしゃい! 二人かい?」
厨房の奥から、よく通る声が飛んできた。前掛け姿の女性が鍋の蓋を戻し、こちらへ歩いてくる。忙しいはずなのに、その顔には気持ちのいい笑みがあった。
「はい。まだ食べられますか?」
「もちろんさ。ちょうど奥の卓が空いたところだよ。メル、二人をご案内しておくれ!」
「はーい!」
返事をして現れたのは、わたしより少し幼く見える女の子だった。両手に空の皿を抱えていたけれど、棚へ置くとすぐにこちらへ来て、窓際の席を示してくれた。
「こちらへどうぞ。お荷物、足元に置けますよ」
「ありがとう」
「お水を持ってきますね。今日はお肉の煮込みがおすすめです」
女の子はそう言って、また厨房へ小走りに戻っていった。アカは椅子に座るなり、近くの卓へ運ばれていく皿を目で追っている。
「シロ、あれにしよう!」
「まだ何か分からないよ?」
「いい匂いだから、きっとおいしい!」
確かに、言い返しにくかった。わたしも、香りに誘われてここまで来たのだから。
やがて運ばれてきたのは、大きめに切った肉と根菜の煮込みだった。深い皿の中で飴色の汁が揺れ、柔らかな湯気に香草の匂いが混じる。横には焼きたてのパンが添えられていた。
「熱いから気をつけてね」
皿を置いてくれた女の子に礼を言い、わたしは匙で肉を一切れすくった。口へ運ぶと、ほとんど噛まずにほどけるほど柔らかい。肉の旨味が染みた汁には野菜の甘さが溶けていて、飲み込んだあとにも香草のいい香りが残った。
「……おいしい」
思わず声が漏れた。パンをちぎって汁につけると、今度は焼けた小麦の香りがふわりと広がる。長旅の終わりに食べる温かい料理は、それだけでも嬉しいものだけれど、これは少し違った。
向かいを見ると、アカが匙を持ったまま固まっていた。
「アカ?」
「……シロ」
「うん」
「これ、すっごくおいしい!」
ようやく動き出したアカは、夢中で煮込みを食べ始めた。あまりの勢いに止めようかと思ったけれど、熱さだけはきちんと確かめているらしい。ひと口ごとに頬が緩むので、見ているわたしまで笑ってしまった。
料理が半分ほど減った頃、厨房の女性が水差しを持って通りかかった。
「どうだい、口に合ったかい?」
「すごくおいしいです!」
「アカ、こんなの初めて食べた!」
アカが身を乗り出して答えると、女性は豪快に笑った。
「そりゃよかった! お代わりもあるからね」
「ほんと!?」
「もちろん。ただし、ちゃんと食べきるんだよ」
アカは力いっぱい頷いた。わたしも遠慮せず、パンをもう一つお願いしてしまった。
そのあともしばらく、二人とも食べるのに夢中だった。隣の卓では仕事帰りの男たちが明日の天気を話し、厨房では鍋をかき混ぜる音が続いている。女の子が空いた皿を下げに来ると、何人ものお客さんが名前を呼んで礼を言った。
「エライザさん、こっちにもパンを二つ!」
「はいよ、すぐ持ってくよ!」
厨房の女性が威勢よく返事をする。エライザというらしい。こんなに賑やかな店なのに、誰の声も聞き落とさず、次々と料理を送り出していた。
最後のひと口を食べ終えたアカが、深く息を吐いた。
「……シロ」
「なあに?」
「アカ、明日もこれ食べたい」
「うん。わたしも」
「明後日も。その次の日も!」
わたしは思わず笑った。けれど、不思議なことに、冗談だとは思わなかった。街道の宿で食べたものとは違う、誰かが家で待っていて作ってくれたような味が、まだ口の中に残っていた。
「じゃあ、毎日来ようか」
「……それだと、遠くへお仕事に行った日は食べられないよ?」
「そうだね」
アカはしばらく真剣な顔で考えていた。それから、何か素晴らしいことを思いついたように手を叩いた。
「分かった! ここに住めばいいんだ!」
ちょうど厨房から出てきた女性が、足を止めた。
「……何だって?」
「アカたち、ここに住みたい!」
女性は目を丸くしたあと、腹を抱えて笑い始めた。近くの卓のお客さんまでこちらを見ている。わたしも慌ててアカの袖を引いたけれど、アカはいたって真剣だった。
「毎日ご飯が食べたいの! アカ、お皿も運ぶし、お掃除もするよ!」
「ちょっと待ちな。うちは宿屋じゃないよ」
「じゃあ、お手伝いするところに住むの!」
「そんな簡単に決められるもんじゃないだろう!」
女性はまだ笑っていたけれど、だんだん困った顔になってきた。アカがわたしの方を見る。どうやら、助けを求めているらしい。
「……すみません。急に変なことを言って」
「姉さんの方は分別がありそうだね。ちゃんと止めておくれ」
「それが……わたしも、毎日ここの料理が食べたいです」
女性は口を開けたまま、わたしを見た。
「……あんたまで?」
「はい。もちろん、ただで泊めてほしいわけじゃありません。わたしは冒険者なので、働いてお金も払えますし、店の手伝いもできます」
「そういう問題じゃないよ!」
ぴしゃりと言われ、わたしは背筋を伸ばした。女性は腰に手を当て、わたしたちを交互に見る。
「名前も知らない子たちを、今日会ったばかりで家に住まわせられるわけないだろう。まして、こんな小さい妹まで連れて。あんたたち、家の人はどうしてるんだい?」
「ええと……わたしたちは二人で旅をしていて……」
「旅をしてるからって、寝る場所まで勢いで決めるんじゃないよ。ちゃんと宿を取ったのかい?」
「はい。荷物も宿に置いてきました」
「だったら、今夜はそこへ帰るんだ」
返す言葉がなくなった。言われてみれば、女性の言うことはもっともだった。けれど、この味を諦めきれないアカが、隣で小さく首を振っている。
「でも、明日も食べたい……」
「食べに来るのは止めてないよ!」
近くのお客さんが吹き出し、女性は呆れたように額を押さえた。
「あの、お母さん」
先ほどの女の子が、空の皿を抱えてやってきた。どうやら、厨房の女性の娘らしい。
「二人とも、お料理が大好きになったんだよね?」
「うん!」
「はい。本当においしかったです」
「ありがとう。お母さん、そんなに怖い顔しなくてもいいんじゃないかな」
女の子は穏やかに笑い、わたしたちの空いた皿を見た。
「今すぐ住むかどうか決めなくても、またお店に来てもらえばいいと思うの。ね?」
「メル、あたしは最初からそう言ってるんだよ」
「そうだった?」
「まったく、誰に似たんだか」
母娘のやり取りに、わたしの肩から少し力が抜けた。アカもようやく笑ったけれど、まだ諦めた顔ではない。どう頼めば住ませてもらえるのか、きっと今も考えている。
そのとき、店の奥へ通じる戸が開いた。
「……どうしたの?」
小さな男の子が、こちらを見ていた。
「お母さん、何かあったの? 声が聞こえたよ」
その足元に、一匹の黒猫がいた。
長い黒い毛。ゆっくり揺れる尻尾。こちらを見上げる金色の瞳に、わたしは息を呑んだ。
クロ。
何十年も一人で探し続けて、ようやく会えたと聞いた。そのクロが今、男の子のすぐそばにいる。わたしの手は、膝の上で動かなくなっていた。
隣でアカも静かになった。いつもなら何か言わずにいられないのに、ただ黒猫を見つめている。
「ミナト、あんたは奥にいたんじゃなかったのかい」
「うん。でも、お母さんの声がしたから」
エライザがそう呼んだ名前を、わたしは胸の中でそっと繰り返した。
ミナト。
男の子は母親とわたしたちを見比べ、それから首を傾げた。
「おねえちゃんたち、何か困ってるの?」
「困ってるっていうかね……」
女性が苦笑すると、メルが代わりに答えた。
「お母さんのご飯がとってもおいしかったから、ここに住みたいんだって」
「えっ、そうなの?」
ミナトの顔が明るくなった。
「うん! お母さんのご飯、おいしいもんね!」
「でしょ!」
アカが勢いよく頷いた。今度はミナトが嬉しそうに笑い、二人は初めて会ったばかりだというのに、すっかり意気投合したようだった。
「ほら、ミナトまで変な気を起こさせないでおくれ」
「変なの?」
「今日来たお客さんを、いきなり家に住ませるわけにはいかないって話さ」
「じゃあ、明日も食べに来たらいいよ!」
あまりにあっさりした答えに、また笑いが起こった。わたしもつられて笑いかけ、けれど、その目が足元の黒猫へ向いたところで止まった。
クロはこちらへ歩いてきた。卓の近くで足を止め、わたしとアカを順に見上げる。ほんの一瞬、金色の目が細くなった。
それだけだった。
けれど、胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりほどけていくのを感じた。
「おねえちゃん?」
ミナトがわたしを見上げていた。
「どうしたの? 泣いてる?」
「……ううん。大丈夫」
慌てて目元を押さえると、アカがわたしの手をそっと握った。わたしはその手を握り返し、ミナトへ笑いかける。
「わたしはシロ。こっちはアカ。おいしいご飯をごちそうになったところなんだ」
「ぼく、ミナト!」
男の子は誇らしそうに名乗り、足元へ手を伸ばした。黒猫は慣れた様子で、その手に頬を擦りつける。
「それから、この子はクロ。ぼくの友達なんだよ」
クロは短く鳴いた。
「にゃあ」
わたしは、もう一度笑った。
「……うん。よろしくね、ミナト。クロも」
アカも隣で大きく頷く。いつもなら真っ先に駆け寄っていただろうに、その日はわたしと手をつないだまま、少しだけ目を潤ませていた。
「アカも、よろしく!」
厨房から鍋の煮える音が聞こえ、誰かがお代わりを頼む声が飛んできた。エライザは「はいはい、今行くよ!」と答え、わたしたちへ向き直る。
「住み込みの話は、今夜はおしまい。まずは食べに来るところからだよ。いいね?」
「……はい!」
「はーい!」
返事をすると、エライザは呆れたように笑った。メルもほっとした顔で厨房へ戻り、ミナトはクロを連れてその後を追っていく。
去り際に、ミナトがこちらを振り返った。
「シロ、アカ! また来てね!」
知らないはずの声で名前を呼ばれたのに、こんなに嬉しいなんて思わなかった。
「うん。また来るよ」
わたしが答えると、ミナトは笑って手を振った。クロはその足元から離れず、二人で店の奥へ消えていく。
わたしとアカはしばらく、その戸口を見つめていた。
今夜、ここへ来たのは、おいしそうな匂いに誘われたからだった。その料理にすっかり心を奪われて、勢いで住みたいとまで言ってしまった。
けれど、明日もこの店に来たい理由が、もう一つ増えていた。




