第8話
川を渡ってからも、西へ続く道は長かった。
丘を越え、いくつもの宿場を通り過ぎた。雨の日には軒先で空を見上げ、陽射しの強い日は木陰で水を飲んだ。途中の町ではギルドに立ち寄り、行き先に合う仕事があれば引き受けた。アカと二人なら、歩く時間も、仕事を終えたあとの食事も、あっという間に過ぎていった。
やがて、かつてグランデル王国と呼ばれていた土地を抜けた。
古い地図にあった町の名が見つからず、道を尋ねたこともある。昔は兵士たちが行き来していた街道を、今は畑仕事を終えた人たちが連れ立って歩いている。荷車には穀物や野菜が積まれ、道端の店からは焼いた肉の匂いが漂ってきた。
何十年も経てば、町の形も人の暮らしも変わる。分かっていたはずなのに、こうして自分の足で歩くと、その長さを改めて感じた。
「シロ、ここ通ったことある?」
道沿いの石橋を渡りながら、アカが聞いてきた。下を流れる小川は浅く、日の光を受けた小石が水底に見えている。
「ずっと昔にね。でも、こんな橋はなかったと思う」
「アカも覚えてないや。前はもっと森だった気がする!」
「そうかもしれないね」
橋の向こうには、手入れされた畑が広がっていた。遠くから子供を呼ぶ声がして、小さな姿が家の方へ駆けていく。わたしたちはしばらくその様子を眺めてから、また歩き出した。
あの日の戦いが終わったあとも、ここで暮らす人たちの時間は続いていたのだ。今、畑を耕している人の多くは、きっと当時のことを直接は知らない。それでも、誰かが毎日土を耕し、家を直し、子供を育ててきたからこそ、目の前にこの景色がある。
湊が見たら、どう思っただろう。
そう考えて、少しだけ笑った。きっと、難しいことは言わずに、よかったな、と答える気がした。
*
目指す町へは、さらにいくつかの小さな国を通ることになった。国ごとに建物の造りや人々の服装は少しずつ違ったけれど、どこでも夕方になれば台所から煙が上がり、朝になれば誰かが店の戸を開けた。
ある晩、宿で地図を広げていると、アカが隣から顔を寄せてきた。
「あと、どのくらい?」
「順調なら、もう何日もかからないと思う」
「ほんと?」
「うん。この先の道が合っていればね」
指で町の位置を示すと、アカは地図の端からそこまでをなぞった。途中で指を止め、わたしを見上げる。
「もうすぐ会えるんだね」
「そうだね」
いつもなら嬉しそうに飛び跳ねるところなのに、その夜のアカはしばらく地図を見つめていた。
「アカね、初めましてって言おうと思ってるんだけど」
「うん」
「そのあと、何を話そうかな」
思わずアカの顔を見た。道中、好きな食べ物を聞くと言っていたのに、いざ町が近づくと少し緊張してきたらしい。
「無理に話そうとしなくてもいいんじゃないかな。一緒にいて、気になったことを聞けば」
「シロもそうする?」
「わたしも。まずは挨拶してみようと思う」
アカは何度か頷き、地図から手を離した。
「ねえ。クロは、アカたちが来たら驚くかな?」
「きっと驚くよ」
「ふふ。ちょっと見たいな、びっくりした顔!」
そう言って、ようやくいつもの笑顔に戻った。
わたしも気になっていた。何十年も一人で歩き続けたクロが、今は一つの家に落ち着いている。そこへわたしたちが訪ねたら、どんな顔をするのだろう。
ただ、ミナトの前では、クロは普通の黒猫として暮らしていると聞いていた。だから、わたしたちも昔のように名前を呼んで話しかけるわけにはいかない。アカとそのことを確かめると、少し残念そうな顔をしたものの、すぐに頷いてくれた。
「ミナトにとっては、クロはクロだもんね」
「うん。わたしたちにとっても、そうだよ」
アカは毛布を膝へ引き寄せ、それからふいに小さく笑った。
「でも、シロとアカはお姉ちゃんと妹なんだよね?」
「そうだよ」
「じゃあ、明日もお姉ちゃんと一緒に歩く!」
わたしは笑って、地図を畳んだ。町が近づくにつれて落ち着かなくなっていた気持ちも、アカと話していると少しずつほどけていった。
*
その町が見えたのは、それから数日後の午後だった。
緩やかな坂を上りきると、低い屋根がいくつも重なっているのが見えた。周囲には畑が広がり、町の外れを細い道が巡っている。遠くの建物から白い煙が上がり、風に乗って人の声が届いた。
手元の地図と道標を見比べる。間違いない。知らせにあった町だった。
「アカ、着いたよ」
隣を振り向くと、アカはもう坂の先を見つめていた。
「……ここに、いるんだね」
「うん」
わたしも町を見下ろした。
ずっと会いたかった人が、この屋根のどこかで暮らしている。そう思うと、急に足が重くなった。何日も早く着きたいと願っていたのに、いざ目の前にすると、どんな顔で会えばいいのか分からなくなる。
アカがそっと手を握ってきた。
「シロ、行こう?」
「……うん。行こう」
坂を下り、町へ入った。
通りには小さな店が並び、荷物を抱えた人が行き交っていた。何かを売る声に混じって、子供たちの笑い声が聞こえる。見知らぬ町なのに、夕方の忙しさはこれまで歩いてきたどこの町とも似ていた。
まず宿を探して荷物を置き、明日にはギルドにも顔を出そうと決めた。仕事のある町なら、しばらく滞在していても不自然ではない。クロやミナトに会えるまで、慌てずに暮らしの様子を知っていけばいい。
宿を出た頃には、通りの向こうから夕食の匂いが漂ってきていた。
「シロ」
「なあに?」
「お腹すいた!」
アカは真剣な顔でそう言った。ついさっきまで緊張していたはずなのに、いい匂いには勝てなかったらしい。
「わたしも。どこかでご飯にしようか」
「うん! あっち、すっごくおいしそうな匂いがする!」
アカは通りの先を指差した。何軒かの店から灯りが漏れ、その中の一つから、肉と香草を煮込んだような温かい匂いが流れてくる。
まだクロの姿は見つけていない。ミナトがどんな子なのかも、わたしたちは知らない。
それでも、町へ着いて最初にすることが、アカと二人で夕ご飯を食べることなのは、なんだかいつもどおりだった。
「行こう、シロ!」
差し出された手を取ると、アカは嬉しそうに歩き出した。
わたしも隣に並び、湯気の匂いがする方へ足を向けた。




