第7話
翌朝、宿場を発つ前に荷物を確かめていると、腰の鞘が少し傾いていることに気づいた。留め具を直し、柄へ指を添える。銀色の短剣は、今日もいつもと同じ重さでそこにあった。
無銘。
かつて湊が使っていた短剣を、今はわたしが持っている。鞘の縁には長い旅の間についた細かな傷があるけれど、抜いた刃には相変わらず欠け一つない。手入れをするたび、ずいぶん昔のことを思い出した。
「シロ、準備できた?」
戸口からアカが顔を覗かせた。昨日、護衛した商人からもらった乾いた果実を、小さな袋に詰め直している。
「うん。アカも忘れ物はない?」
「ないよ! お水もパンも持った!」
「じゃあ、行こうか」
宿の主人に礼を言い、二人で西門を出た。朝の街道には荷車の轍が残り、その両脇で背の低い草が風に揺れている。昨日の林道と違って見通しのいい場所が続き、遠くには緩やかな丘が重なっていた。
歩きながら、アカがわたしの腰へ目を向けた。
「ねえ、シロ。無銘、今日も持ってるね」
「もちろん。旅に出るときは、いつも一緒だよ」
「昨日は抜かなかったでしょ。アカ、久しぶりにシロの剣が見たいな」
そう言われると、少し照れくさかった。昨日の魔狼は、荷馬車へ近づけないようにするだけで済んだ。わざわざ刃を向ける必要はなかったし、馬が驚かないよう、アカも炎を小さく抑えてくれた。
「それなら、途中で少し稽古しようか」
「ほんと? アカもやる!」
アカが嬉しそうに歩幅を広げた。隣に合わせて歩くと、久しぶりに二人で旅をしている実感が湧いてきた。
昼を過ぎた頃、街道は広い川に沿って伸び始めた。川原には平たい石がいくつも転がり、流れの向こうには林が続いている。少し先に橋はあったけれど、まだ距離がある。わたしたちは道を外れ、人の通らない石の多い場所で足を止めた。
「ここなら、少し動いても大丈夫そうだね」
「アカ、向こうで見てる!」
アカが大きな石へ腰かけた。わたしは鞘から無銘を抜き、足元を確かめて構えを取る。小石の上では踏み込みが滑りやすいので、まずは両足がしっかり収まる場所を選んだ。
息を吸い、右足を半歩引く。
踏み込みと同時に刃を斜めへ走らせ、手首を返して引く。次の一歩で身体の向きを変え、短く突き、すぐ間合いを外した。何度か繰り返すうちに、足の下の石が転がる位置まで分かってくる。
湊がこの剣を握って稽古をしていた頃、わたしはよくそのそばにいた。何度も同じ動きを繰り返し、時にはクロに呆れられながら、それでも翌朝にはまた短剣を振っていた。
今になって、自分も同じことをしている。
無銘の声は、湊が使っていた頃のようには届かない。長い年月の間に直接言葉を聞けたのは、ごく僅かだった。それでも、教わった足の運びや刃の角度は、何度も繰り返すうちに身体へ残っている。
もう一度踏み込んだとき、肩に余計な力が入った。すぐに気づいて動きを止め、息を吐く。昔、無銘に厳しく直されたところだった。
「シロ、今の速かった!」
「ありがとう。でも、ちょっと力んじゃった」
「そうなの? アカには分からなかったよ」
笑って短剣を握り直す。今度は足元へ薄く風を流し、踏み込む方向をわずかに変えた。石の間を滑るように進んで刃を振り、次の瞬間には後ろへ引く。地面を蹴る瞬間に風が背を押し、振り抜いたあとは足元の風を向け直して間合いを取った。
最後に、川原の端にある大きな石へ手を向けた。短い雷撃が走り、石の表面で乾いた音を立てて弾ける。砕けた小片が足元へ転がったところで、わたしは術を止めた。
「雷も使った!」
「うん。でも、何度も使うと疲れるからね。いつでもこれに頼るわけにはいかないよ」
無銘を鞘へ戻すと、アカが勢いよく石から飛び降りた。
「じゃあ、次はアカ!」
わたしが少し離れると、アカは川の方へ向き直り、両手を胸の前に出した。指先に小さな炎が灯り、それが一つ、二つと増えていく。赤い火は風に煽られても消えず、アカの手の動きに合わせてゆっくり円を描いた。
「見ててね」
アカが片手を上げると、炎の一つが川原の大きな岩へ飛んだ。火は岩肌の一点に集まり、細い線を描いて横へ滑る。続いて別の炎が岩の手前でくるりと向きを変え、どちらも小さく縮んで消えた。
離れた草にも、足元の荷物にも、火の粉は一つも落ちなかった。
「……すごいね、アカ」
「えへへ。大きくするのもできるけど、今はこっちの方が楽しいの!」
アカは両手を重ね、小さな火を一つにまとめた。炎が一瞬だけ強く輝き、周囲の空気が熱を含んだかと思うと、ふっと掌の上へ縮んで消える。
昔のアカは、炎を放つたびに勢い余って自分でも驚いていた。今はどこへ、どれだけの熱を届けるのかを自分で選べる。昨日、荷馬車のすぐそばで魔狼を追い払えたのも、そのおかげだった。
「もっと大きいの、見たい?」
「ううん、今日はそこまでにしよう。ここは街道からも近いし」
「そっか。じゃあ、また広いところでね!」
少しも残念そうではなかった。アカは満足した顔で手を払うと、わたしの隣へ戻ってきた。
石の上へ並んで腰を下ろし、水筒を回して飲んだ。川は澄んでいて、浅いところでは底の小石がよく見える。陽射しを受けた水面が揺れるたび、細かな光が二人の靴へ映った。
「ねえ、シロ。無銘って、今もシロにお稽古してくれるの?」
「うん。声が聞こえることはめったにないけどね」
「そっか。アカには聞こえないから、ちょっと羨ましいな」
「厳しいよ。少しでも雑に動くと、すぐ直されるんだから」
アカは目を丸くして、それから楽しそうに笑った。
「湊も、よく言われてたね!」
「そうだったね」
思い出すと、わたしも笑ってしまった。あの頃は剣の稽古が終わると、湊の手から無銘を離すようにクロが言っていたこともあった。今は誰かに言われなくても、腕が鈍くなれば休む。昔より少しだけ、その判断ができるようになった。
アカが残っていた乾いた果実を半分くれた。噛むと甘酸っぱい味がして、歩き疲れた身体に気持ちよかった。
「ミナトって、こういうの好きかな」
「どうだろう。会えたら聞いてみようか」
「うん! アカ、おいしいものいっぱい教えてあげたい!」
まだ会ってもいないのに、アカはすっかり楽しそうだった。わたしもその顔を見ていると、会う前からいろいろ考えていた不安が少しずつ小さくなっていく。
やがて荷物を背負い、二人で街道へ戻った。川の向こうへ渡る橋には旅人が何人か行き交い、その先の道は丘の間を西へ続いている。手元の地図を広げても、目指す町まではまだいくつもの道を越えなければならなかった。
アカが先に歩き出し、少し進んでから振り返った。
「シロ! 今日も一緒だね!」
「うん。明日も一緒だよ」
その返事にアカが笑った。わたしは無銘の柄へそっと触れてから、隣へ追いつく。
まだ知らない町で、どんな出会いが待っているのだろう。
川を渡る風は涼しく、二人の足取りは軽かった。




