第10話
翌朝、宿で朝食を取りながら、アカは昨夜の煮込みの話ばかりしていた。パンをちぎる手を止めては、肉がどれほど柔らかかったか、野菜がどれほど甘かったかを、思い出したように話し始める。
「シロ、今日のお昼もあのお店にしようね!」
「うん。そのつもりだよ」
「夜も行っていい?」
「……お腹と相談しようか」
そう答えると、アカは真剣な顔で自分のお腹を見下ろした。まだ朝のパンが半分残っているというのに、もう夕食まで考えているらしい。
宿を出てからは、先に冒険者ギルドへ向かった。この町にしばらく滞在するなら、仕事を探しておかなければならない。掲示板には近隣の巡回や荷運び、少し離れた街道での護衛などが並んでいた。わたしが依頼書を確かめている間、アカは窓口の横に貼られた魔物の注意書きを一生懸命読んでいた。
「シロ、ここにも魔狼が出るんだって」
「街道から外れた林の方みたいだね。町の近くでは見かけていないって書いてあるよ」
「じゃあ、ミナトが遊んでても大丈夫かな」
昨夜、少し言葉を交わしただけの男の子を、もう気にかけている。そんなアカの横顔を見て、わたしは小さく笑った。受付で仕事のことを相談し、日帰りで受けられそうな依頼をいくつか教えてもらってから、二人でギルドを出た。
食堂へ着いたのは、昼の客が増え始めた頃だった。扉を開けると、昨日とは違う香りが迎えてくれた。炒めた玉ねぎの甘さと、こんがり焼けた肉の匂い。その奥で、香草を刻む軽い音がしている。
「いらっしゃ……ああ、あんたたちかい!」
鍋の前にいたエライザが、こちらを見るなり笑った。
「本当にまた来たんだね」
「来たよ! アカ、ずっと楽しみにしてた!」
「ははっ。今日は昨日と違う料理だけど、文句はなしだよ」
「違うのも食べたい!」
エライザは気持ちよく笑い、メルに席を頼んだ。案内された卓は、昨日より少し厨房に近かった。通りから入る光が床板に落ち、隣の卓では年配の二人が、熱いお茶を飲みながら話している。
「昨日はありがとうございました」
「こちらこそ。お母さんも、二人の話をしてたの」
「どんな話?」
「とってもおいしそうに食べてくれたって」
メルが微笑むと、アカは嬉しそうに頬を緩めた。わたしは少し恥ずかしかったけれど、それだけ喜んでもらえたなら、昨日あれほど夢中になって食べた甲斐がある。
今日の料理は、薄く切った肉と野菜を香ばしく焼き、温かな麦の実を添えたものだった。表面には焼き色がついているのに、中は柔らかい。噛むと肉汁が広がり、麦の実に染みた塩気がちょうどよかった。
「……シロ」
「うん」
「昨日のもおいしかったけど、これもすごい」
「うん。どっちも好きだな」
アカは返事の代わりにもう一口食べた。わたしも匙を進めながら、厨房をちらりと見る。エライザは大きな鍋をかき混ぜ、別の卓へ声をかけ、また手元の料理へ戻っていた。その間にも、メルが水差しを抱えて卓の間を行き来している。
やがて扉が開き、旅装の客が続けて入ってきた。外で仕事を終えた人たちも重なったらしく、空いていた卓が次々に埋まっていく。エライザの声はいっそう賑やかになり、メルの足取りも忙しくなった。
「メル、そっちの卓へ水を頼むよ!」
「はーい! あっ、少し待ってくださいね」
メルは空いた皿を抱え直し、水差しを取りに戻ろうとしていた。さっきから休む暇もなさそうだ。わたしたちの皿はもう空になっている。
「メル、これ、下げようか?」
「えっ。でも、お客さんなのに……」
「わたしたちは食べ終わったから。どこへ運べばいい?」
メルが答える前に、厨房からエライザの声が飛んできた。
「こらこら、何してるんだい。お客に働いてもらう店じゃないよ!」
「ごめんなさい。でも、少しなら手伝えます」
「少しって言ったって……」
そこへ別の卓から注文の声が重なり、エライザは鍋へ目をやった。メルも困ったように母親を見る。わたしは立ったまま、返事を待った。
「……分かった。じゃあ、空いた卓を拭くのだけ頼めるかい。皿と熱いものには手を出さないこと。メル、布巾を渡してあげな」
「うん、お母さん」
「アカもやる!」
「まずは人の話を最後まで聞くんだよ」
「はーい!」
アカの勢いに、近くの客が笑った。わたしたちは食事の代金を払ってから、メルに教わって卓を拭き始めた。食べこぼしを集め、椅子を元の位置へ戻し、水滴が残らないよう布巾を動かす。難しい仕事ではないけれど、次のお客さんが座る前に終えようとすると、思ったより忙しかった。
アカは最初、布巾で卓を大きくぐるぐると拭いていた。端に落ちたパン屑を見つけたメルが、そっと手元を示す。
「アカちゃん、先に屑を集めると、床に落ちないよ」
「こう?」
「うん、上手。ありがとう」
褒められたアカは、次の卓ではずいぶん丁寧に手を動かしていた。いつも勢いで駆け出してしまうところがあるけれど、教わったことはきちんと覚える。隣で見ていたわたしも、なんだか嬉しくなった。
「シロ!」
呼ばれて振り向くと、ミナトが食堂の奥から顔を出していた。足元にはクロがいて、二人ともこちらを見ている。
「今日はお店のお手伝い?」
「少しだけね。ミナトは何してたの?」
「メルに頼まれて、匙を並べてた!」
ミナトは嬉しそうに手の中の木の匙を見せた。数を数えているらしく、一本ずつ指で触れては、小さな声で確かめている。
「じゃあ、わたしたちと一緒だね」
「うん! クロも一緒だよ」
そう言ってミナトがしゃがむと、クロは差し出された手に頭を寄せた。わたしを見上げる金色の目と、一瞬だけ視線が合う。クロはいつもどおり何も言わず、ミナトの隣へ座り直した。
「ミナト、その匙をこっちへお願いね」
「はーい!」
メルに呼ばれ、ミナトはそろそろと歩いていった。クロもその後をついていく。わたしはもう一度布巾を絞り、拭き残した卓の隅へ手を伸ばした。
昼の賑わいが落ち着いたのは、それからしばらく経ってからだった。最後のお客さんを見送ると、エライザは腰に手を当て、大きく息を吐いた。
「やれやれ、今日は一度に来たねえ。二人とも助かったよ」
「楽しかった!」
「そうかい? アカはなかなか手際がよかったよ。メルの言うこともちゃんと聞いてたしね」
アカは満面の笑みでメルを振り返った。メルも笑って頷き、それから使い終わった布巾を受け取ってくれた。
「シロもありがとう。重い椅子を戻すの、助かったよ」
「こちらこそ。勝手に手を出しちゃって、ごめんなさい」
「ちゃんと聞いてからやってくれたんだから、いいんだよ」
エライザはそう言ってから、改めてわたしたちを見比べた。
「で、あんたたち。まだここに住みたいなんて言うのかい?」
「うん!」
「……わたしも、できれば」
アカの返事の早さに、エライザは呆れたように笑った。けれど、昨日のように声を張り上げることはなかった。
「料理が好きなのは分かったよ。でもね、家に住むっていうのは、うまいものを食べて、皿を拭けば済む話じゃない。朝から夜まで顔を合わせるし、子供たちもいる。どんな人なのか知らないまま、はいどうぞとは言えないんだ」
「……はい」
わたしは頷いた。今日、ほんの少し仕事をしただけでも、店の忙しさは分かったつもりだった。それを毎日続けているエライザやメルの暮らしの中へ入れてほしいと、わたしたちは頼んでいる。
「シロ、冒険者なんだってね。ギルドには所属してるのかい?」
「はい。今朝も寄ってきました。ギルド証もあります」
「そうかい。なら、仕事のことはギルドで聞けるね。それから、アカを連れて危ないことばかりしてないだろうね?」
「わたしが責任を持って、仕事は選んでいます」
エライザはすぐには頷かなかった。わたしの腰にある短剣へちらりと目を向け、それからアカの顔を見る。その視線に、少しだけ心が痛んだ。
「……あんたたちくらいの子が、二人で旅をするのは大変だろう」
さっきまでの威勢のいい声とは違っていた。アカも静かになり、わたしの隣で両手を揃えている。
「お母さん、二人ともちゃんとお仕事してるみたいだよ」
メルがそっと口を挟んだ。
「今日も、頼んだことを最後までやってくれたし……。また来てもらったら、わたしも嬉しいな」
「メル。店に来るのと家に住むのは別の話だよ」
「うん。それは分かってる」
メルは少し照れたように笑った。エライザもそれ以上は叱らず、前掛けについた小麦粉を払っている。
「とにかく、今は宿で寝泊まりするんだよ。ギルドの仕事もきちんと続けること。それから、手伝いたいときは、必ずあたしに聞いておくれ」
「はい。分かりました」
「アカも聞く!」
エライザはそこでようやく笑った。
「それなら、また食べにおいで。ご飯はちゃんと作って待ってるから」
店の外へ出ると、昼の陽射しは少し傾き始めていた。アカは満足そうにお腹をさすり、それからわたしを見上げた。
「シロ、明日も来ていいんだって!」
「うん。明日はギルドで仕事を受けようね」
「お仕事して、ここでご飯食べる!」
その向こうで、店の扉が細く開いた。ミナトが顔を覗かせ、足元にはクロもいる。
「シロ! アカ! 今度はぼくとも遊んでね!」
アカが大きく手を振った。わたしも頷くと、ミナトは嬉しそうに笑い、クロの方へ何か話しかけていた。
いつか、あの声に迎えられて、この店へ帰ってこられたら。
そんなことを考えながら、わたしはアカと並んで宿への道を歩いた。




