第5話
東の町を発ってから、いくつもの朝を迎えた。
街道は森を抜け、畑の間を通り、ときには低い丘を越えた。朝の冷たい空気の中を歩き始めても、昼には陽射しが背中を温める。日が暮れれば宿を探し、見つからないときは街道から少し離れた場所で夜を明かした。
旅をするのは久しぶりじゃない。護衛の依頼で遠出することもあったし、一つの町に長く留まるより、次の土地へ足を向ける方が馴染んでいた。
けれど、今回は少し違った。
道の先に、会いたい人がいる。
それだけで、同じ景色が昨日までとは違って見えた。次の宿場までの距離を確かめる回数が増え、朝はいつもより早く支度を終えてしまう。急いだからといって相手が逃げるわけでもないのに、気持ちばかり先へ進んでいた。
目指す町は、かつてのグランデル王国よりもさらに西にある。大陸の西の端に近い、小さな国の町だという。手元の地図で確かめても、ここからはまだずいぶん遠かった。
道の途中には、昔訪れた土地もある。何十年もの間に街道が整えられたり、建物が建て替えられたりしていたけれど、丘の形や川の流れる音には覚えがあった。
そんな景色を見るたび、あの頃のことを思い出した。
湊と旅をしていたときは、毎日が初めてのことばかりだった。知らない匂いがすれば立ち止まり、面白そうなものを見つければ近寄って、よく名前を呼ばれたものだ。
今は道を見て、天気を考えて、無理のない場所で休めるようになった。あの頃より少しは、頼りになる旅人になれただろうか。
「……湊に見せたかったな」
誰もいない道でそう呟くと、風が草を揺らした。
少し照れくさくなって、わたしは歩く速さを上げた。
その日の午後、街道が二つの道と合わさる場所に、小さな宿場が見えてきた。荷車を止める広場と食事を出す店が数軒あり、旅人たちが行き先を尋ね合っている。ちょうど荷を積み替える時間らしく、広場の端には木箱がいくつも並べられていた。
水を買っておこうと広場へ入ったとき、がたん、と大きな音がした。
荷車から降ろしかけた木箱の底が抜け、赤い果実が石畳へ転がり落ちた。御者が慌てて飛び降りたものの、いくつかは坂になった道へ転がっていく。
「わっ、待って待って!」
明るい声が響いた。
小柄な女の子が人混みの間をすり抜け、転がる果実を一つ、また一つと拾い上げている。追いかけるのに夢中で、肩から掛けた袋が背中で跳ねていた。
わたしも足元へ来た果実を拾った。もう一つが車輪の下へ入りそうになったので、先に手を伸ばして止める。
「こっちにもあるよ!」
顔を上げた女の子と、目が合った。
赤い髪。見覚えのある大きな瞳。
「……アカ?」
相手も一瞬、口を開けたまま固まった。
「……シロ?」
次の瞬間、アカの顔がぱっと明るくなった。
「シロ!」
両手に果実を抱えたまま駆け寄ろうとしたので、わたしは思わず声を上げた。
「待って、落としちゃう!」
「あっ!」
アカは慌てて立ち止まり、抱えていた果実を腕の中へ押し戻した。それを見て、二人で笑ってしまった。
御者に果実を返し終えると、店先にいた人が新しい木箱を持ってきてくれた。潰れてしまったものも少しあったけれど、御者は何度も礼を言い、荷台に残っていた傷のない果実を一つずつ渡してくれた。
手と果実を洗って広場の端へ移ると、アカは果実を片手に持ったまま、改めてわたしを見上げた。
「シロ、どうしてここにいるの?」
「西へ向かってるんだ。アカは?」
「アカも!」
あまりに勢いよく答えるので、わたしは少し驚いた。わたしは東から、アカは南へ続く道から来たという。同じ日にこの宿場へ立ち寄らなければ、すれ違っていたかもしれない。
「もしかして……」
周囲を見て声を小さくすると、アカもそっと顔を寄せてきた。
「クロのこと、聞いた?」
わたしが尋ねると、アカは何度も頷いた。
「うん。ギルドの人が教えてくれたの。クロ、見つけたんだって」
「わたしも、それを聞いて来たんだよ」
「やっぱり!」
アカは嬉しそうに笑ったあと、手にした果実を見つめた。
「アカね、最初は行かない方がいいかなって思ったんだ」
その声が少し静かになったので、わたしも隣に腰を下ろした。石の縁は陽を受けて温かく、広場からは荷車の軋む音と人々の話し声が聞こえていた。
「シロも、そう思った?」
「うん。今は新しい家族がいるんだって聞いたから」
「そうだよね……」
アカは果実の表面を指で撫でている。
「でも、クロが一緒に住んでるって聞いたら、会いたくなっちゃった」
「わたしもだよ」
顔を見合わせると、アカはほっとしたように笑った。
昔から、わたしたちは考えることが似ているときがあった。けれど、アカは迷っていても、最後には自分の気持ちを真っ直ぐ言葉にできる。わたしがあれこれ考えて足を止めている間に、先に手を伸ばしてしまうことも多かった。
「ミナトって、どんな子かな」
アカが聞いた。
「まだ分からないよ。わたしも会ったことがないから」
「アカのこと、知らないんだよね」
「うん」
アカは少し考え、果実を両手で包んだ。
「じゃあ、初めましてって言う」
「うん」
「それから、好きな食べ物を聞く!」
あまりにもアカらしくて、わたしは笑ってしまった。
「最初に聞くのが、それ?」
「だって、一緒においしいもの食べたいもん!」
そう言って、アカは果実をかじった。しゃりっと軽い音がして、甘い香りが広がる。わたしも自分の分を一口食べると、冷たい果汁が口の中に広がった。
「おいしいね」
「うん! これ、ミナトにも食べさせたいな」
アカは残った果実を眺め、それから照れたように笑った。まだ会ったこともない子のために、もう何かをしてあげたくなっているらしい。
わたしも、その気持ちは同じだった。
「ねえ、シロ。ここから一緒に行ってもいい?」
「もちろん。わたしもそうしたかった」
「やった!」
アカは立ち上がり、わたしの手を引いた。そのまま歩き出しかけたけれど、今度は自分で足を止める。
「でも、今日はもう休む?」
わたしは西へ続く道を見た。まだ陽は高いけれど、この先の宿までは少し距離がある。荷物を抱えて急いで歩くより、ここで一晩休む方がよさそうだった。
「そうしようか。明日の朝、早く出よう」
「うん! じゃあ、まずはご飯!」
その返事に、また笑ってしまう。
宿を取ってから、二人で夕食を食べた。アカは旅の途中で見た変わった鳥の話をして、わたしは護衛した商人が道を間違えそうになった話をした。くだらないことで笑っているうちに、外はすっかり暗くなっていた。
夜、同じ部屋に並べた寝台へ腰を下ろすと、アカがふいに言った。
「シロ。一緒に行けて、よかった」
「わたしも」
窓の外からは、遅れて宿場へ着いた荷車の音が聞こえていた。アカは靴を脱ぎ、寝台へ上がると、膝を抱えてこちらを向いた。
「会えたら、アカ、ちゃんと挨拶できるかな」
「できるよ。いつもみたいに笑ってればいいと思う」
「そっか」
アカは少し安心したように頷いた。
わたしたちはこれまで、それぞれの道を歩いてきた。旅先で嬉しいことも怖いこともあったし、一人で決めなくてはいけない日もあった。それでも今夜は、すぐそばにアカの寝息が聞こえる。
明日も、その隣を歩ける。
わたしは灯りを消し、布団に入った。
目を閉じると、まだ会ったことのないミナトの姿が浮かんだ。どんな顔で笑うのだろう。クロは、どんなふうにその子のそばで暮らしているのだろう。
知りたいことは、たくさんあった。
西へ続く道は、まだ長い。
けれど明日からは、一人じゃない。




