第4話
その知らせを聞いたのは、東の街道沿いにある町の冒険者ギルドだった。
あの日、わたしは護衛の依頼を終え、いつものように報告へ立ち寄っていた。昼過ぎから降り始めた雨はすでに上がっていたけれど、街道を歩いてきた靴には泥が残っていた。
受付で報告を済ませると、奥からギルドマスターが顔を出した。
「シロ、少しいいか」
普段なら受付越しに挨拶を交わすくらいの人だった。けれど、その日はわざわざ部屋から出てきて、わたしを手招きしている。
「何かあったの?」
「ああ。ちょっと話がある。こっちへ来てくれ」
案内されたのは、ギルドの奥にある小さな執務室だった。机の上には依頼書や報告書が積まれ、開いた窓から雨上がりの涼しい風が入ってきている。
ギルドマスターは扉を閉め、わたしが椅子へ座るのを待ってから向かい側へ腰を下ろした。
「まず、依頼はご苦労だった。護衛した商人たちからも、礼を伝えてくれと言われている」
「うん。みんな無事に着いてよかった」
「ああ。それでな、今日は別の用件だ」
ギルドマスターは机の引き出しから一通の封書を取り出した。すでに開封されていて、何度か読み返したらしく、折り目が少し柔らかくなっている。
「各地のギルドマスターの間で、昔から引き継がれてきた話がある。お前にも関係することだ」
その言葉に、わたしは少し背筋を伸ばした。
長い旅の間、冒険者ギルドには何度も助けてもらった。わたしの本当の姿を知っている人も、ギルドマスターの中には何人かいる。
それでも、こんなふうに改まって呼ばれることは珍しかった。
「……何の話?」
ギルドマスターは一度だけ封書へ目を落とし、それから顔を上げた。
「クロが、見つけたそうだ」
すぐには、言葉の意味が分からなかった。
「……え?」
「ずっと探していた子供だ。ようやく会えたらしい」
心臓が、大きく跳ねた。
何か言おうとしたのに、声が出なかった。机の上の封書を見つめたまま、何度か瞬きをする。
「……クロが?」
「ああ」
「本当に?」
「届いた知らせでは、そうなっている」
ギルドマスターは封書をわたしの方へ向けた。短い文章の中に、クロの名前と、小さな町のことが書かれている。
そこに、もう一つ。
ミナトという名前があった。
わたしはその文字を見つめた。
胸の奥が、急に熱くなった。
何十年もの間、クロが探し続けていた人。
わたしも旅をしながら、何度もそのことを考えた。知らない町で子供たちを見かけると、つい黒い髪の子を探してしまうこともあった。
けれど、会えなかった。
どこで生まれたのかも、いつ生まれたのかも分からなかった。
それが、今。
「……見つかったんだ」
ようやく声にすると、喉の奥が少し震えた。
ギルドマスターは静かに頷いた。
「もう、その子の家で一緒に暮らしているそうだ」
「……一緒に?」
「ああ。黒猫としてな」
その言葉を聞いた途端、思わず笑ってしまった。
クロが、誰かの家で暮らしている。
あのクロが。
昔は自分のことを魔王だと胸を張っていたし、気に入らないことがあればすぐに尻尾を揺らして怒っていた。湊に抱き上げられると文句を言いながら、結局はその腕の中で落ち着いていたこともある。
そんなクロが、今は小さな子供の家にいる。
どんな顔をしているんだろう。
「……ふふ」
「どうした?」
「ううん。クロらしいなって」
笑ったはずなのに、目の奥が熱くなった。
ギルドマスターは何も言わず、わたしが落ち着くのを待ってくれた。
封書の文字をもう一度読む。
ミナト。
その名前を見ていると、遠い日の光景が蘇ってきた。
崩れた城の上で、小さな光になった湊を見送った日。
あのとき、わたしは約束した。
また会えたら、もう一度友達になると。
アカも同じことを言っていた。
クロは、何年かかっても探すと決めていた。
そして、本当に見つけたんだ。
「シロ?」
呼ばれて顔を上げると、ギルドマスターが少し心配そうにしていた。
「大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
頷いてから、もう一度封書を見た。
「……その子、元気なのかな」
「元気に暮らしていると聞いている。家族もいるそうだ」
「そっか」
家族がいる。
その言葉が、胸の中にゆっくり染み込んできた。
湊は、ずっと一人だったわけじゃない。わたしたちと出会ってからは、いつだって誰かがそばにいた。
それでも、最初から帰る家があったわけではなかった。
だから、嬉しかった。
新しく生まれたあの人には、ちゃんと帰る場所がある。
誰かに名前を呼ばれて、家に帰って、ご飯を食べて、眠ることができる。
そんな暮らしをしているんだ。
「……よかった」
それだけ言うと、胸の奥で張り詰めていたものが少しほどけた。
窓の外では、雲の切れ間から日が差し始めていた。濡れた石畳が光り、通りを行く人たちの話し声が聞こえる。
わたしは封書を机へ戻した。
「ありがとう。教えてくれて」
「ああ。お前には知らせておくべきだと思ってな」
ギルドマスターは封書を受け取り、丁寧に折り畳んだ。
「会いに行くのか?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
会いたい。
それは、もちろんだった。
あれから長い時間が過ぎた。わたしだって、何度も会いたいと思っていた。もう一度顔を見て、声を聞いて、一緒に笑いたかった。
けれど。
今のミナトは、わたしのことを知らない。
湊だった頃の記憶はない。旅をしたことも、わたしにシロという名前をつけてくれたことも覚えていない。
その子には、その子の家族がいる。
そこへ突然、知らない誰かが訪ねていっても、困らせてしまうかもしれない。
「……少し、考えてもいい?」
「もちろんだ」
ギルドマスターはそれ以上聞かなかった。
わたしは礼を言い、執務室を出た。
ギルドの扉を開けると、雨上がりの空気が頬に触れた。濡れた土と、近くのパン屋から漂う甘い匂い。通りでは子供たちが水たまりを避けながら走っている。
いつもと変わらない町だった。
けれど、その日のわたしには、何もかもが少し違って見えた。
クロが見つけた。
何度思い返しても、まだ信じられなかった。
嬉しくて、すぐにでも走り出したくなる。
それなのに、足はなかなか前へ進まなかった。
わたしは通りの端にある石段へ腰を下ろし、しばらく空を眺めていた。
長い旅をしてきた。
東へ歩き、知らない町を訪ね、困っている人を助けた。季節が巡るたびに景色は変わり、かつて訪ねた町でも、知っている顔は少しずつ減っていった。
わたし自身は、あまり変わらない。
けれど、人々の暮らしは変わっていく。
生まれる人がいて、年を取る人がいて、いつか会えなくなる人もいる。
それは寂しいことだったけれど、誰かが新しく生まれ、また別の誰かと出会っていくのを見るのは好きだった。
今のミナトも、そうやって生きているんだ。
わたしの知らない時間を過ごして、わたしの知らない人たちと笑っている。
きっと、好きなものも違う。
食べ物の好みだって、話し方だって、昔の湊とは違うはずだ。
そんなことを考えていると、ふいに昔の声が蘇った。
『また会おう』
あの日、別れ際に何度も交わした言葉だった。
わたしは膝の上で両手を重ねた。
会ったら、また友達になる。
自分でそう決めたはずだった。
でも、あれから何十年も経って、いざ会えると知った途端、少し怖くなってしまった。
知らない子として出会うことが。
昔のようには名前を呼んでもらえないことが。
もしかしたら、仲良くなれないかもしれないことが。
そんなことばかり考えてしまう。
わたしは小さく息を吐いた。
あの頃より、ずいぶん大きくなったと思っていたのに。
こういうところは、まだ変わっていないのかもしれない。
通りの向こうで、小さな子が転んだ。
母親らしい女性が駆け寄るより早く、その子は自分で立ち上がった。膝についた泥を払い、差し出された手を握って、また歩き始める。
その様子を見ているうちに、少しだけ気持ちが軽くなった。
今のミナトにも、きっとこんな毎日がある。
それを見てみたい。
何かを思い出してほしいわけじゃない。
ただ、元気に笑っているところを見られたら、それだけで嬉しい。
もし話ができたら、今度はその子の好きなものを教えてもらおう。
知らない話を聞いて、一緒に笑って、少しずつ仲良くなれたらいい。
昔のことを知らなくても、友達になることはできる。
わたしだって、旅の途中で何人もの人とそうして出会ってきたのだから。
石段から立ち上がると、濡れた風が髪を揺らした。
もう、迷っていなかった。
会いに行こう。
クロにも、ミナトにも。
会って、今の二人がどんなふうに暮らしているのか、この目で見たい。
それから、もし仲良くなれたら。
今度こそ、たくさん一緒に遊ぼう。
わたしはそう決めて、宿へ戻った。
旅の支度を整え、翌朝には町を発った。いつもより少し早く目が覚め、朝露の残る街道へ足を踏み出す。
まだ空は薄明るく、道の先には低い霧が漂っていた。草の匂いを含んだ風が吹き、遠くで鳥が鳴いている。
歩き始めてしばらくすると、朝日が森の向こうから昇ってきた。
その光を見ながら、わたしは小さく笑った。
「……クロ、今度はわたしが会いに行くね」
返事はない。
けれど、きっと会える。
そう思いながら、わたしは地図に記された町へ向かって歩き続けた。




